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小豆島八十八ヵ所第三十七番札所洞雲山・福生院・明王寺本尊:不動明王伝空海作(行基作ともいわれてる)宗派:開創:正安三年(1301)開基:阿闍梨弘山上人住所:香川県小豆郡小豆島町池田4305電話番号:0879-75-0474納経所:当寺由緒寺伝によると、慶雲年中(704~)僧行基が南海道を教化の途次、この地に草庵を結んで掛錫(かしゃく)された。のち空海が留まり、不動明王を謹刻して安置したのが創まりであるという。島史には、正安三年(1301)に阿闍梨弘山が開基
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者136雄哉は、日頃、いろんなことを懺悔したり、皆が幸せになるにはどうしたらいいんだろうと考えながら、ただひたすら、拝み続けている。雄哉の人生は、うまくいかないことの連続だったと自戒する。ぐるぐるぐるぐるしているうちに、最終的に仏さんの世話になるようなところに放り込まれちゃった口に出す。人生はいったい、何だろうなあ、と時々思う。人はついその時その時のできごとで、喜んだりガッカリしたりしてしまうが、おそらく、人それぞ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者137雄哉がかねてから行ってみたいと思う国にブータンがある。本などを読むと、ブータンの人たちは、いまだに輪廻転生の世界観の中で生きているそうだ。たとえば、目の前を野良猫が通りすぎたとしても、ブータンの人は、この猫は何代目かのご先祖の生まれ変わりかもしれないと考えるという。決していじめない。蚊がいても叩いたりしないで、飛んで行くまでじーっと見ている。目の前の蚊も、足元にいるアリも、もしかすると自分たちの親類だったか
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者135ひどい話しである。その時、雄哉と父岩吉は目の前が真っ暗になった。そういう時代だったのかもしれないがな。しかし、どんなひどい目にあっても、時間がたてば必ず、いろいろなことがあったなあ、と思える時が必ず来ると雄哉は言う。後になってから意味が分かることもある。だから、あせることも、自分はだめだと思うこともない。目の前のことをただ、一生懸命やるだけだ。人生はその時だけじゃないんだって言い聞かせたて。ラーメン屋ができ
❖何が原因なのかを一生懸命考えている大正十五年(一九二六年)、大阪で生まれた酒井雄哉氏、現在の酒井大阿闍梨を、私たちは親しみをコメテ阿闍梨さん、と呼んでいる。その阿闍梨さんが五歳のときに、父親は事業に失敗し、夜逃げ同然で東京へ引っ越した。それからも旧制中学の受験に失敗し、特攻隊として死を覚悟しても出陣の機会はなく、多くの仲間の死をただ見送るだけだった。戦後、東京で始めたラーメン屋は原因不明の火災で廃業に追い込まれ、株屋をしても大暴落にあい膨大な借金を背負った。結婚一ヶ月後に妻が家出をし
◇常行三昧、二河白道を歩く、、(酒井雄哉大阿闍梨)昭和四十八年六月一日、酒井阿闍梨は九十日間の「常行三昧」に入った。場所は西塔にある「にない堂」で、ここは釈迦堂を背景にして朱塗りの宝形造りの堂が、双子の堂のような形で並んでいる。右側が法華堂、左側が常行堂で、文禄四年(一五九五年)建立と伝えられる。にない堂は杉木立の静寂の中にある。周囲の苔の緑が美しい。恵心僧都源信の流れをくむ浄土真宗の宗祖・親鸞も、かってはこの常行堂の堂僧であった、と伝えられている。酒井阿闍梨が常行三昧を発願したとき、高
◇人生こそ無始無終の行、、(酒井雄哉大阿闍梨)二千日回峰を満行した、酒井阿闍梨は今、深い感慨の中で、「天台宗に偶然拾われて出家し、行というものにめぐり逢えたからこそ、わしのような『落ちこぼれ人間』もここまでこれたんや」と仏縁に感謝し、「人生こそ無始無終の行」という。「行には、始めもなければ終わりもない。死ぬまで行をやるだけだ。回峰行は人生の旅と同じで、谷もあれば山もある。雪や雨の日もあれば、爽やかな日もある。人生と同じや。そのときそのとき精一杯生きていれば、その人の人生にとってマイナス
◇堂入り①(酒井雄哉大阿闍梨)いよいよ、千日回峰の行のなかでも一番の荒行といわれる「堂入り」である。無動寺回峰では天正年間以来、四十五人がこの「堂入り」を満行してるが、飯室回峰は永く絶えていたばかりでなく、「堂入り」するお堂がなかった。飯室回峰の酒井阿闍梨の堂入りをどうするか、先達会議が開かれた。いくつかの古い書類も持ち出されたが、無動寺のなかに「七百日以降は本流に従うべし」という一項目が記されていた。先達会議の結果「堂入り」八百日目の「赤山苦行」「京都大回り」も無動寺谷で行なうことに決定
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者77雄哉は二千日回峰行を満行した後は、なにも考えていなかった。まわりは「どうしますか、今どんなことをお考えですか」って聞くが、「今日で終わったのかなあ」という感覚だった。たとえ『生き仏』と崇められても『大阿闍梨』の称号を授けられても何も変わらないのである。人からすごいと思われたくもない。雄哉のところに来ると、みな力が抜けてしまう。会う前は『なんだかすごい坊さんらしいぞ』なんて思って、ガチガチになってやってくる。気
こんにちは。もみねっこのあきこです梅雨の時期に入りましたこの時期になると、なんとなく気分が晴れなかったり、頭痛やだるさ、眠気が続いたりすることはありませんか?「なんかやる気が出ないんです」「身体が重くてしんどいんですが何かついてませんか?」とかお客さんも不調を訴える方が増えてます梅雨がもたらす体調への影響として*気圧の変動と自律神経・気圧が下がると「交感神経」が優位になりにくく、やる気が出ない・頭痛・肩こり・めまい・眠気などの不調が出やすい*湿度
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者134雄哉は、ある日戦後、父親が始めた荻窪駅前で始めたラーメン屋のことを思い出した。朝の八時ごろから仕込みをして仕入れをして、十一時に店を開く。そのままずーっと夜中まで営業する。終電車を降りて来る人たちはみんな酔っぱらい、なかなか帰らないで深夜三時ごろまでいる。ようやくお客が帰ってから店を閉めて、火を落として掃除して。それから寝て、朝八時には仕事が始まる。そんなふうにして、毎日やっているから、あっという間に月日が
☆【外伝】高倉健と二人の阿闍梨京都に、西村泰治(敬称略)という実業家がいる。酒井雄哉大阿闍梨が二千日回峰行をする時に『京都大廻り』の際に、先導を勤めた人である。その破天荒な人生は、前の記述で紹介したが、酒井阿闍梨に心酔した一人である。通称「ヤッさん」、昭和のスーパースター、「高倉健」の付き人を四十年以上つとめてきた男でもあり、芸能界の裏側を知り尽くした男でもある。令和二年、高倉健七回忌にあたり、ベストセラー・フリーライターである山平重樹が著した、『高倉健からアホーと呼ばれた男西村泰
☆【外伝】『高倉健と二人の阿闍梨』酒井雄哉阿闍梨と『魂の交流』、、御前様永らく御無沙汰致しました。半年振りに仕事をする事になり今日京都に着き御会い出来るのを楽しみに来ましたが御不在なので残念です。留守中なのに御瀧を受けさて戴きます。御許し下さい。御身体になにかあったのではないかと案じて居ります。近日中に又参ります。その時を楽しみに。六月二十五日夜八時半高倉健この手紙を、ヤッさんがおよそ四十五年ぶりに目にしたのは、健さ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者132人間は、神様や仏様に、この世に生かしてもらっているが、神様や仏様に頼ってばかりの、他力本願では自分の役割は果たせない。人生の節目になると、神様や仏様に拝みに行く人が沢山いる。『受験に合格しますように』とか、『いい会社に就職できますように』などと、みな一生懸命拝んでいるが、ただ拝んでいるだけでは、うまくいかない。神社の絵馬に『受験合格祈願』と書いて『もう拝んだからいいや』と思って遊びに行ってしまったら、受かる
伝法灌頂に入壇を許されるまでは、グイグイグイギュイーンとモーレツな、見えない後押しに流され流されるがままに定位置に導かれた。スポン!思い返せばそのような感じでした。師資相承それは真言密教における絶対的なルールです。お大師さんから、この約1200年有縁の師僧から代々お次第と口伝により脈々と法が伝えられてきました。この世界での師僧は、実に巡り合わせ。お大師さんに繋いで貰わないと最適な師に出会えないと思います。以前、天台宗のお坊さんとの話で『僕は大学
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨一章正井観順津軽の覚蔵⑤観順が比叡山に登り、山岡観澄師の下で修行に明け暮れ千日回峰行への道を志した時期、戦後比叡山に大きな足跡を残し今日の比叡山延暦寺の礎の一人の僧がこの世に産声をあげた。一八九五年(明治二十八年)十二月一日、その地は、聖徳太子ゆかりの町・兵庫県太子町。横川元三大師堂の輪番を長く務め、朝から夕刻まで一日中お経を唱え続ける『比叡山三地獄』の一つ、『看経』を七年間続け『漢語法華三部経を全て暗記し、ソラで読誦する』といわれた、
ご無沙汰しておりますちょっと色々と大変なことも起こり、立て込んだ日々が続いていました。あっという間に秋になりましたね修行日記の方はまったく進んでいなかったのですが、得度→受戒→そのあと遂に伝法灌頂に入壇しました。伝法灌頂の前月には高野山に5日間ほど泊まり込みで教師試験の勉強会があり、各科目において錚々たる先生方から素晴らしく内容の濃い授業を受けました。これは私自身の視野を大きく広げ、また人生を変えるほどの勉強会でした。最後の日に、教師試験とはこれまた別の
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者133雄哉は行者である。だから、行について、よく聞かれる。『千日回峰行』という行は、山を千日間ぐるぐると歩く。山の中に拝む場所がいくつもあって、そこで仏様を拝んで戻ってくる。千日間のうち七百日の回峰行が終わると、『お堂入り』、『お堂入り』では、九日間なにも食べないで、水も飲まないで、寝ないで、横にならないで、お経を十万遍唱える。ずっと眠れないし、水も飲めないから、よく、『眠るのと、水を飲むのと、どっちが大切ですか
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者④不動行者が相応しい、無動寺谷にいきなされ、、作を一目見ただけの大角実田は何をかんじたのであろう。作の心の奥底に眠る真の姿を感じとったのか、、事務所に戻ってきた作を、中山師は無動寺谷宝珠院につれて行った。そこには、三千日回峰行を目指す『奥野玄順大阿闍梨』がいるのである。宝珠院は二千日回峰行を経て玄順が再興した自坊であり、酒井雄哉が最初に住職を拝命したところでもある。しかし作は、僅か一日で放り出されてしまう。
◇幻の常行三昧(酒井雄哉大阿闍梨)酒井阿闍梨は百日回峰を無事に終ると、次の行に入ることを義務づけられていた。三年籠山中に果たさなければならない修行として、祖廟浄土院での侍真奉仕、百日回峰、そして「四種三昧」のうちから「常坐三昧」か「常行三昧」のどちから一つ、この三つが定められている。四種三昧とは、比叡山で最も歴史的が古く、基本的な修行で、「常坐三昧」「常行三昧」「半行半坐三昧」「非行非坐三昧」の四種をさす。これは天台宗の高祖、中国の天台大師が法華経の修行法を説いた「摩訶止観」に示されている
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨一章正井観順津軽の覚蔵④二代目仙台藩藩主伊達忠宗公が地元に東照宮を勧請した際に、その別当寺として開山し、奥州平泉中尊寺別当をも兼ね、神仏分離令後は東叡山寛永寺の末寺として由緒ある寺格を持つ、眺海山康国寺仙岳院。覚蔵は地元神宮寺の和尚の紹介状と共に携え、一八九四年(明治二十七年)四月黒石を出た。首から下げるのは父母と一昨年に亡くなった姉のお骨を下げていた。東京浅草の浄土真宗東本願寺派本山東本願寺に納骨の為であった。正井家と宇野家の先祖に
『理趣経』松長有慶著を施本したがもう手に入らないと嘆くお寺さんどうやらamazonや古書で手に入るようです理趣経は密教経典であって阿闍梨の口授も無く一般在家の者が唱えたり読んだりするべきものではないとされていますただ常用経典ですので普段、誰もが法事や葬式などで耳にすることのできる真言宗のお経です比叡山の最澄法師と弘法大師さまのやり取りで『理趣釋経』と言う理趣経の解説書を巡っての出来事が有名ですが弘法大師さまが「貸してやらない」と言って喧嘩別れした
◇百日回峰が終る、(酒井雄哉大阿闍梨)初日を終え、翌日から一人きりの回峰となった。漆黒の闇の世界を、小田原提灯の火一つで歩くのは、得体の知れない恐怖に襲われる。自分の足音が妙に大きく聞こえる。峰道を登るとき、ガサッと音がした。野兎が駆けて行った。酒井阿闍梨は「手文」を見ては、礼拝し、真言を唱え、印を結ぶ。とにかく前へ進まなければならない。同じ時期、酒井阿闍梨を入れて五人の新行さんが百日回峰を行っていたが、回峰行は一人でやるものだから、毎朝それぞれが時間をずらして出峰して行く。しかし、三十
◇箱崎文應②(堂入り酒井雄哉大阿闍梨)「俺は坊主にもなれない人間なのだろうか。この山の坊主は、どうして俺の気持ちをわかってくれないのだろう。もう俺には帰る所がないんだ。もしこの山で坊主になれなければ、、」中山玄雄師によって無動寺谷宝珠院につれられて『奥野玄順大阿闍梨』に引き合わされた箱崎師、「寺男」として使ってもらえることになった。寺の雑役である。三千日回峰行中に足を痛めた奥野大阿闍梨は、籠で毎日三十キロの山道を歩くことになり、箱崎師は、奥野師の乗った籠の先棒をかついで回峰道を歩く役
❖『一日一生』ってどういうことですか『人は毎日、生まれ変わっとる。だから、良きにつけ、悪しきにつけ、すべて今日で終わりや。今日が始まったときに、今日ですべてが終わる気持ちで日々生きろ。朝起きれば、それが新しい誕生や』阿闍梨さんは、よく「一日一生」という言葉を口にしていたし、求められて色紙に書いたりもしていた。今では、俺の座右の銘にもなっているこの「一日一生」も、かっての俺には縁遠い言葉でしかなかった。いつも言うてる「一日一生」ってどういうことですか?『人は毎日、生まれ変わっとる。朝お気
◇火焔の十万枚大護摩供、、(酒井雄哉大阿闍梨)紅蓮の炎が燃え上がり、酒井阿闍梨が祈禱しながら護摩木を投じると、火焔はさらに天井まで焼きつくすかのように凄まじい火勢でめらめらという音をたてた。「ナーマクサーマンダーバーサラナンセンダンマーカーロシャナソワタヤウンタラターカンマン」信者たちが唱和する真言が、一大合唱となってそれに和する。一つひとつ護摩木に込められた衆生の祈願を声に出して読みあげ、それを火焔の中に投じる阿闍梨の顔は、真っ赤に炎にそまり、さながら生きた不動明王を彷
阿闍梨【外伝】一隅を照らす❖ご縁とは引用天台宗公式サイト法話集「ご縁」とは護摩木や祈祷札の願意を拝見いたしますと「良縁成就」と書かれてあるのをよく見かけます。また「悪縁断絶」などというものもあります。「縁結び・縁切り」。良いことは自分に来るように、悪いことは自分には来ないようにというのは、誰もが共通した願いでしょう。この「縁」という言葉は「縁起の法」「十二因縁」などといい、お釈迦様が悟りを開かれて最初に弟子たちにお説きになった根本教理の一つ、悟りの内容そのものであります。「
私は、奈良市の高畑の志賀直哉邸の隣で生まれ、もっぱら飛火野が遊び場で鹿が遊び相手でした。幼稚園から豊中市桜塚に引っ越しし、小学校5年まで過ごしましたが、妹と母が立て続けに病で亡くなり、なにかの力に引っ張られるかのように父の実家がある奈良県橿原市今井町の祖母のもとに一人預けられ育てられました。小学校の転向に戸惑いがありなかなか馴染めませんでした。そんな時、いつも影日なたとなって励ましていただいたのが、豊中の家に拝みに来られていた延暦寺で千日回峰行を達成された大阿闍梨・葉上照澄先生でした。
当山の組寺でもある武蔵国分寺の中興第29世住職星野亮雅大僧正が5月11日に91歳でご遷化なされました。私が発心したきっかけを作ってくれた事相の勉強会にお誘いいただいたお方。その勉強会は声明や悉曇の事相を孤嶋由昌教授阿闍梨をお迎えして学ぶ場を発足提供していただいたお方。星野さんがいらしたこそ、孤嶋先生に教わる機会を得たということで、私の僧名をお二人のお名前の一字ずつ頂いて亮昌としたいわれがあります。法話の達人と言えるほど、法話がお上手だった。平成7年の当山本堂落慶の折に、慶讃法話
真言密教阿闍梨でもあり、修験行者でもある宝珠庵庵主宝珠様から秩父曼荼羅小屋の秩父観音霊場巡礼についてとても丁寧なレポートを頂きました。巡礼とは。神仏と如何に向き合うか。秩父観音霊場の巡礼に興味のある方。是非読んでみてくださいませ。合掌武尚院峯龍宝珠様の記事は此方から↓↓↓秩父曼荼羅小屋HPhttps://chichibumandara.jimdofree.com/