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織田信長は、迫る、今川軍を前に清洲城において、幸若舞の「敦盛」を舞い、「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」と口ずさんで、電撃的に出陣した。織田信長は、今川軍の本隊が、桶狭間と呼ばれる、窪地で、休息しているとの情報を得ると、激しい、豪雨に乗じて、今川軍の本陣への奇襲を敢行したのである。織田信長の計算通り、5千人程度に減っていた、今川義元の本陣は、3千人程度の信長軍の奇襲を受け、大混乱に陥った。織田信長は、全軍に総大将の今川義元の首のみを狙う様に厳命し。毛利新介が、遂に今
北朝第一代光厳(こうごん)天皇は鎌倉幕府末期の天皇で、南北朝時代の北朝初代天皇です。御父は後伏見天皇、御母は西園寺寧子。光明天皇は同母弟。諱、量仁(かずひと)。正和二年(1313年)生。在位は元弘元年(1331年)から元弘三年(1333年)。朝廷が持明院統と大覚寺統に分裂していた鎌倉時代末期、両統から順番に天皇を出す両統送立(りょうとうてつりつ)が幕府主導で行われていました。その持明院統の後伏見天皇の第三皇子として量仁皇子は誕生します。元徳元年(1326年)七月、大覚寺統の後醍醐天皇
今回の皇室典範改正で、36親等から38親等の男系男子の方が、将来の天皇になられるのだとか600年前の室町幕府の頃のご親戚らしいのです民法では、7親等からは、親戚とは言えないとあるそうですまるで今の天皇家とは他人の方が天皇に?!愛子様は1親等、悠仁様は3親等どちらにしても、男子を産む事が強制されるような事を強く推す保守の方々それで、男系男子がどこまで続くのでしょうか私は皇室はあった方がいいと思うのですが、身も知らない方が天皇になられて、さすがに皇室があった方がいいと思えるのか?自信
目次はこちら⬇️『歴史連載物語『和平武将』・目次』歴史連載物語『和平武将』各話をクリックすると、そのページが開きますよ出奔する語り手第1話荒れる鎌倉第2話好感、孔雀丸第3話禅秀追討命令第4話反転出陣第…ameblo.jp和を以て貴しと為すわしは長尾景虎(ながおかげとら)です。「叡山の僧が呪詛しておるだと!!」将軍、足利義教(あしかがよしのり)の怒号が室町御所に響いた。比叡山延暦寺が義教を呪詛し、僧兵が戦闘体制をとっていると管領、細川持之(ほそかわもちゆき)が義教に報せた。細
伊豆の新九郎より石脇城館にいる弟弥次郎のもとに伝令が届く。<堀越御所は陥落、北伊豆狩野川沿い一帯の郷村もほぼ支配下に置いたとのこと‼>(118頁)ただし、京の御所様の命であった茶々丸殿を討ちもらした。大失敗であった。まず討ちもらした茶々丸殿を押し立てる勢力とは、真っ先に戦わねばならない。これに対しては、新九郎自らが、<北伊豆の国人衆をすべて味方につけて互角といったところか。>(149頁)と考えている。領地の百姓に対する処し方が、土着の茶々丸殿とよそ者の新九郎の求心力を
7月18日の歴史室町幕府滅亡1573年(元亀4年(天正元年)7月17日宇治槙島城に立て籠もってた将軍足利義昭が織田信長に降状し京を追放されるこの事により事実上室町幕府は滅亡【昔歴史人公認ブログでUPした槙島城跡記事】室町幕府終焉の地宇治槙島城跡(任天堂宇治工場近くに建つ槙島城跡の石碑)槙島城は巨椋池の東の端にあった島にあった足利家家臣真木島昭光(槙島氏)の城です田畑の中にある槙島公園内に槙島城記念碑が建てられてます槙
異形柱国11回目八月十一日足利尊氏は光明天皇から正二位の官位を贈られ、征夷大将軍に任命された。新田義貞を討った功績によるものである。また、尊氏の弟・直義は従四位上・左兵衛督に任命された。武家の政権である室町幕府が成立した。延元四年/暦応二年(1339)八月十五日病床にあった後醍醐天皇は皇太子の義良親王に譲位した。翌日、後醍醐天皇は崩御した。享年五十二歳だった。義良親王は即位して後村上天皇となった。後村上天皇は畿内隣国の武士や寺社に綸旨を発し、所領安堵、給付、軍勢
1431年永淳3年京都で飢渇祭なるものが商人達複数名によって行われていたそうです飢渇祭というのは飢饉の状態長いこと続きますようにと神様にお祈りしてお願いをする祭礼のお祭りです飢饉の状態が長く続けば自分達商人は米の値を高く吊り上げるだけ吊り上げて大儲け出来ますからね京都は都なので自分達は裕福でなければならない自分達は裕福であるからして施しをしなければならないという有徳思想いうのがあるんですよねいまでもそういう長年培った思想は京都健在実はしているのですよねだから大阪東京都が来る
明智光秀の大河ドラマ「麒麟がくる」をみた。歴史の教科書では織田信長を本能寺で討ち取ったところばかりが強調されるがなかなかどうして、明智光秀という男信長の家臣の中でもずば抜けて優秀で信長はもとより皇室からも、室町幕府の将軍からも家来や他の大名からも信認を受けていたようだ。このドラマでは光秀が平穏な世の中を夢見てがんばってがんばっていろいろな主君につき従ったことを語る。こういう視点が面白いよなぁ(^◇^)。。。
・「南北朝時代」の先は、足利尊氏が登場する「室町時代」だ。「通記」を読んでみよう・・と探したら、この本が見つかったので、一読した。初代(尊氏)〜8代目までは、足利尊氏による鎌倉幕府の倒幕、足利将軍家の成立。それを支える重臣たちの争に端を発した応仁の乱。「その結果、将軍家は弱体化し、群雄割拠の戦国時代への突入」の時代が到来する。9代(義尚)~15代(義昭)まで将軍は権威を保持し、影響力を行使続けた。・そういえば、足利将軍歴代の像が収められている等持院を見に行った事がある。「足利尊氏が日々
【感想】肝心の手取川の戦いのシーンとそれ以降については、独自の推測が随分目立ったが。手取川に至るまでの上杉謙信と織田信長についての記述がよく纏っていて、面白かった。近年、信長は、室町幕府を重視していたという分析がなされているが。筆者の説によると、信長は、将軍足利義昭を京都から追放した後も、義昭の息子を奉じて「安土幕府」を打ち立てるという政権構想を持っていた。そして、その“後見人“になる事を考えていた、らしい。一つの見解として面白く、信長像は変貌したのだなと思う。筆者には、今後もこういう本を出し
≪動物(像やライオン)の上に仏がいる!曹同宗・明光山・「海蔵寺」!≫海蔵寺にやって来ました。山号:明光山宗派:曹同宗室町幕府六代将軍義教(明光院巨海蔵心大居士)を開基として嘉吉2年(1422)に創建、臼井宗徳寺三世慶調和尚が開山したといいます。住所:千葉市若葉区桜木1丁目25-17庚申塔!!仏像!!ドアップでみましょう!!五重の塔!!
前回につづいて小田原城の写真です。ふたたび小田原城天守閣LeicaM-PTyp240VoigtlanderSUPERWIDE-HELIAR15mmF4.5AsphericalⅡで、今回は歴史的観点から書きたいと思っていたんですが・・・。小田原城を見るとき、やはり最初に着目するのは北条早雲こと伊勢盛時(伊勢宗瑞)でしょうか。彼が室町幕府の承認のもとで伊豆を平定すると同時に、明応の政変に絡んだ関東における内乱でこの小田原城を奪取したことが、いわゆる戦国大名北
越後の龍・上杉謙信は、莫大な富を得ていた織田、武田、毛利よりも経済的には優位1570年代後半以降は、織田信長が謙信を上回る経済力柏崎港、直江津港は越後国は日本海交易の要衝関税収入だけで四万貫(30万石大名収入と同等)正確な収支記録が残っているわけではない佐渡金山、高根金山という有数金山所有佐渡は金よりも銀山として一部開発されていた可能性あり1601年に世界有数の金山となり、徳川家康が直轄化越後上布という有数の特産品に課税
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目次はこちら⬇️『歴史連載物語『和平武将』・目次』歴史連載物語『和平武将』各話をクリックすると、そのページが開きますよ出奔する語り手第1話荒れる鎌倉第2話好感、孔雀丸第3話禅秀追討命令第4話反転出陣第…ameblo.jp和を以て貴しと為すわしは長尾景虎(ながおかげとら)です。富士遊覧で駿河国に来ていた将軍、足利義教(あしかがよしのり)は見事な富士山を見ながら、義教「見事だ、まさに日の本一の山であるな…持氏(もちうじ)は来ぬかの?」そこにいた義教の家臣が、家臣「鎌倉から来る気
―戦国時代の経済―ブロ友さんからも、戦国時代の経済についての疑問が出ていますので、それを含めて「戦国時代の経済」についてお話ししたいと思います。まず「撰銭令」ですが、織田信長が発案したような印象がありますが、実は室町幕府も発布していました。幕府:貨幣として使える銭と、使えない銭を規定信長:貨幣を分別し、その銭の価値をいくつかに分類化(例:○○銭○枚で、精銭1枚分の価値とする)ところで、15世紀後半、北元などの戦乱による財
室町時代初期の観応の擾乱については学校の歴史の教科書に載っているようですが全く覚えていませんでした。鎌倉幕府滅亡→後醍醐天皇による公武合体政権→尊氏による反乱・北朝の擁立・室町幕府成立→戦国時代までの室町幕府の継続、という流れで理解していましたが、室町時代初期の観応の擾乱は征夷大将軍・足利尊氏と幕政を主導していた弟の直義との対立から起きた全国規模の内乱だったとのことなので興味を持って読んでみました。観応の擾乱の流れは以下のようだったとのこと。①室町幕府初期は尊氏は恩賞充行(おんしょうあて
古野貢「信長の「天下」は日本全国を指すのか」渡邊大門『戦国史の俗説を覆す』所収織田信長は「天下布武」という印判(いわゆる印鑑)を押した書状を発給し天下統一を目指した。よく聞くフレーズである。ところが近年、信長は本当に天下を目指したのか?そもそも信長が意図した「天下」とはどこを指すのか?ということが議論になってきた。どうやら学会では、畿内(おおまかにいまの近畿地方)を指すという事に落ち着いたらしい。信長が生きていた時代の、室町幕府及び将軍の権力が届く範囲であ
表題の講座を最初に見た時、「これは行かなあかん!」と思いました。「君台観左右帳記」とは?君台とは、室町時代の将軍の御座所(居室や執務空間)左右帳記とは、左右にどう飾るかというマニュアル室町幕府8代将軍・足利義政の同朋衆(能阿弥や相阿弥)が記録した唐物の鑑定や座敷飾りの目録・手引書で、後の江戸幕府将軍家、御三家も唐絵や茶道具を鑑賞・管理する際にこの君台観左右帳記を重要なルールブックとして参照したそうです。江戸幕府でも同様の「柳営御物(りゅうえいごもつ」、「駿府御分物御道具帳
臨済宗建長寺派長寿寺。(足利尊氏邸宅跡。)観音堂の裏手に周ると、見えて来るのがこちら。↓↓↓『足利尊氏の墓』!↓↓↓階段を上がると…見えた!↓↓↓中央の五輪塔が、足利尊氏の墓。↓↓↓足利尊氏の『墓』と書かれているが、コレは『遺髪塚』。※身体が葬られている墓は、京都市北区の等持院に。背後の楕円形の墓石は、僧侶の墓。長寿寺の歴代住職か??足利尊氏[森茂暁]楽天市場1,870円${EVENT_LABEL_01_TEXT}足利尊氏と関東(人を
牛乳に合う食べもの教えて!▼本日限定!ブログスタンプ1569年(永禄12年5月17日)のきょうは-今川氏真が掛川城を開城して伊豆へと落ち延びた日です。戦国大名としての今川氏が滅亡した日でもあります。今川氏真(いまがわうじざね)。今川家最後の投手であり、桶狭間の戦いで織田信長によって討ち死にした今川義元の息子でもあります。12代目当主ですが、今川範氏の嫡男で、室町幕府によって家督継承の承認と駿河守護職への補任が行われた直後に死去した氏家を5代当主として数えるべきだという見解[6]もあ
第九三代後伏見天皇は鎌倉時代末期、持明院統の天皇です。この当時、伏見天皇の父である後深草天皇とその同母の弟であった亀山天皇の時代に始まった皇位争いにより皇室は持明院統と大覚寺統に分かれていた時代です。御名は胤仁(たねひと)。御父、伏見天皇の第一皇子、御母、藤原経子。花園天皇は異母弟。弘安十一年三月三日(1288年4月5日)誕生。伏見天皇の譲位により永仁六年(1298年)十歳で即位、伏見上皇が院政を執りました。しかし、正安三年(1301年)大覚寺統との対立により、在位僅か三年で大覚寺系の後
記事にはしなかった最近の画像です。還幸祭のおわった今宮神社です。まだお神輿は拝殿?舞殿?にありました。祭りの衣装は虫干し中それとも綿とか麻のようなので、洗ってからの洗濯干し?一和さんが写ってますが、かざりやさんにいてます😅久しぶりのあぶり餅は美味しかったです。場所は変わって同志社前の大聖寺門跡です。室町幕府の花の御所の跡で石碑があります。ヒメアヤメが咲いていました。光格天皇ゆかり、杜若雲居の鶴と書きそうになったけど、よく考えたら杜若は水ないところには咲かないので、アヤメ
昔のほうがまだマシだった。と、元御家人はいう。後醍醐天皇は、御家人という称号も彼らから奪った。幕府あっての御家人だから、幕府がなくなったのだから御家人は廃止、との理屈であろう。大名高家いつしか凡民の類と同じ。その憤りいく千万とか知らんと『太平記』にある。時代はちがうが、どうも明治維新後の秩禄処分や廃刀令で、きのうまでの武士の特権を奪われ、激怒するサムライたちを彷彿とさせる一節である。明治初期には、士族の反乱が頻発したが、このときも怨嗟の声は山野に満ち満ちた。多くの元御家人たちは、
前回のお話『味が変わったー‼️すごーい‼️唐揚げにはコレ一択やで』前回のお話『神秘的、巨大な磐座が鎮座する旧郷社垂穂御酒神社』前回のお話『夫よ!でかした!ええお土産ありがとー!』前回のお話『兵庫県名物しぇ…ameblo.jpこのお話の続きです『神秘的、巨大な磐座が鎮座する旧郷社垂穂御酒神社』前回のお話『夫よ!でかした!ええお土産ありがとー!』前回のお話『兵庫県名物しぇからしかこれは癖になるとんこつラーメン』前回のお話『閻魔様がお…ameblo.jp臨済