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【被爆80年私たちに問われていること…その②】NHK広島「被爆80年プロジェクトわたしが、つなぐ。」のテーマソングは「言伝-ことづて-」。広島県出身のポルノグラフィティの二人が制作しました。半年以上かけ、様々な人や事実との出会いを経て完成した歌です。「怒り」を「祈り・願い」へと昇華させていくイメージが歌詞に込められました。歌詞は、原爆投下から3日後に走った「一番電車」がモチーフになっています。その一番電車で車掌を勤めたのは、島根県大田市出身の笹口里子さん達でした。
洗足学園中学の修学旅行は長崎を訪れる。高校の行き先は京都であるが、歴史の理解を深めてから訪れた方が京都はより効果的という理由らしい。その話はまた別途するとして、中学の修学旅行、正式には平和学習と呼ばれ、単なる観光旅行に留まらないところに洗足らしさがある。数年前までは長崎のお嬢様女子校である活水女子と連携していたが、いつのまにか長崎No.1進学校の青雲学園と交流を始めていたのである。これを進化と呼んで良いものかの判断は任せるが、当日意見交換をして終わりという単純な話ではない。行く前から
【ふるさとにあった戦争を知る貴重な記録が生まれました】2025年3月19日付けの山陰中央新報に、「阿用の郷土誌が完成」という記事が掲載されていました。その記事によれば、「雲南市大東町阿用地区の歴史や文化を後世に伝えようと、住民有志11人が郷土誌「ふるさと阿用」を完成させた。地域自主組織・阿用地区振興協議会の事業で、地域に残る伝承や戦時中の記憶などを写真を交えて分かりやすくまとめた。太平洋戦争前後を生きた住民の体験談も記した。B29のサイレンを聞いて近くの森に避難した話や、飛行機に乗った
こんにちは笠井綾華です昨日は長岡青年会議所のメンバー向け平和学習で、司会をしてきました🕊️長岡市は今年で長岡空襲から80年という年になります。ここまでたくさんの人たちが長岡空襲のお話しをされてきたのではないかなと思いますが、語り部である空襲から随分経つので空襲体験者の方もご高齢で、すでに他界されていたりする方もいます。空襲の悲惨な経験というのは、きっと語るのも嫌なのではないかと私は思うのですが、次の世代に伝えていかなければならないと、語り継いでくださった皆様には感謝
【被爆80年私たちに問われていること…】NHK広島放送局では、被爆80年を迎える2025年に「被爆80年プロジェクトわたしが、つなぐ。」を展開中です。特別番組の制作・放送、被爆者たちの声や手紙を番組やホームページを通じて伝え、原爆被害の実相と核のない世界の実現を訴えています。NHK広島「被爆80年プロジェクトわたしが、つなぐ。」のテーマソングはポルノグラフィティが制作しました。歌のタイトルは「言伝-ことづて-」。半年以上かけて制作された歌です。その制作過程では、被爆
今日は「長崎原爆を知る」の29です。人が生活している場所めがけて原爆を落とされた国は、私たちの住む日本だけです。1945(昭和20)年、アメリカ軍は8月6日に広島に原爆を落としました。その3日後8月9日には長崎にも原爆を落としました。この事実を、もっと知ろうと思えば知れる、そのためには現地に行ってみることがよいと思い、広島へ、長崎へ、撮影旅をしました。本シリーズは長崎編です。写真の撮影は2019年ですが、今の解釈で現像しています。よろしければ写真での平和学習の旅を、ご一緒
いつもブログを見に来て下さり、ありがとうございます。見て下さる方がいらっしゃるかと思うと、拙いブログですが励みになります。本当にありがとうございます。広島赤十字病院は原爆投下時、爆風で窓枠が変形してしまったらしい。今でも、その窓枠が展示してあると聞き、見に行って来ました。1993年に老朽化により解体されましたが、窓枠は残されました。北側の窓枠は内側に、西側の窓枠は外側に湾曲しています。ガラス片の刺さった跡のある壁も。こちらにも、ジュノー博士の碑があります。沢山の犠牲者を出しま
気がつけばすっかり春の陽気になって、桜がひらきはじめました・・・今日は、先日のブログに書いた通り、保土ヶ谷公会堂の翌々日の松本正さんの被爆証言について、ご報告します。この日は横浜市旭中学校に。卒業間際の中学三年生全員に向けて、94歳の松本正さんが被爆証言をされました。受験が終わった中学3年生のみなさんが卒業するまでの特別時間割、そこでの”命の授業”です。【写真撮影:三田政明】司会は生徒さんがしてくれました。私はともに壇上にあがらせていただき、はじめに松本
遅くなりましたが、一月のご報告です。今回は、東京都のとある中学校に呼んでいただきました。ここ数年、三田と私が参加している最首塾でお会いした三田の大学の後輩にあたるI先生が「松本正さんの被爆証言をぜひうちの学校で」と言ってくださり、できれば「ひろしまのピカ」も一緒にと、平和学習としての時間を取ってくださったのでした。時間になると、教室は生徒さんたちでいっぱいに。先生たちも、保護者の方も、駆けつけてくださいました。はじめに、元特別支援学校教員・三田政明の「ヒロシマの原爆と丸木
学童集団疎開生活の実態を解明する上で、当時の疎開生活の実際を記録した児童・引率訓導による手記・絵は貴重な資料になっています。この本には、東京女子高等師範学校附属国民学校〔現・お茶の水女子大学附属小学校〕の昭和19年8月21日から昭和21年3月までの1年7カ月にわたる疎開生活〔東京・久米川と再疎開先の富山県福光〕の様子が描かれています。〇防空演習で防空壕に入る各自の場所を決めた後、先生からの言葉は…「ここがみんなの死に場所だ。ここを墓場だと思っていなさい。」〔1944.10.20〕〇家