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❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者71朝の会のメンバーは約十五人。「西村君、今度京都大廻りするから来てくれ」と雄哉にいわれたとき、西村は身ぶるいするぐらいうれしかった。それでも元気にお伴する朝の会と息障講の人たちの間に、いささかトラブルが生じたが、それをまとめたのはやはり渡辺だった。渡辺は、葉上照澄師のお伴をしたのが最初で、それ以来、勧修寺信忍、叡南覚照、小林栄茂、宮本一乗、光永澄道、内海俊照の各師と今回の雄哉を含め、戦後九人のうち八人までの阿闍
こんばんは。ご訪問くださり、ありがとうございます。こちらのブログでは、基本的には腎不全や腹膜透析のかたに何らかのお役に立つと思われる情報を書くようにしております。今日は、病気平癒祈願などとの関係で、霊験あらたかな生き仏と言われる、比叡山の千日回峰行者の大阿闍梨様による護摩祈祷とお加持を受けられる比叡山の千日回峰行者特別祈祷と、比叡山無動寺谷明王堂の護摩祈祷についてご紹介します。※昨年の記事に、今年の変更点を加筆修正して再アップしております。【千日回峰行者特別祈祷について
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者72雄哉は、シンセサイザー奏者、作曲家でもある喜多郎氏とも親交がある。喜多郎とマネージャーの信仰心が篤い。外国いくときは、必ず電話かけてきて『ちょっと拝んでください』、と雄哉に願う。そんな縁で、何かにつけて飯室谷に電話をかけてくる。延暦寺では朝はいつも箏曲を流して、それが起床合図みたいになっている。雄哉と喜多郎との関係を知った人が喜多郎に、延暦寺の朝の音楽をつくってもらえないか、と相談があった。雄哉は引き受けてく
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者70二回目の堂入りから出堂した、雄哉の姿を見て、思わず土の上野に座り込んで礼拝する中年の女性もいた。『昭和の生き仏』の姿に、真言はますます高まるばかりだ。雄哉の顔は憔悴して頬がこけ、眼窩は落ちくぼんでいたが、瞳は澄み、表情には人間の顔を超越したような不思議な輝きと静謐さがあった。堂入りがすんだ翌一九八五年(昭和六十年)三月二十八日から赤山苦行に入った。今度は足の怪我もなく、雲母坂を一気に駆け下り、駆け上り、七月五
「千日回峰行」。このブログの読者の皆さんはご存知か?この「二千日回峰行大阿闍梨酒井雄哉の世界」(佼成出版社)は「二千日回峰行」という行法を二度達成した酒井雄哉阿闍梨のことを書いた本。まず「千日回峰業」とはどんなものなのか。この箇所を読んでもらいたい。『千日回峰行』であるが、この行は百日回峰を満行した者のうちから、厳しい先達会議を経て許される行である。比叡山三塔十六谷の峰や谷にを巡って、堂塔や墓所、野仏や石像、
◇堂入り①(酒井雄哉大阿闍梨)いよいよ、千日回峰の行のなかでも一番の荒行といわれる「堂入り」である。無動寺回峰では天正年間以来、四十五人がこの「堂入り」を満行してるが、飯室回峰は永く絶えていたばかりでなく、「堂入り」するお堂がなかった。飯室回峰の酒井阿闍梨の堂入りをどうするか、先達会議が開かれた。いくつかの古い書類も持ち出されたが、無動寺のなかに「七百日以降は本流に従うべし」という一項目が記されていた。先達会議の結果「堂入り」八百日目の「赤山苦行」「京都大回り」も無動寺谷で行なうことに決定
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者69雄哉は動揺した。「堂に入っても、もう明らかにいつものドキン、ドキンと違ってね。何かもう心臓がとまっちゃうような苦しさなの。それがいつまでも治らず、これはもうあかんと思った」三十分以上たっても心臓の異常はおさまらず、ますます呼吸が苦しくなった。これはもうだめだ、と直感した。堂入りの最中に死ねば、みんなに迷惑をかける。どうせ死ぬなら、いつも体を清めてもらった滝で『自害』しようと最後の覚悟を決めた。あたりの様子をみ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者39雄哉は、歩きながら幻をみることがあった。それも『いつも決まった場所でみる』という。悲田谷がその場所で、雑草が生い繁った道傍に、何体もの石地蔵が立っている。いつの時代、誰が何の供養のために立てたのかわからない地蔵たちは、長い風雪にさらされて崩れているものもあれば、傾いているものもある。雄哉がその場所にくる頃は五時前後で、朝のほの白い光の中で石地蔵たちが、まるで生きている人間の顔のようにみえとくる。自殺した妻の顔
花の師匠に誘われて急遽、比叡山無動寺明王堂へ。そこはどこ???仕事でもプライベートでも何度も比叡山には行っていますが聞きなれない名前。調べると根本中堂の近くっぽい。坂本ケーブルの選択肢もありましたが足の悪い師匠のことを考えて車で行くことにしました。あまり運転、得意ではないのでドキドキです。当日は、3月なのに雪が舞降っています。結構、ちらついてきた。無事帰れるのか心配。ともかく、根本中堂目指したらなんか表示あるかなーと進んで行きましたが。。。分から
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者48無動寺谷に続々と人々が集まり始めた。その中には雄哉の姉、弟の姿も見られた。ざわめきがさざ波のようにひろがっていたが、その空気は重苦しかった。信者たちが心配そうに囁やき、うなずき合っている。「なにしろお年だからなあ。五十二歳で堂入りなんて、これまで聞いたこともおまへん」「初めてでっしゃろ。こんな高齢で、ホンマ生きて出られんのやろか」ざわめきはこの一点にかかっていた。戦後、八人の行者がこの堂入りを満行している。い
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者②一九四五年(昭和二十年)九月、忠雄(酒井雄哉)は東京の両親の家に辿り着いた。遥か西、鹿児島は鹿屋飛行場から予科練を除隊になり一ヶ月近くかかった。東京駅に降り立った忠雄の目に映ったのは焼け野原である。東京で生活していた当時を思い出し彷徨い歩いていたら、偶然にも、忠雄の少年時代を知る女性から声をかけられた。そこてま弟達にも出会うことができた。そしつな三鷹に移り住む母親とも再会し、父親も生還、奇跡的にも酒井家十二人、
地下鉄サリン事件から早30年が経過していると知って驚いた。歳をとれば月日の経つのが早いというのは本当のことだと実感した。前代未聞の凶悪な事件により、私達は宗教の持つ恐ろしさについて実感した。とらえられた実行犯はほとんどがこの宗教に関わってさえいなければ善良な市民あったような人ばかりだったからだ。高学歴で「エリート」と言っても良い人も少なくなかった。そして例外なく、熱心な求道者であり"仏道"修行者でもあった。唯一の間違いは師の選び方を間違えたということなのだろう。昨年天台宗において大僧正
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者52堂内では、二人の助番僧と話を交わすことなどはもちろん禁じられている。本尊の不動明王と真っ正面に向かい合って、読誦し、唱え、生と死のはざまに自分の全存在をゆだねている。その内部の模様は外からは一切窺い知れないが、実は堂内に一台の赤外線カメラが密かに設置されていた。無論、酒井阿闍梨もそんなことは知らされていない。NHKのディレクターが、堂入りの行者の姿を追うため、延暦寺の了解のもとに、ロウソクの淡い光でも映る特殊
【外伝】正井観順大阿闍梨①比叡山の荒行『千日回峰行』、二千日を満行した行者は三人。その中に三千日に挑んだ行者がいた。正井観順大阿闍梨その人である。前回の投稿で、小林隆彰師の書籍から正井阿闍梨の足跡を紹介させて頂いたが、阿闍梨についての文献は少ない。その中で、正井阿闍梨の故郷、青森県黒石市が地元の中学生に向けて「伝記」をつくっているのでご紹介させていただきます。(正井観順大阿闍梨)「大廻りのあじゃりさんがいらはったよお母さん、早うおいで」「はいはい、カンジザイボーサーツ、ハンニャハー
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者46雄哉が『十二籠山』に入る前に父岩吉とあったのが最後の対面である。「兄(あん)ちゃん、体だけは気をつけて励みなさい」「お父ちゃんこそ体を大切に。一度、比叡山にくればいい」「ああ、そうするよ。楽しみにしている」父子の最期に交わした言葉を思い出した。雄哉は長寿院に移った最初の頃は、頑なに家族の者が山に来ることを拒んでいた。母ミカは息子を案じて、内緒で一度、比叡山を訪れたことがあったが、長寿院がどこかもわからずに行
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者56最大の難関だった堂入りから無事に生還できた雄哉は、文應の堂入りのあとが大変だ、との言葉をわが身をもって体験することになる。自害を覚悟して、短刀の切先を自分の咽喉もとに突きつけるところまで追いつめられることになるのだ。堂入りが終わって、陰役となって自分を支えてくれた人たちの温かい心を知った。出堂後、体を心配してつきっきりで食事の世話をしてくれる人もいた。堂入り中に大阪、京都、坂本から駆けつけてきた七人の信者たち
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者37「道が違う、環境も違う。食べ物も違う。わしは老師の面倒をみながらやったというとおかしいけど、まあ、二重の意味でこれは大変だと思ったね。普通の人よりは倍は行しているみたいなもんだな。その当時はそう思ったの」雄哉の千日回峰行は過酷であった。「今はね、ちょっと近代化しすぎちゃってるね。相撲でいったら付人がついているのと同じでね、行だけやればいいというんじゃ楽すぎるよ。昔は少なくとも『堂入り』すまなければ楽できなかっ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者①江戸徳川時代が終焉を迎え、明治から大正、昭和にかけて天命に導かれるが如く比叡にのぼった正井観順、奥野玄順、箱崎文應、他にも、天台座主山田恵諦、戦後初めての千日回峰行者、師弟千人といわれる叡南祖賢、世界平和を願い多国語を駆使した葉上照澄、『堂入り』を満行した際に姿を見せたことで酒井雄哉が僧侶の道をより確かにした宮本一乗、それに続く大阿闍梨達も見えない糸に導かれて不滅の法灯の下に参集した。それぞれに『異端の行者』達
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者57比叡山の春は遅く、三月の上旬になっても深い谷には残雪が至るところに白く光っている。長寿院も裏山には雪が消えずに冬の名残りをとどめていた。その雪が凍ったのか、滝の水の流れが悪くなった。雄哉は水源の調子をみるため裏山に登った。クロとシロもついてくる。今では片時も離れない。水源に近づくと、突然、犬が吠えた。そこに大きな猪がいた。餌を探しにここまで下りてきたのだろう。水源のところをほじくっている。それで滝の水がつまっ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者36玉体杉で『玉体安穏』と『鎮護国家』を祈願した雄哉は、横川に向かった。横川は三塔の中でもいちばん北にあり、最も奥山に位置する。地主権現から阿弥陀ヶ峰を通って横川中堂に出た。朱色の柱と欄干がまばゆいばかりの回廊を一回りし、元三大師の墓所に詣でた。ここは『三大魔所』の中でも最大の魔所だといわれる。第十八世天台座主・慈恵大師良源は『仏教の隆盛は人の養成にあり』として多くの弟子を育成した。三千人といわれたその門下から恵
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者41回峰行中は一時半に出峰して、帰ってくるのは八時半ごろ。七時間かかってるが、馬力をかけていけば六時間で廻れないことはない。しかし、一週間や十日ぐらいならそれで通るが百日である。やはり、じわりじわり目に見えない疲労が蓄積していく。無理をして疲れが表面に出た時には、もうどんな手当てをしても間にあわないくらいダメージが大きい。じわりじわりくるのが、一番怖いことを雄哉は分かっていた。廻ってきて、がくんと軀が疲れてくる時
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者38寺にはいくらでも仕事がある。雄哉は回峰行より他の仕事に追われっ放しで、何回も文應を密かに怨んだ。体を動かしているときはまだいい、勤行のときが一番辛い。目が開いていても、体が寝ている。経典は同じところを何回も空回りし、ある時は、拝んでいるうちに体が前のめりになってきて、ロウソクの火で火傷しそうになったこともあった。ところで、文應が千日回峰を行ったときは、回峰中といえども、寺の俗事はすべてやり遂げるべし、という条
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者53異常聴覚については、光永澄照師も経している。たとえば、下界の音がとどろく、電車の音がし、大津あたりの工事現場でやっている工事の金属音が、たしかに耳にとどく。こういうと、なんと大げさな、と思われるかもしれないが、線香の灰の落ちる音まで聞こえるのである。普通の観察では、ハラリと落ちるというのがいいところであろう。それが『ドサッ』と落ちる、誇張でもなんでもなく、そう聴こえるのである。雄哉は、夜になると、朝がくるの
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者47「恭しく大聖不動明王の本誓を仰ぎ、謹んで回峰行門始祖建立大師の冥加を被り、行道七百日を満じ、来る十月二十六日、堂入りの厳儀を相迎えますことは、無上の喜びで御ざります。ここに愚鈍の行者雄哉、畢生(ひっせい)の悲願を凝らし、九日間断穀断水、心身を清めて明王の心地に到達せんことを期す覚悟をいたしております。」この書状を堂入りに先だって、雄哉はすでに比叡山一山の関係者、行門の先達、信者たちに送っていた。いよいよ、千日
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者35雄哉はのちに振り返ると、その涙にいろいろ理由はつけられたが、そのときは訳もなく涙がこぼれてきたのである。一つのトンネルをくぐり抜けたっていう安堵感か、朝の光に輝く湖面が神秘的に映った。最初の日のことは緊張していたせいか、よく覚えていないが、決して忘れられない涙であった。深い感動を大切に、雄哉の白い浄衣姿が大比叡の中腹を駆けていく。最初は妙にぎごちなかった足のリズムも、このあたりまで来ると少しは慣れてきた。中腹
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者24四種三昧とは、比叡山で最も歴史的が古く、基本的な修行で、『常坐三昧』『常行三昧』『半行半坐三昧』『非行非坐三昧』の四種をさす。これは天台宗の高祖、中国の天台大師が法華経の修行法を説いた『摩訶止観』に示されている止観業の修行である。たとえば、常坐三昧は、静寂な堂内に一人で籠もり、九十日間を一期として、ひたすら座禅に専念する。二度の食事と便所に立つ以外は結跏趺座して、『すべての世界の一つひとつの動きはみな仏の顕
◇幻の常行三昧(酒井雄哉大阿闍梨)酒井阿闍梨は百日回峰を無事に終ると、次の行に入ることを義務づけられていた。三年籠山中に果たさなければならない修行として、祖廟浄土院での侍真奉仕、百日回峰、そして「四種三昧」のうちから「常坐三昧」か「常行三昧」のどちから一つ、この三つが定められている。四種三昧とは、比叡山で最も歴史的が古く、基本的な修行で、「常坐三昧」「常行三昧」「半行半坐三昧」「非行非坐三昧」の四種をさす。これは天台宗の高祖、中国の天台大師が法華経の修行法を説いた「摩訶止観」に示されている
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者27「無我夢中で仏さんと一体になれば、念仏が自然に出てくるんだ。自分の頭の中でもって、念仏を唱えなきゃというんじゃなくて、ふっと湧き出てくるんや。で、その『南無』と言うときは、もう左の足が勝手にあるきだす。それを身につけると、時間の感覚がなくなって、苦しくもない。ぐるぐる、ぐるぐる回るけど、桃源郷に入ったような感じで、楽しかったというのはそこにあるんだよ」雄哉と慈照は八月三十日、つつがなく九十日間の常行三昧をやり
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者58雄哉が足を怪我していることが、小林隆彰師や小寺文穎師にも知られてしまった。文穎師は、「霊山院に必ず寄るように」と伝言をよこした。しかし、雄哉は寄らなかった。文穎師が医者を呼んでいることを察知したからだ。医者が診たら、すぐに切開するに決まっている。そうしたら次の日歩けなるかもしれない危険性があった。文穎師の心配してくれる『親心』に感謝しながら、師に背いた。足の傷はますます悪化した。四月二十七日、途中でもう一步も
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者18『本山交衆』の規則改正が一山会議に諮られた。一山会議に出席した一山の住職たちにも、これが雄哉を前提にしていることはわかっている。結果は全員一致、雄哉はこうして本山交衆に加入することが認められ、一九七一年(昭和四十六年)四月一日から、三年籠山に入ることになった。隆彰師の熱意が住職たちの心を動かしたといえるが、日常の行動の反映でもあった。四十をつとに過ぎているにもかかわらず、腰は軽く、頭は低い。人の避けるようない