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伊達政宗が気になる。政宗は徳川家康が天下をとってからも、天下に野心とそのための戦略があったのではないか、ということがである。気になるといえば、大風に灰をまいたようなという形容がある。大風に灰をまいたような思考法に乗らぬよう、乗らぬように書いています。とは、司馬遼太郎が随筆集『風塵抄』の原稿を編集者に送るとき同封した手紙の書き出しである。そこには自戒の念がこめられている。ちなみにこう続く。『日本をどうするか、どうあればよいか』。そんな虚を考えると、個人のアタマも世間も必ずおかしく
日本タイムマシン社の企画「関ヶ原の戦い観戦ツアー」。定員15名の観光客たちは、西暦1600年の関ヶ原に到着した。目の前には東軍と西軍、二つの陣営が激しくぶつかる光景が広がる。「本当に命を懸けて戦っている…」女性客が呟いた。突如、砲弾が近くで炸裂。「危ない!」全員が慌てて伏せる。ガイドが冷静に説明する。「ツアーでは歴史干渉は厳禁です。現代に戻るまで騒ぎを起こさないでください」。だが、ツアー客の一人が地面に転がる若い兵士を見つけ、思わず近づいた。「彼を助けな
お久しぶりです。切手もいいですが、時折、自分がぶらっと旅をした思い出を綴ろうと思います。私は、関ヶ原の戦いに興味を持っています。旧暦9月15日、霧の山中に集った、徳川家康や石田光成はどう思ったでしょう。午後には、戦況がはっきりしてきます。西軍の敗北が濃厚です。私は、西軍の武将たちが好きです。それは『義』のために戦ったからです。一方、東軍はむしろ、『報奨』で動いた武将たちです。そんな中で、今回行った春日山城は、上杉景勝(のちの謙信)の居城、1598年景勝は会津若松へ転封を命じられて
<石鳥居>黒田長政奉納<五重塔>酒井忠勝奉納<表門(仁王門)><上神庫>想像の像:狩野探幽下絵<神厩舎・三猿><鐘楼・鼓楼><陽明門>天井絵八方睨みの昇竜:狩野探幽原画<神輿舎>左:豊臣秀吉公、中央:徳川家康公、右:源頼朝卿神輿<唐門><祈祷殿><東回廊潜り門>眠り猫:左甚五郎作裏側:遊ぶ2羽の雀<坂下門>奥社入口<奥社宝塔>徳川家康公神柩
昨日の鉄道の要衝を地形から見直してみます。徳川家康が江戸を開拓していく前は、関東平野はまだ海がかなり内陸まで入り込んでいたそうです。今の埼玉県さいたま市岩槻区あたりまで入り江があったらしいです。源頼朝挙兵のとき、北部の関東武者が「いざ鎌倉」といったらしいですが、彼らは当時の東京湾沿い、武蔵野台地にそって鎌倉まで移動したのでしょうか?そのように考えると、今の東京都心はなく、沿岸には漁村が散在しており、そのなかで武蔵野台地の張り出したところに関東武士の拠点、城があったようです。従って当時の小
敗戦の後、今川勢は駿河に向かって各々引き上げて行ったが大高城に入った松平元康と鳴海城に入った岡部元信は攻めてくるかもしれない織田軍に対して厳重なる防備をして待ち構えていた。どちらもまだ3000近い兵は残していた。しかし信長はどちらも相手にしなかった。もう勝利は決まったのだ、放っておいたらそのうち引き上げるのは明らか、そんなところを攻め入って大事な兵を失うなど愚かとしか言いようがない、ただの骨折り損のくたびれ儲けにしかならない。予想通り、元康は間もなく岡崎城に引き上げた。ただ岡部元信は義元の首を
有馬温泉から、ふもとに電車で降りて、地上に出ると、こちらが現れた。なんこうさん、こと、湊川神社。1年3か月ぶりかな。南北朝時代の武将・楠木正成公が祀られているのだが、水戸黄門さまこと徳川光圀公の像もある。中に入ってみた。正成公の御前にて。あれは🐢亀。東経135度線の旅、籠神社を思い出す。光圀公。さて、そもそも、兵庫・神戸に出向く機会は、昨年竹取物語がテーマの一人芝居「十五の夜に」や、東京で出演した舞台「未踏」
南光坊天海(72)「今村、清水、林の三家司は、ひたすら自休に荷担し、中川出雲とて今の少将忠直朝臣戚族たりしをたぶらかし、但馬を罪せんとす。但馬の訴を非據なりとて、しばしば忠直朝臣に讒せしむ。本多竹島幷に牧野主馬の三家司は但馬に荷担し、一藩双方にわかれたり。(中略)よて本多以下の宿老ども、こたび免され其罪を糺されしが、本多罪なきにさだまり、其申所明白なりとて再び国勢をあづけられ、また富正が一族本多丹下成重を新に朝臣に附られ、今村掃部が領せし丸岡の城をたまひ、二万石領せしめらる
御本城橋の先には御門があり右側の堀側(南側)には二階の櫓部分の幅が約29mもある巨大な瓦御門がありました現在は櫓が乗っていた石垣のみが残っています初代福井藩主の結城秀康は徳川家康の側室の於万の方の双子で生まれ弟は直ぐに亡くなったと伝えられていますが神職になって31歳まで生きたとも言われています当時双子は忌み嫌われていたようで家康に疎まれていたようです😅😅😅
2023年11月以来の法多山尊永寺へ…お守り袋の中身、厄除けが一年経過したから交換と言うカタチでの訪問和傘が至るところに飾られていたし、そこにはカメラを構えていた人が多かったし、漏れなく自分も無意識のウチに構えてしまったのはやはり「映え」を気にするSNS依存症と言えるのかも知れないでもまあ撮影した写真でこれは…と思うのはプリンタで印刷保存してる…と同時になんだかEPSONの写真に特化したモノ(プリンタ)がアラタメテ欲しくなった自分はCanonの
『もしも徳川家康が総理大臣になったら』この本、サンマーク出版から出ているビジネス小説で、映画化もされているようで、私はきのうおすすめに出てきたのでKindleで読みました。最初は、タイトルのふんわりさから、めちゃくちゃ期待はしてませんでした。ごめんなさい。+++ときは、ロックダウン中の東京。登場するのは、日本史に残る偉業を成し遂げた人たち。日本史をよく知らない人でも、短いのに的確な脚注があるからよくわかる。彼らが、日本を日本人を変えていく物語。
こんばんは昨日のことですが、『盛岡八幡宮』様に旅のお礼参り『盛岡八幡宮』様は、源頼義、義家父子が必勝を祈願するため、康平5年(1062)に創建したと伝えられていて、その後南部藩主が領内守護の総氏神と仰ぎ、大社殿を造営したと言われております。源氏様が関わっておりますね『笠森稲荷神社』様由緒書きに『徳川家康』様『明治天皇』様のいわれもあり『聖地巡礼』三連チャンが揃った神社様でした。それと、風の時代だからこその『風車』いろんな過去が知れて神社って面白いですね
東慶寺より、30分くらいでしょうか移動しました。訪れたのは、英信寺です。英勝寺は、徳川家康の側室お梶が開基です。竹林地蔵尊鐘楼(重要文化財)山門(重要文化財)仏殿(重要文化財)阿弥陀三尊像英勝寺水戸中納言頼房卿の准母、英勝院尼(お梶、後にお勝となる)により寛永11年(西暦1634年)創建されました。英勝寺の初代はお梶の方と言う。戦争の時にお梶さんを連れて行くと戦争が勝つので「勝」というようになったそうです。境内伽藍の数々は徳川家ゆかりの尼寺と
本日は輸入パーツの通関手続き興津ですいつものホイールではなく、新商品の足回りのパーツです新商品は、販売する楽しみだけでなく、装着して走る楽しみもあるのです年に1~2回のペースだと慣れることも無く、手続きに手間取る事いつものごとし9時過ぎから手続きを始めてあっさりと11時30を過ぎ『X線検査は午後からですね~』となる始末まぁ、お役所、倉庫の昼休憩あるのでいたし方なし時間ができてしまったので、写真映え探しの散歩清見寺お寺の境内に線路が通ってる日本唯一のお寺
(こちら、前々回です)『早稲田、海城、駒場東邦が「御三卿」に❓️(早稲田くん、駒東くん、海城くん)』(前回)『文化祭を終えて(早稲田くん、駒東くん、海城くん)』《登場人物》・司会(温厚だが、時々、鋭い指摘もする)・駒東くん(プライド高め、サッカー通⚽️)・…ameblo.jp(これは、前回な)『「御三卿」創設❓️(早稲田くん、駒東くん、海城くん)』《登場人物》・司会(温厚だが、時々、鋭い指摘もする)・駒東くん(プライド高め、サッカー通⚽️)・海城くん(バスケ🏀好きでおしゃべり好き)・
途中データで、“天下統一目前”の徳川家康で“練習”プレイを決めた。残る勢力(織田家)の打倒を目指す。実は去年…、“松潤”の大河ドラマ『どうする家康』を観ていた。このドラマ、久々の戦国モノで面白かった…。これで、俺の中で“戦国熱”が高まっている。やはり胸を熱くする“天下盗り”のカルタシス土地を耕し、都市を築き、兵を鍛え、他国を攻める。これこそ、戦国シミュレーションの醍醐味。ここで1度、電源を切り、『まえのとっから』(途中データ)で再スタートしよう。徳川(家康)で改めてスター
さて、ブログを更新しない間も色々とありましたが、そちらはまた、別の機会として今回は日光東照宮参拝についての続きです。現地到着は朝の5時恐らく、神橋を渡ったところあたりから体に反応が・・・気がした。寝ぼけてただけかも一時間ほど休憩し車の外へ出るとなんと澄んだ気が流れている事かそして、紅葉に朝日が当たりその美しさに心が震えるほど感謝の涙が駄々洩れです輪王寺の拝観は朝の8時から拝観券購入の列に並んでいると朝の読経が聞こえてきましたなんて贅沢
--------------------------------------------2024年怒られるのが分かっていても、やめられない。その覚悟があるかどうか。2023年11月22日--------------------------------------------怒るの上手、、、そんな上司はいいですね。2022年11月22日--------------------------------------------「決められたことは守れよ」遊郭に遊びに行った連中
ランキングに参加しています。クリックしていただけるとうれしいです。現在高校の11年生の娘はGlobalHistory(世界史)を勉強していて自分の好きな地域の1500年−1700年くらいの歴史についてのプロジェクトをしました。その内容についてはまたいつかお話しますが、娘が江戸時代の日本についていろいろ調べているのを見て、その影響からか徳川家の末裔のお話がおすすめによく出るようになりました。家庭内で同じIPアドレスでいろいろな調べものをしていると、家族が興味を持ってい
勝てば官軍負ければ賊軍よ~言うたんやなその通りヤンな、世の中争いごとは勝った方が正しく負けた方が間違っている…勝てばそれが正義となるなんやよ~わからんけど世の中は全てそのように動いているようだなんか理不尽やけど歴史は全てそうなってる勝てば官軍…この言葉意外と新しく明治時代に出来た言葉なんやてね明治維新薩長軍と幕府軍の戦いから生まれた言葉らしい、知らんけどそんなこんなの勝てば官軍、負ければ賊軍
毎朝冷えます。朝ん歩〰️寒い〰️ジム休みの日はウォーキングに出かけました。松山神社へ(祝谷東町)階段少し急ですが、松山城坂道に比べたら?大丈夫〜主祭神徳川家康公菅原道真公○1618年松山藩主加藤嘉明が湯月八幡宮(伊佐爾菠神社)の境内に社を建て徳川家康を祀った。○1765年8代藩主松平定静が天台宗常信寺(現在地)に移す○1868年明治元年神仏分離令により常信寺より分離○明治中期久松家より、祝谷村の鎮守にするようにと村へ譲渡。○1910年明治43年祝谷の御幸寺山麓よ
南光坊天海(71)「慶長十七年閏十月十八日、この日越前少将忠直朝臣の家司等争論の事聞召、本多伊豆守富正、竹島周防、今村掃部、清水丹後、林伊賀等を江戸に召寄らる。」(「台徳院殿御實紀」)久世邸には152人の家臣が立てこもり、容易に落ちなかった。戦闘は翌日も続き、ついに久世但馬は屋敷に火を放ち切腹、家臣らも全員討死にしたという。富正勢も多大な被害を出した。今村盛次は、この様子を城の天守閣から眺めていたという。10月21日には、久世を支持していた由木景盛、上田隼人にも
日本では、ハロウィンが終われば、即クリスマスです。つまり、クリスマスシーズンはふた月近く続くのです。日本人って、いつからこんなにキリスト教が大好きになったんですかね。てゆうことで、こんな時期になんですけど。徳川家康は、なぜキリスト教を禁止したのか?って話をいたします。なぜいま?そりゃあ、真田広之先生主演の「SHOGUN」が超ヒットしてるから、ですよ。見ました?あれって「そういう話」ですよ。信長、秀吉、家康の性格や趣味嗜好の差で日本史を語るのは、よくある話ですが。こういう問題につい
夫婦木神社姫の宮。夫婦木神社。40年くらい前に一度来たことある…と思うが~。奥殿に入るといろいろと説明してくれる。齢樹1000年の栃の木の御神体(雄大な男根⁈)は撮影禁止。御嶽山金櫻神社。昇仙峡を登りつめた地に鎮座する金峰山を御神体とした神社。徳川家康公も三度お参りに来てるらしい。階段からいったつもりで~。この長い階段を昇らなくても、実は上にも🅿ある。昭和30年の火災で本殿や左甚五郎作の昇竜・降竜などが焼失。後に再建。復
徳川家康の絵の秘密。あれは、身近な人の人肉を食べてしまったからでは?昔も、ネットで見たかもしれないけれど。そう考えると辻褄合う。羽柴秀吉さんが日蓮だしで。そして、家康が質素な暮らしをして、めざしや味噌汁、漬物、玄米を食べていたらしい。何故、肉を食べなかったか、それは身近な人の人肉を食べてしまったからと思う。これは、歴史をあまり詳しくないので、調べてほしい。でも、逆に言えるのは、人肉食べても、復讐のために動ける人もいる。人肉食べたからと言って、全ての人が悪魔ではない。人肉食べた人やその子供が悪魔
フェリー好きの私は、歴女でもあります😊とは言え、どちらもあまり詳しくはありません❗️特に歴史に関してはさっぱり・・・😅でも、史跡を巡って当時を思う事は大好きです🥰今回は『関ヶ原』の旅の紹介です。日本の歴史を知る上で、1600年の『関ヶ原の戦い』は、史実上外せない重要な出来事です。『天下分け目の関ヶ原』と言われる様に、『徳川家康』率いる『東軍』と、『石田三成』率いる『西軍』が『天下』をかけての大戦(おおいくさ)となりました。そんな決戦の地『関ヶ原』に、いつか行ってみたいと思ってい
今日は相方と二人で久しぶりに車でランチを楽しみ、その後近くをドライブしました。ランチは「グリーンハウス」で、本場インドカレーを堪能。カレーはチキン、ポーク、キーマの中から選べ、セット内容はプレーンナン、サラダ、スープ、ドリンク、デザートが付いて¥1,380というお得な内容でした。特大のナンでお腹いっぱい!とてもおすすめです。食後は腹ごなしに少し散歩。訪れたのは「色金山歴史公園」。ここは小牧・長久手の戦いの史跡であり、徳川家康ゆかりの場所です。展望テラスからの眺めも良く、静かで落ち着
真の日本精神が世界を救う百ガン撲滅の理論と実証大塚寛一/著楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}チンギス・カンの駆けた道Amazon(アマゾン)チンギス・カンとモンゴル帝国(知の再発見双書111)Amazon(アマゾン)チンギス・カンとその時代Amazon(アマゾン)成吉思汗だるま特選ラム200g札幌の名店ジンギスカンAmazon(アマゾン)みなさん、おはようございます。今朝の人類の大救世主:現人神大塚
不安な時は思い出してよ1番の味方ならここにいるよ頑張ってきたよねいつも見てたよ大丈夫🙆♀️貴方ならやれるよ勝ち負けそれだけじゃない奇跡がいま起こりますようにあと少し🤏だけでもう少しだけでなりたい自分になれるよ怖さや弱さ乗り越えたらなりたい自分に出会えるあと少し🤏だからもう少し🤏だからあなたの願いは🤲叶うよ(ほんと?)陽の当たらない日も諦めずに水をやろう笑顔の花💐🌸が咲くようにDreamのお歌🎤がイイお歌だった件勝ち負けじゃないよ、なんてよ
麻田陣屋創設年代・・・・元和元年(1615)創設者・・・・・靑木一重形態・・・・・・陣屋遺構・・・・・・移築表玄関(豊中市報恩寺)・移築門(民家)公民館前の陣屋碑公民館・城地略史藩祖靑木一重は美濃で生れ、最初今川氏真に仕え、のち徳川家康に仕え姉川の合戦で活躍した。その後丹羽長秀に仕え、その死後羽柴秀吉に仕え黄母衣衆に列し麻田に居城した。大阪夏の陣で豊臣方の和議の使者として駿府に下向したが、この間に大阪城が落城した為剃髪、幽居