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ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。歴史ランキングにほんブログ村いつも応援ありがとうございます。例によってYOUTUBEの歴史系動画が元ネタですが、室町幕府十三代将軍足利義輝が1565年三好三人衆らに襲われて非業の最期を遂げた永禄の変というものがあります。大河ドラマでも何度か描かれたので知っている人も多いでしょう。私はどうする家康は全く見ていなかったので、最近で一番記憶に残っているのは麒麟がくる
更新してたので。謎のアフェリエイト含まれています表示(最近多い)で編集できませんのでその2です。●戦国小町苦労譚第十七幕馬廻掲載月一連載コミカライズ連載ページ。夕方くらい更新感想。浅井討伐へ。貨幣制度移行序章。真田家の争い?信長息子とケンカというか手打ち寸前?カンジャ捕らえるが。宴会話。コーヒー当時の日本で育つの?将を射んとする者はまず馬を射よ、展開。神輿作戦。上杉謙信が恭順。引越し。越後に動きある?奴隷と相互理解。その後越後へ二人。猫ブームと紙幣経済開始
(本日3回目の記事になります。)幻奏アイドル、第六天魔王、ハロウィンの魔女と勇者。あの日の宴で交わした言葉を撚り、縁を紡ぐ。“巡霊の祝祭”第2弾!グレイルライブにぐだぐだカボチャ城がカムバック!そんな出逢いをいま再び———
母・西郷局=父・徳川家康三男・徳川秀忠=お姫おえよ子千姫玉姫勝姫初姫和姫長丸(1601~1602)徳川家光徳川忠長徳川政子保科正之徳川秀忠(とくがわひでただ)1579年5月2日–1632年3月14日1605年から1623年の退位まで徳川王朝第2代将軍徳川家康の三男娘の徳川雅子を通して明正皇后の外祖父でもある。初期の人生(1579–1593)徳川秀忠は、1579年5月2日徳川家康と西郷夫人の間に生まれま
母:水野大子(伝通院)=父:松平広忠継父:久松俊勝徳川家康=妻正室:築山殿継室:朝日姫側室:雲光院子松平信康亀姫督姫結城秀康秀忠松平忠吉振姫武田信吉松平忠輝義直頼宣頼房兄弟姉妹松平家元内藤信成樵臆恵最松平忠政市場姫矢田姫異父弟松平康元松平康俊松平定勝異父妹多劫姫江戸幕府初代征夷大将軍徳川家康(とくがわいえやす)時代戦国時代-江戸
備中高松城跡岡山県岡山市北区高松558-2天正5(1577)年。「天下布武」を旗印に天下統一を狙う織田信長は、家臣の羽柴秀吉に命じて、毛利氏の勢力圏である中国地方への進攻戦を開始した。これが世にいう「中国攻め」である。備中高松城は、低湿地に位置する典型的な「沼城」で、秀吉軍の兵や馬は攻め入ることができなかった。秀吉は参謀の黒田官兵衛を交えて軍議を重ねていた。そのとき、黒田官兵衛の進言が、膠着した戦局に変化をもたらす。「水によって苦しめられ城が落ちないのだから、反対に水によって攻めたら
歴史が好き。こんにちは!歴史探求家のアズチです😊キムやろがい!戦国時代のヒーロー、織田信長。彼の名前を聞くと、どんなイメージが浮かびますか?「天下布武」「桶狭間」「本能寺の変」…。派手な戦績の裏で、信長が進めていたのは、当時の常識を根底から覆す超・中央集権体制の構築でした。🏯織田信長は「中央集権」の鬼だった!〜悪魔と天才の間に立たされた男の真の構想〜今回は、信長が目指した「日本の新秩序」と、それが当時の人々にどう映ったのかを深掘りしていきます!🔥鉄壁の中央集権体制:信長こそ
『購読新聞(朝日新聞2025年12月1日夕刊)の記事で、「なんばん餅」の再現・発売を知りましたので、早速、亀屋良長の公式オンラインショップで「なんばん餅」と「はじめての亀屋良長セット」を注文しました。』と書いたのですが、2025年12月4日(木)に亀屋良長さんから「なんばん餅」が届きましたので、それを記事にします。朝日新聞の記事へのリンクです。(2025年11月22日)信長が愛した幻の菓子「なんばん餅」上賀茂神社の古文書もとに再現:朝日新聞織田信長が愛したとされる幻の菓子がよみがえっ
12月2日、来年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」のビジュアル解禁されました!旬くんの織田信長、楽しみにしていました✨️きゃー大河ドラマ「豊臣兄弟!」2026年1月4日放送開始onInstagram:"大河ドラマ【#豊臣兄弟!】《キャラクター紹介》天下一統を狙う孤高のカリスマ織田信長/#小栗旬⚫️初回放送(15分拡大)2026年1月4日(日)[総合]午後8:00ほか#大河ドラマhttps://www.web.nhk/tv/pl/series-tep-P52L88MYXY"27Klik
皆様、こんにちは✨和敬でございます🌈今回は私が初めて自分の前世を知った時の話です。まだ霊能が今ほど開花していない時期に「前世療法(ヒプノセラピー)」を体験しました。20年ほど前に、個人療法ではなく大人数で一斉に前世療法を体験するイベントに参加しました。薄暗くなった会場で催眠状態に入り、自分の前世の映像を見ていくという内容でしたが、ここでその方法を記すのは控えます。権利的なこともありますし、細かく覚えてないです笑今回は「この子が私の元へ生まれてきた意味がわかる過去生へ」というテー
大河ドラマが大好き~家のゴタゴタがあって、何十年も視聴できない悲しい時期もあったけど、ここ何年かリアタイ出来てるし、特に去年&今年は文化大河~~~~楽しすぎるな・ん・だ・け・ど高校の時、選択した日本史の男性高校教師が最悪だった!こいつは、とにかく「戦国時代」好き。日本史の授業開始時点から、室町時代まで異様にすっ飛ばして、当時の私はものすごい違和感だった。んで、6月頃から戦国時代に突入すると、自分の戦国好きをこれでもかという位ひけらかし。(
先週、岐阜城に行って来ました。今までは見上げて通るだけでしたが今回、初めて登城しました。楽市楽座で麓にはお店が出来ていました。観光客も、ほど良い賑わい。ロープウェイで山頂まで行って少しだけ山を歩きます。すると、突然、岐阜城が・・・荒々しい積み方の野面積みの石垣が良いね~織田信長もかっては見たであろう金華山から見下ろす岐阜の街脇には資料館も・・・斎藤道三の兜東京にあるマダムタッソの蝋人形なのか?
今日は朝から晴れの1日となった。※満月は明日です。晴れたが気温はあまり上がらず寒い日に…ただ、日曜日から暖かくなるみたいだな。先週の土曜日、ジムでスターさんに会った。スターさんは11月30日まで自転車でチェックポイントを巡るライドアラウンドを自らの足で走って参戦していた。今回はAエリアは熊が出没する危険があったがスターさんは臆する事なくチェックポイントを巡っていった…先々週は高尾山の裏側、先週は熊の目撃情報が多い武蔵五日市にも行ったと…かなり攻めてるな(・・;)※高尾山は東京で登山
今回はこういうお題でいきます。史実と言うよりオカルトに重点を置いたお話ですね。登場するのは柴田勝家。もちろん憎んだ相手は豊臣(羽柴)秀吉です。さて、柴田勝家は、戦国時代から安土桃山時代にかけて織田信長に仕えた重臣で、「鬼柴田」と呼ばれた猛将です。織田家の宿老として北陸方面を任され、最期は羽柴秀吉との賤ヶ岳の戦いに敗れて自害しました。生まれは大永2年(1522年)説が有力で、天正11年(1583年)に亡くなっています。ご存知と思いますが、正室は信長の妹であるお市の方。夫
必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ。え?必死に生きなきゃ光を放てないの?とか言わないでください。私ではなく、織田信長の言葉ですから。戦国時代の「必死」とは、まさに必ず死ぬと覚悟すること。私の使う「必死」は足元にも及ばない。と言いたいところだけれど悩みや痛みの受け止め方は人それぞれ。かつて病気や借金で、私も死を覚悟し絶望した。まあでも乗り越えるしかないなら泣き言言わずにやるしかない。すべては大河の一滴。と、五木先生も言っている。大河の一滴Amazon(アマゾン)
言葉は、不思議な力を持っている。人を生かしもし、殺しもする。「人は、神の口から出る一つ一つの御言葉によって生きる」のだ。「口に入るものは人を汚すことはない。口から出るものが人を汚すのである。」様々な悪意を持って口に出せば、人を汚すことになるのである。即ち、妬み、嫉妬、殺意、不倫なる思い、淫乱の思い、「淫行の思いを持って人(女)を見れば、その人は既に心の内で淫行を行ったのである。」「右の目が罪を犯すなら右目をくり抜いて捨てなさい。左の手が罪を犯すなら左手を切って捨てよ!
第百九代明正天皇は、江戸時代の天皇、女帝です。御父は後水尾天皇、御母は徳川和子(まさこ)、徳川秀忠と織田信長の妹お市の娘お江の子です。つまり、徳川家康の曾孫で、三代将軍家光の姪でもあり、織田信長の家系の血と信長に滅ぼされた浅井家の血も引いています。御名は、興子、女一宮。元和九年(1623年)生。在位、寛永六年(1629年)から寛永二十年(1643年)。後水尾天皇は第三皇子でしたが、徳川幕府の後押しがあり天皇に即位されたといいます。和子の入内はその家系や、不遇な時代の
歴史が好き。歴史と街歩き大好きキムです!「寺内町」って聞くと、お寺の周りに自然と人が集まってできたのどかな街をイメージしません?私もそうでした!でも、大阪にある富田林寺内町(とんだばやしじないちょう)の歴史を知ると、「この街、ガチで頭いい!」って感動しますよ!題して!🏯✨戦国時代をノーダメージで生き抜いた街!富田林寺内町の「賢すぎる」歴史が面白すぎた!💰✨今日は、この街が約450年間も生き残れた「ずる賢い(褒め言葉)」戦略を解説します!富田林寺内町は重要伝統的建造物群保存地区保存
浜辺美波、赤楚衛二。総理大臣が亡くなり、AIで過去の有名人を復活させて内閣をつくる。官房長官が坂本龍馬であり、女性記者は気に入られて取材ができるようになる。織田信長が人気となり国民を引っ張っていくが、豊臣秀吉が消滅させ、徳川家康も閉じ込めさせ、自分が総理になろうとする。それがわかり、坂本龍馬や記者は家康を助け出そうとし、石田三成などの協力も得て、家康を脱出させる。家康は豊臣秀吉の国民をバカにするのに対して、信じたいといい、AIの内閣を解散し、また戻っていくことにする。女性記者はアナウンサーにな
これをどう読むか🧐sunさんの戦国歴史深読みの時間です😆信長公、本能寺の変の黒幕は誰?いろんな説がある中で秀吉の名も挙がっていますね。明智光秀始め、足利義昭、朝廷、豊臣秀吉、徳川家康。本能寺の変の翌日、秀吉が出した起請文を発見事件知らずに書いたか(朝日新聞)-Yahoo!ニュース戦国武将・織田信長が明智光秀に討たれた天正10(1582)年6月2日の本能寺の変。その翌日、中国地方で毛利氏と戦っていた羽柴(豊臣)秀吉が、寝返った毛利方の有力武将に報奨を約束した起請文(きしょうne
根来寺~壮絶な歴史~開山・覚鑁(かくばん)上人(撮影日2025・11・27)※長くなりますので、興味のない方はスルーして下さいね・・😅※案内文はネットより引用・参照しております・・壮絶な歴史に残された・・・開山・覚鑁上人と根来寺歴史創建・1130年(大治5年)当時の根来寺が壮大な大寺院だった!平安時代後期の高野山の僧・覚鑁が・・1130年(大治5年)に高野山内に小伝法院を創建したことに始まる!覚鑁上人とは・高野山中興の祖1134年(長承3年)に覚鑁は金剛峯寺座主に
青山高原は三重県中部の中勢地域と伊賀地域を隔てる500〜800m級の高地、山々が続く小学校の社会の時間には布引山地と習った北の鈴鹿山脈、南の台高山脈をつなぐ高地であるボクが居する伊賀からすれば、東へ行くには必ず通らなければならない山地であるご承知のとおり、伊賀は内陸、山地にある盆地であるので四方八方を山々に囲まれている伊賀を出て、どこへ行くにも必ずどこかの峠を越えなければならない青山峠、笠取峠、御斎峠、笠間峠などなど戦国時代、織田信長に攻め立てられたものの2度跳ね返したのもこの地
超ロング日帰りドライブ旅。栃木県から愛知県犬山市の国宝犬山城へ行って見学した後。せっかくなので、1時間ほど足を延ばして岐阜城にも行くことに。お城の近くで駐車場を探してウロウロしましたが。無事に駐車場にINして出発。まずは岐阜公園内に最近できた岐阜城楽市で腹ごしらえ。楽市内から見える岐阜城金華山は足で登ることもできますが。今回はロープウェー(往復1,300円)で。どんよりしてきました・・・。ロープウェーを下りて階段などを少し上がって。入口で200円をお支払いして中
令和八年(2026)1月からの中日文化センター栄の城巡り講座が、参加募集中です。現在、中日文化センター栄では、9回にわたる桶狭間合戦シリーズを行っています。今回は以下の通り。●1月織田信長出陣美濃路と清洲城●2月熱田神宮と熱田湊跡●3月鳴海城址と織田の砦今年10~12月は今川軍目線での城巡りでしたが、来年は織田目線に変わります。史跡はひとりで巡るのも楽しいですが、せっかくなら同じ趣味の人たちと巡ってみませんか?3回シリーズの講座です。あなたのご参加をぜひ、おまちしております。※
前回の続きです金華山の上にある岐阜城に行った後リス村へ行きましたこちらがリス村ですロープウエーに一番早く登ることは出来ましたがリス村は9時半からの営業でしたその前に岐阜城界隈を廻ってリス村に行くと9時半を過ぎていたので丁度良く行くことが出来ましたリス村へは私ととで入場しましたリスと言っても仲里依紗さんと中尾明慶さんご夫妻のあのCMに登場するリス達とは違う種類のリスでしたリス村に入るときは説明を受け☝のようなグローブ
島津義弘である。皆の衆、息災であろうか。魔王と鬼(撮影:お市様)流石は信長様、チェストの切れ味が抜群に素晴らしゅう御座います!「チェスト一級」も夢ではありませぬぞ!お市様にも入っていただき、年齢も近い"花の天文トリオ"お二方とご一緒できて恐悦至極に御座いました!皆の拍手と声援が飛び交う中を行軍東軍・西軍・主従・旧友・宿敵。尾張を訪れる度にたくさんの出逢いがあり、尾張を訪れたからこそ芽生える感情がある。わしには因縁ある武将も多いのじ
来ていただいて、ありがとうございます今日の文字は11月29日の「ブラタモリ」は「信長の安土城」お題は「幻の城•安土城信長が描いた”つかの間の夢”とは?」昨日はなぜ信長は安土にお城を築いたのかを書いてきました今日は信長はお城だけではなく、城下町にも夢を描いていましたそれが一体どんなものだったのかを探るために安土の町の中へかっての安土のあったところへ信長が安土城を築いた頃には、もうありましたタモリさん「この辺は水路が多いんです
氏戸佳香『那古屋今川氏の興亡』白天社戦国大名今川氏はご存じだろうか?ご存じなければ、この本を読む意味はありません・・・。永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元。の今川氏です。この今川氏、当時は名門中の名門で、いわゆる室町幕府将軍・足利家の縁戚でした。というわけで、一門はたくさんいたと思われ、那古屋=ざっくりいまの名古屋辺りにも有力な一族がいたのです。戦国大名今川氏というのは、最盛期、駿河(静岡県中部)・遠江(西部)そして三
「そんな弥生時代からの延長に戦国時代大名があるとすれば、戦争で抜きんでた戦闘力を誇ってたのはずっと農民だったという推理がでてきます。一番恐ろしかったのが農民一揆です。」その推理は、かなり鋭いし、歴史的事実とも完全に合致します。弥生時代から戦国時代まで、約1500~2000年という途方もない長期間、日本の「最強の戦闘集団」は、実はいつも「農民」だったんです。1.弥生の「農兵」はそのまま中世まで続いた弥生時代の環濓集落の戦士は、農作業の合間に武器を持ち、村を守る「農民戦士」でした。