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❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者77雄哉は二千日回峰行を満行した後は、なにも考えていなかった。まわりは「どうしますか、今どんなことをお考えですか」って聞くが、「今日で終わったのかなあ」という感覚だった。たとえ『生き仏』と崇められても『大阿闍梨』の称号を授けられても何も変わらないのである。人からすごいと思われたくもない。雄哉のところに来ると、みな力が抜けてしまう。会う前は『なんだかすごい坊さんらしいぞ』なんて思って、ガチガチになってやってくる。気
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨四章酒井雄哉の足音7『勝手に自分で学ぶしかしょうがない』これは弟子の藤波源信行者に向けて発したもの。自分に厳しい阿闍梨は、また弟子にも厳しい。『何かをするのは辛くないことはない。何をしたって、普通に生きていくことだって辛い世の中、それを承知で皆生きている。弟子の藤波も行をすると決めたなら、他の道にとらわれないで、ただその道をひたすらに進んでもらったらそれに越したことはない』と、阿闍梨は言う。その阿闍梨には、三人の師がいる。比叡山の仏門に
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨四章酒井雄哉の足音28人が信じ合うって、ほんとうかなあ?『そう思うなら、それはそれでええ。でも、今はまずワシを信じろ!それができんかったら、何も身に付かん!』雄哉の言葉である。宗教には、いろんな宗派がある。どんな宗教だって、年月を経ればいろんな解釈が生まれて、現実に合わせて独立者が出てくるのは分かる。会社から独立するヤツもいるし、のれん分けで自分の店を出すヤツもいるから。しかし、キリスト教から分派しても最終的にはイエスに帰依することは変
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者54『生き仏さまがお出ましになる』明王堂の鐘が鳴りひびき、正面の大扉が軋む音をたてて開かれた。信者たちが一瞬どよめき、それから水をうったようかな静寂になった。雄哉は蓮華の葉をかたどった笠を手にして、ゆっくりとした足どりで再びこの世に生きて還ってきた。信者たちの間に声にならない感嘆の波がうねり『生き仏』を迎える真言の唱和が鐘の音とともに、いつまでも無動寺谷にこだましていた。ミカと美佐子は、ただただ数珠を握りしめて、
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十七酒井雄哉二千日回峰行の記録前項で「三百九十年ぶりの飯室回峰」と書いたが、実は、この久しく絶えていた飯室回峰の復興を願って百日回峰を満じたのが、酒井阿闍梨の師匠である箱崎文応師であった。昭和十五年九月に、無動寺回峰を千日満行した箱崎師は、昭和十九年に古い回峰手文を見ながら百日の飯室回峰を満行した。だが、昭和四十九年、酒井阿闍梨が千日回峰を決意し、無動寺谷から飯室谷に移ってきた時には、箱崎老師は八十三歳になっていた。先達を務めることができず、酒井阿闍梨に回峰コースを