ブログ記事18,786件
九州全土の平定を目前とした島津にとって、大友からの嘆願によって出された秀吉の停戦令は到底受け入れられるものではなかった。島津義久は豊臣政権の先遣隊である四国勢を戸次川で完膚なきまでに粉砕し、その揺るがぬ意思を天下に示した。事ここに至り、秀吉も自らの手で島津を討つべく九州攻めの陣立てを布告した。肥後方面を自身が、日向方面を弟・秀長が指揮する総勢20万を超える大軍である。天正15年、豊前国を皮切りに九州各地で合戦の火蓋が切られた。豊臣の威信をかけて大遠征を断行した秀吉・秀長兄弟。対して、
2026年8月20日(木)群馬県の草津温泉は日本三大温泉のひとつで、湯畑では毎分4000リットルの温泉が湧き出しているんですって!凄い湧出量です。この湯畑、凄い迫力でお湯が湧き出ており木の桶がずらーっと並んでお湯がザアザアと滑り落ちています。徳川家康は豊臣秀吉の勧めでこの草津温泉の湯を桶に入れ江戸城まで運ばせ、入浴した記録が残っているんですって😱草津から江戸まで桶に入れた温泉の湯を運ばせるって!いゃあ、びっくりです。チャポンチャポン揺れて着いた頃には桶の中
ごきげんさまです岐阜県大垣市在住やましたひでこ公認断捨離®トレーナー菱田史子ですブログランキングに参加しています。一押し!お願いいたします。にほんブログ村にほんブログ村今日は我が家にてお茶会、フナクリ食堂にてランチ。久しぶりにお会いしたダンシャリアンさん。私が一人暮らしを始めたということで「ぜひ会いに行きたい」と来てくださって。久しぶりにお会いできて、本当に嬉しい一日となりました。思い返せば、私が断捨離®トレーナーになった
お市様を娶り、北ノ庄城に迎え入れ、長年恋焦がれた人と食事を共にするも胸がいっぱいで、箸が進まない柴田様から始まった今回。かわゆし今度は信孝に連れ去られてしまった三法師を奪還するためと、信長の葬儀を絡めて、秀吉陣営と柴田&お市陣営、どちらが織田の正統を継ぐかの静かな戦いが繰り広げられました。前回の清洲会議でほかの家老たちを出し抜いた為、丹羽長秀や池田恒興、柴田勝家の怒りをかい、助力を全く受けられない秀吉。信長からの養子、秀勝を喪主とし、信長の葬儀を行おうとしても、やはり各家老は出席をせず。
お仕事が忙しくストレス発散と運動の為に激務のお昼休みにお散歩がてら伊豆市『狩野城』跡を目指したもののあまりの暑さに断念をして逆にストレス😫を抱えた50歳過ぎのオジサンです。Amazonプライム先生で大河ドラマが続々と観れる様になっている『真田丸』噂には聞いていたが観れる様になって大興奮のオジサンだ❗️『麒麟が来る!』明智光秀が主人公は期待してしまう。熱いぜAmazonプライム先生‼️自分は伊豆暮らしを始めた頃に『鎌倉殿の13人』を観て以来大河ドラマ大好きオ
※京都市東山区方広寺本堂・・・桃山期2代目大仏再興時、豊臣秀頼によって方広寺塔頭日厳院客殿として建築された建物を明治期に移築したものです。京都市東山区方広寺2️⃣方広寺(京都市東山区大和大路通七条茶屋町)方広寺は、豊臣秀吉の「カネにモノを言わせて、東大寺の大仏を遥かに超えるケバケバしい巨大な金ピカの大仏と金ピカの大仏殿を造った成り金サル秀吉の傑作」徳川家康の「梵鐘の刻銘に「ケチ」を付けて、大坂の陣を勃発させ、豊臣家を滅ぼすタヌキオヤジの真骨頂」(あ
今朝も早起きしてオアシスに一番に行きました。🚗今日は葡萄を買いました。夕方◯羽くん達と会うのでお土産の明太子などと一緒に渡す予定です。それから半田にある(ステーキハウス森牧場)に来ました。私はサーロインのコースです。👍柔らかくてほんとに美味しいです!それからかき氷の大蔵餅に行こうと見てみましたが…100組待ちだったので諦めて…桃パフェのフレベールラディュに来ました。ミストが涼しげです。桃パフェやってますねー!駐車場の車が少なかったので
愛知県名古屋市の常泉寺さんの境内に建てられている【豊臣秀吉の銅像】です銅像の台座には【豊太閤之像】の銘板が銅像の側には【豊臣秀吉公・銅像】の案内板が設置されているので確認しておきましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼豊臣秀吉公没・三百年記念事業として太閤秀吉公像を明治31年(1898)に建立。昭和19年(1944)、戦争による金属強制徴収となり、台座石のみとなる。昭和58年(1983)放火により本堂全焼となるも、篤信者の支援、檀信徒一丸となり、同62年(1987)に本堂落
【京都】京都府と大阪府の境に位置する交通・軍事上の要地天下分け目の天王山南側山腹にある豊臣秀吉ゆかりのお寺『宝積寺』大河ドラマ『豊臣兄弟!』第29回『天下への道』は「山崎の戦い」でした。2026年3月合戦当日(1582年6月13日)秀吉が富田(大阪府高槻市)付近にいたとする新発見の書状が分析され秀吉本人は山崎の戦いに間に合っていなかった
1月4日(日)からNHKで放送開始です。ラベルダウンロード豊臣兄弟!第31回「これで、お別れにございます」豊臣兄弟!第30回「清須会議」豊臣兄弟!第29回「天下への道」豊臣兄弟!第28回「急げ!秀吉」豊臣兄弟!第27回「本能寺の変」豊臣兄弟!第26回「信長を笑わせろ!」豊臣兄弟!第25回「変事の予兆」豊臣兄弟!第24回「軍師官兵衛!」豊臣兄弟!第23回「さらば半兵衛」豊臣兄弟!第22回「播磨大誤算」豊臣兄弟!第21回「風雲!竹田城」豊臣兄弟
【京都】京都豊國神社は太閤豊臣秀吉公をお祀りする豊國神社の総本社。60回記念「京の冬の旅」は大河ドラマ「豊臣兄弟!」豊臣秀長と兄・秀吉ゆかりの地をテーマに初公開を含む15ヶ所で普段は見学できない庭園、仏像、襖絵、建築など様々な文化財が期間限定で特別公開されています。【開催期間】令和8年1月9日~3月18日10時~16時30分
2026年の大河ドラマは「豊臣兄弟!」。それにちなんだポストが2024年に中村区内でお披露目になったのですが、なかなか撮影に行く時間がなく、まだ見ることができずにいた。大鳥居(赤鳥居)1921年(大正10年)、中村が名古屋市に編入されたことを記念し、住民らの寄付によって1929年(昭和4年)に大鳥居が建立された。この大鳥居は、京都市の平安神宮大鳥居よりもわずかに高く、創建当時は世界一高い鳥居であった。
織田信長の妻の残酷な末路!信長が愛した9人の女性たちはその後どうなったのか?【豊臣兄弟!】-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.be2026/06/10#豊臣秀吉#豊臣兄弟#大河ドラマ「織田信長」の動画はこちら↓•織田信長の生涯を完全解説!桶狭間の奇跡から本能寺の最期まで【豊臣兄弟!】2026年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で注目が
京都府乙訓郡大山崎、天王山中腹にある真言宗寺院『宝積寺』があります。通称“宝寺”と呼ばれ、以前から気になっていたお寺。この日は新緑浴がてらお参りしようとやってきました。JR山崎駅から北へ徒歩10分ほどでたどり着くお寺ですが、そこそこの傾斜のある道をひたすら登っていくため、けっこうな運動量にもなります(笑)宝積寺は、奈良時代の神亀元年(724年)に聖武天皇の勅願によって、僧・行基が開創したと伝えられる古刹。元号「神亀」にちなんでか、手水舎には亀が。これまでいろいろな神
先日の関ヶ原での議長会、そして歴史学者・本郷和人氏の講演を拝聴し、改めて美濃の歴史を振り返る機会をいただきました。戦国時代を一言で表すなら、「自分の所領を守る時代」から、「日本全体を動かす仕組みをつくる時代」への転換期だったと思います。室町幕府の権威が弱まると、守護大名や国人領主たちは、自らの力で領地を守らなければならなくなりました。そこで重要だったのが「領地安堵」です。つまり、「このw土地はあなたのものとして認める」という保証です。武士にとって土地は、家を守り、家臣を養い、軍を維持するた
先日、岐阜県庁で行われた「豊臣兄弟!」巡回展をこのブログでご紹介したばかりですが、続けて、滋賀県長浜市の大河ドラマ館に行ってきました。長浜は秀吉がはじめて城持ち大名となった地です。天正元年(1573)に羽柴秀吉は北近江の浅井長政攻めの功で織田信長から浅井の旧領を与えられましたが、浅井の居城・小谷城には入らず、琵琶湖畔に新たに築城を開始しました。その際、地名を「今浜」から「長浜」に改め、同時に城下町の整備も行いました。弟・秀長とともに、長浜の町の礎を築いた存在として、今もなお地元の人に親し
【愛知】豊臣秀吉公生誕の地太閤山『常泉寺』2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも注目を浴びそうです【常泉寺切り絵御首題】【常泉寺御朱印】【本堂】【宗派】日蓮宗【山号】太閤山【寺号】常泉寺豊臣秀吉公生誕の地に建てられたお寺。慶長11年(1606年)加藤清正が圓住院日誦上人を開山に招き豊国大明神廟堂として創建。堂
今回は博多区東長寺に伝わる弘法大師千字文についてお話します。登場人物は博多の豪商、島井宗室、神屋宗湛、織田信長、豊臣秀吉です。現在この千字文は博多駅から大博通りを歩いて10分の位置にある東長寺が所有しています。国宝級のお宝ですが東長寺の秘宝として公開はされていません。明智光秀の謀反により織田信長が自害した本能寺の変で博多の豪商、島井宗室が本能寺より焼失を避けて持ち帰りました。島井宗室1539年‐1615年千字文とは中国より伝わる、書の手習い見本として一つとして同じ文字はなく楷書、行
天正10年(1582)、織田氏と毛利氏が中国地方の覇権をかけて争った備中高松合戦(備中高松城水攻め)は、羽柴(豊臣)秀吉が天下人へと歩みはじめる転機となったことで知られていますが、この合戦に加わった国人(在地領主)の居館跡が見つかっています。備中高松城跡の西約5kmにある総社遺跡は、国道180号バイパスの建設に先立って平成13~15(2001~2003)年に発掘調査が行なわれ、周囲に幅9.8m、深さ2.2mもある堀や土塁を巡らせた居館跡であることが明らかとなりました。部分的な調査のため全貌は明
『飛び出し坊や』は、子供たちが道路に飛び出して交通事故に遭うのを防止するため、注意喚起として設置された看板のことを言います。滋賀県は『飛び出し坊や』の発祥の地(東近江市八日市)であり、滋賀県の設置数は日本一といいバリエーションに富んだデザインは地域の特色を活かしたものが多数あります。NHKの大河ドラマ『豊臣兄弟』にあわせて長浜市の駅前商店街では「戦国武将と姫がとびだす!長浜まちめぐり」と題して街中に『飛び出し坊や』全27体が設置されています。『飛び出し坊や』は、豊臣兄弟に関係する
🌸大阪城梅林へ行ってきました今日は、お店が定休日だったので大阪城梅林へ行ってきました☺️✨今日はすごく暖かくて、歩いているだけで気持ちまでほぐれるような陽気でした☺️☀️梅の花も一気に開きそうな、そんな感じがしました🌸コートもなし❣️お天気も良くて、お散歩日和でした☀️🌸梅林の景色梅の花は、桜とはまた違った可愛らしさがありますね🌸濃いピンクがとても華やかで、見ているだけで気分が上がりました😊梅越しに見る大阪城も、めっちゃええ雰囲気で素敵でした📷✨🏯この角度の大阪城が大好きです
はじめての校外研修(重要文化財研究)あいにくの雨天の中津島神社、堀田家住宅校外研修に行って来ました津島天王川公園の藤まつりに行ったことは有りますが恥ずかしながら津島神社に行ったことがありませんでした愛知県人だというに何てことでしょう国指定重要無形民俗文化財に指定されユネスコ無形文化財に登録されている尾張津島天皇祭耳にしたことは有りますが行ったことがありません敷居が高い?!簡単には行けないイメージがあります車楽船(だんじり船)と巻藁船(まきわら船)見せて頂きました津島神社
本日は、一昨日発表した「豊臣新幹線天下統一行き第二章」内の企画、「東海道新幹線に乗って“3人の秀勝”を登用しよう!」の詳細についてお伝えします。“3人の秀勝”の内容については、第一章の時の説明をご覧ください。第二章では、於次秀勝が登用できるようになります!!於次(おつぎ)は、織田信長の四男で、秀吉が石松丸の死後に信長に願い出て養子に貰い受け、猶子として育てた子です。天正5年~6年(1577~1578)頃に養子に入ったとみられ、天正8年頃からは長浜城において秀吉の湖北支配
(。・x・)ゞクポ週末には合戦クポたくさんくじ引いたけど、素材も無くなったクポヾ(。`Д´。)ノ彡完成する分だけ育てておくクポ(。・x・)ゞ終焉焦土をつけるクポ伊達がたくさん出るとつけれるクポ無尽防御も育てたかったけど、素材が足りなくなったクポヾ(。`Д´。)ノ彡またの機会にするクポ
3月25日水曜日大河ドラマ「豊臣兄弟」主要登場人物今井宗久(和田正人)今井宗久(いまいそうきゅう)永正17年(1520年)〜文禄2年8月5日(1593年8月31日))室町時代から安土桃山時代にかけての堺の商人、茶人。今井出羽守宗慶の三男の氏高の子。今井宗薫の父。名は兼員、初名を久秀、通称を彦八郎のち彦右衛門。号は昨夢庵寿林。屋号は納屋。薙髪の後に宗久と名乗った。千利休・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた。大和国高市郡今井村の出身。祖は近江
豊臣兄弟!第29回天下への道7月26日放送#豊臣兄弟動画第26回信長を笑わせろ!織田信孝(結木滉星)から明智討伐の差配を任された秀吉(池松壮亮)。焦らず敵を追い詰め、光秀(要潤)を生け捕りにすべきと考えるが、信長を失った織田勢の足並みはそろわず、逸った高山右近(市川知宏)らが敵陣に攻め入る。小一郎(仲野太賀)は初陣の与一郎(大西利空)を残し、自身は援軍として戦場へ。だが与一郎は、刺客から信孝を守って負傷してしまう。一方、小一郎は秀吉に、どうしても光秀と話したいと頼まれ…。
こんにちは!9歳と7歳の子を育てています2026年の大河ドラマ豊臣兄弟!第22回が放送されました秀吉が記憶喪失になるというトンデモ展開でしたでもこれは圓教寺に現存する「羽柴小一郎」の柱の落書きから着想を得た見事なストーリーでした!「名前を書いた者の身には大きな災いが降りかかる」「災いを半分引き受けてやるわ」という言葉は小一郎が秀吉より早く亡くなる伏線かもしれませんそして官兵衛の野心と腹黒さ。もうすぐやってくる「本能寺の変」その黒幕は官兵衛…とまでは考えにくいもの
豊臣秀吉と千利休。一人は天下統一を成し遂げた権力者、もう一人は「茶の湯」を極めた茶人です。一見すると、まったく違う世界に生きていた二人ですが、実は深い信頼関係で結ばれていました。秀吉は利休の茶の湯を高く評価し、織田信長の死後、利休を黒田官兵衛、前田利家、石田三成などと同様に側近のように重用しました。利休の茶室は質素で、豪華さを競うのではなく、「わび・さび」を大切にする世界でした。ところが、天下人となった秀吉は、黄金の茶室を造るなど、豪華な茶の湯を好むようになります。ここに二人の考え方の
「坂本比叡山口を歩く」の中編です。昼食場所に選んだ「鶴屋喜八(旧・「手打蕎麦鶴喜(つるき)」)」に向かいました。(「喜」の正しい字(七が3つ)は機種依存文字ですので「喜」に変えています)滋賀県大津市坂本にある「手打蕎麦鶴屋喜八」の現在の建物は、1887年(明治20年)に建てられたものです「鶴屋喜八」の主屋です。「鶴屋喜八(鶴喜そば)」と「比叡山延暦寺」は、300年以上の歴史で結ばれた深い関係にあります。1716年、延暦寺の賄い方(僧侶)であった初代・鶴屋喜八が、門前町の坂本(
滋賀旅行の続きです。長浜、彦根の次は、近江八幡市に行きました。豊臣秀次が築いた城下町で、近江商人の発祥の地。八幡という地名の由来は、日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)があるから。1000年以上の歴史を持つ古社で、近江商人から守護神として崇められてきました。木々が生い茂り、厳かな雰囲気です。日牟禮八幡宮の鳥居の向かいには、白雲館。明治10年に八幡東学校として建築された洋風建築で、現在は観光案内所になっています。歴史情緒あふれる美しい街並みは、散策するのが楽しい。お昼ご飯は、旅