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∀ヤマタイ国≒カレーライス※意味的に手天道衛教・自分神話研究会・383あなたのメンタルヘルスに貢献する。え?なに?そう思いますよね。わが国が、魏志倭人伝に記された国号を精査するとこうなっています。「邪馬台国」。でも、ヤマト=大和=国家のこと。つまりヤマタイ国=国家・国家。カリーは香辛料を使った主に汁ご飯。ナンの場合もあるケド。で、カレーライス=汁ご飯・ご飯。つまり、ダブっている!?手天道衛教はHand-fairymethodEI-kyou=Re
邪馬台国論争ラピタ人【序】前回までの記事で魏志倭人伝が記述する「帶方群から萬二千餘里の位置にある女王国」がパプアニューギニア(もしくはビスマルク諸島)であり、朝貢を行った倭人がポリネシア語、マオリ語を話す人々であった可能性に付いてみました。以上を念頭に以下では、パプアニューギニアにはいかなる人々が住んでいたのか?を考えてみたいと思います。キーワードは「ラピタ人」となります。画像と記事は関係ありません【ラピタ人】ラピタ人(Lapita)の祖先は、「元々は台湾にい
邪馬台国論争パプアニューギニア【序】前回の記事で旧唐書が、倭国のある場所として記述する「京師(現在の西安)から一萬四千里の新羅の東南の大海の中」は、現在だとパプアニューギニアおよびビスマルク諸島に該当する可能性があることを見ました。倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中では他の中国史書の記述も見てみます。<魏志倭人伝>倭人、在帶方東南大海之中。自郡至女王國萬二千餘里魏志倭人伝では、「倭人は帶方群の東南の大海之中にあって、女王国までは12、000里」
邪馬台国論争長里と短里【魏と唐の1里】いわゆる邪馬台国論争で決定的に重要なのが、1里が何mなのか?ということ。中国の度量衡基準単位では「1800尺=1里」だとされ、1尺が何㎝かは時代により変化する。例えば魏尺では「1尺=24.12㎝」で、唐尺には大尺と小尺の2種類があり大尺が30㎝、小尺が24.6㎝だとされる(コトバンク)。まとめると次のようになる。魏尺:1里=434m(24.12㎝×1800=43、416㎝=434m)唐の大尺:1里=540m(30㎝×1800=540m)
日本に100以上の国があり中国に使いを送る国もあった(漢書地理志)委奴国王印を授けられる(後漢書東夷伝)邪馬台国の卑弥呼(魏志倭人伝)日本の様子を伝える中国の書名から時代が想像できます。三国志のすでに劉備や孔明、曹操も亡くなった魏の時代が卑弥呼というのが驚き。中学社会歴史縄文弥生古墳時代問題編日本に100以上の国があり中国に使いを送る国もあった(漢書地理志)委奴国王印を授けられる(後漢書東夷伝)邪馬台国の卑弥呼(魏志倭人伝)日本の様子を伝える中国の書名から時代が想像できます。三国志のす
倭地温暖前回の付けたし記事倭人伝に、倭国の風俗を述べた後に、「有無する所、儋耳・朱崖と同じ」とある。後漢書(5世紀撰)にも、「その地は、おおよそ会稽・東冶の東にあり」に続いて「朱崖・儋耳(たんじ)と相近しゆえにその法俗多く同じ」と記してある。謝氏は「相近しというのは、風俗が近いというより距離が近いという意味である」とする。謝氏によると、「魏志倭人伝に見られる儋耳・朱崖は海南島にある地名であり、海南島は今は広東省に属するが、その昔は中国辺縁部の異国的な地であった。九州より
縄文、弥生、大和政権と中国、朝鮮半島の関係など。委奴国王印の金印が後漢、秦の始皇帝キングダムの後に漢字の漢、その前漢が滅んだ後に光武帝が後漢を再興し、その後に三国志の魏呉蜀の魏の時代の魏志倭人伝に卑弥呼と邪馬台国が出てきます。
「アテラ」3漢と魏と呉と日本(倭)川崎一水中国と日本後漢の混乱により董卓が献帝を擁して都を長安に移した。これに乗じて遼東太守であった公孫度が高句麗や烏丸を討伐し、山東半島も支配下とした。公孫度の子公孫康は三世紀初めには楽浪郡の南に帯方郡を新設した。韓や濊を攻略し、韓や倭は帯方郡に属した。そのころの帯方郡や楽浪郡は公孫氏によって支配されていたため、倭の魏への朝貢は公孫氏に対してであった可能性も高いといわれる。その後の後漢の衰退期には高句麗が侵攻
「アテラ」1漢委奴国と邪馬台国と日本国川崎一水「日本」という国号は、文武天皇4年・西暦700年に完成した令11巻とその翌年の大宝元年・西暦701年に完成した律6巻からなる大宝律令に定められた。それまでは「倭」であった。しかしその名も実際には国名ではなく、その時の中国からそう呼ばれていたというだけのものであった。そして唐の時代に編纂された『翰苑』には後漢に朝見した倭の王は「倭面上国王帥升」であるとある。つまり、唐の時代には「倭面上」があったことにな
超次元ライブ351【新・日本列島から日本人が消える日】要約速報2024.4.18※なるべくさくやさん、ミナミさんが使った言葉、表現方法に忠実に組み立てました・ナーガ(アジア支配担当の宇宙人、レプティリアンの舎弟)は日本を天皇による支配から仏教による宗教支配でコントロールしようと試みた・日本は弥生以降、大陸の属国であった。〇王朝の日本支部という感じ。だからいつもお伺いを立てる・巨大な古墳は天皇など権力者の権威誇示の墓で間違いない・文字を最初に使ったのは縄文人。それが世界に散らばった・
○先日、2024年4月14日、朝日新聞文化欄に、次の記事が掲載された。奈良の古墳驚きの新発見続々100面超の銅鏡&長さ227㌢国産の蛇行鉄剣類例のない巨大な蛇行剣や盾形銅鏡の出土、100面を超える銅鏡の副葬の判明ーー。重要な発見が続く奈良の古墳を第一線で研究している考古学者二人が記者サロン「すごいぞ!奈良の古墳~富雄丸山古墳と桜井茶臼山古墳に迫る~」で、最新の研究成果について記者と語り合いました。○この見出しと前置きなら
興味のある方だけお読みください~やはり卑弥呼と天照大神(アマテラス)は同一人物~国立天文台の相馬充博士らは、西暦247年3月24日に観測された皆既日食の軌跡を推定している下図の通りです。私は、天の岩戸隠れが皆既日食によるものという説には、疑問を持っていたのですが、こういうものを出されてしまうと、そうではないか?!と考えるようになりました。もちろん博士は、天の岩戸隠れが対馬での出来事とは推定していたわけではありません。1.卑弥呼の死と符合卑弥呼の死亡推定年は西暦247年前後で
しばらくおやすみにしていたが、その間に新たに気づいた点や発見?などをダラダラ書いてみることにしました。今回は定番の卑弥呼。卑弥呼についてはこれまでにいろいろ投稿してきましたが、その後に気づいた点や書物であらためて発見したことなどを書いてみたいと思います。1.卑弥呼が倭国の女王となれた理由今まで漠然と卑弥呼が巫女であったことが大きな理由かと思っていたが、それも一つではあるが、もっと重要な理由があったことに気づいた。既に誰かが指摘していると思うが、それは卑弥呼が公孫氏の出(同族)で
ご訪問ありがとうございます。さて、この前の続きになりますが、以前の「続ヤマトタケル倭彦考」の中で述べた、倭彦命がヤマトタケルのモデルの一人ではないかという推論をもう一度あげておこうと思います。実はヤマトタケルには、伊吹山の遭難の後、伊吹山で白鳥に変じた、あるいは滋賀県側に下りて、そこで白鳥になった伝承が残っています。それも神社の社伝といった口伝えのものではなく、ひとつは藤原仲麻呂=恵美押勝が編纂した「家伝」の「武智麿伝」で、お父さんの武智麻呂のことを伝記にしているのですがその
まったり〜💖お布団大好きにゃん♥(=^・^=)ボクの居場所はいつもお布団がありますにゃ〜💖(ミー介様に合わせて布団も移動してます)以前に撮った📸糸島深江の海✨さざ波も美しいです深江の海は遠浅の海で天気の良い日は空の青が映り込み空と海が一体化されたような幻想的な景色が広がります✨その時期は鏡の海とも言われるそうです何故かさざ波しか撮ってにゃいのが残念💦今度写真を撮ってきますね糸島ののどかな景色を描いてみました🍙糸島は魏志倭人伝にも記述を残し別名伊都の国とも
ご訪問ありがとうございます。最初のはすすっと流しますので、とりあえずお付き合いを。26年秋8月3日、天皇は物部モノノベノ十千根トオチネノ大連オオムラジに命じて、「使者を出雲国へ派遣し、その国の神宝を検分しようとしたが、(神宝について)明答できるものがない。そこでそなたが自ら出雲に行って、検分調査してまいれ。」と仰せになった。そこで十千根大連は神宝を調査して、明らかにしたことを天皇に申し上げたので、(天皇は)神宝を管轄することにした。ここは出雲の神宝をめぐって、出雲臣振根が誅伐された
魏志倭人伝には、卑弥呼が100歳を超えても少女のような容貌を保っていたという記述があります。これは、卑弥呼が若返りの術を知っていたという解釈を生み出しました。若返りの術は、古代中国や古代日本において広く信じられていたものです。不老不死を求める人々は、様々な方法で若返りを試みました。卑弥呼がどのような方法で若返りを図ったのかは、魏志倭人伝には記されていません。しかし、いくつかの可能性が考えられます。1.薬物療法古代中国では、不老不死を求めて様々な薬物が開発されました
もしハシハカ古墳が卑弥呼の墓であれば卑弥呼が最低でも100年は生きていることになるのです。あの時代にそれはないでしょう。まして魏志倭人伝には卑弥呼の死後に国が荒れたとも書かれているのですから、あの大きさの墓を卑弥呼の墓とするのは少し無理があるのではと考えます。ですから筋道を通して考えるとハシハカ古墳を卑弥呼の墓と考えるのは難しいというレベルではなく、ほぼ無理というレベルです。それを多くの学者が支持しているのですから信じられません。魏志倭人伝が正しいという前提であればそ
徳島市国府町に矢野遺跡がある。国府町は私の実家の隣町だ。矢野遺跡は弥生時代の古墳である。卑弥呼は高天原に住んでいた。神山だ。矢野遺跡のある気延山を西に登っていけば神山である。動画中で「やまいちこく」と言っているのは『邪馬壹壹国』つまり邪馬台国のことだ。邪馬台国というのは間違いで、魏志倭人伝の原本には邪馬壹国と書かれている。壹=と邪馬壹国=ヤマトコク八倉比売神社の奥の院五角型の石積みの墓は卑弥呼=アマテラスの墓だと言
勉強会の参加者の方から「倭の五王は6人」や「朝貢のルール」だけでも概要を紹介したら、とのご意見をいただきました。2009年5月の勉強会②(5/17)をそのまま再度掲載します。(朝貢の詳細な考察やなぜ倭王の一人が記録から欠落したかなどの説明は2012年5月勉強会の記事の方が参考になると思います。下の表は2012年5月27日に掲載しているものです。とりあえず写真を撮り直してアップしてみましたが、あまり鮮明ではありませんねぇ)************************
だから魏志倭人伝なんて雰囲気だけで読んで、内容に付いては裏づけが必要だと考えるべきなのです。後になって別の国だった人間が編纂したのですから、物事の起こった年号なんて怪しいものです。他の国の人間が編纂したのですから確かめようも無かったはずです。何かそれらしき事が起こった、もしくはあったという程度でしかないのです。これを前提に物事を考えないのは誤りなのです。根拠のある内容を前提に物事を考えるのが正しいアプローチの仕方なのです。番組では当時の気象状況に付いて木の生長速
物事を考える上で一番重要なのは筋道でしょう。国営放送の番組で邪馬台国に付いて放映してましたが、個人的にその内容に納得出来ません。個人の感情ではなく論理的に納得出来ないのです。魏志倭人伝に書かれていることに囚われ過ぎではないでしょうか。魏志の内容がすべて正しいとは証明されてないのです。歴史書とはその当時の権力者の都合の良いように改変されているのが普通です。歴史書が正しいと考えるのは単なる思い込みですよ。当時の中国の国からしたら海の向こうの小さな国なんてどこまで本気で
◯卑弥呼が何者であるかは、「三国志」を丁寧に読んで、その正体を探るしかない。何故なら、卑弥呼は、「三国志」に書かれた史実に過ぎないのだから。したがって、「三国志」に拠らない邪馬台国論や卑弥呼論は、全て、まやかしに過ぎない。◯ちょうど、一週間前の、2024年3月17日に、『NHKスペシャル:古代史ミステリー第1集邪馬台国の謎に迫る』が放送されて、当古代文化研究所は、その問題について、これまで、次のように論じて来た。・ブログ『NHKスペシャル新シリーズ「古代史ミステリー」邪馬台国の女
スタルペスです。お久しぶりです転職してから忙しい日々を送っていてブログのフォローもできない状態がつづいていますが、今日は久々にブログ投稿ができそうです。前回と言っても1か月以上の前からの続きで、今回も唐津市の古墳を紹介します。前回のブログで紹介した「双水柴山古墳群」から少し北に向かったところ、近くには西九州自動車道が通っています。今回もさらにニッチな古墳、「外園古墳(ほかぞのこふん)」を紹介します。圃場整備された農地の中に集落があり、集落内を東西に通る道路際に外園古
◯前々回、ブログ『中国の伝統的倭国観』を書いて、倭国は越国の一つであることを案内した。少し言葉不足で、説明が不十分だった気がするので、もう少し、説明を加えておきたい。◯それは、どういうことかと言うと、中国には「百越」と言う概念が存在する。つまり、越国には多くの越国が存在すると言う話である。その百越の一つが倭国であると言うことになる。◯そういう意味では、前回案内した、ブログ『會稽東冶之東』で、倭国が何処に存在するかと言う問題に触れた。この意識も、「三国志」倭人条では、相当、強いものがある。つま
◯前回、陳寿は『中国の伝統的倭国観』に基づいて記録している話を書いた。その記録の羅列を、次のように紹介した。・無良田、食海物自活、乖船南北市糴。・差有田地、耕田猶不足食。亦南北市糴。・好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。・男子無大小皆黥面文身。・自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。・夏后少康之子封於會稽、斷髪文身以避蛟龍之害。・今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。・計其道里、當在會稽、東冶之東。・其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭
◯2024年3月17日の午後9:00〜午後9:50に、NHKスペシャル:古代史ミステリー第1集「邪馬台国の謎に迫る」が、放送された。何とも、荒唐無稽な番組で、何の根拠も無い話を堂々とされるのに、驚いた。まず、「三国志」に拠らない邪馬台国や卑弥呼など、あり得ない。◯もっとも、番組では、『「魏志倭人伝」に拠ると』と言う言葉が幾度となく出て来た。ところが、それは何でもない。まるで「三国志」を読んでいないものであることに、驚き、呆れた。◯「三国志」を読むと言うことは、そういうことではない。「