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いよいよ退院当日。思った以上に荷物が多く、もたつく我々。予約してあった介護タクシーが早く来たのもあり、待ち時間の追加料金がかかってしまった母は誰にでも丁寧ににこやかに挨拶をする人だったけど、退院時はぼーっとしていてお別れもせず。姉は自分の車で、私が一緒に介護タクシーに乗り込みいざ我が家へ。恐らく最後になるであろう近所の景色を母に見て欲しかったけど、車内でもぼーっとしていて、体も傾き、残念ながらほぼ外は見ていなかった。ほんの15分ほどであっという間に到着。母にとっては念願の我が
いよいよ退院準備。母は介護5と認定されたので、まずケアマネージャーさんに相談。その後は、全てケアマネージャーさんが手配をしてくれた。レンタル会社:介護ベッドや車椅子、玄関の階段用のスロープをレンタル。車椅子で出かけることはなさそうだったので、退院後スロープはすぐにお返ししました。訪問医師:個人のお医者さん。淡々としていて話はわかりやすい。家で最期を迎えたい人のために日々忙しくされていた。介護員:母の食事の介助や身の回りのことをしてくれる人。退院前に病院へも様子を見に来てくれた。介護
転院した近所の脳神経外科には男性職員がいた。行っている仕事から判断すると、看護士さんではなく夜の介護士要員として働かれているようだった。身体は大きくはないけど、力仕事を走り回ってこなしていた。私は仕事が早番の日は帰りがちょうど母の夜ごはんの時間なので、必ず職場から病院へ。横に座って食べるのを手伝って、歯磨きをサポートして、車椅子を押して病室でベッドに寝かせ、少しおしゃべりして水を飲んでもらって帰るのがお決まりだった。その頃もう自分で全く動けない母を、車椅子からベッドへ移動させるのはな
総合病院に入院中に申請し、認定員さんの面談も終えていた介護認定。転院後、しばらくして結果が届いた。結果は介護認定5・・・・。まあそうだよね、という気持ちと、やっぱりそうなんだ、という悲しさが入り混じり、姉と「最上級にお金がかからないわけね」って自分を納得させた。当初相談に行った地域包括支援センターの人は、とても穏やかで話しやすい人だった。でも当初から、結果が出たあと担当できるのは要支援1と2の場合だけと聞いていた。要介護の場合は同じ建物にいる居宅介護支援事業者の担当となる。どんな
手術後、自分で歯磨きは出来なくなったけど、部屋で座って歯ブラシで歯を磨いてあげて、洗面でうがいをしていた。転院後はみんなで集まってごはんを食べていたので、食後廊下に備え付けの洗面で歯磨きをお手伝い。ところがその頃から、歯ブラシを噛んで離さなくなったり、うがいのために含んだ水を、口に入れたまま出せなくなったりすることが増えてきた。母を見るとイタズラや意地悪ではない様子。母は口の開け方がわからなくなっていた。飲み込んではいけないと体が覚えているのか、吐き出せないと数分間ほっぺたを膨らま
19時過ぎに、母から電話がきて『今から24時間点滴入れっぱなしで3日間することになった』と。『3日間また動けないから、明日・明後日は病院来なくて良いからね』と。血液サラサラにする薬を処方するにあたり、2種類のどちらかにするかを決める為に、1種類の方を点滴で流して様子を見るそうだ。その後、血液検査の結果で判断するそう。そして、来月2日にまた心臓のエコー検査をするらしい。今日のMRIで検査は終わりかと思ったら、まだまだ続くみたいね、、、母は来月6日、お友達と大阪松竹座に七月大歌舞伎の尾
病気がわかってから半年ほど経ち、そろそろ家に帰ろう、という頃、私は迷っていた。介護を学ぶかどうかを。私は元々、学ぶことが好きで、何かを始めるときとりあえず本を買う。第一歩は必ず知識を身につけること。そんな私は家で一緒に暮らすにあたって、介護知識を身につけたかった。どうせなら全般を学びたいと介護職員初任者研修の資格を取れる学校へ行くことにした。学校では8割が現役の介護施設で働く人で、残りは今後介護の仕事に就こうという人だった。私みたいな理由の人はいなかったけど、それまで全く接点のな
少しずつ話さなくなっていった母。術後2ヶ月経った頃には、話してもぽつり、ぽつり、単語のみになっていった。顔の表情もない日もあって、意思疎通はできているような、できていないような。よくわからない状態だった。でも時々いつもの母に戻った。病院の談話室にいる母に近づいて行ったときの満面の笑顔。台風で会社が早く閉まることになって、病院に寄ったときの「早く帰りなさい。」私が冗談を言ったときの「また、バカなこと言って。」夫がスマホを忘れて病室に戻ったときの「⚪︎⚪︎くん、ありがとう。」ひょっ
病気がわかって5ヶ月後ぐらいに母はまっすぐ座ることができなくなった。最初は少し傾くぐらいだったので、クッションひとつでなんとかなっていたけど、段々と車椅子からずり落ちそうな傾きに。途中から4つぐらい使うようになった。毎日畑に行き、マレットゴルフで優勝し、旅に行けばとてつもなく歩いていた母は健康が自慢だった。でも脳の病気はまっすぐ座ることさえも母から奪った。病気だけではなく、動かないことも原因のひとつだと思う。骨太だった母は痩せて、体幹までなくなったんじゃないかと感じた。何十年も
父は最期を病院で迎えた。ホスピスだったので、家族はいつでもずっと一緒にいられたし、環境も整っていたし、看護師さんやお医者さんもとても優しかった。でも胸の奥にちりちりする感情はずっと残った。父がこだわって建てた家。父が一生懸命働いてローンを返済してくれた家。家族の思い出がつまった家。犬のいる家。そこで最期を迎える選択肢はなかったんだろうか、と今でもどこかで思ってる。ホスピスが父の選択だったとしても。だから母の最期は必ず家で、と決めていた。そのために私と夫は実家へ引っ越した。
手術後ほとんど動かなくなった母の右手。私と姉はなるべく食事時にいるようにして、介助をしていた。「看護師さん忙しいから・・・」と焼いていない朝ごはんの食パンのことを残念そうに話すから、パン屋さんで買って行って、病院で焼いて部屋に持っていくと「あんたは焼きすぎ・・・」とそれくらい当初は食欲もあった。母には「姉ちゃん」と慕ってくれる年下の友達がいて、そのおばちゃんが介助してくれることもあった。「(恥ずかしがらず)嫌がらずに食べてくれるから嬉しい」って言ってくれてた。でも、食欲は少しずつ落
やってきた転院の日。私は仕事だったので、姉が付き添い。母は車椅子に乗って、介護タクシーで家の近所の脳神経外科へ移動しました。仕事終わりに会いに行ったその病院は、夜なのもあり想像通り薄暗く、個室の部屋ももの悲しく感じた。その頃の母は、割とぼんやりしていることが多く、病院については何も言わなかった。その数日後、私の仕事が休みの日、姉と2人で担当医と面談の約束をしていた。時間通り担当医の前へ。おじいちゃん担当医は私たちが目の前に座っているにも関わらず、数分間ガラケーを触っていた。話し始
昨日は母の命日だった。もうあれから丸6年。母なしで過ごした6年。この間に犬と暮らし始め、家を建て、地元を離れた。犬と遊びながら、母なら「お芋さん持ってきたよー」って可愛がってくれたんだろうな、って思ったり、ここに遊びに来たら海沿いを一緒に散歩して、母なら少し離れたお寿司屋さんまで歩いて、帰りは直売所で買い物して帰ってくるんだろうなって想像したり。心の中にはちゃんと確かにいるんだけど、移住先の人は私の母のことを知らず、愛犬と母の写真は存在せず、私の未来にも母の身体は無いわけで、やっぱり
母が入院していたのは、地元では県立中央病院と並んで大きい大学附属病院。数年前に建て替えられたその病院は、とってもきれいで施設も充実してた。コメダ珈琲にタリーズ、食堂はもちろん、売店も充実。最上階へ登ると市内が一望できた。母から行きたがることはなかったけど、車椅子で外に出てみたり、売店に行ったり、市内を見ながら、「あっちは〇〇(地名)だね。あそこのパン屋さんまた行きたいね。」って話をしたり。今から思うと、母がそこに存在していて、触れることができて、話すこともできたあの頃、なんて幸せだ
検査入院をした大学病院で脳腫瘍が発覚した母。疑わしい箇所だけではなく、全身検査をしてくれたようで、その結果乳がんと歯の欠けも見つかった。乳がんは細胞診をして詳しく検査。かなり小さいことと、年齢的に進行はとても遅いだろうということで様子見、無治療になった。歯の欠けに関しては大学病院内で3回ほど治療をして、ブリッジを作ってくれた。結果的に、母は脳腫瘍の術後、普通の生活に戻ることはできなかったので、あまり装着することはなかったけど、少しでもQOLを上げるために入院中にベストを尽くしてくれ
手術前は体調の悪さや身体の異変はあったものの、母はいつもの母だった。ところが、術後はたまに違う世界にいるようになった。実家にアシナガバチが住みついた話をすると、数日後には病室にも蜂が現れ怖がるようになった。来ていないはずの親戚がお見舞いに来たことになっていたり、若い男性の看護師さんが子供をたくさん育てるシングルファザーになっていたり普段全く電話しない人に電話をかけて、通じてるのか通じてないのかよくわからない会話をしたり。中でも1番多く登場したのは父。一時期、病室では父がいるのが当
母が入院していた大学病院と自宅と職場は線で結ぶと三角形になるぐらい、それぞれ離れた違う方角にあった。しかも、職場から病院は繁華街を通っていくため、時間帯によっては結構混み合う。病院から自宅は街中から郊外のため、夕方だとこれまた混み合う。フルタイムで働きながら毎日病院に行っていた私は、ほとんど家のことが出来なくなった。大学病院の時は、売店が充実していて、ご近所の洋食屋さんが作ったお弁当や市内のパン屋さんのパンなど、毎晩買って帰るようになった。(帰る頃は割引もしていた)結局、母の入院中
先週のまりちゃん誕生日のこととか、書きたいこといっぱいあるのにとうとう私がコロナになっちゃいました昨日から喉の痛みが酷くて(腫れててご飯食べるのが辛いレベル)、悪寒と倦怠感もある喉の痛み+頭痛もあったので、熱はなかったけどカロナール飲みました。薬で熱は下げられてても悪寒が止まらなくて、これ絶対熱出るな…と思ったら、さっき測ったら38.6℃でした高熱出てさすがにフラフラで横になりたくて、急遽夫に午後休取って帰ってきてもらい、今はぽんちゃ見ててもらって寝室で休んでます夫が寝込んだ時はブツブ
こんにちは😊ご訪問いただきイイネまでしていただきありがとうございます🙇♀4人目妊娠中ゆかりこです先週日曜日からインフルエンザAで寝込んでおりました3ヶ月の間に2回インフルエンザに感染まだ咳が続いてますがようやく動けるようになりましたいや〜何が一番きつかったって一人ずつ感染していく家族の看病ですよ熱が下がったばかりの身重な身体で病院連れて行ったり何か食べれるものを買い出しに行ったり嘔吐物の処理をしたり…ほんとに死にそうでしたわ…出産まで
これ美味しかった♡雪見だいふく×白い恋人ほんのりキャラメル色よごちそうさまでした♬下につづくっ!月曜日の朝夫「咳と熱があるんだけど…。」で、病院に行ったらインフルの陽性!!!そして同日に娘の学校から体調不良の連絡が来てお迎えに行く。熱はなかったけどお腹が辛いと…。翌日(火曜日)に喉の痛みと鼻水。火曜日朝には末子も同じ症状。同日夕方に長子も同じく!でも子ども達に熱が出なかったのは良かった!娘だけ検査を(鼻グリグリ)したけど陰性。でもインフルだと思うよ
あなたは、今自分が選んだ人生に自信を持って生きられていますか?人は毎日が、小さな選択の連続です。しかし自分の人生を変えるような大きな人生の選択となると戸惑いや不安を抱きその選択した人生を振り返った時に「本当に、この人生で良かったのだろうか?」と自分の判断に自信をなくすこともあると思います。そのような時にも占いがあなたのお力になれます。ご家族の看病のためにご自身の人生を変えたクライアント様。数秘4ベースに最終目的地が数秘6なので家族愛や責任の強さが元々、宿命で
こんにちはakkoです🎀先週から我が家では私以外の3人が順番にコロナを発症するという状況でした…熱が高かったり…味覚が落ちたり…咳が続いたり…3人ともなかなかしんどい様子でした去年私だけが発症した時……まだ10日間の療養期間が必要で濃厚接触の家族も自宅待機だった頃で症状は軽かったもののコロナについてわからないことが多かったので<不安>は大きかったです…ですがコロナについて色々とわかってきてインフルエンザと同じように扱われるようになりその<不安>が以前よりな
先日のケアラーの語り場ははじめましての方もいつもの方もおられましたが🌈日常生活の習慣について🌈○○の時のお支払は割り勘?🌈ドライブは一人派?みんなと派?🌈ココロの切り替え方法🌈支援現場のリアルな声などなど様々な話しが出ては、次に展開したり。たくさん笑ったり真剣に考えたり初対面のこの場だから言えることもあったり。何気ない会話から、うまれるものそれぞれの価値観に触れあうそして自分の価値観に改めて触れられる触れるから、
子供の発熱今密かに40度近くまでの高熱が一日だけでる病気流行ってませんか?熱中症かもしれませんが、、アイスノン枕アイスノンソフト冷たさ長持ち14時間ブルーひんやり白元アース保冷冷感冷却枕熱中症夏バテ防止×2送料無料楽天市場2,550円いきいきメイト寝心地ひんやり冷やしまくら54004-0白元アース(アイスノン枕発熱暑さ対策コンパクト)介護用品楽天市場991円病気にかかりにくい我が子もついにこの謎の病になりました。高熱が一日出
この3日間は、お久しぶりの方々と様々なテーマで対話。がんサポーティブケアについてはもちろんですが、しょうもないようなふざけた事も全てが繋がっていく。結局しょくもなくない訳で、全て愛おしい時間。奈良のかき氷が美味しかった!“欲”についての話題で尊敬する腫瘍内科医の先生が「今年もこの花が咲きますように…というささやかな欲と、大金で豪遊したい、という派手な欲と、同じもの。どちらが上や下もない。」とか「ガンダムの世界観。どちらにも言い分はあっ
3月4月と体験会にご参加くださいましたみなさまありがとうございました。いろんな出逢いがありました。大切な時間を共にできて嬉しかったです。人をサポート(ケア)する人に必要なことまずは「自分の尊厳を自分で守る」この考え方と、実践が重要です。人の尊厳について人が困っていることの解決についてその方法などを学び続けている人は多いですが“自分の尊厳の守り方”がしっかり土台にある人と、ない人の違いは大きいです。そもそも「尊厳、とは?何?」かみ砕いて言葉にすると?
いのちに触れる講演会終了して10日が経ちました。「直後は言葉にならなくて…」と数日経ってからご感想や思いなどを送ってくださる方々もおられます。ほんとうにありがとうございます。私も、色んな思いや感情に出逢っていてこれらを大切にみています。今日は3月29日(水)20時~メンバー4人でインスタライブ!【講演会で感じたこと/裏エピソード】を、テーマにお話していきます。【協会メンバー】左から監事:冨士尾沙良代表理事:原美穂理事:鈴村友菜理事:浅井育子そもそも、私
改めまして自己紹介をさせてください。原美穂1981年和歌山県白浜町生まれ。和歌山市在住。2013年、夫にガンが発見。3年のがん治療。側にいる家族として出来ること、出来ないことに葛藤する。2016年夫を見送る。自分自身がグリーフを抱える。家族の病気、看取り、自分自身の心身の不調の経験の中で、尊厳が守り守られる社会づくりの重要さを感じる。そのためには、ケアする人(ケアラーや支援者)こそ自分で自分をケアしながら、人に頼れる力も必要であると体験から思い、支援者(ケアラー)のケア活動
お早うございます。今日は旦那のコロナ発症について描きます。今会社もアミューズメントも「気をつけていれば大丈夫!!」という姿勢で、あちこち出かけたり、外食したり、会社だと出張したり…と割と何でも出来るのですが、多分出張でコロナになりました💦😭狭い車に四人で神奈川から静岡に。会食あり、泊まりあり、そんな感じだから今ほとんどの部署の人がコロナになってますそりゃね、狭い空間で一緒に生活してればなるよねうつるよね😭💦私と他の家族がならなかったのは「そういう会社だから用心して別部屋」
多発性硬化症に違いはないのだけどどちらが深刻なのかわからないけど多発性骨髄腫の疑いが出てきました多分、間違いないと思う多発性硬化症にしても多発性骨髄腫にしてもどちらも強い薬を使う西洋医学ばりばりの治療になることは間違いないかといって東洋医学、自然療法だけというのも難しそうな気がする亡き父は悪性リンパ腫を患ったことがありRーCHOPで寛解までいったけど本人の体力なのか抗がん剤の影響なのか肝臓がんになったり心臓と腎臓が一気に