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このブログは、私(鯛)の元に現れてくれた様々な偉人・神々との会話を記していくものです。現れた偉人たちは皆、口をそろえて現代の日本人に伝えたいことがあると言っています。神々には日本の行く末が見えてはいますが、あくまでも人間の意志を尊重していると言います。神々に救ってもらおうと考えるのではなく、人間が自分たちの手で社会をどう変えるかが大事なことのようです。信じる、信じないはあなた次第。一つの物語としてお楽しみください。佐々木只三郎シリーズ前回のお話はこちらから『佐々木只三郎③「
徳川の人間として生き抜いた「篤姫」大河ドラマで印象に残っている番組を紹介します。大河ドラマというと戦国時代と幕末の番組が多いように思います。数ある大河ドラマの中で2008年に放送された「篤姫」を最初に取り上げようと思います。篤姫役は宮崎あおいさんです。番組ホームページより引用激動の幕末、薩摩藩島津家の1万石の分家に生まれながら、徳川十三代将軍の正室になる篤姫。夫・家定の死後は出家して天璋院となり、自らの信念を貫き、江戸
東京を歩くと歴史の教科書に書いてあった場所が本当にあってびっくりします。過去の記録が歴史なので驚くことはないのですけどね。薩摩藩のお屋敷だった場所だそうです。芝さつまの道島津のお殿様や篤姫や西郷さんもここにいたのかなぁなんて思うとちょっとワクワクします。
ちょっと、観光もしました!出水麓歴史館へ!近世薩摩藩最大級の外城、「出水麓いずみふもと」出水麓街なみ保存会出水麓武家屋敷群江戸時代、薩摩藩は外城と呼ばれる地方支配の拠点を設置していました。外城で政務や地方警護を担う武士の住居と陣地を兼ねた町は、麓と呼ばれ、藩内には約百ヶ所存在したと言われています。当時の武士達や武具などが展示されています。けっこうリアルですね!石積みの外壁に囲まれた街並みが美しいです
じつは、徳川慶喜は1868年に「大失策」を犯していた…明治人が見た「幕末・維新」の意外な実態(現代ビジネス)-Yahoo!ニュース日本という国は、どのような国なのか。この国の根幹にはなにがあるのか。政治や社会の混乱を目の当たりにするとき、私たちはふとこうした大きな疑問を抱いてしまうことがあります。そうした問いについて考news.yahoo.co.jp徳川慶喜は、ペリー来航から井伊直弼大老就任まで、一橋慶喜として橋本左内の雄藩連合を中心とする国家構想に賛同していた。だが、そ
仙巌園(せんがんえん)は鹿児島市にある薩摩藩主島津氏の別邸・大名庭園で、別名は磯庭園と言い、「仙巌園附花倉御仮屋庭園」として国の名勝に指定されています。また園内の反射炉は、2015年に世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつに登録されました。この仙巌園は1658年に第19代当主・島津光久によって磯に別邸として建設されました。錦江湾を池に桜島を築山に見立てた雄大な景観に加え、島津家が琉球を通じて中国貿
Q™️のXより…😆💦1️⃣pic.twitter.com/3BUduLT6Nr—Q™️(@QTHESTORMM)2024年10月30日2️⃣🚨🚨🚨AREYOUREADYFORWHATSCOMINGNEXT???2DAYSAHEADOFSCHEDULE…DARKDAYS.pic.twitter.com/qeBiJWXowU—Q™️(@QTHESTORMM)2024年10月30日😎👍
沖縄って難しいね西洋的植民地主義を徹底すれば現地の風俗を統治者の国風にしたがるんだろうけど江戸時代の薩摩藩はむしろ琉球を外国風に見せたいという西洋的植民地主義とは逆のことをしている明治維新以降西洋的国民国家的価値観から沖縄県は急速に日本と同じ国という意識づけが行われたのだろうが琉球王朝自身が諱のような意識から王族が中城に住むからと言って中の漢字を仲に変えさせたのだからまあ政治もいろいろですわhttps://nakamu
龍馬よ、龍馬…。ふとした瞬間、心の中なかでそうつぶやいている自分に気づく。そんなときがある。大層なことでなくても、次は何をしようか、などと思うとき、私は彼の名を呼んでいる。呼ぼうという自覚はない。口をついて出てしまっている、と言ったほうがいい。自分でもその理由はよくわからないが、おそらく、高校生の時に読んだ『竜馬がゆく』のせいだと思う。多くの若者がそうであるように、私も『竜馬がゆく』で坂本龍馬を知った。そして、龍馬に惹かれた。背景をもたず思想におかされず差別や不合理なことを
2024年10月17日、俳優・西田敏行氏が逝去された。訃報を受けて多くの記事を見ることができる。西田氏の芸能活動の幅広さをあらためて知らされる。いや、それだけでなく人間としてあたたかく大きな人だったのだろう。その存在は間違いなく戦後屈指のエンターティナーといえよう。なにせ、豊臣秀吉をやり、西郷隆盛をやり、徳川吉宗をやり、池中玄太をやり、猪八戒をやり、釣りバカのハマちゃんまで無数の役を演じただけでなく、土曜昼の生番組だった『ハッスル銀座』では松崎しげると司会をやり、松崎のギター伴奏で即興の
転勤ライフの蒲池です。先月、「薩摩藩英国留学生記念館」へ行って来ました。前々回のブログ「ちかび展示館」の近くです。鹿児島の夏は暑すぎて、屋外の観光が辛すぎるのと、小学生の子供が金管バンドに入り、放課後や土日も学校へ行く機会ができたので、その隙に子供は退屈しそうな観光場所へも、大人のみで行けるようになりました。金管バンドとは中学校で言う吹奏楽部みたいな物です。ただし、学校主体ではなく保護者主体の活動だそうです。そうは言っても、新米部員の保護者である私には違いがよく分かりません。私
前回、「長州藩は毛利藩で、毛利の始祖は秦氏だった」と書きました。明治維新を主導したのは主に長州藩と薩摩藩(薩長連合)。そして薩摩の藩主・島津家も秦氏説がありました。『明治維新を主導した長州藩は秦氏系⑪~フィクサー秦氏~』前回の続きです。平安期の桓武天皇は母方が(秦氏系の)土師氏出身。秦氏から経済・土木建築のバックアップを得て、桓武天皇は平安京を造営しました。優れた頭脳を持つ秦…ameblo.jp薩摩藩の軍事力は群を抜いています。1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いと言われ
早いもんで4日目ですやん左右の遠い所の要所はカバー駅近周辺がまだなのでその辺りから攻めますしっかり朝食食べて向かったのは、歴史上の有名人の人達の銅像やゆかりの地西郷さんや大久保さん←友達か!のとこ回って歴史サッパなので少しは分かるであろう維新ふるさと館へ歴史の事説明あり、また西郷どんの撮影時の衣装やエピソードがありました明治維新の背景で写メれるどこでポチッとなじぇんじぇん風景に合わんあっ連日ほぼ快晴30℃程の天気ですパワー炸裂しましたチト気になったのが昨年の修学旅行でル
交渉が決裂し、薩摩藩兵の包囲陣の真っ只中の赤池集落に陣取っていた見廻組は、戦闘開始と共に集中砲火を浴びることになります。絶対的に不利な状況に、たまらず敗走してしまったため、警護していた滝川播磨守と共に後世に汚名を残すことになってしまいます。『旧桑名藩士中村武雄手記』薩藩より銃先揃えて不意に打ち出せり。見廻組は銃は持す歩兵も銃に玉を込めおかず、右往左往に立ち騒ぎ、矢庭に死する者もあり。手負いはもとより数知れず。『旧幕勘定方坂本柳左談話筆記』(『史談会速記録』)それでその
島津斉彬が舟印として、日章旗を使った最初の人物で、ところが当時の薩摩藩には白地を赤に染める技法がなく、頼ったのは福岡藩の黒田長溥でした。黒田長溥は島津斉彬から見て大伯父にあたるのですが、歳の差は僅かに2つだったそうで、斉彬は兄のように慕っていたとのこと。で、福岡藩の穂波郡山口村(現:飯塚市)にて筑前茜染めがあったそうで、これを日章旗の赤として使ったそうです。なので飯塚市山口には現在筑前茜染発祥の地と日章旗の赤発祥の地として、石碑が建っています。
「労は自ら引き受けて、功は人に譲れ」西郷隆盛の言葉である。西郷隆盛の言葉には深い哲学と人間性が表れている。「労は自ら引き受けて、功は人に譲れ」という名言は、彼の生き方や考え方を象徴するもの。この言葉には、自己犠牲の精神や他者への配慮、そして真のリーダーシップの在り方が込められている。まず、「労は自ら引き受けて」という部分について考えてみたい。これは、自分自身が責任を持って行動し、困難な状況に立ち向かう姿勢を示している。リーダーとしての役割を果たすためには、まず
『念願の喫茶ソワレへ‼︎』祇園おかるでうどんを食べて、喫茶ソワレへ。喫茶ソワレは13:00オープンで、開店まで時間があったので近くにあったイノブン四条本店に。イノブンで喫茶ソワレの文具…ameblo.jp『京都*喫茶ソワレグッズ』『念願の喫茶ソワレへ‼︎』祇園おかるでうどんを食べて、喫茶ソワレへ。喫茶ソワレは13:00オープンで、開店まで時間があったので近くにあったイノブン四条本店に。…ameblo.jpこちらの漫画にハマっている話は度々書いてますが…[新品]だんドーン(1-4巻最
南光坊天海㉒「島民厳ク拒キ戦フ、薩軍コレト戦ヒ、数百人ヲ討殺シケレバ、島人大ニ恐レテ皆従服ス、永良部島ノ者トモハ薩軍ノ威風ヲ聞ケルニヤ、薩軍着船スルト等ク、草ノ風ニ偃カ如ク従ヒケリ」(「得能氏記録・琉球征伐記」)中山王府は与那原親雲上を徳之島に派遣していたが、あっさりと生け捕られてしまう。この頃の琉球王国は長く平和が続いたため、弓矢すら知らなかったというから、鉄砲で武装した薩摩軍に敵うはずもなかった。徳之島秋徳の戦いでは島民は丸太棒で戦ったというが、あまりに無力
慶応四年(1868)一月三日、入京をめざしながら「確認するから待て」と、鳥羽小枝橋の南側で薩摩藩により朝から足止めを食らっていた旧幕府軍先鋒の見廻組でしたが、日も落ちかけた夕方七つ時(午後4時頃)、ついに堪忍袋の緒が切れて「左様ならば罷り通るべし(それならば押し通るまでだ)」と啖呵を切って使者の藤沼幸之丞・所谷健三郎の二人は薩摩藩の陣地に背を向け、赤池集落の見廻組陣地に向かって歩きはじめました。薩摩藩五番隊長の野津七左衛門(鎮雄)はこれを攻撃開始のタイミングと判断しました。急速喇
全国の城郭建造物「御殿(居館)シリーズ」をお届けしています。「御殿」については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。全国「御殿」を巡る”はじめに”↓『全国「御殿」を巡る”はじめに”』「近世城郭」における「城郭建造物」には、「天守」を始め「櫓」「櫓門」「門」「御殿」「番所」「蔵(金蔵)」「馬屋」その他に「御殿」を構成する「茶室」「能舞台」「…ameblo.jp今回は、「鹿児島城」城主「島津家」の別邸で、お城からは離れた場所にありますが、明治時代に改修されて現存
与那国が名前から分かるように国家であったこと、与那国が台湾との交流が深かったことがこの資料館で分かります。また、薩摩藩の重税が要因であるものの、琉球王国の支配下となった後に厳しい人頭税を課せられたことを考えると沖縄の資料館などで見る「薩摩藩による琉球王国への侵攻」というのは与那国を侵攻したことを思えば、琉球王国も人のことを言える立場では無いと感じると同時にどの国もそういった歴史があるということも分かります。そして、こういった資料館は誰目線で説明しているのかで受けての印象が大きく変わることが良く
赤池集落に駐屯し薩摩藩からの連絡を待っていた見廻組でしたが、一方の薩摩藩は既に赤池を包囲するように陣を布いていました。この所、味方の地理十分の場所なれば二三軒百姓家を借り入れ、陣所を定め、大砲隊、六番隊等談合し、城南宮社前に前後左右へ手配し、街道正面へは大砲一門、左脇に五番隊そのまた左に横打ちに大砲三門、城南宮うしろの油小路にかけ加世田隊、高岡隊、伊集院隊を立ちつける。右の方、川原竹山中へ六番隊横矢を打ちわけにて隠れ伏す。~『薩藩本府五番隊長野津鎮雄日記』街道へは御城下五
宮崎県児湯郡新富町新田にある新田神社(にゅうたじんじゃ)県道18号荒武新富線沿いに一の鳥居があります。一の鳥居を入って行くと二の鳥居が見えてきます。到着しました御祭神彦火火出見命旧称「正八幡宮」と呼ばれ、新田郷の総鎮守として崇敬された。現在も、「新田八幡神社(八幡様)」として住民に親しまれている。勧請棟札社領名寄帳等は、天正五年(1577)伊東氏の都於郡城落城の際兵火に遭い、本殿、宝物などとともに焼失したと伝える。現存する棟札によれば、慶長十一年(
先日、ヨーガの先生とご一緒に山口県萩市を観光しました。JR新山口駅からバス「スーパーはぎ号」に乗車し、約1時間で明倫館に到着。明倫館内をなるほど、なるほどと見学し、山口の有名うどんチェーン「どんどん」さんで肉うどん+ごぼう天をいただいた後、32℃の炎天下、帽子も被らず日傘もささず(ボクだけ)、ほぼ誰も歩いていない(観光客も地元民も車で移動)萩市の中を3時間超、13㎞も延々と歩き続け、17時前に松陰神社近くの温泉宿にようやく到着。疲れ過ぎて指月山には登れなかったものの「おもしろきこと
掲載されているデータをみて、驚くやら、???やら。このデータが掲載されているのは『日本女性史論集8教育と思想』(総合女性史研究会編、吉川弘文館、平成十年)所収の菅野則子「寺子屋と女師匠~江戸から明治へ~」である。そこで引用されている『日本教育史資料』のなかの府県別の「私塾寺子屋表」。鹿児島県が私塾1、寺子屋19に対し、昨年、山田方谷を調べにいった岡山県は私塾144、寺子屋1031である。この圧倒的は差が意味するものは?薩摩藩では郷士の子弟(もちろん男性)については「郷中
上の記事の続きです。群馬から大阪の御霊神社に20回は参拝していると書かれた、だいちゃん先生の記事があがってきたのが気になり、8月29日御霊神社に参拝してきました。たぶん読むように誘導されていたと思います。↓だいちゃん先生の『人生開華!』チャンネルさんからの投稿なぜか涙が出る神社。大好きすぎて、群馬からは500km以上離れているのにかれこれ20回くらい拝ませてもらっているところ。いのちは、ここの響きを知ってるんだろうな・・・帰ってきた感ハンパない。本質のいのちの波をあり
いつもこの家族旅行では、ゲストハウスなどの安宿に素泊まりして、最終日だけ食事付きの豪華な旅館やホテルに泊まることにしています。今回も素泊まりなので朝食は近くのベーカリーで。これを息子はえらく気に入ってしまい結局連日ベーカリーでモーニングでした。鹿児島といえばシロクマ🐻❄️?パンも?朝食バイキングだと大人1人¥1800だったけど、ベーカリーで3人満腹しても無料コーヒーついて¥2000くらい😁毎朝美味しかったです〜朝イチから向かったのは、かつて島津家別邸だった、仙巌園です
どうも、パヨク御用達の自称歴史学者たちがあらゆる歴史を捏造しているのがこの記事を読んで良く分かりました。奴等は、こうやって心の故郷(本物の故郷かも)の歴史の酷い部分を日本史に勝手に投影させてご満悦なのでしょう。早く歴史学会に主流なパヨクな学者達を追い払い本来の輝かしき歴史にすべきですね。
「全国藩校サミット」なる催しがあることを知ったのは、確か、新潟県長岡市にある「河井継之助記念館」を訪ねたときだった。長岡藩には「崇徳館」があった。かなり以前のことであり、その後、サミットが継続しているかどうか放念していたのだ。だが、2024年の今年、岩手県盛岡市で第21回大会が開催されるという。第21回全国藩校サミット盛岡大会盛岡市公式ホームページwww.city.morioka.iwate.jp最近拙ブログにかいた江戸時代の医師の橘南谿の『西遊記』に当時の藩校が紹介されてい