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少しずつ話さなくなっていった母。術後2ヶ月経った頃には、話してもぽつり、ぽつり、単語のみになっていった。顔の表情もない日もあって、意思疎通はできているような、できていないような。よくわからない状態だった。でも時々いつもの母に戻った。病院の談話室にいる母に近づいて行ったときの満面の笑顔。台風で会社が早く閉まることになって、病院に寄ったときの「早く帰りなさい。」私が冗談を言ったときの「また、バカなこと言って。」夫がスマホを忘れて病室に戻ったときの「⚪︎⚪︎くん、ありがとう。」ひょっ
昨日は母の命日だった。もうあれから丸6年。母なしで過ごした6年。この間に犬と暮らし始め、家を建て、地元を離れた。犬と遊びながら、母なら「お芋さん持ってきたよー」って可愛がってくれたんだろうな、って思ったり、ここに遊びに来たら海沿いを一緒に散歩して、母なら少し離れたお寿司屋さんまで歩いて、帰りは直売所で買い物して帰ってくるんだろうなって想像したり。心の中にはちゃんと確かにいるんだけど、移住先の人は私の母のことを知らず、愛犬と母の写真は存在せず、私の未来にも母の身体は無いわけで、やっぱり
検査入院をした大学病院で脳腫瘍が発覚した母。疑わしい箇所だけではなく、全身検査をしてくれたようで、その結果乳がんと歯の欠けも見つかった。乳がんは細胞診をして詳しく検査。かなり小さいことと、年齢的に進行はとても遅いだろうということで様子見、無治療になった。歯の欠けに関しては大学病院内で3回ほど治療をして、ブリッジを作ってくれた。結果的に、母は脳腫瘍の術後、普通の生活に戻ることはできなかったので、あまり装着することはなかったけど、少しでもQOLを上げるために入院中にベストを尽くしてくれ
父は最期を病院で迎えた。ホスピスだったので、家族はいつでもずっと一緒にいられたし、環境も整っていたし、看護師さんやお医者さんもとても優しかった。でも胸の奥にちりちりする感情はずっと残った。父がこだわって建てた家。父が一生懸命働いてローンを返済してくれた家。家族の思い出がつまった家。犬のいる家。そこで最期を迎える選択肢はなかったんだろうか、と今でもどこかで思ってる。ホスピスが父の選択だったとしても。だから母の最期は必ず家で、と決めていた。そのために私と夫は実家へ引っ越した。
病気がわかって5ヶ月後ぐらいに母はまっすぐ座ることができなくなった。最初は少し傾くぐらいだったので、クッションひとつでなんとかなっていたけど、段々と車椅子からずり落ちそうな傾きに。途中から4つぐらい使うようになった。毎日畑に行き、マレットゴルフで優勝し、旅に行けばとてつもなく歩いていた母は健康が自慢だった。でも脳の病気はまっすぐ座ることさえも母から奪った。病気だけではなく、動かないことも原因のひとつだと思う。骨太だった母は痩せて、体幹までなくなったんじゃないかと感じた。何十年も
やってきた転院の日。私は仕事だったので、姉が付き添い。母は車椅子に乗って、介護タクシーで家の近所の脳神経外科へ移動しました。仕事終わりに会いに行ったその病院は、夜なのもあり想像通り薄暗く、個室の部屋ももの悲しく感じた。その頃の母は、割とぼんやりしていることが多く、病院については何も言わなかった。その数日後、私の仕事が休みの日、姉と2人で担当医と面談の約束をしていた。時間通り担当医の前へ。おじいちゃん担当医は私たちが目の前に座っているにも関わらず、数分間ガラケーを触っていた。話し始
手術前は体調の悪さや身体の異変はあったものの、母はいつもの母だった。ところが、術後はたまに違う世界にいるようになった。実家にアシナガバチが住みついた話をすると、数日後には病室にも蜂が現れ怖がるようになった。来ていないはずの親戚がお見舞いに来たことになっていたり、若い男性の看護師さんが子供をたくさん育てるシングルファザーになっていたり普段全く電話しない人に電話をかけて、通じてるのか通じてないのかよくわからない会話をしたり。中でも1番多く登場したのは父。一時期、病室では父がいるのが当