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○現在、『湖北省湖南省周遊』旅を書くのに忙しいのだが、『卑弥呼も見た?「纏向犬」復元』と言う、何ともつまらない報道がなされて、このまま放置することもできない。それでやむなく、前回、ブログ『卑弥呼も見た?「纏向犬」復元』を書いた。○しかし、このまま放置すれば、『卑弥呼も見た?「纏向犬」復元』を認めることとなる。それで、「纏向犬」及び纏向遺跡と邪馬台国や卑弥呼が、全く無関係であることを、もう少し、丁寧に説明しておきたい。○奈良県桜井市には、纏向学研究センターなるものが存在するらしい。2025年4
【「邪馬壹国」か「邪馬臺国」か】古田武彦氏は、『三国志』魏志東夷伝倭人条に出てくる女王国の中心地の国名が江戸時代以来の通説となっていた「邪馬台(臺)国」ではなく、「邪馬壹国」と記されていることに注目し、邪馬台国→ヤマト国→大和とつなげて邪馬台国大和説を成立させている先行研究に対して否定的な見解を提示した。国名の類似を大きな論拠の一つとしていた大和説論者にとっては都合の悪い主張だったと思われる。陳寿原本に記されていたのが、「邪馬壹国」であっても「邪馬臺国」であっても国名表記の
さて。ここ2年くらい、いつの間にか私のあだ名が卑弥呼様になっておりましたwwwwwwwwwwwwいやぁ。光栄で御座いますw昔から日本神話、邪馬台国、卑弥呼、魏志倭人伝はすごく興味があり。幼い頃から土偶や銅鏡を粘土で作って遊んでたりしてました∴(故に)幼い頃の将来の夢の一つは「日本のシュリーマン」(トロイ遺跡を夢で見て実際に発見したすごい人w)です。そーね。いつか古墳の発掘に参加させて欲しいなぁ。w危なっかしかったら写メ撮るだけでもいーからさw誰か関係者宜しくwなんてね😄因みにTwitt
【卑弥呼の遣使は景初二年か三年か】魏志倭人伝(以下、倭人伝とも)には、「景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡」という箇所がある。岩波版は「景初二年」に以下のような注を付けている。「明帝の年号。景初三年(239)の誤。『日本書紀』所引の『魏志』および『梁書』は三年とする。」卑弥呼が最初に魏の出先である帯方郡に遣使したのが「景初二年」なのか「景初三年」なのかということがテーマである。岩波版は倭人伝の「景初二年」は誤りと断定している。『日本書紀』神功皇后摂政三十九年条には、「魏志云
【帯方郡使は複数回倭国を訪問している】帯方郡使は何度も倭国を訪問しているが、「邪馬台国」まで到達していたかどうかは疑問である。帯方郡使が複数回倭国を訪問していたことは倭人伝の次の文章によって確認することができる。東南陸行五百里到伊都國中略丗有王皆統屬女王國郡使往来常所駐〈拙訳〉東南に五百里陸行すると伊都国に到達する。中略(伊都国には)代々王がいるが、皆女王国の支配下にある。帯方郡からの使者が往来するときには常に滞在する場所である。帯方郡からやってく
「魏志倭人伝」を読んで邪馬台国へたどり着こうと考える人は、必ずこの「一里問題(仮)」にぶつかります。例えば、書かれた行程をたどって九州島の末盧国(まつらこく)へ上陸したとします。次は、末盧国から500里のところに伊都国を探さなければなりません。さらに、伊都国(いとこく)から100里のところに奴国を……。その過程では、1里が何メートルかを決めなければ先に進めないのです。しかし、邪馬台国論争はすでに300年を超えましたが、この最も基本的な「一里問題(仮)」には明確な決着がついていません。「
【倭人伝の里程は1里≒80m】倭人伝の行程の中に出てくる国名の中で、現在の地図に場所を特定できるのは対海国と一大国だけである。韓半島から九州島へ向かう航路にあって、それなりの大きさをもっている島ということで、対馬島と壱峻島に比定することができる。両島間の距離が「千余里」となっているので、倭人伝に記された「里」をkm変換する時の基準となる。倭人伝の中で唯一の場所が特定されている2地点間の移動である。現在の対馬-壱岐島間のフェリーの航行距離は102km。3世紀と現在では多少のずれ
魏志倭人伝には、元々、男子を王として70から80年経ったが、倭国全体で長期間にわたり騒乱が起こったが、卑弥呼という女を王にして混乱を鎮めた。(西暦238年)『親魏倭王』に任じた。(西暦247年)卑弥呼死去その後、男王をたてたが国中が服さず殺し合い、1000余人が死んだ。13歳の宗女登與をたて、国は治まった。と書いてある。13歳の宗女登與は豊玉比売だ。神武天皇の祖母である。後漢書東夷伝には安帝の永初元年(西暦107年)冬十月倭国が使
○前回のブログ『日向国の邪馬台国』に、こう書いている。・現在、『湖北省湖南省周遊』旅を書くのに忙しいのだが、『卑弥呼も見た?「纏向犬」復元』と言う、何ともつまらない報道がなされて、このまま放置することもできない。それでやむなく、前回、ブログ『卑弥呼も見た?「纏向犬」復元』を書いた。○文化は耕さないと享受できない。同じように、放置したままにしておいては、逆に、その文化を受け入れたとみなされ兼ねない。何とも面倒な世の中になったものである。それで、ブログ『卑弥呼も見た?
突然ですが、YouTubeを始めました。3年とちょっとブログを書いてきましたが、より強く伝えたいことが、新しい記事を書き重ねるたびにどんどん埋もれていってしまうような、そんな気がしていました。かといって、何度も何度も同じことを繰り返すのも気が引けて・・・。このあたりで、いままでに書いたことをまとめなおす意味でも、YouTubeをやってみようと思ったわけです。ただ、根っからのアナログ人間で、これまでYouTubeを観ることもほとんどなかったので、動画制作はかなり大変でした。約
邪馬台国論争において昔から争われている論点として、「会稽東治(かいけいとうち)」と「会稽東冶(かいけいとうや)」のどちらが正しいかということがあります。これは、中国から見て邪馬台国がどのあたりにあると考えられていたかということに関連しています。それが、『三国志』(「魏志倭人伝」)と『後漢書』で異なっているのです。『三国志』計其道里當在会稽東治之東(女王国〈邪馬台国〉までの)道里を計ると、まさに会稽東治の東にある。『後漢書』其地大較在会稽東冶之東その地(邪馬台国)はだいた
ご訪問ありがとうございます。前回は、〇一般的には浦島太郎イコール山幸彦だと伝わっているが、実は、浦島太郎イコール海幸彦なのではないか?ということや〇正統竹内文書において伝わっている「浦島太郎(浦嶋子)伝説」が、実はとてもリアルで怖い話だったという内容のお話を紹介しました。浦島太郎(浦嶋子)を巡る話は、本当に根が深くて、頭は混乱するばかりなのですが、浦嶋子が何者かがわかると、さまざまな古代史の謎が解けて行きます。私が、なぜ浦嶋太郎伝説に
興味深いニュースが目に止まりました!「女王・卑弥呼の愛犬」を復元宮殿跡から骨、1歳以上メス推定魏志倭人伝と時期合致(産経ニュース)https://u.lin.ee/HlAep7x?mediadetail=1&utm_source=line&utm_medium=share&utm_campaign=none卑弥呼と一緒に暮らしていた犬かもしれない…とはなんともロマンがあります!縄文時代の遺跡からも犬の骨は見つかっているのですよね!大事に埋葬された形跡がある、となにかで読んだ記憶が