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律院(りついん)御朱印*山号【比叡山】*院号【律院】*寺号【】*正式名称【比叡山律院】*宗派【天台宗】*ご本尊【釈迦如来】*札所等【びわ湖百八霊場第10番札所】*開基【玄俊】*創建年【1583年】*住所【滋賀県大津市坂本5-24-13】律院はかつては松禅院という比叡山・横川の総里坊であったとされています山号は「比叡山」坂本には比叡山の延暦寺で修行を積んだ老僧の隠居坊、「里坊」と呼ばれるものが50近くあるそうです律院も里坊の1つ小さなお寺のようです
◇赤山苦行、失神、(酒井雄哉大阿闍梨)堂入りが終わって、酒井阿闍梨は陰役となって自分を支えてくれた人たちの温かい心を知った。出堂後、体を心配してつきっきりで食事の世話をしてくれる人もいた。堂入り中に大阪、京都、坂本から駆けつけてきた七人の信者たちが、明王堂に毎日集まってきた。信者たちは酒井阿闍梨の無事満行を念じて、好きな酒やコーヒーを断ち、不動明王にご加護を祈ったのである。信者たちは堂内には入れない。しかし介添えの僧に様子を訊き、閼伽井まで取水にいく酒井阿闍梨を見守り、無動寺から飯室まで一時
◇「ナーマクサーマンダーバーサラナンセンダン、、」(酒井雄哉大阿闍梨)「ぼくにはお師匠さんが三人いるわけよ。小林先生、小寺先生、それからおじいさん(箱崎師)。最初に小林先生のところにいったんだけど、弟子はとらないからって、小寺先生に紹介されたわけね。小林先生のあずかり弟子というかたちで、霊山院に住み込んだ。それから飯室谷にきて、今度はおじいさんといっしょに住むことになった。三人の師匠は、それぞれ立派な人で、その点、ぼくは恵まれているわけ。相談ごとがあると、いまだって小林先生のところにい
私が26歳の頃天台宗比叡山支院【伊崎寺】にて、寝ずの行を1週間しました。最初に、御守りしていた【光永阿闍梨】さまと話しをした。頑張って修行してくださいと励まされた千日回峰行してる阿闍梨様に。午前零時に、琵琶湖に入り、般若心経を唱え、不動真言も、真っ暗の中、懐中電灯で、足の悪い階段を降りて琵琶湖に入りますそれから、かく堂まわりをしますが、本堂は、1300年の歴史がある本堂で中に木の三体🌲彫った【大日大聖不動明王】が、ご鎮座してまた、聖徳太子も祀ってありますそこでは、五体投地108回しま
◇比叡山への道(酒井雄哉大阿闍梨)戦後、GHQによる「神道指令」により、国家神道は廃止され明治維新後から廃仏毀釈により肩身の狭い思いをしてきた伝統仏教教団や、戦前から厳しい規制にさらされた新宗教も息を吹き返しおびただしい数の宗教、宗派、団体が派生しました。「信仰の自由」は広く庶民にも浸透していた。酒井阿闍梨の叔母は、比叡山の弁天さまを篤く信仰していました。「お山に行かへんか。」妻に先立たれ毎日を放心状態で過ごす酒井阿闍梨を立ち直らせるには何か精神的な支えが必要であると考え、ある日、
◇北嶺大行満大阿闍梨、、(二千日回峰、満行の日の酒井雄哉大阿闍梨)『我れ生れて自り此来、口に蠱言(そごん)なく、手に笞罰(ちばつ)せず、今我が同法、童子を打たずんば、我が為に大恩なり、努力(つと)めよ努力よ』傳教大師の遺訓である。私は常に荒々しいことばを慎み、竹の鞭で打ったりしたことは一度もなかった。子どもはわれわれの後継者だ。同法(弟子)の人たちよ。子どもをたたいてくれるな、辛抱づよく導いてほしい。私はそれを大恩だと思う、という意味でである。「あんまり理屈を言うことはないんだ。朝ちょ
◇堂入り、、②(酒井雄哉大阿闍梨)無動寺谷に鐘が鳴り響く、午後一時、真新しい白の浄衣に身を包んだ酒井阿闍梨は、内海俊照師にみちびかれて法曼院を出て、明王堂の急な石段を一段また一段と踏みしめるように上った。明王堂のまわりには、信者たちがつめかけている。酒井阿闍梨の姿に合掌し、数珠音も高く、「ナーマクサーマンダーバーサラナンセンダンマーカーロシャナソワタヤウンタラターカンマン‥‥‥」といっせいに真言を唱え始めた。それは真言の大合唱となって、うねり合い、重なり合って、無動寺谷全
◇当行満阿闍梨(酒井雄哉大阿闍梨)明王堂の鐘が鳴りひびき、正面の大扉が軋む音をたてて開かれた。信者たちが一瞬どよめき、それから水をうったようかな静寂になった。酒井阿闍梨は蓮華の葉をかたどった笠を手にして、ゆっくりとした足どりで再びこの世に生きて還ってきた。信者たちの間に声にならない感嘆の波がうねり、「生き仏」を迎える真言の唱和が鐘の音とともに、いつまでも無動寺谷にこだましていた。ミカと美佐子は、ただただ数珠を握りしめて、酒井阿闍梨の姿を追っていた。「死者の顔」の酒井阿闍梨は、一段また一段と
◇比叡山を動かす小僧、(酒井雄哉大阿闍梨)最澄は「おのずから住めば持戒のこの山は、まことなるかな依心より依所(いしょ)」と詠み、心のあり方持ち方も大切だが、修行する依所(環境)が最も大切だ、として、比叡山を「山学山修」の修行の場にした。酒井阿闍梨は「依心より依所」の有効性を身をもって証明した。最初に酒井阿闍梨に出会った師である小林隆彰師は、「酒井君は、本当に小僧になりきっていたんです。将来住職になれるかどうかもわからない。なんの保障もないときに、四十すぎの大の男が食事の世話をし、皿を洗
◇『死出の旅』、、(酒井雄哉大阿闍梨)途中で一步も歩けなくなった酒井阿闍梨は、降魔の剣で、親指と化膿している人差し指を切った。血があたり一面に飛び散った。麻酔もかけない荒療治だから激痛に身をよじり、脂汗が流れた。これで歩けなかったら、もう自害するしかない。どちらかに決めなければいけない。酒井阿闍梨は、今度は刃の切先を咽喉に向けて、岩に腰をおろした。あと三十分が一時間のうちに足の痛みが引いて歩けるようになるか、それともやっぱりだめなら死ぬしかない、そう覚悟を決めた。これも自分の運命なら仕方な
☆【外伝】高倉健と二人の阿闍梨京都に、西村泰治(敬称略)という実業家がいる。酒井雄哉大阿闍梨が二千日回峰行をする時に『京都大廻り』の際に、先導を勤めた人である。その破天荒な人生は、前の記述で紹介したが、酒井阿闍梨に心酔した一人である。通称「ヤッさん」、昭和のスーパースター、「高倉健」の付き人を四十年以上つとめてきた男でもあり、芸能界の裏側を知り尽くした男でもある。令和二年、高倉健七回忌にあたり、ベストセラー・フリーライターである山平重樹が著した、『高倉健からアホーと呼ばれた男西村泰
◇火焔の十万枚大護摩供、、(酒井雄哉大阿闍梨)紅蓮の炎が燃え上がり、酒井阿闍梨が祈禱しながら護摩木を投じると、火焔はさらに天井まで焼きつくすかのように凄まじい火勢でめらめらという音をたてた。「ナーマクサーマンダーバーサラナンセンダンマーカーロシャナソワタヤウンタラターカンマン」信者たちが唱和する真言が、一大合唱となってそれに和する。一つひとつ護摩木に込められた衆生の祈願を声に出して読みあげ、それを火焔の中に投じる阿闍梨の顔は、真っ赤に炎にそまり、さながら生きた不動明王を彷
◇バタバタ百日回峰「出峰」、(酒井雄哉大阿闍梨)百日回峰に出峰する一週間前から、前行が始まった。零時に「覚心」して朝のお勤めをし、回峰手文を書写し、回峰のための準備をするのである。初めての回峰だから、心身ともに大切な一週間だ。ところが、酒井阿闍梨には研究科の卒業が迫っていた。卒業論文も提出しなければならなかった。前行に入る三日間、酒井阿闍梨は、「傳教大師の神仏習合について」という原稿用紙百枚の卒論を脱稿して提出した。「普通は、卒論は清書したらコピーとって、一部は自分で持っていなくちゃなら
◇最澄に仕える(酒井雄哉大阿闍梨)比叡山の聖域、『浄土院』の前に立つ酒井阿闍梨、ここに御宗祖さまが永遠の眠りにつかれ、我々を見守って下さっている。その尊い祖廟にこれから自分が仕えるのかと思うと、心に熱い感動を覚えた。浄土院は、清浄な白壁がはりめぐらされた中にある。正面の門は開いてはいるが、前に柵があって、普段はここから入ることはできない。左側の脇門から入ると政所があり、中庭は白砂が一面に敷かれ、きれいに掃除された清浄な庭には木の葉一枚落ちていない。正面に「浄土院」の額がかかった阿弥陀堂が建
相応和尚比叡山の千日回峰行は、「此の峰を巡礼し山王の諸祠に詣じて毎日遊行せよ」と、根本中堂の薬師如来の夢告を受けて相応和尚によって始められました。なぜ歩くか。行を始めて最初の700日は、自分のために祈って歩きます。何を祈るか。他人のために祈れる資格を自分が得られるようにと祈るのです。700日目と701日目の間に、千日回峰行中最大の難行「堂入り」があります。自利行(自分のために祈る)から他利行(人のために祈る)に移る節目の行です。9日間、断食、断水、不眠、不臥といい、つまり一切食べ物も水も
最期の父との再会、、(酒井雄哉大阿闍梨)昭和四十九年三月三十一日、三年籠山を終えた酒井阿闍梨は、初めて比叡山の住職になることを認められ、無動寺谷宝珠院の住職として配された。宝珠院は、無動寺回峰の聖地、明王堂や護摩堂のすぐ近くにある。無動寺坂を少し下れば、行門法流を伝えてきた玉照院がある。酒井阿闍梨は、自分には学僧になるような頭はない。歩く行が一番向いている、という見きわめから、千日回峰に命をゆだねてみたい、と激しく希望するようになっていた。「千日回峰をやってみたいのです。わしは行に生きよう
◇比叡山まであるく、(酒井雄哉大阿闍梨)酒井阿闍梨での生活は、叔母に誘われて比叡山に登って度々一人で訪ねたりする日もあったが、叔母の家の旋盤加工の工場で勤める他はなく、本人曰く「ボケーとした毎日」であった。それが、無動寺谷で千日回峰行の「出堂」を見て何かを感じ始めた。そんな時に、無動寺谷・弁天堂の輪番であった『小林隆彰師』とめぐり合うのである。小林師は、酒井阿闍梨の叔母が熱心に弁天信仰をし参詣することから、大阪に所用で出かけた際にも叔母の所にも立ち寄るなど親しい。ある日、小林師が立ち寄っ
ご覧頂きありがとうございます実は本日、とても貴重な体験を致しました....タイトルにも書いちゃってますが...(笑)光永圓道大阿闍梨様の護摩祈祷を見学し、お加持も受ける事が出来ました!!!!【光永圓道】2003年より千日回峰行と十二年籠山行に入る。2007年10月13日午後1時すぎ、無動寺谷明王堂において行の最難関である「堂入り」に入り、10月21日午前3時頃に満行。堂入りを達成した行者としては、2001年の藤波源信師以来6年ぶり
前回のこの不思議な話には実はまだつづきがありまして。『夜、誰が私を起こしているんだろう』今日も見えない世界がはたらきかけてきた不思議な話です。輪王寺の護摩祈祷でもらったおふだを寝室に飾ってからよく眠れるようになってとても助かっているんです…ameblo.jp今日はそのつづきです。45年前のNHK特集『行~比叡山千日回峰~』が再放送されて1週間くらい経った頃です。夜、私は寝ようとしてリビングでつけっぱなしになっていたテレビを消
今日も見えない世界がはたらきかけてきた不思議な話です。輪王寺の護摩祈祷でもらったおふだを寝室に飾ってからよく眠れるようになってとても助かっているんですがあるとき夜3時頃だったか変な時間に目が覚めて眠れないということがありました。起きたはいいけど何もする気になれない…。しかたなくリビングのテレビをつけました。以前、見えない世界が私にあるお寺を見せたくて夜中に私を起こしてテレビをつけさせたということがありました。
◇歩き出す、、(酒井雄哉大阿闍梨)午前一時半、酒井阿闍梨はいよいよ出峰した。先達は光永澄道師である。小田原提灯で足元を照らしながら先達が先を進む。酒井阿闍梨も遅れないように早足であとを追う。無動寺谷を出峰した先達と酒井阿闍梨は、根本中堂へ出て総本堂にまず礼拝し、戒壇院に回る。戒壇院は、最澄が悲願とした大乗戒を受けたお堂で、生前には間に合わず、没後七日目にようやく勅許を受けた。天長五年(八二八年)、第一世座主義真によって創建された。比叡山中で最も重要なお堂であり、内陣には釈迦牟尼仏と文殊、弥
◇風が吹き過ぎるごとく、(酒井雄哉大阿闍梨)千日回峰に挑んでいる酒井阿闍梨は、自分のリズムを会得し、元気に「但行礼拝」の行を続け昭和五十二年四月九日から四百日満行を目指して歩いた。初百日満行から始まり四年目のこの年から春百日、秋百日と一年に二百日歩く。これは翌年も同じで、五年目で七百日を満行することになる。このあたりから行を楽しむゆとりさえでてきた。かって箱崎文應師は、酒井阿闍梨が出峰するとき、「行のなかに楽しみを見つけよ、それでなければ崩れる」と訓戒したが、その意味が初めてわかった。「
◇得度坊主になる、弁天堂の輪番は「小林隆彰師」から「小寺文穎師」に代わった。酒井阿闍梨にとって新しい道が開けたのかもしれない。昭和41年12月、比叡山は時折小雪が舞う寒い日が続いていた。京都の街は冬の冷え込みが厳しいが、比叡山の冬は京都よりも五、六度気温が低い。谷をわたる風は鋭い刃のように肌を刺す。(無動寺弁天堂浴酒2018年)引用おごと温泉協会Facebookその中で比叡山の無動寺谷・弁天堂では、一週間にわたる『浴酒』といわれる天台密教の修法・お勤めが行われていた。真
◇子連れの坊さん、勉強する、(酒井雄哉大阿闍梨)将来、住職になれるかどうかの保証も何もない四十の男が、食事の世話から掃除、洗濯、買物、子どもの遊び相手まで、ひたすら小僧になりきって働いた。それに学校も加わった。昼の疲れから、いつも夜八時頃にはぐうぐう寝ていた。ある夜、夜中に目がさめたら、書斎に明かりがついている。覗いてみると、小寺師が一生懸命勉強していた。次の日も次の日も、同じように勉強している姿は変わらない。学校に行くようになって、酒井阿闍梨は、「えらいことになったなぁ、とおもったんだ
◇堂入り①(酒井雄哉大阿闍梨)いよいよ、千日回峰の行のなかでも一番の荒行といわれる「堂入り」である。無動寺回峰では天正年間以来、四十五人がこの「堂入り」を満行してるが、飯室回峰は永く絶えていたばかりでなく、「堂入り」するお堂がなかった。飯室回峰の酒井阿闍梨の堂入りをどうするか、先達会議が開かれた。いくつかの古い書類も持ち出されたが、無動寺のなかに「七百日以降は本流に従うべし」という一項目が記されていた。先達会議の結果「堂入り」八百日目の「赤山苦行」「京都大回り」も無動寺谷で行なうことに決定
◇小僧になる前に、(酒井雄哉大阿闍梨)大阪から比叡山まで歩いて「一大決心」を心に秘めて、小林隆彰師の元にたどり着いた酒井阿闍梨、このところ急激に変貌しつつある酒井阿闍梨の心をおしはかった。『それじゃ、せっかく来たんだから、何かさせてあげよう』ふつうの寺院は塀で囲まれていて、門がある。しかし比叡山には塀もなく、門はない。いつでも自由に出入りが出来る。それに修行の山という観念が一般あって、しばらく寺に住ませてほしい、という志願者がよく訪れてくる。無動寺谷は行の本場である。どの寺も格段にしつ
◇『きみは不動明王を見たか』、天台宗の修行僧の間ではよく交わされる独得の秘語がある「きみは不動明王を見たか」という言葉がそれで、特に初めて「百日回峰」を行う新行の間で交わされるが、不動明王を感得しなければ一人前の行者とは認められないからだ。酒井阿闍梨も、この三年籠山中に不思議な体験をした。四十六歳の酒井阿闍梨は、二十代の若い人たちと互角に籠山するためには、自分が人一倍努力しなければならないことを自覚していた。(比叡山延暦寺横川中堂不動明王)若い人たちは一回で何でもできるが、自分は二回
酒井雄哉大阿闍梨❖一度で成功する人はいない一度で成功する人はいない人生なんてものは、経験の積み重ねだからね。積み重ねていく間には、失敗なんかなんぼでもある。失敗は失敗と認めて、それを踏み台にして、前に進んでいけばいいんだよ。何をするのだって、いっぺんで成功する人なんてなかなかいない。逆にスムーズに成功したら、あとになってからが怖いよ。失敗したときは、必要な経験を積んでいるんだ、教えてもらっているんだと思うことだね。戦後間もないころ、手づくりのラジオが流行ったけれど、あれ、聴きたい局
◇不動明王朝の会、、(酒井雄哉大阿闍梨)二回目の堂入りから出堂した、酒井阿闍梨の姿を見て、思わず土の上野に座り込んで礼拝する中年の女性もいた。「昭和の生き仏」の姿に、真言はますます高まるばかりだ。阿闍梨の顔は憔悴して頬がこけ、眼窩は落ちくぼんでいたが、瞳は澄み、表情には人間の顔を超越したような不思議な輝きと静謐さがあった。酒井阿闍梨は、堂入りがすんだ翌昭和六十年三月二十八日から赤山苦行に入った。今度は足の怪我もなく、雲母坂を一気に駆け下り、駆け上り、七月五日に千八百日を満行した。そして六十
◇生々流転「線香と灰皿はないかな」昭和二十年九月、予科練から帰った息子は母に言い受け取ると、黙って二階に上がって行って下りてこない。心配になった母は部屋を覗くと、きつい線香の匂いがして後向きに座り、その肩が微かに揺れる。泣いているようだった。粗末な机に線香が置かれていて息子は放心したかのように力なくうなだれ、何事かつぶやいている。誰かに語りかけているようであり、それが途切れると、後は押し黙ったまま嗚咽にむせんでいる。始めて見る息子の姿であった。◇みんな死んじゃったからなあ、先輩も仲間も、、