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残された故郷の佇まい、懐かしい風景への感謝先週の「前編」では薩摩藩(現在の鹿児島県と宮崎県の一部)は江戸時代、外城(とじょう)制度という防衛体制に基づき藩内に100を超す外城を置き、その周辺に『麓(ふもと)』と呼ばれる武士の居住区、すなわち武家屋敷群を作っていたことを紹介した。今週の「後編」では、私が幼い頃から高校時代にかけて過ごしたふたつの町の風景を紹介しよう。下の水彩画は、私が小学6年から中学校時代を過ごした、現在の伊佐市菱刈町本城に残る武家屋敷群『麓』の
龍馬とお龍は1864年に運命的な出会いをしました。お龍さんの銅像は霧島温泉郷方面の塩浸温泉に建てられています現在室内にある湯殿に浸かったのではなく、川湯に浸かった。写真上部のブロックの囲いあたりらしく、私が訪れた時は工事中でした。室内にある塩浸温泉内部龍馬とお龍が散歩した龍馬の散歩道寺田屋で怪我をした龍馬は薩摩の招きで日本初と言われる新婚旅行と療養で鹿児島を訪れました。禁門の変以来犬猿の仲だった薩摩が長州と手を結ぶための斡旋役だった龍馬は薩
私この動画を見るまで知らなかったよ。あの場所にこんな歴史のある町が存在するなんて【鹿児島国有地不法占拠朝鮮人部落トンネ城南町】未だ国内最古の住人がいる在日コリアンスラム跡を歩いてみた歩行型ドローンJapan'sUntouchablesほこドロです。本土最南端のコリアンスラムとして貧困層が集まった街「鹿児島県城南町」基礎の無い地面に建てたバラックを増改築して月日が経ち廃墟化していくというハズレ無しのその佇まいは見応え歩き甲斐がありました。戦後のドサクサの「不法占拠地」
和本江戸文久2年(1862)薩摩藩分限帳「薩州御家来高附」1冊/脇廣之輔豊(丸亀藩士だと思います)/古書古文書/手書き/武鑑です。9丁。半紙本程度。手書き。『データ』【書名】薩州御家来高附【巻冊】1冊【著者】脇廣之輔豊(丸亀藩士だと思います)【成立】文久2年(1862)
元治元年(1864)七月十九日、禁門の変が勃発すると、伊地知は西郷吉之助(隆盛)と共に薩摩藩総指揮官小松帯刀を補佐しました。そして御所に襲いかかった長州軍を撃退すると、翌二十日には天龍寺の長州藩本陣に攻め込んで、これを攻略。寺を放火するという手荒な真似をしましたが、長州藩と鳥取・岡山・加賀・対馬の各藩との密謀を示す文書などを多数押収すると共に、兵粮米五百俵を分捕りました。この兵粮米は、戦後焼け出された被災民のための炊き出しに利用されました。そして慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見の戦いで薩
中村きい子さんが書いた「女と刀」を読んだのをキッカケに、明治から昭和にかけての鹿児島県における「男尊女卑」の因習について、先々週と先週の2回投稿してきた。今週の(その3)では最終回として、現在の鹿児島にはまだ”男尊女卑”の因習が残っているかを私なりに考えてみた。ただ、私は18歳で故郷・鹿児島を離れて58年経った。ここ15年ほどはコロナ禍を除き毎年帰省しているが、それまでは数年に一度の頻度で帰省するだけだったので、現地の詳しい状況を継続的に見てきた訳ではない。
今日は2025年3月29日(土)です。僕は旅番組歴史番組が好きです。昨夜は「歴史ミステリーVS超能力」を見ました。イギリスの超能力者が来日して本能寺の変の明智光秀の遺体はどこに?幕末の坂本龍馬はどうして殺されたかの謎を超能力で探します。とても良かったです。本能寺桂浜など僕も行った事が有ります。懐かしいのでその時の僕のブログで振り返って見ました。過去記事です。↓==========2010年9月23日(木)の出来事です。
村田さとは、中村半次郎の京都時代の恋人だった女性です。村田さと(既存写真の一部を修正)。大正十年(1921)八月十一日に81歳で亡くなっているので、逆算すると天保十二年(1841)生まれという事になるでしょうか。半次郎の『京在日記』によれば、半次郎とさとの出会いは慶応三年(1867)九月だったようです。半次郎は同月三日に京都市内で赤松小三郎を暗殺したばかりでした。さとの実家は四条小橋の高瀬川沿いにあった村田煙管店で、半次郎は頻繁に店に通い詰めていたようです。間もなく半
DVDを鑑賞したついでに、というわけではありませんが、あらためて中村半次郎に関して少し見直してみました。すると、気になった事がひとつ。中村半次郎は何枚も写真を残しています。たとえばWikipediaにも使用されている、京都時代の恋人村田さとと一緒に撮った、このツーショット写真。あるいは、こういった写真など。ですが、そんな中に一枚だけ、ちょっと違和感を感じる写真がありました。こちらの写真です。どうやら一緒に映っている子供が、恋人さとさんの家族ら