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2024年2月6日のブログで、絵本『赦しの花』にまつわるお話を紹介しました。手紙とともにいただいて大切に保管しておいた朝顔の種を、4月の終わりに植木鉢に12粒ほど蒔きました。それから2週間近くかかったでしょうか。4月30日の朝、植木鉢を見るとなんと双葉が出ているではありませんか。この夏に花を咲かせ、種を少しでも多く収穫して、私の友人に広げていきたいと思っています。もう少し芽が出てくるのを期待して、毎日玄関前に置かれた植木鉢を眺める日が続いています。時々、このブログでも紹介していきたい
2024年4月27日(土)の午前中、予定通り出雲市日御碕にある高尾山へ太平洋戦争時の戦争遺跡を巡りながらの登山を実施しました。出発当初は曇り空で気温もあまり上がらず、心地よい風が吹き通る若葉のトンネルとなった登山道をゆっくりと登りました。この高尾山道路では、昭和17年(1942)の1学期、日御碕国民学校の3年生以上の児童が、数回にわたって砂やレンガを運び上げる勤労作業に当たりました。地元の日御碕の人々や大社中学校、高等女学校の生徒、近郷の青年団、簸川郡や出雲市の生徒たちも、毎日入れ替わ
いつ我が家へ帰ることができるか知れない旅にでるいつ家族が戦争で命を奪われるか分からない日々を過ごす今日交わした明日の約束が保障されない明日が訪れる今を生きる子ども達が、とても想像できない日々を体験した小学生がいたことを知ること。この事実との出会いや学びは、今を生きる子ども達の「戦争を身近に感じる・考える入口」になるはずです。「学童疎開」について、児童が直接手に取って考える資料にはどのような書物があるでしょうか。現在、私の手元にある資料を紹介します。〇『字のないはがき』
自身の学童集団疎開の体験をまとめた『僕の戦争/三宿小学校の学童疎開』川原基尚・川原芳子・文芸社2023という書籍があります。東京都世田谷区立三宿国民学校は、8月13日に長野県東筑摩郡山辺村湯原温泉へ集団疎開のため出発しました。筆者は当時6年生で、その時の自身の記憶や友達が書き残した日記の内容が紹介されています。【出発の様子】〇出征兵士の見送りのような雰囲気の中、万歳の声に送られて出発した〇家の工場の人たちのたくさんの提灯に見送られた〇母は、わが子と生きて会えなくなるのではと思い
息子は中学から続けている部活が忙しくほとんど一緒に旅行などに行くことができません部活が生活の大部分を占めていて長期の休みなども殆ど部活今部活の中心は高校2年生なので部活を休んでどこかへ旅行に行くなら1年生のうちの今年がラストチャンス❗️という事でどこに行きたいのか尋ねるとドイツ、ポーランドとの事歴史に興味があるようで特に独ソ戦について。。。私には全く理解できませんが夏にアウシュビッツとベルリンへ行く事になりました社会人の兄もアウシュビッツならオレも行きたい!と
〈社説〉2024・4・25「世界平和の碑」除幕40周年2024年4月25日希望の未来へ一人立つ勇気を那覇から車で1時間。沖縄でも有数の美しさを誇る恩納村の海沿いの、リゾートホテルが並ぶ通りから山側に入った先に、沖縄研修道場がある。ここに立つ「世界平和の碑」は、かつて米軍の核ミサイル「メースB」の発射台だった。第2次世界大戦後、27年間、米国統治下にあった沖縄は冷戦中、1300発の核兵器を有するアジア最大の核拠点と化した。米ソの全面核戦争が危ぶまれたキューバ危機(1962年)の際には
8月5日(月)に開催予定の教員研修「集団疎開体験者の証言を聞く会「大社へ集団疎開した本田国民学校の子ども達」」の講師の方を島根に迎え、研修内容の打合せや研修会場の確認等を実施しました。ご本人のご希望により、当日と同じ航空便・宿泊ホテルで島根においでいただき、まず最初にホテルのロビーで約1時間30分にわたる打合せを行いました。事前にお送りした研修会スライド資料をもとに、どのようなお話をしていただけるかひとつひとつ確認しました。講師の方のお話を聞かせていただきながら、この貴重なお話がい
「戦争が終わった次の日を見ることが、あたしたちにはあるのかしら?」『あの日のオルガン~疎開保育園物語』久保つぎこ・朝日新聞出版201を読み終えて、一番印象に残った言葉でした。太平洋戦争末期、東京から埼玉県南埼玉郡へ集団疎開した恩賜財団大日本母子愛育会の疎開保育園の保育士であった福光えみ子の言葉として紹介されていました。いつ終るか知れない連日の空襲による恐怖と絶望、24時間保育による重労働、食料不足、睡眠不足の中で、20代前半の若い保育士達のまさに「保育士たちの戦争」を描いた物語で
小学校広島中学校長崎共に平和学習どれだけ鶴をおったかわからない。昭和生まれの宿命かな…。
毎年、朝日新聞社は教育特集「知る原爆」「知る沖縄戦」「知る水俣病」を発行しています。今年度の無料配付の案内が、4月16日にホームページに掲載されました。「知る原爆」は主に小学生以上が対象の資料です。漫画「はだしのゲン」作者の故・中沢啓治さんのインタビューや、広島、長崎修学旅行ガイドなどが盛り込まれています。広島への修学旅行の事前学習資料として最適かと思われます。希望する学校は、希望する特集名の「知る原爆」、学校名と住所、電話番号、担当者名、必要部数を記入して、ファクス
小学校での平和学習のお手伝いとして、大阪から島根にやって来た集団疎開についてお話しています。昭和19年年には国民学校の3~6年生の児童が対象となり、昭和20年3月には1~2年生も参加対象になりました。私の説明を聞いた子ども達から、「どうして1~2年生は、最初疎開の対象にならなかったの?」という質問を受けることがあります。小学校低学年の児童は、身のまわりの支度が自律できておらず、引率の先生だけでは管理が難しいことが一番の理由だったと思われます。「防空訓練の足手まといにならぬ
滋賀大学経済経営研究所が主催してリユース市が開催されています!クリアファイルそれから小鮎の絵が描かれた器をいただきました!こういう企画がどんどん開催されると嬉しいな学生の自主企画はじめ、活発な滋賀大学復活へ!お昼は数ヶ月ぶりに大盛りうどん!滋賀大学生協のおうどんは出汁が本当に美味しい!機会があれば是非皆様にも食べていただきたいです!台湾からの交換留学生からいただいたお茶!開けた瞬間に甘い香りが!給水機のおかげでゆっくりとお茶を楽しめますね!18:00からは生協の理事会
昨日の続きですパー子が今回ご提案した観光プランは2つ1)平和公園宮島2)平和公園大和ミュージアム今回はどちらのプランにしたかというと…平和公園からこの船に乗って宮島へ行くことにしました平和公園から宮島へは…路面電車(orタクシー)+JR+フェリーでも行けますがコチラの船だと乗り換えなしで行けます時間は45分程度(料金はJRで行くよりちょっとお高め)便数も多いのでとても便利ですよ(この船は予約制です)あかつきサンはお仕事の時間も
島根県出雲市立荘原小学校の校地内には、古墳時代中期の「神庭岩船山古墳」があります。全国的に見ても、校地内に古墳がある学校はめずらしいのではないでしょうか。この古墳は、昭和43(1968)年に島根県指定史跡になった前方後円墳です。後円部頂上には長さ2mあまりの来待石の舟形石棺の蓋があり、古墳時代中期の出雲地方では規模の大きな前方後円墳です。しかし、太平洋戦争の際にこの古墳の北側(校庭側)に2ケ所の防空壕が設置されました。掲載した測量図の北(下)に確認できる二箇所の掘り込み跡が
太平洋戦争末期の昭和19(1944)年9月、大阪市西区にある国民学校14校の学童約3,000名が島根県に集団疎開しました。あれから80年という月日が経過しました。当時の国民学校の児童たちは、ふるさとや親元から離れ、見知らぬ土地で戦禍を逃れ、厳しい環境の中で疎開生活を続けました。学童疎開実施80周年を記念して、小学校教員対象の研修会「集団疎開体験者の証言を聞く会~大社へ集団疎開した本田国民学校の子ども達」を8月に開催します。今年2月に大阪へ出かけ、中山耕一さんとお会いして講師依頼をし
太平洋戦争末期の昭和19(1944)年9月、大阪市西区にある14の国民学校の学童約3,000名が島根県に集団疎開しました。それから今年で80年という月日が経過しました。当時の国民学校の児童たちは、ふるさとや親元から離れ、見知らぬ土地で戦禍を逃れ、厳しい環境の中で疎開生活を続けました。集団疎開実施80周年を記念し、小学校教員対象の研修会「集団疎開体験者の証言を聞く会~大社へ集団疎開した本田国民学校の子ども達」を開催します。この研修会は、PIECEofPEACE島根教師の会、島
平成30年12月11日作者:hello,myfriend!IamsohappythatyouvisitedHiroshimabecauseHiroshimaiswhereIliveandaniceplacetolearnpeace.Andthankyouverymuchforlisteningtomyguideandtalkingwithme.(よっ、俺のだち!広島を訪れてとてもうれしかった。なぜなら、広島は俺が住んで
太平洋戦争中に日御碕にある高尾山周辺には、陸海軍の見張所やレーダー基地が建設されたという歴史があります。「PIECEofPEACE島根教師の会」の今年度の研修会として、2024年4月27日(土)に、戦争の遺跡を訪ねながら登山を実施します。360mほどの高さで、資材荷揚げのために造られた登山道です。比較的勾配の少ない登山道になっていて、登りやすい山です。当日の様子は、あらためて紹介したいと思います。天気になる事を今から祈っています。今回は、周辺地図を紹介したいと思います。【高尾
過去の出来事を知るための方法は、残された文献資料や体験者の証言があります。官庁が作成した資料の信頼性は高いものがありますが、次のような証言に出会い、歴史の実際は様々であることが分かりました。大阪西区・九条北国民学校の学童は、戦禍を逃れて昭和19年9月に島根県東林木・西林木村へ集団疎開します。「6年生男子は、出雲市西林木町にある龍善寺を学寮とした」の記録があります。これは、『大阪の学童疎開』(赤塚康雄・クリエイティブ21)に記載されている記録です。しかし、当時九条北国民学校6
国立国会図書館ホームページに掲載されている「史料にみる日本の近代~開国から戦後政治までの軌跡」には、「歴史史料とは何か」について説明するコラムがあります。その中に「史料の種類・区分」についての説明があります。それによると、「史料は一つ一つ、歴史研究を行う上での有効性・信頼度(信憑性)が異なり、これを見極める作業を「史料批判」と呼ぶ。文献史料を例にとると、その目安となるものは、その史料を「いつ」「どこで」「だれが」書いたか、の三要素であり「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充た
明日3月29日(金)から、全国一斉上映される映画があります。その映画は「オッペンハイマー」。映画の公式サイトには、次のような映画のストーリーが紹介されています。「第二次世界大戦下、アメリカで立ち上げられた極秘プロジェクト「マンハッタン計画」。これに参加したJ・ロバート・オッペンハイマーは優秀な科学者たちを率いて世界で初となる原子爆弾の開発に成功する。しかし原爆が実戦で投下されると、その惨状を聞いたオッペンハイマーは深く苦悩するようになる。冷戦、赤狩り―激動の時代の波に
冬休みに続いて春休みも今回春休みは職場の労組主催の平和学習で広島へ福岡からは3人の男の子参加1人じゃなくてよかった日本全国から新5,6年生30人弱のお友達が集まります三泊四日の親元離れて戦争の恐ろしさと平和の尊さを学ぶ頼もしく参加して親の私もスゴイなって感心します冬休みの能古島自然教室参加の時は旅館で大部屋に皆で寝てたみたいだけど今回はビジネス🏨で二人部屋スタッフの方が隣の部屋ではあるが寝れてるのか心配しかし広島の被爆者とのお話や平和資料館や平和公園での学びは息
2024年度が間もなくスタートしますね。新年度、新学期、新入職員、新入生…と、世の中全体が華やぐ4月を迎えようとしています。各学校においては、新年度の教育課程がスタートします。小学校6年生の修学旅行や、それに関連する平和学習の計画も具体的に検討・実施されることと思います。私たちの会が提案する「私たちのふるさとに戦争があった頃」の授業実践が、より多くの学校で実践されるように新年度も声がけや情報提供を積極的に進めていきたいと思います。今年は戦後79年目、そして学童疎開実施80年
PIECEofPEACE島根教師の会では、毎年研修会を実施しています。今年度は、「旧海軍大社基地遺跡群のフィールドワーク」を開催しました。新年度第1回目の研修会は、出雲市大社町日御碕にある高尾山への歴史探訪登山を行います。太平洋戦争期の高尾山周辺では、海軍特設見張所やレーダー、高射砲の設置が行われました。今回の登山では、現在も点在するレーダー跡や特設見張所跡、兵舎跡を見学しながら頂上を目指します。今回の研修会への参加は、駐車場狭隘の関係から会員とその関係者に限定して実施する予定です
偶然見つけたYoutubeの動画で【ReHacQvs東大生】戦争が壊した記憶!甦れ【AIと対話で奇跡の復活】というタイトルがあり、視聴してみる事に、、、幼いことに平和学習が苦手だった庭田杏珠さん。現在の平和記念公園にあたる中島地区がそんな庭田さんが戦争や平和について考えるきっかけになたっという。戦前の白黒写真をAIによってカラー化できたとしても、心に残っている色までは表現する事ができない。記憶の解凍プロジェクトとして、対話を通じてよみがえった写真がたくさんある。早速
広島撮影旅2024の3日目、最終日の後編です。今回で最終回です。まず、広島市郷土資料館の続きからです。今日もよろしければ、平和学習をご一緒しましょう。この写真は、広島市民の推移をグラフ化したものです。1945年に突然減っているのはアメリカ軍が広島に原爆を落としたからです。昔の「食」に使う道具が置いてありました。郷土資料館って普通は戦争の展示よりもこういう展示が多いですよね。原爆がいかに大きな影響だったかを感じます。ちなみに写真
太平洋戦争末期の昭和19年9月~20年11月まで島根県で疎開していた大阪西区・西船場国民学校の子ども達。佐藤納先生は、5年生女子30名の担任として島根へやって来ました。西船場国民学校は、昭和17年4月に靭(うつぼ)校と東江(とうこう)校が統合して誕生した学校です。統合の前年に靭校に赴任していた佐藤先生は、担任していた4年女子クラスの児童をそのまま持ち上がり、昭和19年3月に西船場国民学校の卒業生として見送りました。その後に4月から5年生女子2クラスのうち、靭地区居住のクラス担任
2024.03.19付の山陰中央新報「こだま欄」に、雲南市・泉岳志さん(29歳)の「戦争の記憶継承の方策探る」と題する投稿が掲載されました。今から79年前の1945年3月、太平洋側にある日本の大都市は次々と空襲を受けました。3月10日は東京大空襲、12日は名古屋大空襲、13~14日は大阪大空襲、そして17日は神戸大空襲です。投稿者の泉さんの祖母様は、名古屋の空襲で焼夷弾による火傷を負われ、孫の泉岳志さんはその体験談を直接聞かれたということでした。泉さんは、戦争体験者の減少を目
2日目は平和記念公園をまわることにしました。平日だから人少ないかと思ったら、やっぱりそんなことはなく、なかなかにぎわってました。最初に行ったのは平和祈念資料館です。平和学習にちょっとおつきあいくださいませ。(刺激の強い写真はいちばん最後にまとめてます。)広島に原爆投下されたのは、1945年8月6日午前8時15分です。写真中央の建物は、最初は「広島県物産陳列館」という名前でした。展示即売会をする場所、という感じです。その後に「広島県立商品
太平洋戦争末期の昭和20(1945)年になると、B29による島根県東部沿岸地域への機雷投下が行われるなど、敵機の姿を目にする機会が増えてきます。大阪西区・西船場国民学校の6年生女子が寄宿していた喜見寺学寮(出雲市斐川町黒目)で、防空壕を掘る事が決まったのが昭和20年5月頃であったようです。『出東だより第4巻』には、「壕もみんなで掘っています。もうすぐ私(佐藤納訓導)の背より深くなります。水がたまるとなかなか乾きませんが、いざという時には水ぐらい気にしないでしょう。何よりも爆風を防ぎたい