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勝ち目が薄いと分かっていても、自分の役目を最後まで果たそうとする人がいます。1600年8月22日、関ヶ原の戦いに先立つ竹ヶ鼻城の戦いが起こりました。城主・杉浦重勝は、最後に残った30余人ほどと戦ったと伝わります。なぜ重勝は城に戻り、最期まで守ったのでしょうか。小さな城で示された覚悟を追います。竹ヶ鼻城は木曽川近くの重要な城だった竹ヶ鼻城は、現在の岐阜県羽島市にありました。木曽川を越えて岐阜へ進む道を押さえる場所です。城主の杉浦重勝は、岐阜城主・織田秀信の家臣で
大きな勝負では、全員がそろうまで待つべきか、先に動くべきか迷います。1600年8月21日、東軍の福島正則や池田輝政らは清須城を出発しました。目標は、西軍の織田秀信が守る岐阜城です。関ヶ原本戦の前に、すでに主導権をめぐる戦いは始まっていました。東軍の一歩から、先手を取る意味を見ていきます。東軍は清須城に集まり、岐阜を見ていた徳川家康が上杉景勝へ向かっている間、石田三成が挙兵しました。東海道を進んでいた大名たちは、小山で家康側につくことを決めます。福島正則や池田輝
「もう少し様子を見よう」と考えているうちに、動く機会を失った経験はないでしょうか。戦国武将の朝倉義景も、決断の時期に苦しんだ人物です。1573年8月20日、義景は大野で自害しました。越前を治めた名門・朝倉氏は、なぜ急速に滅びたのでしょうか。義景の最期までを追うと、早く決めることの大切さが見えてきます。朝倉義景は越前を治めた5代目当主朝倉義景は1533年に生まれました。1548年に家督を継ぎ、越前の一乗谷を拠点にします。一乗谷は京都の文化を取り入れた豊かな城下町
徳川家の繁栄を支えた16人の戦国武将を「徳川16神将」と言います。その中のひとりが、弓の名手「内藤正成」です。弓の腕前は戦国の世においてもピカイチ。その凄腕は「戦況を変える」とも評され、1人で200人と戦ったとも言われています。菖蒲に約5000石の領地を与えられた内藤正成は、現在の栢間小学校の地に陣屋」を構えました。内藤正成は、間もなく生誕500年を迎えます。是非、久喜市としても盛り上げていきます。
私は学生の頃、歴史が苦手でした。というより、どちらかというと嫌いだったんです。年号はなかなか覚えられないし、「これは何の戦いだったっけ?」と、いろいろな出来事がごちゃごちゃになってしまう。そんな私が、今では大河ドラマを楽しみに見るようになりました。きっかけは、主人との出会いでした。主人は地理や歴史が好きな人。一緒にいろいろな場所へ出かけると、「ここは昔、こういう人物が、こういう理由で建てたんだよ」と、その場所にまつわる話をしてくれます。ただ建物を見るだけだった私も、そん
夏休み中⋯4時間だけ社友と外出ひつじ珈琲(大田原市)ひつじ珈琲公式かかりつけの焙煎士がいるお店hitsuji-coffee.comココはハーモニーホール店なんてイイ眺めなんだ(≧∇≦)bあんバターイマイチ(^_^;)次に向かったのが⋯茶房花苑(那須塩原)花苑kaenn.com自分はレモネード蓬餅2個食べました〜つづいて⋯腹いっぱいで雑貨屋リクエストしたら⋯戦国武将ショップ2号店🤣潰れてんじゃないの那須戦国武将
熱い名古屋最高夏はこうでなくっちゃ…汗だくです本多忠勝フェスでは「戦国甲冑展」も同時開催!大河ドラマで実際に使用された戦国武将の甲冑と、グラフィックデザイナー福田彰宏氏による本多忠勝の生涯をたどるパネル展示で、徳川家康、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政、豊臣秀吉の甲冑が展示されます!#本多忠勝#甲冑pic.twitter.com/c3cFf58TVO—住吉浦休憩施設(@987sumiyoshi)2026年8月18日なんと桑名の本多忠勝フェスで金陀美具足が!期間:8月1
③二連木城趾(大口公園)の霊性に圧倒され四半世紀。戦国城址を買上げて果樹園と草庵を建てた男の執念と霊性の正体とは。私の中で疼く「虫中枢」の正体。それは、土塁に立つ巨木のウロ(樹洞)で、65ミリを超える通称「バケヒラタ」をいつかこの手で発見するという、半ば執念に近い夢のせいだったのかもしれない。この二連木城址の空間に足を踏み入れた途端、その衝動はいつも最高潮に達する。実を言えば、四半世紀もこの場所で調査を続けながら、これまでただの1匹もクワガタを採集できたことはなかった。しかしつい最近、私は
②二連木城趾(大口公園)の霊性に圧倒され四半世紀。戦国城址を買上げて果樹園と草庵を建てた男の執念と霊性の正体とは。私にとってこの「執念」という二文字は、単なる歴史上の抽象概念ではない。私の幼少期の記憶に深く刻み込まれた、一つの強烈なトラウマ体験と切っても切れない形で結びついている。昭和40年代のはじめ、私がまだ小学1年か2年頃のことだ。近所の砂場で遊んでいた際、同じ町内に住む少し年上の「大口君」のおもちゃのプラスチック製双眼鏡に、私が傷をつけたと言い掛かりをつけられた。私にはまったく身に覚
①二連木城趾(大口公園)の霊性に圧倒され四半世紀。戦国城址を買上げて果樹園と草庵を建てた男の執念と霊性の正体とは。私がこの二連木城趾(大口公園)に通い詰め、そこに漂う圧倒的な気配に魅了されるようになってから、気が付けば四半世紀という歳月が流れていた。つい先日、この公園のすぐ真横に建つとある有名施設に、大阪府警が大勢でガサ入れに入ったという物騒なYouTube動画が出回り、にわかに騒がしくなったのも記憶に新しい。しかし、そんな世間の喧騒などどこ吹く風で、私は今年も例年通りの「儀式」のためにこの
昨日はドクターイエローの上り運行が有りました来年1月に黄色先生は引退なんで来年のひまわりの時期はもう大垣ひまわり畑で黄色先生を撮れないと言う事で、これが最後の日だったこともあり物凄い人出だったそうですねSNSで見ましたがパトカーや救急車も出たそうでまるで狂騒曲状態ですねさて、前回のブログでも触れましたが遅ればせながら私もChatGTPの「ちゃとりん」を使って昔撮った白黒写真をカラー写真化して楽しむようになりましたChatGTPのことを「チャッピー」と呼ばれてい
大きな仕事を成しとげても、その後を任せる人が育っていなければ、組織はゆらぎます。戦国時代の天下人、豊臣秀吉も同じ問題を抱えていました。1598年8月18日、秀吉は伏見城で63歳の生涯を閉じます。残された後継ぎの秀頼は、まだ政治を動かせる年齢ではありませんでした。秀吉の死から、わずか2年後には関ヶ原の戦いが起こります。天下をまとめた秀吉は、なぜ豊臣家の安定まで残せなかったのでしょうか。今日は「後継ぎを育てる大切さ」という視点から見ていきます。1598年8月18日、
私もそんな『高校野球戦国武将』の母に慣れていった生ぬるいことを言う人に対して甘いだろ何をぬるいことを言ってる野球は結果が全てだから結果が出なかったら努力が足りないか努力の仕方が違うんじゃないと思うようになった光晟と一緒に闘おうと思った負けていられない‼️苦しみの先にあるものは必ず明るい結果が待っているそんな気持ちで高校野球を根性でやり切ろうと思った
こんにちは~~(^^;)MANTAでございます~~。とにかく匠の技、「天晴」と、言うのも、先の熊本地震で、確かに、石垣は何か所が崩れましたが、けれども本体の熊本城天守閣は大きな被害なし。これにはさすがに日本古来よりの建築。と、言うよりも、先人の匠の技。としか言いようがない。震度7にも崩壊しなかった。どれだけの強度があるのか。と、言うか、「造り」なのでしょうね~~。ま、確かに、火災には…、どうする事も出来ない、とは思いますが…。熊本城と言えば、戦国武将の加藤清正が築いた
はじめてやったアフェリエイト。1回目にしたら良いかも。5回位投稿で今回初めてで、2700円位入ってきました。ちょっと興味あったら、見てみて。戦国好き歴女とか、いいかもね。あなたも戦国インフルエンサーに⚔️✨AIを活用して、新しい挑戦を始めよう!一緒に未来をつくる仲間を募集しています😊👇詳細はこちらhttps://sengoku-ai.com/a/agent_3_794d?project=sengoku-influencer
イケメン親戚君が帰ってった。どこを切り取っても美しい顔、素直で多分人懐っこい性格、若干まねっこで可愛いとなると、接していて楽しくならないワケがない。昨日(てか今日)は、マンション内の書籍が読める空間で、2時とかの未明頃まで一緒に本を読んでたっけ。勉強家ですなぁ。ていうかイケメン君をゲストルームで預かるのを依頼してきた身内が非常にいい加減で困った。今日の13時には少なくともマンションを出ると事前に確認していたので、私はそれ以降の時間に仕事を入れていた。それが突然、時間を1〜2時間だった
ご訪問ありがとうございます40代で結婚した晩婚子なし夫婦の東京下町ライフをゆるく書きつづっています。夫婦ネタ、40代ファッション&美容、お出かけ&グルメ情報など幅広いテーマで更新中♪岡山旅2日めは岡山城に出かけました。黒壁の岡山城は「烏城」と呼ばれます。天守が現存していた頃は国宝だったのですが、空襲で焼け落ちてしまい、今は復元されたお城になっています。だから、現存天守に比べると建物がアミューズメントみありました。ディズニーにあるお城みたいな感じで。
戦国時代の出来事を調べていると、「なぜ、その瞬間に動いたのだろう」と気になることがあります。今日、8月17日の主役は松永久秀です。1577年8月17日。久秀は織田信長のもとを離れ、信貴山城へ向かいました。この決断は、わずか約2か月後の最期へつながります。久秀は何を考え、何を読み違えたのでしょうか。1577年8月17日、松永久秀が天王寺砦を離れる天正5年(1577年)、松永久秀と息子の久通は、石山本願寺を包囲する織田軍に加わっていました。ところが8月17日、親子は担当して
昨年11月から滋賀県の戦国武将ゆかりの城郭や史跡で展開されている大型観光キャンペーン『戦国ディスカバリー滋賀・びわ湖』。その企画の1つとして、県内17ヶ所のスポットを巡って武将カードを集める『近江武将カードラリー』が7/14より開催されています。集めたカードの枚数に応じて特典も用意され、5枚制覇でカードホルダー、10枚制覇で西川貴教・スペシャル武将カード、17枚完全制覇でアクリルスタンドが貰えます。県内全域を回るのは正直厳しいけど、せめて10枚集めて西川の兄貴のカードGE
確かにその時「戦国武将は何をしていたのだろう?」と彼らのプライベートを覗き見したくて本書を手に取ってみました。戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか(ポプラ新書281)Amazon(アマゾン)戦の功績は知る人が多い戦国武将たちだけど天変地異が頻発し疫病も流行り命の駆け引きを常に強いられ戦に傷ついたとて科学的療法も乏しい時代。人間ですからたまにはダラダラとしたい時もあっただろうにそれでは家臣の覇気に関わるということで総じて彼らは自分に厳しく
「町田に安土城の天守があるらしい」と夫から聞き、行ってきました町田駅近くにある泰巖(たいがん)歴史美術館です戦国時代から江戸時代初期に至る古文書、書画、武具、茶器などを中心に展示(パンフレットより)復元された天主や信長の生涯を追った映像、年表もあり楽しめました復元された天主は安土城の近くにある「信長の館」にもありましたねそっちは金ピカで眩しかった記憶があります泰巖歴史美術館に前田利家の書画があったんだけど馬にまたがった利家の持つ槍に首ひとつ、腰回りにも3つの首がぶ
2026年9月よりブログ再開予定です。と言っても、その後の計画は立っていませんけどね。2016年9月より城めぐりを始めて、現在まで、北は東北、弘前城、西は、熊本城と、263城の攻城を果たしました。その間、実の父の死、義理の父の死、実の母の死と悲しいこともありました。会社を退職後、独立して、起業もしました。年も取りました。コロナもありましたね。1回罹患もしました。経験したことのないのど痛と発熱でした。いろいろありました。感慨深いです。今月末より、自動車ではなく、列車の旅で東北を巡る予定です
いなざわ戦国の響き〜大河音楽と講演でたどる信長公生誕の地〜コンサートと講演会は抽選(倍率5倍!)となるなどの大盛況のイベントでした。歴史ロマン、武将好きな方々が多く集まっていたのでは。コンサートの後は、小和田さんの講演会、その後のディスカッションには、クリス・グレンさんの進行で、小和田さんと信長生誕は勝幡城説を唱えられた石田さん。愛西市境でもある勝幡城址、愛西市と稲沢市の協力による取り組みを期待する内容に、会場の方々の盛上げがさらに広がることを期待するものとなりました。8年後には、織
「真偽はさておき、人は一度裏切られれば、その痛みを忘れられるものではない。思えば光秀の胸にも、あの頃より火種が燻っておったのやもしれぬな」「目の前で親とも慕うものが殺されれば、誰しも心に影を宿しましょう」「さもあろう」庭を渡る風が竹を鳴らし、その音に混じって、手水鉢へ滴る水音が静かに響いた。私は暫くその音に耳を傾け、それから口を開く。「秀長、この先の私は、ただ世の移ろいを見届けるだけの身となろう。時というものは、あり余るほどある」「御台様……?」「そうすると、人は色々と考えるものじ
大阪城の企画展示も面白かった。いやー、戦国武将ってオシャレだわ。秀吉が戦場で着ていたとされる羽織は黄色い富士が背面に描かれていて、襟や脇の模様も凝っている刀の鞘や鍔、鎧、兜にも模様が彫ってあり、命をかけた戦場でこんな細かいところのオシャレに気づく人なんているのかいと思うけれど、ここぞという場所が戦場だったのかなぁ。武士によっては季節ごとに鍔を変える人もいたらしい。植物や動物をモチーフにしていて、昔の人の感受性の豊かさを感じた。こんなとき自分に絵心があれば、見たものを絵に表せるの
こんにちは。歴史アロマ香水®を作っています桃龍風林佳保利です。このブログを読んでいただきありがとうございます🙇【念願の熊本へ〜歴史の点と点が線になった旅〜】前から「行きたい❣️」と切望していた熊本へ、念願叶って5月に行ってきました。東京を出発し、熊本に降り立った時はあいにくの雨☔️空港に着いて、まずは温かいだご汁をいただき、ほっこりしたところでバスに乗り込み市街地へ。待ち合わせていた友達と合流し、一路、加藤神社〜熊本城🏯へ。当時の地震の爪痕が残り、現在も修復が続いている場所もあ
僕のクラスには、戦国武将と同じ名前の生徒がいる。武田真言。彼はいつも真剣だ。上杉憲伸。彼は献身的な性格だ。彼らはいつも喧嘩をしている。先生が仲裁に入っても、仲直りしようとしない。やがて卒業を迎えた。彼らは別々の大学に進学していった。三年後、同窓会が開かれたが、彼らは欠席した。【ふるさと納税】【令和8年熊本地震被害支援緊急寄附受付】熊本県災害応援寄附金(返礼品はありません)楽天市場【ふるさと納税】熊本県熊
「上杉謙信と武田信玄の一騎打ちは知っている。でも、合戦が始まるまでの流れはよく分からない」そんな方も多いのではないでしょうか。有名な決戦にも、最初の一歩があります。今日8月14日は、謙信が約1万3,000人を率いて春日山城を出たとされる日です。大軍を動かす準備と、出陣を決めた理由を知ると、川中島の戦いがもっと立体的に見えてきます。1561年8月14日、謙信が春日山城を出陣永禄4年(1561年)8月14日。上杉政虎、のちの上杉謙信は、越後の春日山城から信濃へ向かったとされます
『【ニャン寺六徳】6人のキャラクターに込められた意味|智・慈・笑・純・護・導』『シリーズ登場人物(五分でわかる登場人物動画を追加)』ご好評頂いております、住職シリーズ!時々やろうと思いますが‥画像が重たいので、登場人物(予定)も含めて、…ameblo.jpトラ住職、ホワイトボードに大きく、「長府毛利家」トラ住職。「長府毛利家の祖は、毛利秀元。毛利元就の孫だ。」ジャンジャン和尚。「毛利元就なら知っているであります!」メルタン住職。「ほう。」ジャンジャン和尚。「三本の矢!!」
まず丹波塚をお参りするようになって最初に思ったことは、戸田松平家の初代藩主であり名戦国武将戸田康長公の塚がひっそりとあがたの森にあって、その塚の隣には五輪塔が四つ、その他に碑などがいくつか。そもそも門があって入れないから柵の向こうにしか見えずw(写真では見れます。参照〈国宝松本城を世界遺産に〉より)何度もお参りしているうちにオレは考えた。後戸田松平家の六代目藩主・光行公は初代の初代戸田康長公に対しての思い入れが相当強かったのではないか、でなければわざわざこのようなフォーメ