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もがく事を止めれば自然に浮くと言うがどうせ死にたい様な毎日だったのだから何もかもを明け渡してしまおうと決意したとしても事あるごとに自分主義の心されど未だ海の中にいるのにもう自分は岸に辿り着いている等と白昼夢に耽っている人よりは開かれている現象に囚われては気付かれ現象に囚われては気付かれされど自らは海の中でもがいている人ではない事実はもがけとも
自由は自分のしたい事をする行為ではなく無行為心は思い通りに行かない生に苛立つが創造に個人的関与なし自ら要求ばかりのおしゃべりな心ではなく背後の静けさ体験が変わる必要ではなく起きている事は自然現象個人が日々の従事に追われている時間世界は虚構であり生は時間の中の計画ではなく瞬間の愛の交わり人の日常と非日常的体験は同じ何時
スピリチュアルな人間になる必要ではなくスピリチュアルな探求の終焉どんなに崇高に見える教えでも特定の教義への傾倒や執着は純粋性への覆い手引きに距離なく自ら生の全体誰も一秒後の事さえどんな風が吹くのか知り得ないが自らは神に委ねるしかないお人形ではなく生命の自由個人にとり行為の主体は自分だが何かが起きている世界は起きている風に揺れている光景頬を撫でる
外部的な問題を一つ回避したところで根本的な事実が自覚されない限り別の個人的問題の状況が現れ人はその繰り返しの中関係性の問題は生に対する自分そのもの本来全てから独立して存在する何もなく充足に関係性は関係ない外部環境は内部環境であり距離なき自覚により関係性の問題は存続し得ない全ては在る様に在るのであり存在の愛は何も排除しない生は解
『仏教は宇宙をどう見たか』佐々木閑・著私たちは常識的なとらえ方として、たとえば「石を見る」場合なら、まず石という一個の物体が存在し、その石を眼で見れば「石のいろやかたち」が認識できるし、その石に触れば「石の肌触り」が認識できると考える。つまり「いろ」とか「かたち」とか「肌触り」はすべて、石という一個の独立した物体が持つ属性にすぎないのであって、実在要素ではないと考えるのである。しかし『倶舎論』の物質観はその逆である。実在するのはその「いろ」や「かたち」や「音」の方であって、
意識的になるにつれ他者のネガティブな目がより一層自分を攻撃してくる様な感覚強まり意識的に在りたい心とは裏腹にネガティブに呑み込まれ自己嫌悪個の視点基点に生が体験されている限り世界の影響は免れないが全ては見かけ個々の存在が間違いではない攻撃してくる人も奪おうとしてくる人も人が外に見ている世界の中に誰もいない徹底的に独り苦しみを
実存以外が体験される事はあり得ない心は世界を対象的に体験するが内と外は同一どうやって生計を立てようか等の個人的問題は事実において存在せず実存無限限界は虚像実在する個人は誰もなく内なるものが外なるもの天地は分かたれていない
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個人は自身の存在の意義を求めるが意味付けられた世界に実際の意味はなくなぜなら世界は表現世界の中で得る満足は永遠ではなく真の充足は存在の実質個人の生は活動の部分であり部分は変化しゆくが全体は微動だにせず世界の非実在性を人が信じようが信じまいが物質として固定され存在する世界はない個人が活動する世界は見かけであり自ら創造と破壊の活動的
真実の語り場が起こりされど言葉は事実を捉え得ない言葉はすでに二次的語り手も聞き手も起きている光景の中の住人であり事実は不動事象に影響されない自由は自らの自覚により実際に生きられる愛が全てで在り愛は無償ただ存在し求めていない自らは光景の中の住人ではなく不動の事実
心は自分が望んでいる自分の印象を相手に受け取ってもらいたいと望むがどんな自分も一過性の印象に過ぎず印象は実在ではない個人に感じられている自分の印象の重要性は自分を自己としている錯覚ゆえであり得たり失われたりする幸福感は架空のもの他者に自分を印象付けようとしている向かい側にもこちら側にも誰もなく関係性は意識の一人芝居世界は壮大な思考でありされど自分の思考ではなく
他者のルールで生きる必要はない他者の固定観念への批判ではなく批判の対象が存在しない生きる窮屈さは世界のルールではなく想像の中以外には世界は存在しない束縛は観念ゆえに体験の因果関係なく豊かさの享受は即時豊かさの享受に時間なくすでに在る有限の世界は無限の反射
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何かに気付いているものが個人であり気付きは分離の体験分離が起きていないとき気付いている人はいないより気付いている必要ではなく気付き以前自覚は時間と空間の錯覚の終焉実存気付き以前の純粋生命
人の現実では自分を尊重する事の大切さが謳われるが自分を大切にすべき等の議論以前に議論の題材が存在しないこれは信頼に関するが信頼する必要性ではなく自ら全てで在る生命そのもの自分の存在以前に世話は為されている自己の不在において自分についての議論は不毛であり起きている事は生命の遊戯生命そのものは個人に何が体験されていようとも全く関係のない永遠の
人は自身に向けられたものとして出来事を体験するが体験は誰にも向けられていない自分は自分を感じながら体験を経験しているがその自分は表現探求者にとって探求は実在する現実だが探求が起きている中には誰もいない探求は物語であり教義を通して真実に辿り着こうとしている探求者の存在は虚像探求者にとって師は実在する人物だが師に生徒は存在しない事
思考は日常と神秘を分類するが日常と神秘は分けられていない日常が神秘体験神秘が表れている日常は個人の目には既知に映り実は自分は何も知らない事を個人は知らない思考は自身に理解されている事が実は事実ではない事を気付かれるのを避ける個人に起きる一瞥は体験の一つであり個人に為される理解は知られる範囲内心は体験に執着するが存在は体験ではな
このお話は、昭和50年ごろから平成にかけての私の実体験を元にしたストーリーです。実在した当時、18才で事故死した先輩K氏の存在感をいろいろな視点から書いて見ました。彼の生きていた存在感をいつまでも残しておきたかったということから書き始めました。最後にちょっとだけ登場するミワさんも実在した方です。その後、10年ほど親友として仲良くさせていただきましたが、難病だったために12年前に永眠されましたそのミワさんが亡くなりお寺に納骨に行った帰り雨上がりで3連の虹を見ました天空からありがとうっ
自らは対立するどちら側の人間でもなく立場なきもの善も悪も正しいも間違いも肯定も否定も観念全ては一なるとは対立する他者も自分という意ではなく他者も自分も実在しない個人とは見かけでありその存在に全く重さはない誰も本当に実在してしないのかという議論は事実において無意義であり事実は概念以前個人的に生が捉えられている限り自由はない概念
人の混乱は全く実在していない事に気を揉んでいる様子明日や明後日がどこに存在するのか全ては今にのみ存在し今さえも実在しない時空間は錯覚世界は心の中にのみ存在し心の外では何も起きていないゆえに思い煩う必要は全くない全ては身から出た錆でありされど錆の原始は錆ではない人の視線が他所を向いているがゆえに見過ごされているだけで愛が全て
存在は世間に発見される必要はない世界で活動している覚者達の様に発見され同じ様に成る必要はないその心の物語つまり世界の不在が事実において明かされる存在は成る必要なく全て人がどこに行き何をしていても在るは同じ在るは何者でもない全体性
今のこの世界、なにか確定的なことはあるかな絶対的に信じられる、または絶対的に信じることに値するもの。そもそも物質で「かたい」とおもっていたものが、実は実体のない素粒子でできていた。このからだも、素粒子のかたまりで集合体。それらが高速で動いて、それを私たちが「固体としてある」と認知していただけ。科学ではわからないことだらけ。論理的科学的、エビデンスエビデンスいうけど、万物のもと、素粒子のことも解明できないのに証拠もなんにもない。私という人間も、科学的に、いま素粒子が集まって、私を
怒りを抑えて寛容さを心掛けなければと考えるが心怒りを抑えて微笑んでいるその人は自然ではなく心は自然に反し自然に調和していないゆえに苦しい観念から態度を繕うその人は自然への抵抗者その人はどれだけ善人を演じても現実は完全に満たされるわけでもなくむしろその人にはより一層生は理不尽に感じられるゆえにその人がどの様な態度でいるかではない自然への介入者は
記憶とは如何に曖昧でご都合的なものか故にただの幻想にすぎない
戦わないことは我慢する意ではなく我慢を強いられていた観念からの自由個人は観念であり観念は虚像個人に体験されている世界はすでに作られた観念であり自分の体験を自分はコントロールできない何が体験されていようと自分を卑下する勿れなぜ私の体験はこの様なのかではなく体験者錯覚体験される対象は自らではなく自らは体験されない体験はいつも優しいわけ
「偉い自分を切り離す自明行」「被害者意識を止める自明行」と「偉い自分を切り離す自明行」は、二大錯覚ベクトルと言われております。被害者意識と偉い自分意識を消す自明行は、とてもしぶとく重要な行です。しかし、完璧に消す、そんなことは出来ないのですけど、この二つが運命を下げる、おおきな錯覚ベクトルであると、知っておいてください。人は、誰でもとてつもなく偉い自分意識を持っております。子供のように「俺は世界で一番偉い!」って山に登って叫んでるわけです。「俺は何でも知ってる、スー
どんな事態にあろうとも戦わない慣れ親しんだ解釈はその事態を問題として扱うかもしれないが思考には事実が見えていないだけ生は未知起きている事に対する自分が実在しないものであり心に生がどの様に解釈されていようと解釈は起きている観念に過ぎず生は理解ではない理解ではなく遊戯心は理解を所有したがるが個人はその表れ以上の何でもなく起きている表現