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論点3卑弥呼が受領した「銅鏡百枚」の鏡式を合理的に考える【魏明帝が卑弥呼のために選んだ「銅鏡百枚」】卑弥呼が魏明帝から受け取った「銅鏡百枚」がどのような鏡だったのか?倭人伝に記された「鬼道に事え、能く衆を惑わす」から卑弥呼は宗教的な要素が強い女王であり、銅鏡は祭祀に使用される道具であるとも考えられている。一方中国では「銅鏡」は化粧の際の道具としての実用品である。明帝は卑弥呼に対して「好物」を選んで賜与しているので、使者から卑弥呼の好みを聞き取って品選びしたのであろう。魏
中国の正史の制作はパターンがあって、王朝を滅ぼした次の王朝が、前王朝の歴史を編纂し制作するというものである。ただ、三国志のみは、やや異質であった。「三国志」を書いたのは、蜀の人陳寿という民間人である。魏・呉・蜀の正統王朝は「魏」であり、魏の司馬懿仲達の遠縁である司馬炎が三国を統一して西晋を建国した。西晋の正史を書く官吏が、評判の高い陳寿の「三国志」を取り寄せ、一読したところ、その完成度に驚き、「一言一句付け加えることも、削除することもない」と絶賛し、そのまま正史に採用された。そして、正統王朝で
おはこんばんちは〜来夢ですご訪問くださり、ありがとうございます5月4日(月)ゴールデンウィーク後半ここ2日ほど…お天気がパッとしない和歌山夕方に久しぶりのお陽さまがお目見え神々しい夕陽に心が踊るいやぁ〜昨日は、台風も真っ青級な暴風雨のお天気でしたからね…まるで地球さんの大洗濯(大選択)⁉️巨大洗濯機ですべてを呑み込み、混ぜ混ぜ〜🌀かき混ぜ🌀🌀🌀ガラガラと撹拌して一掃洗浄しましたというような春の嵐でして…一掃された雨上がりの空氣は清々しく爽やかで氣持ち
論点1:卑弥呼が受領したのは後漢鏡か魏鏡か【銅鏡百枚は30か国に配布された】景初二年(238)十二月、魏明帝の詔勅で卑弥呼は「親魏倭王」の称号を受け、多数の賜物を与えられた中に「銅鏡百枚」が含まれていた。卑弥呼が「銅鏡百枚」を受け取ったのは史実と考えてよいだろう。明帝は、「還到録受悉可以示汝国中人使知国家哀汝故鄭重賜汝好物也」と述べて、卑弥呼に対して下賜物を倭国中の人に見せて、魏が卑弥呼を指示していることを知らせるようにと伝えている。したがって、「銅鏡百枚」の多くは倭
今日の伏見稲荷大社羽島支部柏手について定説はないのですが魏志倭人伝に「貴人に対して手を打つ」という記述があります。そして、柏手を打つ時に右手を一関節下げる習慣があります。こうすることで柏手の音が良くなるもう一つの意味に左を上位とすると言う意味があるようです。左を上位とする由来はイザナギノミコトが黄泉の国から戻って目を洗い洗った水の左目から天照大神右目から月読命鼻から素戔嗚尊がお生まれになったお話しからのようです。
贝森特貝森特ふつう、かいもりとくて読んじゃうな昔の邪馬台国とかの記述の奴国の帥升すいしょうとか思い出す朝貢:帥升が160人の生口(奴隷)を引き連れて後漢の安帝に拝謁を求めた。倭国大乱の前:卑弥呼が登場する「倭国大乱」の前の比較的安定した、あるいは政治的な提携が進んでいた時期の支配者とされる日本書紀の名前とか稲荷山の古墳の鉄剣の名前こういう感じなんでしょうね…ベッセント財務長官翻訳かけたらベッセンターになってたホルムズ海峡あけたけれどまた制裁か
【魏明帝から卑弥呼への賜物】景初二年(238)十二月、魏の明帝は卑弥呼を「親魏倭王」に制詔し、金印紫綬とともに数々の下賜品を与えている。倭国に対しては絹織物などの貴重な布地を多数、その他に卑弥呼個人に対して「紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鈆丹各五十斤」が賜与されている。卑弥呼個人に与えられたものがもしまとまって出土するようなことがあれば、邪馬台国問題が解決に近づくことになるだろう。ここではこのうちの「銅鏡百枚」がどのようなもの
これから投稿してみたい記事引き寄せテーマの締めとしてホ・オポノポノのことを書こうと思っていましたが、引き寄せについては書きたいことはほぼ書き終わった感じなので、知っている人が多いと思われるホ・オポノポノは後に回したいと思います。今書きたいと思っているテーマは、①卑弥呼関係⇒魏志倭人伝に記載された倭国までのルート(道筋)について、今まで述べていた航路とは異なる新たな妄想が最近わいたので紹介してみたいと思います。②先の大戦(大東亜戦争)における敗戦の真因として
やっとこAmazonで購入したもの届いた🙌これから読むのが楽しみです☺️
今日は、頭の中の音が、ことさら大きくなっています。これは、以前だったら幽体離脱的な事が、起こるのですが、最近はなかなか起こりません。でも、歩きながらYouTubeを見ていたら「AIに中国古代文献を解析させたら、とんでもない結果が出た。」という物でした。これまで、日本の歴史は、中国の「魏志倭人伝」を中心に、考えられていました。小さい集団が集ま一つの国として、「大和朝庭」から始まったとされていました。しかし、魏志倭人伝では、邪馬台国の所在地がよみ取れなかったのてすが、AIによれば、魏志倭人
【帯方郡から狗邪韓国までの行程文】「従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里」【帯方郡から狗邪韓国までの行程文に対する三つの説】邪馬台国問題では、末盧国へ上陸してから以降の行程が議論されることが多いが、行程文の冒頭に記された帯方郡から狗邪韓国までの行程に対しても諸説存在することが知られている。帯方郡から狗邪韓国までの行程文には私の知る限りでは3通りの説がある。A.海岸沿い「水行」説帯方郡から狗邪韓国まで海岸沿いを船で「水行」したとする説B.韓国内陸行説
(105)魏志倭人伝の謎[5]大足彦忍代別は大足彦太白別『魏志倭人伝』そのものではありませんが、『魏略』逸文や『晋書』、『梁書』などの中国史料には、倭人は「自ら太伯の子孫だと称している」という記述があります(参照資料1)。前回の記事では、「載斯烏越は大足彦忍代別である」という考察を示しました。忍代別(おしろわけ)の「おしろ」とは金星を意味すると考えられます。金星は中国語で「太白」と呼ばれ、古代の倭人はこの「太白」を「おしろ」と読んだと考えられます。太白は太伯の別表記でもあります(参
【帯方郡から狗邪韓国までの行程文】倭人伝行程文の冒頭は帯方郡から狗邪韓国まで。「従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里(郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓国を歴るに、乍ち南し、乍ち東し、其の北岸狗邪韓国に至る七千余里。:古田氏の読み下し)」帯方郡から狗邪韓国までの行程文について、古田氏は、「これについてのべる論者は、帯方郡治から狗邪韓国まで、すべて水路によった、とみなすものが多かったようである。」と述べ、論者の例として次の四人とその著書
日本書紀に、『天皇が国の政をはじめた日、道臣命(ミチノオミノミコト)は「密策」を承り、諷歌、倒語で妖気をはらい平らげた』とあります。国のはじまりが密策というのも不可思議なことですが、天皇から承ったとされる密策とはどんな策だったのか、諷歌、倒語、妖気とは何なのか、不明です。又、日本が統一国家として誕生したのはいつか、そのプロセスはどのようなものだったのか、これも解明されていません。古代日本には他にも多くの謎が潜んでいます。それは、基となる日本書紀や古事記の多くが神話的で、どこまで史実なのか分から
【従来説の原文改定批判】古田氏は、従来説が邪馬台国問題の従来の研究者たちが原文を改定しているケースをいくつか指摘している。主なものは以下のとおりである。●女王国の国名『三国志』の版本には、「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と記されている。『後漢書』では「邪馬臺国」●三つの共同改定・「会稽東治」→「会稽東冶」:『後漢書』では「会稽東冶」・「景初二年」→「景初三年」・「対海国」、「一大国」→「対馬国」、「一支国」●二つの各個改定・「南」→「東」・「陸行一月」→「陸行一日」
沖縄在住で、出張の合間に、神社巡りをされ、ブログ記事を書かれておられるonezerozerflatさんのリブログ記事です。阿波徳島の神社を巡り、古代史の記事を書いておられ、読むのを楽しみにしているのですが最近はいろいろお忙しいようだ。ご自分で作詞されたYouTubeを掲載されいます。『籠の中の卑弥呼』はもちろん魏志倭人伝の卑弥呼であり、天照大神のこと。『もしも台与に才能が無かったら』の台与は、魏志倭人伝で卑弥呼亡き後、国が乱れその後、十三歳で宗女に
日本古代史における最大のミステリー、「邪馬台国はどこにあったのか?」佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、この論争において「九州説」を強力にバックアップする存在として常に注目を集めてきました。吉野ヶ里遺跡が奇跡的だったのは、この場所がもともと「工業団地」になる予定だったからです。工事の前の調査で「とんでもないものが出てきた!」と大騒ぎになり、開発が中止され保存!現在は歴史公園として復元されており、実際に物見やぐらや竪穴住居の中に入ることもできます!!!さあ弥生の昔にGO!吉野ヶ里遺跡が「
今回は神功皇后の新羅征伐について紹介するつもりでしたが、勉強会OBの知人から「勉強会の資料は持っているけど摂政紀の編年は複雑で難しい。もう少し説明を」とのご意見をいただきました。(同感です)で、前回の「②摂政紀の創られ方」を補足する意味でまずは図表を紹介します。(勉強会では生野先生手作りの大きな模造紙を2枚貼り合わせて「新羅本紀」、「百済本紀」、『古事記』と『日本紀』の摂政紀を書いた年表を折り畳んだり、ビヨ~ンと伸ばしたりしながら「摂政紀」の改竄手口を説明されていました。パワーポイントと
卑弥呼は「30歳」も若い(歴史1)黒井ドラゴン卑弥呼は邪馬台国とともに大きな謎に包まれているが、その一つが「卑弥呼の年齢」。卑弥呼は何歳くらいだったのか?1.一般的には「80歳くらい」とされているが・・・卑弥呼の年齢は、一般的には(通説では)「80歳くらい」とされている。その根拠は、『後漢書倭伝』に「桓帝・霊帝の時(2世紀半ば~後半)、倭国が大いに乱れた。卑弥呼という一人の女性がいて、倭国の女王に立てられた」と記された記事による。この記事から、卑弥呼は15
このブログでも何度か記事にしていますが・・・僕は、日本の神話(古事記・日本書紀)に興味があり、いろんな情報を見ているのですが・・・なだすべては見ていませんが・・・とても興味深い「古事記」についてのチャンネルを見つけたので、紹介します。そのチャンネルは「北行古事記一新ちゃんねる」北行古事記一新ちゃんねるチャンネル登録・高評価、ありがとうございますm(__)m「北行古事記一新ちゃんねる」は、現存する日本最古の歴史書である『古事記』の内容を一新します!【追記】動画編
2026年4月6日の考察卑弥呼の後継者が、臺與(ダヨ)疑問が湧きました。卑弥呼=日の巫女と解釈していたのに、後継者が臺與巫女ではないのか?そこで、あれこれ考えた挙句ヒミコ=姫巫女ではないのか。2025年3月31日の私のブログ「大和朝廷誕生のなぞ」で書いています。天皇の性も倭人名の鵜葺草葺(ウガヤフキ)や中国から渡来人の姫があるようです。長い旅の間に姻戚が有ったり、離れたり、一つの血統ではない様に見受けられます。又、力を持った豪族たちが外戚により、王位継承時には、兄弟・親子・叔父・
今回は神功皇太后摂政紀について2016年1月勉強会の資料から「摂政紀の創られ方」を紹介します。<2016年1月勉強会>◆創られた「日本紀」の「神功皇太后摂政紀」・・・古事記との関係『古事記』は歯抜け状態だが(わかる範囲という程度)天皇の没年を干支で記している。また、『日本紀』は『古事記』の天皇没年を強く意識して編年している。特に、『古事記』の仲哀没年(362年)から仁徳没年(427年)までの66年間の編年にその特徴が強い。『日本紀』は、その『古事記』の66年間を200年間(
【2:深掘り考察パート(政治と宗教の融合)】なぜ、月読尊(ツクヨミ)は物語から消されなければならなかったのか?朝鮮史や古史古伝の行間から、その理由を読み解きます。・「天照大神=卑弥呼」の政治的演出:魏志倭人伝の卑弥呼は「死後に大きな墓(径百余歩)が作られた」とあります。この巨大な権威を、ヤマト王権が「自らの祖神」として取り込む際、生々しい外交官としての姿を削ぎ落とし、太陽神として昇華させた。これがアマテラスの原形という説です。・月読尊(ツクヨミ)が消された理由:邪馬台
映画レッドクリフ(原題赤壁)PartⅠ2008PartⅡ2009監督ジョン・ウー(呉宇森)(1946-)キャスト周瑜(175-210):梁朝偉(トニー・レオン)(1962-)諸葛亮孔明(181-234):金城武(1973-)曹操(155-220):張豊毅(チャン・フォンイー)(1956-)小喬(実在不明):林志玲(リン・チーリン)(1974-)原作三国志演義元末明初(元明の王朝交
2026年3月23日の考察近畿説を唱えられている多くの方々は、【南至投馬國、水行二十曰。・・・】【南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。・・・】この南を東の誤写と云われます。ではどこで誤写したのでしょうか?現代の携帯で調べてみても草書体の南と東は全く違います。陳寿が書いた草書体を魏の役人が、陳寿の死後実家に残っていた草書体で書かれた三国志を皇帝に奉ずるため楷書体に書き写した事が分かっています。ウイキベテアによると、現存する数種の版本のうち、宮内庁書陵部蔵の「南宋紹煕年間の刻
720年に編纂された日本書紀では、神功皇后の条に魏志倭人伝の記事を入れています。神功皇后=卑弥呼だとほぼ断定しています。実際、江戸時代以前はそれを当たり前のように信じる人が多かったようです。ところが江戸時代に入ってある学者が「神功皇后は卑弥呼ではない」と言い出しました。神功皇后の条にその功績として三韓征伐というのがあるのですが、そこに書かれていることの多くは4世紀に起きたことだったからです。3世紀に活躍した卑弥呼と4世紀に活躍した神功皇后では、100年以上の時間のズレがあることが
卑弥呼と会津<5>*何度か対馬を訪れたことはあるので、この地図(混一疆理歴代国都之図)を見る度に強い違和感を覚えてしまう。朝鮮国との距離があまりにも近いー実際とはまるでかけ離れているー。とても『倭人伝』にいう「千里」の距離ではない。李氏朝鮮国の人によって付け加えられたとするなら、ある意味当然だという気がしてくる。まるで「対馬」は朝鮮国、そんな主張(作為)を声高にしていて、それは現在(韓国)にまでも届くかのような訴えで、<欺瞞>を押し通す、あの根深さが見えてくる。おそらく、「卑弥呼の時
<邪馬台国と耶麻郡2>P11〜第一章邪馬台国の探し方(文献学的証明)(1)「魏志倭人伝」とは編者の陳寿は嘘をついているのか?邪馬台国はいづこにあるのか?その女王、卑弥呼とは?邪馬台国は、現在、二大有力説となっている北部九州か、大和を中心とする近畿地方にあったのだろうか?それとも、大地震や大噴火で、海中深く沈んだり、溶岩の下に埋もれているのだろうか?(ポンペイのように)はたまた遠く、遥か外国のジャワやスマトラ、エジプトに
卑弥呼について魏志倭人伝は次のように記している。女王卑弥呼が死ぬと径百余歩範囲に多数の塚を作り、奴婢百余人を殉葬した。後継者として男王が立った。ところが男王を不服として国が内乱状態となり、当時千余人が誅殺し合った。改めて卑弥呼の宗女である台与を13歳の女王として立てた結果、倭国は遂に安定した卑弥呼が死ぬと大きな塚を造り生贄として百余人を殉葬した。箸墓古墳がそれだとする人たちがいるが、日本書記では大物主神の妻であり孝霊天皇(7代)の皇女・倭迹迹日百襲姫命がその主だとしている。(崇