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❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者153雄哉は三十歳くらいまでいろんな仕事をしたが、どれも続かなくて、失業をしたり、ブラブラしていた時期があった。それで、叔母からいつも文句を言われていた。『なんとかして、あのばあさんの顔を見なくていい方法はないか』と思って、比叡山へ行って、ゆっくり考えようと思った。それまで比叡山へはしょっちゅう叔母のお遣いで行っていたから、比叡山まで、歩いて、のこのこと行った。そこで後に師匠になる小林隆彰師たちの手伝いをしていた
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者125雄哉はどこかへ行くと、その時、些細なものでも、必ず何か買ってきてみんなに「これ、あげるわ」と渡す。そうすると、「お土産ありがとうございました」ってニコニコして、ちょっと下がってペコンと頭を下げる。そんなの見てると、こんなに喜んでくれるんだから、どこかへ行ったら、また何か買ってこようかな、という気持ちになって嬉しくなるのだ。喜ばれるということは、自分も嬉しいし、仕事に行った甲斐もある。だから、安心して出かけら
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者106雄哉の師匠小林隆彰師も比叡山僧として夢があった。中国には、いつの頃からか仏教徒が生涯のうちに一度は巡礼してみたいと念願している聖地があるのである。いわゆる四大聖地がそれだ。文殊菩薩の五台山、観音菩薩の普陀山、普賢菩薩の峨眉山、そして地蔵菩薩の九華山である。その中で最も西北、山西省に聳えるのが五台山で、日本仏教、殊に天台・真言の両宗、念仏系にとっては、極めて大切な聖地である。それは、日本天台第四祖、慈覚大師円
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者105そして、何かの殺気を感じた雄哉、真っ暗な景色の中に、動物らしき目がキラーンと光って見えた。直感であれは虎だろうなと思った。それから、宿舎の庭の真ん中でお加持を始めた。普通、お加持は真正面に向かってやるが、この時は、円形に拝んでいった。お加持が終わって、何事もなく玄関に戻っていったら、兵隊が雄哉のことをジーッと見て、ニヤーッと笑った。雄哉のしたことはよほど無茶苦茶だったんだろう。このことが雄哉が中台で一番印象
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者76雄哉は『歩く』ことに自分の生き甲斐を見出して、昭和の『生き仏』となった。人間は誰でも何か一つはとりえがある。そして『こころ』があるかぎり、どんな修羅の過去をもとうとも、その『とりえ』を生かして自分の人生を、発見し、たゆまず努力するかぎり、この世に『落ちこぼれ』という人間は存在しないことを、酒井忠雄、酒井雄哉大阿闍梨は自らの生きざまを通して教えてくれる。「行には、始めもなければ終わりもない。死ぬまで行をやるだけ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者71朝の会のメンバーは約十五人。「西村君、今度京都大廻りするから来てくれ」と雄哉にいわれたとき、西村は身ぶるいするぐらいうれしかった。それでも元気にお伴する朝の会と息障講の人たちの間に、いささかトラブルが生じたが、それをまとめたのはやはり渡辺だった。渡辺は、葉上照澄師のお伴をしたのが最初で、それ以来、勧修寺信忍、叡南覚照、小林栄茂、宮本一乗、光永澄道、内海俊照の各師と今回の雄哉を含め、戦後九人のうち八人までの阿闍
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者26「なにしろ明治以来しばらく途絶えていた常行三昧をやるというのだから、一人よりは二人のほうが、お互い声も聞こえるし、励まし合って心強いだろうと思って、一緒にやらせたんです。最初のうちは二人とも元気でしたよ。それが最後のほうになると、若い高川のほうの声が小さくなって、死にそうな感じなのでだいぶ心配しましたんだ。しかし、酒井のほうは変わらず、念仏を唱える声にも力がこもっている。そっとのぞいて見ると、合掌したまま、姿
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者17「酒井は、真面目なやつだから、なんとかなりませんか」という小林隆彰師の言葉に、「わしもそう思う。あれは古い形の最後の小僧となるのと違うか。山に置いとくことを考えてやらなくちゃなあ」と応えた高僧がいた。叡南祖賢師である。後に『叡山の傑僧』『坂本の和尚』と謳われた時の延暦寺執行職である。二〇二五年(令和七年)二月一日上任した第二五九世比叡山延暦寺藤光賢天台座主の師匠になる。現在の愛知県一宮市に一九一〇年(明治四十
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者14やがて無動寺谷・弁天堂の輪番は、隆彰師から『小寺文穎(ぶんえい)師』に代わった。この文穎師は、隆彰師の弟弟子にあたる。そして後に、忠雄の『学問の師匠』になる人物である。『酒井忠雄という人は、ふつうの信者さんと違うよ。面倒をみてやってくれ』隆彰師は、文穎師に伝えた。一九六五年(昭和四十年十二月)、比叡山は時折小雪が舞う寒い日が続いていた。京都の街は冬の冷え込みが厳しいが、比叡山の冬は京都よりも五、六度気温が低い
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者13「それじゃ、せっかく来たんだから、何かさせてあげよう」弁天堂に辿り着いた忠雄に隆彰師は言った。翌日「ここに来たのも何かの縁だから、仏さまにお参りしろ。ただし、お前のからだが穢れているから、下の滝に行って身を清めてこい」って言われ、仏さまの前で礼拝をさせてもらった。五体投地の『礼拝行』である。無動寺谷は千日回峰行の祖、相応和尚が庵を結んだことに始まる行の本場である。慈覚大師円仁が約十年におよぶ入唐求法の旅から帰
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者12宮本一乗師の姿に衝撃を受けた忠雄は、それまで以上に比叡山に上がるようになり、僧侶達も顔を覚えるまでになってきた。弁天堂輪番の小林隆彰師も目をかけ、忠雄の叔母も熱心な信者であることから、大阪に出かけた時にはちょくちょく忠雄が手伝う鉄工所を訪ねていた。山ではちょっとした手伝い事もし始めていた。ある日隆彰師から「あんたをずっと見てきているんだけど、ちっとも進歩していない」と言われてしまった。そして、「もうそろそろ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者⑪忠雄は三十代半ばになってから、大阪で仕事をしながら、折に触れて比叡山を訪ねるようになった。そのころは、なんだか気持ちがいいところだから通っていただけで、まさか坊さんになるなんて考えてもいなかった。一九六三年(昭和三十八年)、東京から末の弟昌幸(昌哉)が遊びに来たので、比叡山を案内してやった。いつものように歩いて明王堂あたりに差しかかると、妙にたくさんの信者さんが集まっていた。いつもと雰囲気が違っていた。何がある
「お返しの心」人間は奪わないと生きていけないもの。世の中はすべて奪い合う構造。なるほど、地球にお礼をしなければならないのですね。1日1篇「人生を成功に導く」365人の言葉Amazon(アマゾン)
阿闍梨【偲ぶ】❖小林隆彰望擬講大僧正遷化から一年今日(十月二十五日)は昨年九十五歳で遷化した小林隆彰大僧正の祥月命日であります。❖小林隆彰大僧正『終戦五十年(平成七年)に思う、宗教はいま』阿闍梨【番外編】から小林隆彰、望擬講大僧正滋賀院門跡、酒井雄哉大阿闍梨の『導きの親』である。令和五年九十五歳で遷化、その生涯は比叡山と共にあり、戦中戦後そして今の比叡山を語る上で欠かせない人物である。平成七年、自著『比叡の心』の中で「終戦五十年に思う、宗教はいま」とのタイトルで章を割いている。その言
阿闍梨【番外編】❖小林隆彰大僧正『終戦五十年(平成七年)に思う、宗教はいま』小林隆彰、望擬講大僧正滋賀院門跡、酒井雄哉大阿闍梨の『導きの親』である。令和五年九十五歳で遷化、その生涯は比叡山と共にあり、戦中戦後そして今の比叡山を語る上で欠かせない人物である。平成七年、自著『比叡の心』の中で「終戦五十年に思う、宗教はいま」とのタイトルで章を割いている。その言霊はそれから二十九年たった戦後七十九年を迎えた今も色褪せず問い続けている。終戦五十年に思う、宗教はいま平成七年八月四日、比叡山宗教
❖太陽が昇る国に何しに来た阿闍梨へ出家する前に、敬愛していた小林隆彰師の計らいで、生まれて初めて、二つの行をした。体を駆使する『三千礼拝』は無事に勤めたが、難しかったのは『般若心経の写経』だった。一日中座って、ただひたすらに一枚一枚お経を書き写すこの行に耐え切れず、阿闍梨さんは重ね書きという信じられないズルをしてしまった。小林隆彰師はそれを見抜き、哀しんだ。今度くるときまでに答えを出してきなさいと、阿闍梨さんに一枚の紙を渡した。その紙には、下のように書かれていた。ヒントは聖徳太子さん
【外伝】小林隆彰『比叡の心』4南こうせつの涙南こうせつというアーティストがいる。三十八歳まさに働きざかりである。今年五月八日、比叡山開創千二百年慶讃大法要の前夜祭として、開闢以来はじめて、根本中堂前で音楽コンサートが行われた。幅ひろいファンをもつニューミュージック歌手の中から、もっとも比叡山らしい人として、NHKの音楽芸能担当者は、加山雄三、南こうせつ、河島英五の三氏を推薦した。いずれも作詞作曲に勝れ、若人の心をとらえて歌い続けたキャリアはすごい。若い人に比叡山開創を知ってほしいという、
◇【外伝】小林隆彰『比叡の心』3瀬戸内寂聴小林隆彰大僧正瀬戸内寂聴権大僧正『般若心経はあげられますか?』小林師の目が笑っている。五十一歳で突如として出家した私が、仏教にも、天台教学にもまるで無智なのをお見通しの目であった。『それだけ、やっとあげれます』『ほう、大したものだ。じゃ、御一緒に、大きな声で』そうおっしゃると、三礼をして見せられた。私はその通り真似をした。あたりには私たちの他誰一人居ない。森閑とした堂内は暗く寒く、この上なく森厳だった。固い空気を破って、小林師の朗々とした
◇【外伝】小林隆彰『比叡の心』2瀬戸内寂聴『ふしぎな仏縁』瀬戸内寂聴昭和四十八年十一月に、今東光師の仏弟子として、中尊寺で出家得度させていただいた私は、十二月のはじめ、天台宗の総本山である延暦寺に登り、出家の御挨拶に伺った。叡山の十二月は雪に閉ざされて震え上がるような寒さだった。ただ無我夢中で出家して、剃髪した自分の僧形にま慣れ切っていない私は、墨染の衣を着ていても、何となく恥ずかしくていつも目を伏せて歩いているような状態であった。とにかく一日も早くから叡山へ登り、一山の方々に御挨拶
◇小林隆彰『比叡の心』1今年十月二十五日に遷化した比叡山延暦寺滋賀院門跡・小林隆彰擬講大僧正、酒井雄哉大阿闍梨の導きの親として、戦後比叡山の生き字引として比叡山一筋の仏道を歩まれました。平成七年比叡山延暦寺執行時の著書『比叡の心』から引用し、小林隆彰師の足跡をご紹介させて頂きます。夢一乗昭和十八年四月、師匠に連れられて初めて比叡山の土を踏んだとき、根本中堂の中庭に汚れた土塊のようなものがうず高く盛られているのを見た。あれは何ですか、と堂番の僧に尋ねると、雪だ。空から落ちて来るときは純白だ
◇自分の人生にお返ししていく、、人はだれもが、「おぎゃー」と泣いて、生まれてくるでしょう。生まれてきたときには、不純なものは何もないじゃない。年を取ってどうなろうが、この世の中に自分が生まれてきたということは真実。大切なのは、この世で命を授かったということなんだよ。お母さんから、命をいただいた、ということは、仏さまの世界から見たら人生に借りができたんだからね。いま生きている人は、いままさに大事なものをいただいているんだよ。いろんなできごとかまあって、喜んだり悲しんだりできるのは、生きているか
【訃報】本ブログでも、度々ご紹介させていただきました。酒井雄哉大阿闍梨の『導きの親』であり、戦中戦後の比叡山の『生き字引』として数々の功績を残された、比叡山延暦寺滋賀院門跡小林隆彰望擬講大僧正が十月二十五日遷化されました。謹んでお悔やみ申し上げます。南無宗祖根本傳教大師福聚金剛🙏[通夜儀]令和五年十月三十日[葬儀]令和五年十月三十一日滋賀院門跡にて、『阿闍梨に魅せられて酒井雄哉大阿闍梨13小林隆彰①』◇大阿闍梨を生んだ男小林隆彰①(酒井雄哉大阿闍梨)酒井阿闍梨の『導き
☆金閣寺で見かけた、べっぴんさん、、(酒井雄哉大阿闍梨)北台から西台に向かうと、山の雰囲気や景色、風の具合、ちょうど五台山の巡礼記とあまり変わらないんだな。その雰囲気を感じで、「中国は何千年も変わらないスタイルで、いろいろなものが残っていくんだな」と思ったんだ。西台から中台に入って、一泊した後、明け方には東台へご来光を拝みに行って、そこでお加持をした。ものすごくきれいでね。みんな感動していたね。なかには、太陽のパワーを吸い込むように、呼吸をしていた人もいたな。東台から南台までは距離がかな
☆中国地方巡礼伝統と先祖を大切にし、自然とともに暮らす人々、、(酒井雄哉大阿闍梨)【中国地方巡礼】平成六年六月十六日〜七月二日山口県の大恩寺を出発し、慈覚大師円仁が京都から唐へ渡った時に歩いた旧跡を巡礼、山陰、吉備路の六十六カ寺を巡拝。歩行距離は十七日間で、約六百八十キロ。中国地方旧跡巡礼は、山口県からスタートして歩いていったんだけど、あそこら辺の子どもはすごいよ。十人ぐらいが一緒になって、学校へダダダダッと登校している。そこへ僕たちの集団が歩いていくと、みんな一斉に「おはようござい
☆酒井雄哉は歩く和宮の東下り、(酒井雄哉大阿闍梨)二千日回峰行を満行した後は、なにも考えていなかった。みんなは、「どうしますか、今どんなことをお考えですか」って聞くんだけど、僕は「今日で終わったのかなあ」という感覚だった。「十二年の籠山が切れちゃって、どうしようかな、、、」と思っているうちに、「そうだ、今まで比叡山やお堂をぐるぐる回ってたから、これからは比叡山じゃなくて、日本行けるとこをぐるっと回ろうかな」と思ったんだ。それで、天台宗を開いた伝教大師さんが歩かれた足跡を歩こうと思って、
◇人生こそ無始無終の行、、(酒井雄哉大阿闍梨)二千日回峰を満行した、酒井阿闍梨は今、深い感慨の中で、「天台宗に偶然拾われて出家し、行というものにめぐり逢えたからこそ、わしのような『落ちこぼれ人間』もここまでこれたんや」と仏縁に感謝し、「人生こそ無始無終の行」という。「行には、始めもなければ終わりもない。死ぬまで行をやるだけだ。回峰行は人生の旅と同じで、谷もあれば山もある。雪や雨の日もあれば、爽やかな日もある。人生と同じや。そのときそのとき精一杯生きていれば、その人の人生にとってマイナス
◇常行三昧満行、普賢菩薩を感得する、(酒井雄哉大阿闍梨)酒井阿闍梨と高川師が「常行三昧」をしている時に、小林隆彰師は真夜中、ひそかにお堂を訪れた。「もしや万一」という懸念もあってである。真夜中の二時、山も谷も眠っている。お堂に近づいていくと、夜のしじまを破って、杉木立の彼方から、「なみあみだぶつ、なみあみだぶつ」と唱える二人の念仏が聞こえてくる。元気な声にほっとして、小林師は踵を返した。小林師は、そのときの様子をあかす。「なにしろ明治以来しばらく途絶えていた常行三昧をやるというのですから
◇比叡山を動かす小僧、(酒井雄哉大阿闍梨)最澄は「おのずから住めば持戒のこの山は、まことなるかな依心より依所(いしょ)」と詠み、心のあり方持ち方も大切だが、修行する依所(環境)が最も大切だ、として、比叡山を「山学山修」の修行の場にした。酒井阿闍梨は「依心より依所」の有効性を身をもって証明した。最初に酒井阿闍梨に出会った師である小林隆彰師は、「酒井君は、本当に小僧になりきっていたんです。将来住職になれるかどうかもわからない。なんの保障もないときに、四十すぎの大の男が食事の世話をし、皿を洗
◇得度坊主になる、弁天堂の輪番は「小林隆彰師」から「小寺文穎師」に代わった。酒井阿闍梨にとって新しい道が開けたのかもしれない。昭和41年12月、比叡山は時折小雪が舞う寒い日が続いていた。京都の街は冬の冷え込みが厳しいが、比叡山の冬は京都よりも五、六度気温が低い。谷をわたる風は鋭い刃のように肌を刺す。(無動寺弁天堂浴酒2018年)引用おごと温泉協会Facebookその中で比叡山の無動寺谷・弁天堂では、一週間にわたる『浴酒』といわれる天台密教の修法・お勤めが行われていた。真
◇小僧になる前に、(酒井雄哉大阿闍梨)大阪から比叡山まで歩いて「一大決心」を心に秘めて、小林隆彰師の元にたどり着いた酒井阿闍梨、このところ急激に変貌しつつある酒井阿闍梨の心をおしはかった。『それじゃ、せっかく来たんだから、何かさせてあげよう』ふつうの寺院は塀で囲まれていて、門がある。しかし比叡山には塀もなく、門はない。いつでも自由に出入りが出来る。それに修行の山という観念が一般あって、しばらく寺に住ませてほしい、という志願者がよく訪れてくる。無動寺谷は行の本場である。どの寺も格段にしつ