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こんばんわ。宗秀斎でございます。急に気温が上昇し、暑がりな僕にとってはちょっとキツイかなと思っている今日このごろです…(゚ー゚;先程、前作の金閣寺と天鏡閣再現模型を納品させて頂いたお客様からお褒めのお言葉を頂きまして…安堵したところでございまする。一段落つきました〜〜(^▽^;)新作のテーマ「室町幕府(花の御所)推定再現ジオラマ」やとこさ、資料などをまとめて配置図面の設計に取りかかったばかりです。弱音を吐くと、正直頭が痛いというくらい悩み考えての設計です…ほんとにできるのかな〜
伊達稙宗が偏諱(へんき)の依頼と官途推挙を幕府に願い出た際、その間を取り持った人物がいる。それが坂東屋(ばんどうや)富松(とみまつ)という商人である。正式の名前は坂東屋富松四郎左衛門尉氏久という。この板東屋富松は奥州諸将を相手に熊野詣(もうで)を案内できる権利(先達(せんだつ)職)を保持していた。これは熊野までの各関所の通行手形の発行手続きや当地の宿泊施設手配などをすることで礼金を受け取れる職である。当時は“座”によって営利活動が取り仕切られており、坂東屋富松も“座”から
この物語は伊達稙宗の人生を追いかけています。それは彼の晩年に起きた『天文の乱』を描くためです。天文11年に起きた伊達家の内紛である天文の乱は、伊達稙宗とその息子晴宗との間で生じたものです。その争いは南奥州の諸大名(国人)を巻き込む大乱となります。ただこの内乱の対立構造を見ますと、晴宗を擁する伊達家臣団と稙宗を中心とする奥州大名連合との戦いなのです。なぜ南奥州一帯を支配下に収めた稙宗が家臣団からそっぽ向かれたのか。その謎を稙宗の足跡を辿りながら解明していきたいと思いま
金閣寺のガイドツアーに参加しました(2月23日)。京都鹿苑寺金閣-京都京都金閣寺:金の楼閣と上下二段の庭は、天皇や貴族、明の使者をもてなす饗応の場だった!ja.japantravel.com正式名称は鹿苑寺で、室町幕府3代将軍足利義満の法号鹿苑院から。鹿苑は釈迦が初めて説法をしたインドの鹿野苑に因みます。鹿野苑(ロクヤオン)とは?意味や使い方-コトバンクデジタル大辞泉-鹿野苑の用語解説-《〈梵〉Mṛgadāvaの訳》中インドの波羅奈国にあった林園。釈迦が悟りを
そうしゅうさいでございます。室町幕府推定再現ジオラマ完成!待ちに待った室町幕府再現模型が完成いたしました。制作期間は2ヶ月とイバラの長い道程でしたが…何とか無事満足できる作品として仕上がったのではないかと思っております。2ヶ月という長い制作過程を紹介致しまして、いつもこのブログを読んで頂きました読者の皆様には本当に感謝しております。皆様の応援あってこその自分自身のモチベーションを上げていく糧だと思っております。少しづつではありますが、周囲から過去の作品に対する反響も出始めておりまして
前回からの続きです(令和元年9月16日のことです)次に見たかったのは旧二條城跡石碑は室町通りと下立売通りの交差点のとこにあります旧二條城跡石碑住所・京都市上京区烏丸下立売解説永禄12(1569)年に織田信長が、第15代将軍・足利義昭(1537~1597年)(麒麟がくるで演じるは滝藤賢一・大河ドラマ館より)の将軍座所として、この石碑を中心に、約390m四方の敷地にほぼ70日間の短期間で、二重の堀や三重の天守を備えた堅固な城を築いたここら辺りは麒麟がくるが、再び放送されたら出てく
黒田長政の一の谷、前田利家の鯰尾、徳川家康の大黒頭巾。これら異形のものを変わり兜と呼んでいる。甲冑が室町末期より近世初頭に急速に形状を改変して新様式を確立して行くこの時期、同様に兜も趣向を凝らした立物や形兜と呼ばれる様々な形状が登場した。現代、その兜が個人を特定する象徴と認識されて、映像作品にも登場する。実際にこれらの兜が伝来通りかについては議論の余地がある様だが、少なくとも慶長期の関ヶ原、大坂の陣の頃には我々が目にする様々な変わり兜の幾つかは実戦に供されたものと思われる。形兜とは従来の筋兜
こんにちは。先日一日だけ晴れ間がありましたがまた暫く雨模様の予報が続く尾張地方。我が家の庭はジャングルになっていますが雨天と蒸し暑さで刈り取る気力がございません。さてさて前回の続きにて松平氏所縁のお寺、岡崎市の信光明寺より。境内の一番奥に親氏、泰親、信光、三代の供養塔があります。二代の泰親は私と同じ名前なので勝手に親近感を持っています。土塀で囲まれていますがだいぶ状態が悪いですネ。保育園に隣接して門が建っています。軒丸瓦にはもちろん三つ葉葵。こ
大河ドラマ『麒麟がくる』第1話再放送応仁の乱後、世は乱れ、無秩序状態の中で、天下を統一し、乱世をおさめようとする戦国の英雄たちが登場しはじめる。1540年代なかば、東西の要衝たる美濃の地に、一人の若き虎がいた。名は明智十兵衛光秀。一介の牢人である青年光秀の胸の奥にはまだ自分でも気づかぬ静かな炎が燃えていた。当時、美濃を治める土岐氏一族は内紛にことかかなかった。周囲を尾張の織田、駿河の今川、越前の朝倉に囲まれ、常に攻め込まれる危険を抱えた美濃で、若き虎は戦に駆り出されては、敵を撃
下記は乃至政彦さんへの平山優さんの不当な攻撃に対する批判です。くだらない攻撃によって研究者のあるべき姿について誤ったイメージを流布しているので、フンガイし、批判に及びました。僕「嵯峨良蒼樹はこんな下らないい騒ぎを望んでおりませんが、降りかかった火の粉ですのでやむを得ず批判します。まだ前半部分のみです。後半については後日投下します。本当は『マロの戦国II』をまったりと書きたかったのですが・・・助けて、小和田先生!【宇宙の果てまで拡散希望:「室町大名論争」での「研究者」として
井沢元彦「逆説の日本史8/中世混沌編」2/「懶惰の帝王」足利義政編~「無責任」将軍が招いた応仁の乱【再読】一揆勢の要求は一度は認められた。それは「山城国に限って徳政を認める」というものであった。一揆勢は喜び勇んで市中の酒屋・土倉つまり金融業者に押しかけた。「証文を破る」ためである。ところがおさまらないのが大寺社、特に比叡山延暦寺である。徳政の対象には、人々が寺社へ寄進したものも取り返すことが認められていた。「神仏に捧げられたものを今更返せとは何事か」と彼等は怒った。彼らが唯一恐れた最大の仏