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酒井雄哉大阿闍梨の世界六十三決まりを破ったら回峰行者ではない千日回峰行は、「行不退」だという。いったん回峰行に入れば、いかなる理由があろうとも退くわけにはいかない。行が続けられない時は自害せよ、というのである。しかも浄域であり、霊山である比叡山中を穢してはならないから、山外に出て、やれというのである。このことでもわかるように、千日回峰行には大変厳しい決まりが、いくつもある。まず、千日回峰行は誰でも勝手にはできない。百日回峰行をやった者の中から、先達会議(千日回峰行者で構成)で許可された者
※折伏入門より抜粋日蓮大聖人は「折伏において、一切は現証に勝るものはない」と仰せになっています。例えば、邪宗の方を折伏するときなど、真言宗の人を折伏する時には、真言宗の祖である善無畏(ぜんむい)三蔵(さんぞう)とか一行(いちぎょう)阿闍梨(あじゃり)が「横難横死(おうなんおうし)」してひどい死に方だった、また、日本で真言宗を広めた弘法(こうぼう)(空海)や慈覚(じかく)という人達も、癩病(らいびょう)になって生きながら身体が腐る等の凄まじい死に方だった、正しい仏法を行じている者がこのよう
直弟子の対義語は「ヨリ弟子」と言うそうです依なのか、寄りなのかはよくわかりませんが師僧として本山へ届け出のある師匠ではなく一流伝授やさまざまな教養を身につけるために弟子として身を寄せることを「ヨリ弟子」と呼ぶそうです高野山の勧学会でもヨリ弟子は「◯◯院衆坊」と言い「会下・えか」と呼ばれるいわゆる門部屋に起居したのです直弟子は「◯◯院徒弟」と区別されています傳法灌頂を授かり師位に至れば弟子に教える資格を得ますが人に教えるだけの知識を身に付けている必要が
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十ニ行は、わしの人生の最後の砦③「出家の動機?それがあんまりはっきりしないのね。最初は伯母に、無動寺谷にある弁天さんに連れてこられたの。そしたら、お寺というのは葬式をやる所だとばかり思っていたのに、どういうわけか、護摩を焚いたり、行をやっているお坊さん達もいる。こんな生き方もあるんだなって思って、何となくお山に足を運んでいるうちに、得度しなさい、というの。得度って何ですかって聞くと、坊さんになることだというの。もう、うれしくなっちゃったね、わしなんかでも坊さんにな
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十一行は、わしの人生の最後の砦②酒井阿闍梨の半生をブロフィール的に紹介すると――ー。酒井阿闍梨は、大正十五年五月、大阪で生まれる。本名忠雄。まもなく東京に移り、旧制中学校を卒業後、予科練に入る。復員後、そば屋、菓子屋、株尾、工具など職業を転々とする。三十歳すぎに大阪に移り、結婚したが、妻が自殺。亡妻の母親に誘われて無動寺の弁天堂にお参りするようになったのが、昭和三十六年頃であった。その後もしばしば比叡山を訪れた。人生の挫折感を癒そうというのではなく、自分の残りの
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十行は、わしの人生の最後の砦初めて酒井阿闍梨にお会いしたのは、昭和五十五年の早春の頃であった。『日本の聖域――最澄と比叡山』を出版するため、写真の掲載許可をいただくのが目的であった。その後も、『行道に生きる』(島一存著)、『科学の知恵心の智慧』(広中平祐著)、『仏教健康法入門』(朝倉光太郎著)の出版で、編集者として著者に同行して酒井阿闍梨から話を聞く機会を得た。その他にも、画家の前田常作画伯、国立歴史民俗博物館の山折哲雄教授(当時)の取材にも同行し、インタビューさ
こんにちは。もみねっこのあきこです12月1日1日過ぎるのが早いですね来年からスタートしようと思っている事のために数十年ぶりに母校へ書類を取りに行ってきましたプロテスタント系のキリスト教主義学校ったのでクリスマスの時期は構内、校外も素敵に飾られて夕方遅くに実験が終わって帰る時の景色の綺麗だったこと讃美歌を歌ったりしたな・・(今はお経だけど)と若き日の事を思い出しながら坂道や急な階段を登り事務局へ(以前とは違う場所で年月を感じる・・)まだ即日で用意して
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十九酒井雄哉二千日回峰行の記録③この後、南谷西尊院から叡南の辻を経て、無動寺に至る。またもとの道を引き返して、大比叡の中腹、深い熊笹に覆われた行道を通って智証大師廟を経由し、法華総持院から西谷の山王院に出る。浄土院に礼拝して、西塔の各堂を巡拝し、峰道に至る。峰道で左右諸方を拝みつつ玉体杉で玉体加持を行なう。地主権現から阿弥陀が峰を通って横川中堂に至る。横川の諸堂を巡拝し恵心僧都の墓所より、斜め道を一挙に飯室谷に降りる。全長約四十キロ。酒井阿闍梨の足で所要時間七時間~
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十八酒井雄哉二千日回峰行の記録②まず、飯室不動堂を出峰。松禅院、慈忍和尚廟に進み、奈良坂を下って帝秋寺、西教寺と拝みながら日吉神社東本宮に至る。山王二十一社をくまなく参詣して生源寺前の鳥居に至り、坂本の諸方諸神を遙拝して滋賀院、真乗院、妙徳院、霊山院と進む。霊山院は、かつて酒井阿闍梨が小僧生活に入った寺で、故人となった師匠の冥福を祈る。霊山院を出て、走井堂、日吉神社西本宮をまわり、八王寺山の急坂を一気にかけ登っていく。八王寺三の宮を詣で、最澄の両親が参籠したと伝え
昨日は、居酒屋さんで酒肴を箱詰めにしてもらい、能登の家についたら、「そくのみ」だった。いつもそうだけど、東京からもどってきた日は、なにかあるもので、飲むだけ。居酒屋さんに柚子をいっぱいもらってきたので、クロキリのお湯割りに絞って飲む。先週、作家のKさんが、そばを手繰りにきた。あげたつもりの「ひとりの哲学」(山折哲雄」)の本を、丁寧に袋にいれ、「これを読んでいたら、新聞に山折さんの記事があり、やっぱり天真庵に返そうと思った」といって、読売新聞の記事がはさんだ本がもどってきた。
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十七酒井雄哉二千日回峰行の記録前項で「三百九十年ぶりの飯室回峰」と書いたが、実は、この久しく絶えていた飯室回峰の復興を願って百日回峰を満じたのが、酒井阿闍梨の師匠である箱崎文応師であった。昭和十五年九月に、無動寺回峰を千日満行した箱崎師は、昭和十九年に古い回峰手文を見ながら百日の飯室回峰を満行した。だが、昭和四十九年、酒井阿闍梨が千日回峰を決意し、無動寺谷から飯室谷に移ってきた時には、箱崎老師は八十三歳になっていた。先達を務めることができず、酒井阿闍梨に回峰コースを
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十六三百九十年ぶりの飯室回峰③だが、現在のような回峰コースが確立したのは室町時代以降のことであるといわれる。酒井阿闍梨の師僧であった小寺文穎師は、「比叡山回峰行の史的展開」という論文の中で次のように述べている。「北峰修験の比叡山回峰行は千年一日のごとく続けられているけれども、その歴史的な形成過程には、次のごとき四段階があったと思考される。第一期山林巡行時代(831~1130)第二期三塔巡礼時代(1131~1320)第三期比叡山巡礼時代(1321~1570
こんにちは。もみねっこの阿闍梨晶瑞です私たちの体や心、そして毎日の出来事は、ぜんぶ“つながり(縁)”の中で成り立っています。これを仏教では「縁起(えんぎ)」と言います。なんだか難しそうですが、実はとってもシンプル。ひとつが整うと、ほかも整ってくるひとつが乱れると、どこかに響いてくるそんな“めぐり”のお話なんです。🌾「一人でやらなきゃ」じゃなくて大丈夫今の時代は、みんな頑張り者「自分でなんとかしなきゃ」と気を張りがちですが・息をして生きているの
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十五三百九十年ぶりの飯室回峰②回峰行の始祖は相応和尚であると書いたが、『慈覚大師』の著作がある山田座主に、「飯室回峰は慈覚大師の叡山巡拝が基本になっている」というご教示をいただいた。慈覚大師は、飯室谷を出て、日吉神社から八王子山に登り、神宮禅院にお参りして、悲田谷を登って、根本中堂にお参りすることを繰り返されたという。帰りは西塔、横川を経て飯室に帰られたのだろう。まさに飯室回峰は慈覚大師の巡拝の道と軌を一にしているのである。ともあれ相応和尚によって始められた回峰行は
曼荼羅美術館へ館長は観蔵院の小峰和子さん世界中を駆け巡るスーパーレディで御自身も素晴らしいアーティスト美術館の天井画は彼女とお仲間が制作されました。ケミカルを一切使わない天然の絵の具という事にまた改めて感動。彼女の師は染川英輔画伯1983年「観蔵院両部曼荼羅」の制作に着手。以来18年間作品に取り組み、1995年に「金剛界曼荼羅」を、2001年に「胎蔵曼荼羅」を完成し、真言宗智山派観蔵院曼荼羅美術館に収蔵。今日は豊山派の阿闍梨と護国寺管主とご一緒に拝見させてました。観
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十四三百九十年ぶりの飯室回峰恵心僧都源信(九四二~一〇一七)が住した横川の恵心院をすぎ、霊苑を経て急坂二キロ余を降りると横川六谷の一つ、飯室谷に達する。この道は飯室回峰の行者道になっている。東塔五谷、西塔五谷に対して横川だけ、なぜ六谷なのか。それは比叡山の「離れ小谷」ともいうべき飯室谷があるからだという。飯室谷は、慈覚大師円仁がこの地で感見した不動明王を自ら彫刻して拓かれた谷である。伝説によると、食物を司る神とされる飯櫃童子が老翁の姿になって現われて、慈覚大師に供
比叡山での「白鷺(はくろ)」とは、回峰行者が白装束で山中を巡る姿が「白鷺」が飛んでいるか如くに見えることからそう呼ばれるのだという。『白鷺立つ』は、天明飢饉の傷痕いまだ癒えぬ比叡山延暦寺で、千日回峰行に挑んだ二人の僧:恃照と戒閻の反目と憎悪、心の葛藤を描いた物語です。二人は帝の子として生まれながらも存在を隠さねばならない出自から、この世に存在しないものとして比叡山延暦寺の僧となります。帝の子として生まれた自負がありながら一介の僧で終わるのを拒み、二人の僧はそれぞれ大阿闍梨を目指して千日回
P134誰人(たれびと)の所為(しよゐ)と知(しり)-難(がた)し。別当(べつたう)-坊(ばう)-公暁(くげう)の所為ぞと云出だしければ、雪下の本坊に押(おし)寄せけれども、公暁(くげう)はおはしまさず。さしも巍々(ぎゞ)たる行列の作法(さはふ)も乱れて、公卿、殿上人は歩跣(かちはだし)になり、冠(かうふり)ぬけて落(おち)-失(う)せ、一千-余(よ)-騎(き)の随兵等、馬を馳(はせ)て込(こみ)-来(きた)り、見物の上下は蹈(ふみ)-殺(ころ)され、打(うち)-倒(たふ)れ、鎌倉中はいとゞ暗
こんにちは。もみねっこの阿闍梨晶瑞です同じ景色を見ているようでも、人によって「世界の見え方」は違います。朝、雨が降って「今日最悪…」と思う日もあれば「今日はゆっくり歩けるな」って思える日もある。外側の出来事は同じなのに、心の状態で“世界”が変わってしまうんですね。仏教では、この心と現実のつながりを因果(いんが)と呼んでいます。🌿心にまいた種が、現実に現れる因果というと“悪いことをしたら悪いことが返る”そんなイメージがあるかもしれませんが、本来
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十三きみは「不動明王」を見たか③ところで、回峰行者の本尊とする不動明王は、右手に剣と左手に索をもち、目をカッと見開いた忿怒の相の恐い仏像である。仏さんにも序列がある。仏の最高位が如来。これは悟りの境地の仏で、次が菩薩。これは如来と同じ境地には達しているが、まだ修行の位。この如来と菩薩の働きを助けるのが明王で、仏道修行を邪魔する悪鬼悪獣などを叩きのめして追い払うのが役目。不動明王は、サンスクリット語で、アチャラ・ナーダといい、正しくは不動尊。降三世、軍荼利、大威徳、
こんにちは。もみねっこの阿闍梨晶瑞です季節が変わるように、私たちの心も、体も、人間関係も、気がつかないうちに少しずつ変わっていきます。仏教では、この“すべては変わる”という当たり前の事実を無常(むじょう)といいます。お釈迦さまは悟りのあと「この世のものごとは、つねに流れ続けている」と静かに説かれました。でも、それを“寂しい話”としてではなく、「だからこそ、今日を味わおう」という優しい励ましとして伝えています。🍃「変わっていく」って、なんでこんなに気に
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十二きみは「不動明王」を見たか②宗祖最澄の考え方は、「顕密一致」の実践哲学である。顕教であるこの「法華経』の精神と不動明王を念じる密教色の濃い山岳信仰とが重なって、千日回峰行が生まれた。中国の天台大師智顗(五三八~五九七)の著した『摩訶止観』に、「歩々・念々・唱々」という言葉がある。ひたすら歩け。ただただ念じよ。そして、お経・真言を唱え続けよ。まさに回峰行者の修行は、この端的な言葉で表わされている。『酒井雄哉大阿闍梨の世界五十一』酒井雄哉大阿闍梨の世界五十一き
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十一きみは「不動明王」を見たか千日回峰行を一言でいうならば、それは「常不軽菩薩の行」であるという。前項で紹介した相応和尚の夢告は、つづめていえば、『法華経』の「常不軽菩薩品」に出てくる「不専読誦、但行礼拝」ということになる。経を読むことを専らにせず、ただ礼拝行に徹する。天台の教えに「山川草木悉有仏性」という言葉があるが、山や川、草や木、石ころまで、全てのものに仏性があるという考え方だが、その生きとし生けるもの、全てを礼拝して歩くというのが千日回峰行なのである。宮
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十千日回峰行はいつ始まったのか③行満せば不動明王本尊となり一切災殃を除くべし、、、、このようなお告げがあり、巡礼の苦行を満じた時、行者は不動明王そのものになるといわれたのである。こうして、東塔の無動寺谷を根拠地にして、比叡山巡拝の修法を編み出し、更に比良山系の山林抖欺にも足を伸ばし、現在の回峰修験の基礎を確立したのである。ところで、比叡山には古来から「三塔十六谷」という言い方がある。三塔とは東塔、西塔、横川をさし、それぞれに、横川をさし、それぞれに、(東塔)
昨晩、、、、。何だか変な感じがしてました。何かが部屋に来ている雰囲気、、、、。昨日の夢、、、、、沢山の花を咲かせた菩提樹と、蓮の花が沢山輝く場所で、、、、、色んな菩薩やら、仏さんが沢山出てくる、、、、。不思議な夢、、、、。朝5時、神棚、仏壇等々、日課を修めて、、、、。なんだか仏壇の雰囲気がおかしい、、、、。感じたことない雰囲気でした、、、、、。今日お昼、、、、仕事していると、例の阿闍梨の携帯から着電、、、、。またメソポタミアやら、そういう話かいな、、、
酒井雄哉大阿闍梨の世界四十九千日回峰行はいつ始まったのか②円仁はその様子を黙って見ていた。その若い僧は、後になって千日回峰行の始祖といわれる相応和尚(八三一~九一八。建立大師)であった。相応和尚は、十五歳で鎮操というお坊さんに連れられて、比叡山に入山した。『法華経』の勉強をするうちに、その中の「常不軽菩薩品」に感銘を受け、なんとか常不軽菩薩の境地に達したいと、先のような礼拝行を続けていたのである。この行が円仁に認められ、相応和尚は円仁から「不動明王法」「別尊儀軌護摩法」などの秘法を授けられ
自己流二千日回峰早朝修行今日で985日達成千日回峰まで後「15日」この記事への広告は全てお断りします❣皇紀2685年12月1日(月曜日)午前2時30分起床午前6時山頂到着午前8時帰宅14キロ~15キロ徒歩数約25、000歩今年の目標千日回峰まで後18日修行の道は甘くない愚直に山頂を目指しなんだ坂こんな坂六根清浄六根清何故二千日回峰早朝修行を始めたのかそれは安倍晋三総理
P1512(三八ウ)アキ十二〔白河院三井寺頼豪ニ皇子ヲ被祈事〕白河院御在位ノ時、六条右大臣顕房ノ御娘ヲ、京極大殿猶子ニシマヰラセサセ給テ入内有シヲバ、皇后宮賢-子ノ中宮ト申シキ。其腹ニ皇子御誕生アラマホシク被思食テ、三井寺実蔵房阿闍梨頼豪ト聞シ有験ノ僧ヲ召テ、皇子誕生ヲ祈申サセ給フ。「御願成就セバ、勧賞ハ乞ニヨルベシ」ト、被仰下一タリケレバ、頼豪「畏テ承ヌ」トテ、肝胆ヲ摧テ祈念申シケル程ニ、カヒ<“シク中宮
おはようございますdining&styleの山本侑貴子です昨日は塩沼亮潤氏の講演会に伺ってきました<塩沼亮潤氏略歴>昭和43年、宮城県仙台市生まれ昭和62年、吉野山金峯山寺で出家得度過去1300年で二人目となる、一日48kmの険しい山道を千日間歩き続ける「大峯千日回峰行」を満行。その後、9日間の断食・断水・不眠・不臥の中、20万編の御真言を唱え続ける「四無行」を満行する。また、百日間の五穀断ち・塩断ちの前行の後、「八千枚大護摩供」を満行。大峯千日
酒井雄哉大阿闍梨の世界四十八千日回峰行はいつ始まったのか宗祖最澄の弟子に円仁(七九四~八六四。慈覚大師。第三世天台座主)という高僧がいる。十五歳で最澄の弟子になった円仁は、比叡山で次第に頭角を現わし、承和五年(八三八)から約十年間入唐し、その間、師の意志を継いで天台教学を学ぶ一方で、密教、浄土教の研鑽にも励み、同時に五台山巡礼も積極的に行なっている。その間の仔細は自ら著した『入唐求法巡礼行記』に詳しいが、ともかく山岳修行、巡礼のルーツともいうべき五台山での巡礼修行も体得して、艱難辛苦の末