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ご訪問ありがとうございます。さて、前回リブログでご紹介した「2人のハツクニシラス天皇」では、九州から来た「神武天皇」と第10代の「崇神天皇」について一人の始祖を分化させた疑いがあるということと崇神天皇は「ミマキヒメもしくはミマツヒメ」のところに婿入りをしてミマキイリヒコになった可能性を考えてみました。しかし、考古学会には神武東征を否定する見解があります。例えば、国立歴史民俗博物館名誉教授の白石太一郎さんは、畿内から九州への土器の流入はあっても、九州から畿内への流入が極めて少な
こんにちは、スタルペスです福岡県みやま市の蜘蛛塚から近くに「権現塚古墳(ごんげんづかこふん)」があります。周りには住宅はなく、田畑の中にポツンと1基だけがある大きな円墳です。直径45m、高さ5.7mの2段築成の円墳です。周囲には幅11m、深さ1.2mの周溝が巡っています。古墳時代中期(5世紀)の築造と考えられています。※権現塚古墳主体部は確認されていませんが竪穴式石室ではなかったかと思います。墳丘は、周囲のどこからでも眺められる堂々とした古墳
「神皇紀」が無料で読める事が分かり(国立国会図書館デジタルコレクション)、まだ読んでる途中ですが面白い情報があったので書く気になりました。まず印象ですが、「神皇紀」という本は記紀を補完する目的で書かれている印象を受けます。なので神皇紀だけで評価すると、「宮下文書」は偽書とされる可能性はあると思います、しかし大筋は別にして詳細な部分に於いては注目すべき内容が含まれているようで、宮下文書の評価はやはり原文を読まないと何とも言えないという事になりそうです。んで、面白い事というのが、神皇紀
NHKに触発されたので、古代史における重要な命題、邪馬台国の女王、卑弥呼とは「世襲足媛」である事への証明をシンプルかつ明確に行いたいと思います。↑博多人形卑弥呼川崎幸子作卑弥呼に関する記述は『魏志倭人伝』に多くがありますが、その内容の詳細については個々人で調べて貰うこととして、証明に必要な事のみを列挙していきたいと思います。卑弥呼とは『三国史記』から就任年が173年、『魏志倭人伝』から崩御が247年以降と推測出来ていますので在位期間が74年もある長生きをした女王である事が
「魏志倭人伝」の行程記述の読み方にはいくつかの説があります。まず、一つが「連続説」と呼ばれるものです。これは、「魏志倭人伝」の記す行程を一本の道と考え、帯方郡(たいほうぐん)を出発してから登場する国々を順に辿って行くという読み方です。オーソドックスな考え方で、私もこの説を採用しています(図表1)。◆図表1連続説これに対して、「放射説」という読み方があります。「放射説」は、戦後まもなく榎一雄氏が発表された説で、伊都国(いとこく)から以降の方角・距離は、伊都国を起点として記
和邇氏について和邇氏なのか和迩部なのか、よく分からない事を伝える様な書き込みをよく見ますが、これは和邇氏の系図の子孫として有名な人物に「和迩部君手(わにべのきみて)」という人がいるからだろう、というのがよく分かります。系図には、天足彦国押人命→和邇日子押人命→彦姥津命→伊富津久命→彦国葺命→大口納命→大難波宿禰命→難波根子武振熊命→米餅搗大臣命→佐都紀臣→日爪臣→田作臣→磐邊臣→船守臣→船萬侶臣→稚子臣→弓束臣→君手→…………と続いています。ちょうど米餅搗大臣命の時
邪馬台国論争において昔から争われている論点として、「会稽東治(かいけいとうち)」と「会稽東冶(かいけいとうや)」のどちらが正しいかということがあります。これは、中国から見て邪馬台国がどのあたりにあると考えられていたかということに関連しています。それが、『三国志』(「魏志倭人伝」)と『後漢書』で異なっているのです。『三国志』計其道里當在会稽東治之東(女王国〈邪馬台国〉までの)道里を計ると、まさに会稽東治の東にある。『後漢書』其地大較在会稽東冶之東その地(邪馬台国)はだいた
こんにちは、スタルペスです。今日は、福岡県みやま市の田油津姫伝説の古墳に来ています。みやま市瀬高町大字大草字大塚にある「蜘蛛塚(くもづか)」に来ています。※老松神社の敷地内に「蜘蛛塚古墳」はあります。※まずは老松神社にお参り。老松神社の境内にあるこの蜘蛛塚は、田油津姫(たぶらつひめ)の墓と言われています。神功皇后は山門県(やまとのあがた)にヤマトに従わない田油津姫という土蜘蛛の女酋がいるということでこれを討ち果たします。この田油津姫の墓がこの
『自分自身が何者であるか?』を探し求めた旅路の果て。2022.8.22〜2024.4.6会社員としての寿命は長期休暇の末、どうやら尽きていたようだ。(-_-;)汗ソレを捨ててまで追い求めた、『自分自身が何者であるか?』を知る為の全国制覇の旅路。森家の母さんの地元にある、徳島市渋野町の【佐野神社】が初代天皇、神武天皇(佐野命=サノノミコト)の東征の起点である!!と。【カゴメ歌】にある、カゴメx2、『籠(カゴ=三菱)の中の鳥(私自身)はいついつである?夜明け(2024.7.3.
以前の日本列島史を書いてからの4年間に大変な事実が判明しました。以前書いた話を一部訂正しないといけません。日本列島は東日本島と西日本島に別れていたんです。2000万年前、ユーラシア大陸と一体だった陸地が分離して、観音開きのように広がって日本列島の元になったんです。その時に日本海も生まれました。九州と四国と本州の西側が元々西日本島、本州の東側と北海道が元々東日本島でした。ここまでは学者も認める話です。ただしその後、日本列島は大変なことになりました。↓普通の学
シンキングボール演奏曲目カタカムナウタヒ奏上演奏者カムナむつみ旬の古代史が全部聴ける古事記の舞台は阿波だった!邪馬台国は阿波だった!mini卑弥呼フェス令和6年4月20日土13:00~16:00(開場12:00)会場:徳島県立21世紀館イベントホールー主催:アワテラス歴史文化研究所協力・阿波古事記/みづほ古事記研究会/都市伝説・阿波古記研究会協賛:Dライフサポート株式会社/AWAFUKU株式会社/東洋備保障株式会社/株式会社アクエス/エフエムびざん/税理士法人福山
はい!奈央です。今日は、福岡県田川郡赤村の内田駅という所に来ています。皆さんこのGoogleMap中に何が見えますか?こんな具合に枠を付けたらわかりやすいかな?そう!前方後円墳の形です。これが今、話題になっている福岡県田川郡赤村の巨大前方後円墳の候補なんです。航空写真の計測から、全長450mもあるそうです。日本最大の古墳大仙陵古墳(仁徳天皇陵、墳丘長525m)に次ぐ大きさなんだそうですよ。すごいー!古墳の大きさランキングDailyPorta
日本人のほとんどが「私たちの先祖は極めて原始的生活をしていた」と認識していることでしょう。そのころ、隣国にはすでに文明大国があり、先進技術や文化はすべて隣国から伝わった...と。しかーしそうではないことが最近明らかになってきました。私たちの先祖はサル同然の原始人ではなかった!と日本史の小名木先生も声高に仰っています。例えば、日本では縄文時代にはすでに稲作が始まっていて、のちに大陸へ伝承したようです(あれ、習った事と逆じゃねー)。そーなんですよ!逆なんです。目覚めている方
私の前世が卑弥呼の娘という事で去年動画にしました。そこにコメントをくれてて【徐福伝説】というのを初めてしりました。徐福さんは、秦の時代に中国から日本に3000人の人を連れてきました。その内の100人程が読み書きの出来る者でした。卑弥呼の祖母はその中の1人でしょう。私の霊視では、卑弥呼の祖母は韓国人と伝わりました、中国に居た理由を聞くと、卑弥呼の祖母は子供の頃に訳があって子供たちだけ中国に送られて両親は殺されたみたいです。卑弥呼の娘「壱与」の生まれ変わりが邪馬台国を紐解く【新説】
こんばんは♪SacredStonesです(*^_^*)寒い寒~い冬・・・のはずが、良い御天気が続いて気持ちの良い空ですね~皆様、いかがお過ごしでしょうか?いつもの冬と違って、暖かい日も多いので、お出かけされる方も結構いらっしゃるようです藤沢駅前は天気が良いと、富士山が綺麗に見えてほれぼれしてしまいます江の島の橋からはもっと綺麗に見えますので、是非是非、お天気の良い日は富士山を探してみてくださいね♪私は最近、先日のバレンタイン期間にお客様にお配りする
ご訪問ありがとうございます。今回は天照大神は卑弥呼なのかという命題についての検証なのですが( ̄▽ ̄;)これについては古くは東京帝大の白鳥庫吉博士や哲学者の和辻哲郎氏が唱えられ、現在では安本美典さんが急先鋒というべき存在ですが、ちょうど理由をまとめておられるのでそれをあげてみましょう。(「BESTT!MES」より転載)天照大御神と卑弥呼「9つの共通点」①女性である②宗教的権威がある③夫がいない④弟がいる⑤『古事記』に記述のある高木神(たかぎのかみ)と『魏志倭人伝』の「女王の
ふと、スピリチュアルな力に導かれて東京からフラっと奈良へ…。1人旅をしてきました。Mignonは以前、超能力者のマクモニーグルの番組を見て以来、奈良の鳥見山にずっと憧れていました。マクモニーグル説によれば、卑弥呼は、3世紀頃、奈良県桜井市付近に夏の宮殿を有し、山口県下関市付近に冬の宮殿を有していたといいます。又この等彌神社は神武天皇が橿原宮に即位後、自ら鳥見山に霊畤(まつりのにわ)を設け、大和平定と建国の大孝を祈る大嘗会の発祥の地でもあります。今回、憧れの鳥見山の等彌神社に
【蛇行剣】〜歴史ミステリー〜日本の空白の4世紀と呼ばれる古墳時代。今から1,600年前だ。奈良市の富雄丸山古墳からこれ迄には発見されなかった盾型銅鏡。そして、2メートルを超える蛇行剣が発掘された。奈良県立橿原考古学研究所により、丁寧なクリーニング作業が行われ蛇行剣の全貌が見えて来た。中国に残る、邪馬台国や卑弥呼の時代から後、記述が残って居ないこの時代、日本国では、一体何があったのだろう⁉️🌷SoulFlowerKamuy🌷奈良・富雄丸山古墳で国内最大の蛇行剣出土、
『出張の合間の神社巡り阿波徳島編『天岩戸別八倉比賣神社①』~箭執神社と松熊神社と天手力男の正体~』『出張の合間の神社巡り阿波徳島編『多祁御奈刀彌神社』~元諏訪とタケミナカタの故郷~』『出張の合間の神社巡り四国編香川県『八坂神社』~牛頭天皇と琉球の繋がり…ameblo.jp『出張の合間の神社巡り阿波徳島編『天岩戸別八倉比賣神社②』~日の巫女は月のように~』『出張の合間の神社巡り阿波徳島編『天岩戸別八倉比売神社①』~箭執神社と松熊神社と天手力男の正体~』『出張の合間の神社巡り阿波
三国志の中に魏志があり、この中の烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)があり、日本に関する最古の記述がある。この中に女王卑弥呼が治める邪馬台国があり日本を治めていたと書かれている。この邪馬台(ヤマタイ)国こそ、日本(大和、ヤマト)のことであった。すなわち、魏の使者にはヤマトの音が漢字の邪(ヤ)、馬(マ)、台(臺、タイ)と聞こえたのであろう。この漢字の音について、邪をヤと読むのは呉音または訓読み、馬をマと読むのは唐音または訓読み、台(臺)をタイと読むのは漢音、ダイなら呉音となる。ところで、唐音(唐
私の邪馬台国論の根幹をなすのは、魏志倭人伝後世書き換え説です。魏志倭人伝の行程記事は、帯方郡から不彌国までは里数が書かれていますが、不彌国から投馬国への行程と投馬国から邪馬台国への行程は日数で書かれています。(不彌国から投馬国)南至投馬国水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五万余戸(投馬国から邪馬台国)南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七万余戸里数は、尺度はともかくとして、万人が共通認識を持つことのできる具体的なも
宮原誠一の神社見聞牒(103)平成31年(2019年)04月05日No.103二人の夫と共に大日孁貴を祀る大神社大日孁貴(オオヒルメムチ)を祀る神社が北筑後(筑後川北部)にあります。福岡県の筑後川北部には大日孁貴を祀る大神宮が多く鎮座されています。その一つである天神社(てんじんじゃ)の紹介です。菅公を祀る天神社(てんじんしゃ)ではありません。天神社と田神社(でんじんじゃ)が同一の神社もあります。その大日孁貴を祀る天神社の境内社に古宮「大神社おおかみやしろ」があります。大日孁
【後漢書東夷伝倭条】に記された『安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見』倭国王帥升とは、奈良時代に淡海三船から、帥升が謁見を願った後漢孝安皇帝と同じ諡号「孝安」を追贈されたクニオシヒト大王(孝安天皇)ではないか❓との説を前回ブログでご紹介しました(・`ω・´)💡『後漢書』が明かす倭国王帥升と縄文海人族~中国の史書から見た倭人⑪https://ameblo.jp/starless43/entry-12567418164.html(・`ω・´)💡この説は、明治
今日(4/17)放送されたNHKのEテレ「日本史」のテーマは「弥生時代」でした。中高校生ぐらいを対象にした20分の放送時間だし、内容が教科書の目次部分だけで編集されているのも仕方ないかぁ~って、思っていたらなんと「銅鏡」ではなく「銅鐸」が紹介されてびっくり思わずテレビ画面に拍手残念ながらその後の「卑弥呼」については「倭人伝」に卑弥呼が「親魏倭王」として記述されていると紹介しておきながら、ナレーションではその卑弥呼を邪馬台国の女王だと説明「倭人伝」には、卑弥呼が倭王として共立され
家康が開いたという関東。しかし、関東は案外栄えていました。邪馬台国は九州に?いやいや、出雲でしょう。あるいは、邪馬台国というくらいだから、そのもの大和でしょう。と、定説は様々です。が、最近こんな説も。邪馬台国関東説。伊勢神宮と似たような東の果てに、鹿島神宮。縄文時代、文化が栄え人口が多いのは東日本。大陸との交流が盛んなのは、実は日本海。そこから関東は近い。伊都国は今の糸魚川。ヒスイの産地。高天原があるのは茨城県。ツケ、ヒタ、ムサ、フサは昔の国名。後に、都に
ホツマツタヱの年号表記の仕組みがよく分からず、説明文は理解できても納得できていない方もおられると思います。私もその一人で、「どうして、そうなるの?」を答えてくれる解説文が見つからないので、結局自分で原文から拾い分析してみました。まずは最初の暦で、これはアマテルが死ぬ50鈴まで続いていた暦の解釈です。自分で分析するとよくわかりますが、もう最初から暦の運用が変わっているのだと思わせる内容です。暦に使われる単位は「鈴,枝,穂」になります、1鈴=60000穂,1枝=60
あす3月24日の午後9時から、NHKスペシャル「古代史ミステリーヤマト王権空白の世紀」が放映されます。内容の詳細はわかりませんが、倭の五王(讃・珍・済・興・武)について描かれるようです。そこで、以前に倭の五王についてYouTube動画でシリーズ化していたこともあり、今回それをまとめた動画を作りました。動画本編は私の説が中心となりますので、多くの異論もあると思います。それで、今回動画では冒頭に中国史書に現れる倭の五王の記事や、一般的な解釈をまとめました。その部分を
日本書紀、古事記に対し、安本美典氏の九州王朝東遷説など九州ウリジナル論者の分析、主張が面白いが、冷静に考えて日本最古の大和政権発行の日本書紀、古事記は政権の都合に合ったものしか書いていない、と考えた方が正しい。地名には、現地発祥のもの(自然発生、神功皇后などヒーロー伝承にあやかったもの)、日本書紀や古事記にあやかったもの(宮崎県や鹿児島県に結構多く複数箇所に出現する)、大和政権の意向に従ったものがあろう!邪馬台国の九州説の根拠でもある邪馬台国への旅程が南方向であれば、九州の南方向に畿内の地名
古代の都は鳥取県にあった結論だけを書きますので、理由はそれぞれのカテゴリをご覧ください。今までの調査の結果です。1天照大神と徐福⑴天照大神の名の由来第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町に到着し米子市尾高の大神山神社本社で大神と出会った。徐福は「東南の蓬莱山」(大山)に連れていかれ大神(伊邪那岐)の宮殿(鳥取県大山町大山の大神山神社奥宮)や「銅色の龍形の使者」がいて光が天を照らしている「光上照天」のを見た。第2次の徐福(紀元前210年)は多くの少年少女を大神の国に連れて
『日本書紀』は紀元前660年の神武天皇即位から697年の持統天皇の譲位までを編年体で記しています。しかし、3世紀前半に日本のどこかに確実にいたとされる「卑弥呼」には言及していません。それはなぜなのでしょうか。日本書紀に卑弥呼が登場しない理由については、『日本書紀』の前段階として紀年延長操作が施されていない『原日本紀』が編纂されていたと考えると合理的に理解できます。それを順序立てて示しますと―――▼正しい年代観でまとめられた『原日本紀』では、初代天皇の即位は301年とな