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❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者94雄哉は、『東下り』と『東北巡礼』を終えたのち、次の全国巡礼に『西国巡礼』を選んだ。仏の里といわれる国東半島の各霊場を、険しい岩肌をよじ登るといった厳しい道のり、約百五十キロを歩きながら巡礼する荒行であり、六郷満山峯入り行を行う。その後、九州西方の伝教大師、慈覚大師の旧跡をたどる旅である。『西国巡礼』は、一九九三年(平成五年)五月二十八日から六月二日まで行われた。この巡礼は雄哉にとって千日回峰行同様過酷な修行と
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者95『西国巡礼』へ向かう途中、雄哉は国東半島に入る前に、航空自衛隊がある小松飛行場へ立ち寄るため、車に乗っていたら腰を痛めてしまった。そして、夕方に国東半島に着いた時は、腰が痛くて立っていられなくなるほどまでに悪化してしまった。フェリーに乗って大分まで行って、そこから歩き始めたが、痛くて痛くてしょうがない。座っていても、立っていても、横になっても、どんな状態でも痛かった。しかし、皆、腰を痛めたことを知らない。行く
❖5月4日は伝教大師最澄『月命日』広厳山般若浄土院浄法寺群馬県伝教大師金色尊像天台宗善光寺(問題)騒動『天台宗善光寺騒動』とは、善光寺の住職で、天台宗寺院「大勧進」のトップである小松玄澄貫主が、職員へのセクハラや差別発言を行ったという疑惑が浮上し、信徒らから罷免要求がなされた騒動を指す。最終的に、小松貫主は天台宗務庁から解任された騒動である。歴史は繰り返されるのか?2015年から2016年にかけて、大勧進の女性職員への差別発言やセクハラ疑惑が浮上しました。小松貫主は当初、疑
阿闍梨【外伝】一隅を照らす❖ご縁とは引用天台宗公式サイト法話集「ご縁」とは護摩木や祈祷札の願意を拝見いたしますと「良縁成就」と書かれてあるのをよく見かけます。また「悪縁断絶」などというものもあります。「縁結び・縁切り」。良いことは自分に来るように、悪いことは自分には来ないようにというのは、誰もが共通した願いでしょう。この「縁」という言葉は「縁起の法」「十二因縁」などといい、お釈迦様が悟りを開かれて最初に弟子たちにお説きになった根本教理の一つ、悟りの内容そのものであります。「
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者93雄哉は、冷凍のうどんを調理する時、鍋に水を張って、うどんをポンと入れ、火をつけてゆでる。急速に解凍しても味が出てこない。一番いいのは、自然解凍して、それから温める方法だ。沸騰して鍋から湯気が出ると、火をパッと止めて、五分間くらい蒸らしておく。そうすると、ゆでたてのうどんと同じ感じになるという。水から戻したうどんは、生のうどんとほとんど変わらないし、余熱で蒸らすから芯まで柔らかくなる。でも、最初から熱いお湯をう
昨日の記事の続きです。『結縁灌頂を受けてきました①~高野山~』高野山で結縁灌頂(けちえんかんじょう)を受けてきました。結縁灌頂とは仏様から厚いご縁がいただける一般人でも受けられる儀式です。仏教に疎い私は結…ameblo.jp私の目の前には阿闍梨様が座っておられました。私は阿闍梨様はご高齢だと勝手にイメージしてたのですが私の想像よりお若く目力のある力強いお方でした。阿闍梨様の前には机がありその手前には私が座
◇闇の中の孤独、、(酒井雄哉大阿闍梨)「歩行禅」という言葉がある。無念無想、自然の風物のなかに溶け込み、風のささやき、樹々の声を聞きつつ黙々と歩く。天地との一体感のなかで、ひたすら歩いていく。その静謐で他者との完璧な調和を「歩行禅」というのだろう。とすれば、当時の酒井阿闍梨は「歩行禅」とはほど遠い状態であった。一期目百日のうち、七十五日目に「切り廻り」といって一日だけ、京都大廻りをする。この日は一日に九十四キロも歩かなければならない。その「切り廻り」よりも、最初のうちは睡眠不足で歩く四十キ
先日は滝行でお馴染みの関口道薫さんが(以下、道薫さん)真言宗に於いて、正式な僧侶、阿闍梨となる為に必要な修行期間である四度加行を終え、真言宗僧侶の免許皆伝の儀式『伝法灌頂』を無事成満した旨のご報告の為に自坊を訪れてくださいました。☆元極道の僧侶・隻眼の鷹関口道薫さんのブログ数年前に私のブログを読んでくださった道薫さんよりメッセージを頂いたのがご縁の始まりでしたが、この方も若年より波瀾万丈の人生を歩んでこられた方で、若い頃より突破者(とっぱもん)で、広域暴力
❖『一日一生』ってどういうことですか『人は毎日、生まれ変わっとる。だから、良きにつけ、悪しきにつけ、すべて今日で終わりや。今日が始まったときに、今日ですべてが終わる気持ちで日々生きろ。朝起きれば、それが新しい誕生や』阿闍梨さんは、よく「一日一生」という言葉を口にしていたし、求められて色紙に書いたりもしていた。今では、俺の座右の銘にもなっているこの「一日一生」も、かっての俺には縁遠い言葉でしかなかった。いつも言うてる「一日一生」ってどういうことですか?『人は毎日、生まれ変わっとる。朝お気
こんにちは。瑠璃色の世界へようこそRinkoです。今日は、私が大好きな場所、過去世からのご縁を感じている場所、比叡山延暦寺の記事です。比叡山へは16年程前からお詣りに行っています。最近は、根本中堂や阿弥陀堂がある東塔の方ではなく、いつも無動寺谷へ。今年は、10月に行ってきました。今日は、その2でその1はこちら。『比叡山延暦寺その2~千日回峰行の本拠地無動寺谷・明王堂と大阿闍梨様のご祈祷付の有難いお守り~』こんにちは。瑠璃色
◇飯室谷にいく、、①(酒井雄哉大阿闍梨護摩行)酒井阿闍梨の千日回峰行は認められた。が、一つ条件がつけられた。これはすでに、酒井阿闍梨が叡山学院研究科を卒業したあと、本山交衆への加入を認めるかどうか、年齢が問題になって一山会議が開かれ、比叡山の規則が変更されたときからついていた「ただし書き」だった。特例を認める代わりに「ただし書き」をつけた。その内容は、「将来は飯室谷(いむろだに)の箱崎文應師のもとで、起居する」というものである。先達会議は、酒井阿闍梨の千日回峰を認めると同時に、この「ただ
◇不動明王朝の会、、(酒井雄哉大阿闍梨)二回目の堂入りから出堂した、酒井阿闍梨の姿を見て、思わず土の上野に座り込んで礼拝する中年の女性もいた。「昭和の生き仏」の姿に、真言はますます高まるばかりだ。阿闍梨の顔は憔悴して頬がこけ、眼窩は落ちくぼんでいたが、瞳は澄み、表情には人間の顔を超越したような不思議な輝きと静謐さがあった。酒井阿闍梨は、堂入りがすんだ翌昭和六十年三月二十八日から赤山苦行に入った。今度は足の怪我もなく、雲母坂を一気に駆け下り、駆け上り、七月五日に千八百日を満行した。そして六十
無理せず、ひがまず、焦らず、慌てず。水の流れのごとく生きる。溜(た)まりに入ってもあわてることないよ。よどみも徐々に解かれていくから酒井雄哉明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。🙏令和七年乙巳元旦夢一乗一日一生(朝日新書)Amazon(アマゾン)続・一日一生(朝日新書)Amazon(アマゾン)人生を楽しく過ごしなさい:現代人の死生観を問う、大阿闍梨最期の言葉Amazon(アマゾン)がんばらなくていいんだよ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者④不動行者が相応しい、無動寺谷にいきなされ、、作を一目見ただけの大角実田は何をかんじたのであろう。作の心の奥底に眠る真の姿を感じとったのか、、事務所に戻ってきた作を、中山師は無動寺谷宝珠院につれて行った。そこには、三千日回峰行を目指す『奥野玄順大阿闍梨』がいるのである。宝珠院は二千日回峰行を経て玄順が再興した自坊であり、酒井雄哉が最初に住職を拝命したところでもある。しかし作は、僅か一日で放り出されてしまう。
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者89雄哉が天台寺に立ち寄ったとき、そのお菓子屋さんは朝一番に天台寺に来て、奥さんの寝間着をもって長い石段で到着を待った。石段には同じように多くのお迎えする人たちがドンドン集まって並んで座っている。そして、お菓子屋さんが頭の上に捧げた寝間着に、丁寧にお加持をしたのである。それから、約一か月。あの加持のあと、奥さんはすぐ手術ということになった。手術する前に、もう一度だけ癌の様子を調べようと医者が検査したところ、あった
◇火焔の十万枚大護摩供、、(酒井雄哉大阿闍梨)紅蓮の炎が燃え上がり、酒井阿闍梨が祈禱しながら護摩木を投じると、火焔はさらに天井まで焼きつくすかのように凄まじい火勢でめらめらという音をたてた。「ナーマクサーマンダーバーサラナンセンダンマーカーロシャナソワタヤウンタラターカンマン」信者たちが唱和する真言が、一大合唱となってそれに和する。一つひとつ護摩木に込められた衆生の祈願を声に出して読みあげ、それを火焔の中に投じる阿闍梨の顔は、真っ赤に炎にそまり、さながら生きた不動明王を彷
◇北嶺大行満大阿闍梨、、(二千日回峰、満行の日の酒井雄哉大阿闍梨)『我れ生れて自り此来、口に蠱言(そごん)なく、手に笞罰(ちばつ)せず、今我が同法、童子を打たずんば、我が為に大恩なり、努力(つと)めよ努力よ』傳教大師の遺訓である。私は常に荒々しいことばを慎み、竹の鞭で打ったりしたことは一度もなかった。子どもはわれわれの後継者だ。同法(弟子)の人たちよ。子どもをたたいてくれるな、辛抱づよく導いてほしい。私はそれを大恩だと思う、という意味でである。「あんまり理屈を言うことはないんだ。朝ちょ
【外伝】正井観順大阿闍梨①比叡山の荒行『千日回峰行』、二千日を満行した行者は三人。その中に三千日に挑んだ行者がいた。正井観順大阿闍梨その人である。前回の投稿で、小林隆彰師の書籍から正井阿闍梨の足跡を紹介させて頂いたが、阿闍梨についての文献は少ない。その中で、正井阿闍梨の故郷、青森県黒石市が地元の中学生に向けて「伝記」をつくっているのでご紹介させていただきます。(正井観順大阿闍梨)「大廻りのあじゃりさんがいらはったよお母さん、早うおいで」「はいはい、カンジザイボーサーツ、ハンニャハー
☆【外伝】『高倉健と二人の阿闍梨』酒井雄哉阿闍梨と『魂の交流』、、御前様永らく御無沙汰致しました。半年振りに仕事をする事になり今日京都に着き御会い出来るのを楽しみに来ましたが御不在なので残念です。留守中なのに御瀧を受けさて戴きます。御許し下さい。御身体になにかあったのではないかと案じて居ります。近日中に又参ります。その時を楽しみに。六月二十五日夜八時半高倉健この手紙を、ヤッさんがおよそ四十五年ぶりに目にしたのは、健さ
◇幻の常行三昧(酒井雄哉大阿闍梨)酒井阿闍梨は百日回峰を無事に終ると、次の行に入ることを義務づけられていた。三年籠山中に果たさなければならない修行として、祖廟浄土院での侍真奉仕、百日回峰、そして「四種三昧」のうちから「常坐三昧」か「常行三昧」のどちから一つ、この三つが定められている。四種三昧とは、比叡山で最も歴史的が古く、基本的な修行で、「常坐三昧」「常行三昧」「半行半坐三昧」「非行非坐三昧」の四種をさす。これは天台宗の高祖、中国の天台大師が法華経の修行法を説いた「摩訶止観」に示されている
☆【外伝】高倉健と二人の阿闍梨京都に、西村泰治(敬称略)という実業家がいる。酒井雄哉大阿闍梨が二千日回峰行をする時に『京都大廻り』の際に、先導を勤めた人である。その破天荒な人生は、前の記述で紹介したが、酒井阿闍梨に心酔した一人である。通称「ヤッさん」、昭和のスーパースター、「高倉健」の付き人を四十年以上つとめてきた男でもあり、芸能界の裏側を知り尽くした男でもある。令和二年、高倉健七回忌にあたり、ベストセラー・フリーライターである山平重樹が著した、『高倉健からアホーと呼ばれた男西村泰
◇異端の行者、(酒井雄哉大阿闍梨)「十万枚大護摩供」を満行したとき、酒井阿闍梨は二回目の千日回峰に入っていた。二千日回峰といったら、これはもい破天荒な行てま、無論、戦後は誰一人として挑戦し、満行したものはいなかった。比叡山に語り継がれる伝説によれば、相応和尚の弟子の遍斅僧都(へんごうそうず九百二〜九七七年)が、現在の千日回峰的にいえば、三千六百日の大行を成しとげたというが、記録は残っていない。現在、記録として残っているのは、東塔、無動寺谷宝珠院の奥野玄順大僧正が大正七年に千日満行、同十五
❖阿闍梨【歩く】◆元三大師御廟から四季講堂へ◇元三大師御廟から四季講堂へ横川は、民間との接点でもあった。琵琶湖側の仰木や、京都大原に近く、大原が救いをもとめる人々の信仰の地になっていったのは、横川の思想が山をおりたことによる。横川は、日本に伝わった仏教が民衆の心をとらえる源となったといえる。元三大師堂(四季講堂)今、私たちは熱中して議論することが少なくなった。議論は相手を負かすことではなく、おたがいの人格を認めあうことで、物の本質をさぐるものである。元三大師堂では、論議の独習
おはこんばんちは!南天ですちょうど3年前の昨日、同じマンションの3階から今の1階の部屋に引っ越しをしましたその引越しの直前に入居前ご祈祷を密教阿闍梨の種市勝覺さんにお願いしてやっていただいたのですが、その時のブログがこちら『入居前ご祈祷をしていただきました♫』こにゃにゃちわ〜!奥野みかです少しずつ家が片付いてきてようやく生活できるレベルに…ここ数日間を振り返る余裕もできたので今日は、引越し前日のことを…ameblo.jp
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者92雄哉は巡礼の道中、随行する者全てに分かりやすい言葉で、自らの人生を赤裸々に語り、比叡山での修行で得た体験を伝えていった。そこには偉ぶることも、押しつけがましいことも、難しい教義はない。『歩く』ことで自然に習得したことばかりを口伝していった。『阿闍梨さんは千日回峰行を二度もやられて、すごいですね』なんてよく言われる。それは比叡山という大きな舞台があったから、みんなが注目して大騒ぎになるけど、特別なもんじゃない。
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者91また、こんなこともあった。雄哉が坊さんになる前に、生駒の山に登る途中にある日蓮宗のお寺へ行っていたことがあった。お寺の尼主(にしゅ)さんのところへ行くと、お茶を出してくれて「よく来たね」と言ってくれた。でも、三回目に行った時、尼主さんに「あんた、また来たの?」って言われた。黙っていたら、「あんた、ここに来るような人間じゃないよ。もっと違うところへ行く人間だよ」って。僕が「はて、、、、?」と戸惑っていると、「ま
◇人生こそ無始無終の行、、(酒井雄哉大阿闍梨)二千日回峰を満行した、酒井阿闍梨は今、深い感慨の中で、「天台宗に偶然拾われて出家し、行というものにめぐり逢えたからこそ、わしのような『落ちこぼれ人間』もここまでこれたんや」と仏縁に感謝し、「人生こそ無始無終の行」という。「行には、始めもなければ終わりもない。死ぬまで行をやるだけだ。回峰行は人生の旅と同じで、谷もあれば山もある。雪や雨の日もあれば、爽やかな日もある。人生と同じや。そのときそのとき精一杯生きていれば、その人の人生にとってマイナス
◇京都大廻り、、(酒井雄哉大阿闍梨)「千日回峰は、まあだいたいスムーズにいったけど、この赤山苦行だけは本当に大変だった。行をやっているんだから、辛いのは当然てま、そのつらさ、苦しさを基準にして、なおかつもっと辛かったのが赤山苦行だったね」二月十五日、尾崎大顕師が西塔・浄土院での十二年籠山を結願した。十二年間、比叡山から一步も出ず、傳教大師の廟所のある浄土院でひたすら清掃と勉学の毎日を送る。横川の看経、東塔の回峰行と並ぶ比叡山の「三大地獄」の一つである。回峰行を動とすれば、静に徹する苦行であ
◇常行三昧、二河白道を歩く、、(酒井雄哉大阿闍梨)昭和四十八年六月一日、酒井阿闍梨は九十日間の「常行三昧」に入った。場所は西塔にある「にない堂」で、ここは釈迦堂を背景にして朱塗りの宝形造りの堂が、双子の堂のような形で並んでいる。右側が法華堂、左側が常行堂で、文禄四年(一五九五年)建立と伝えられる。にない堂は杉木立の静寂の中にある。周囲の苔の緑が美しい。恵心僧都源信の流れをくむ浄土真宗の宗祖・親鸞も、かってはこの常行堂の堂僧であった、と伝えられている。酒井阿闍梨が常行三昧を発願したとき、高
◇小僧になる前に、(酒井雄哉大阿闍梨)大阪から比叡山まで歩いて「一大決心」を心に秘めて、小林隆彰師の元にたどり着いた酒井阿闍梨、このところ急激に変貌しつつある酒井阿闍梨の心をおしはかった。『それじゃ、せっかく来たんだから、何かさせてあげよう』ふつうの寺院は塀で囲まれていて、門がある。しかし比叡山には塀もなく、門はない。いつでも自由に出入りが出来る。それに修行の山という観念が一般あって、しばらく寺に住ませてほしい、という志願者がよく訪れてくる。無動寺谷は行の本場である。どの寺も格段にしつ