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出張終わりの週末の市場/漁港食堂巡り。ちょうど1年ぶりくらいに和歌山エリアを探索。今回(2025/6/21)の目的地は大きく二つ。それは和歌山県唯一の中央卸売市場と、運良く予約が取れた漁港近くの隠れ家的料理屋さん。南海の「堺駅」を7時20分に出る「特急サザン」で、和歌山港駅に着いたのが8時14分。当初はここから和歌山市中央卸売市場まで歩こうと思っていたのだけれど・・・改札を出てふと目に入ったのが、この時刻表の閑散さ!!2時間に1本の電車に合わせていたらとても予定が立たなくなる
先日、滋賀県大津市で発見された明智光秀の居城・坂本城の石垣遺構が保存の形で元々土地所有者で開発予定だった不動産会社が持っていく形であることがニュースになりました。この手の史跡遺構が発見された場合は十中八九調査の後に消えゆく運命であったことを考えると本当にこの不動産会社は歴史に残る大英断を下したと賞賛されてしかるべきでしょう。今後、この貴重な史跡が国指定史跡として整備され、後世にきちんと残るものであってほしい。さて、京都府と大阪府の県境にある八幡市には橋本陣屋という陣屋がありました。これは前
昨日は雨。ライドできないかったので、クルマでお城巡り。最近100名城+続100名城スタンプラリーをはじめました。スタンプ帳を買って押印するタイプと、アプリタイプ。とりあえず、両方集める事に。以前からお城巡りはしてたんですが、スタンプは集めていませんでした。しかも有名どころか、現存12天守ぐらい。ちと分かりにくいが、こちらはアプリタイプで、赤が未登城、緑が以前行った事があるところ、青がアプリアプリ導入してから登城したところ。近くに行かなければスタンプ獲得のバナーが起動しないので必ず行
大分県日田市にはもう一つ近世城郭があるのはご存じでしょうか?永山城は別名月隈城といいますが、実はもう一つ日隈城と呼ばれる城があり、実はこちらの方が古い城にあたります。どちらも豊後の戦国大名大友氏改易後に入った織豊系の大名の城でありながら、続けて2つの城が築かれたというのも興味深い。それでは城巡り訪問記を述べていきましょう。日隈城は「亀山公園」となっており、三隈川とその支流である小股川の合流点にあたる三角州の小山に築かれました。元々支流である小股川の方は元からあった川ではなく、城の水堀にし
〇市民の憩いの場:山家城登城記出羽山家城の歴史は古く南北朝時代に築かれたと言われています。城主は山家氏で元は南朝方。一方、北朝方だった足利家は一門の斯波兼頼が派遣し、出羽平定の為、山家信家と対立します。その後、和議が結ばれますが、息子の直家は応永3年(1396)1月、宴に招待した席で山家信家を謀殺。信彦と直家の姉妹の間に生まれた家信に家督を継がせました。この斯波氏こそが後の出羽の戦国大名最上氏であり、以降山家氏はその家臣として最上氏に仕え、最上氏が改易となると共に山家城は廃城となっ
名古屋市中村区に残る中村遊廓跡の散策会に参加しました。中村遊廓は大正十二年(1923)に大須の旭遊郭から移転されてきた遊郭で、昭和十二年(1937)に最盛期を迎え、その賑わいは吉原を越えるものだったといわれています。昭和三十三年(1958)の売春防止法の施行により中村遊廓は終焉を迎え、現在では住宅地や商業地になっています。大河ドラマ・べらぼうで世間の遊郭への関心が高まっている中、名古屋に残る遊郭跡の見学ということで行ってきました。見るものは多く残っている中村遊廓の
〇渡島半島半周と北海道鉄路の旅(前回の続き)松前城までを城巡りを終えた私は渡島半島を再び北上し、函館へのレンタカー返却へと向かう。それにしても渡島半島は地図で見ると一周すると言うのは簡単に思えるが、実際には1日かけてやっと到達したと言うくらいの距離である。それにしてもこんな広い戦線で新政府軍の上陸作戦に備えて防御戦を指揮した旧幕府軍の大鳥圭介の指揮する苦悩が偲ばれる。ということで、今回は戊辰戦争の最終盤となった矢不来の戦いをめぐる紀行を紹介する。まず最初に訪れたのは「道の駅しりうち
2025.2.4.高山城の御城印も発売されたので、やっと暇を作り買いに向かいましたせっかくなので二十数年ぶりに、高山城跡に再訪高山城跡は、沼田川の東岸にあり、対岸の新高山城とともに沼田小早川氏の居城でした。山頂は、標高190m、広さ16haで、北西から東南方向に延びる谷をはさんで2区画に分かれ、北の峰に西から、出丸・権現丸・イワヲ丸・南丸・出丸などの曲輪が残っています。この城は、小早川茂平の築城といわれています。天文19年(1550年)、毛利元就の三男隆景が、沼田小早川家も相続し
神奈川県横浜市金沢区、横浜市の最南端であり、三浦半島の東端に位置するこの辺りは限りなく鎌倉とは山を隔てた近場にあり、横浜というよりは鎌倉の方が遥かに近い関係にあります。かつてこの辺りは金沢八景と呼ばれる景勝地であり、鎌倉時代からその美しさは有名でしたが、残念ながら幕末の干拓や明治期の開発によってその絶景は失われ、今となっては京急本線及び横浜シーサイドラインの「金沢八景駅」という駅名に名残をとどめています。江戸中期以降、この地域一帯を統治していたのが六浦藩(当初は金沢藩)米倉家1