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2026年2月25日の考察昨夜テレビで『世界遺産‘‘神宿る島”沖ノ島に良純上陸』という番組を見ました。今まで私は、女王国が末盧国~壱岐~対馬ルートを独占して近畿勢力は仕方なく宗像~大島~沖ノ島ルートで朝鮮半島に向かっていたと考えてきましたが、沖ノ島から釜山まで145㎞ありどんなに目を凝らしても見えないようです。目的地が見えない方向へは向かわない。と云うのが私の主張ですので今までの私の説は間違っていたと分かりました。沖ノ島から釜山までの間に島が無いかと調べますがそれらしき島は発見
2026年2月23日の考察邪馬台国が未だに近畿に在ったと唱えられている先生方が居られます。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとか銅鏡が見つかったとか桃の種とか色々な理屈を唱えられていますが、もっと重要なことをお忘れになっています。魏志倭人伝には、末廬國に上陸し500里東南陸行し伊都國東南に100里奴國東行に100里不彌國と書かれています。これから急に【南至投馬國、水行二十曰】【南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月】と書かれていますが、近畿説の主張では東を南と書き間違えた。との主張です。
歴史調査卑弥呼は「平和主義者」だった!?(日本初の国の女性リーダー・卑弥呼の謎)黒井ドラゴン意外に思われるかもしれないが、「卑弥呼はどういう考えを持った人だったのか?」ということは、邪馬台国研究史上でもあまりいわれたことがない。筆者は、「卑弥呼は平和主義者だったのではないか?」と考えている。その理由は次のとおりだ。1.卑弥呼は倭国内の王たちによって女王に立てられたそれは、「卑弥呼は倭国内の王たちによって倭国の女王に立てられた」ということ
卑弥呼が連合王国の女王に「共立」されたのは、2世紀末の「倭国大乱」を治めるためだったと魏志倭人伝は記している。邪馬台国が北部九州あったとしたら、考古学的にはそれまで大陸との交易により圧倒的に優勢だった北部九州勢力に対して、のちの出雲国や吉備国などが列島規模で行われた日本史上初の大規模な内戦を高地性集落を作って対抗したと考えられる。もっとも、考古学的な証拠と日本神話とを一緒にすることはできないが、考古学は唯物論的に証拠を示すしかできないからだ。出雲や吉備には纏向型前方後円墳に繋がる大規模
2026年2月20日の考察私のプロフィール内にも書きましたが、戸数×5=人口はおかしくないか?《魏志倭人伝には、【有屋室、父母兄弟臥息異處】と書かれています。当時の住宅に1戸内に部屋を分ける技術が一般家庭に普及していたとは思えない》食料だけで邪馬壱国を探すのはどうだろうか?簡単に陸路を取るのは?等の疑問をどのように解消するかなど①戸数×5人は、本当でしょうか?魏志倭人伝には、家屋があり、父母兄弟は寝たり休んだりする場所を異にする。と書かれています。まるで1戸内に数か所の別室が在ったか
日本では弥生時代に鉄器は青銅器とほぼ同時に流入しており、「魏志倭人伝」などによればその材料や器具はもっぱら朝鮮半島などからの輸入に頼っている。鉄器の普及による富の増大と偏在は権力の集中を促し、クニが成立していくようになった。前2世紀以降には北部九州で農工具の鉄器化が進んだことによって耕地開発が進んだ。弥生時代とされた3世紀前半までに日本列島で鉄器が普及していたのは北部九州地域に限られており、このことが邪馬台国論争に影響している。北部九州に鉄器が普及し始めたのが前2世紀といわ
ひざしがまぶしいホーホケキョきょうことしはじめてウグイスがなきました邪馬臺(台)国と邪馬壹(壱)国、臺(台)與と壹(壱)與の発音等について私の考えをお話しします。邪馬台国の名は『後漢書』や『三国志』などの中国の史書に出てきますが、史書の表記は邪馬臺(台)国か邪馬壹(壱)国。台は臺の新字体で壱は壹の新字体。邪馬臺国も邪馬壹国も全国的に邪馬台国で定着していますが、私は臺も壹も「と」と発音するのが適切かと思っています。ネットで「臺(台)」の字を中国語発音で調べると、中国福建省で「と」
1月16日に那珂川町伝説ポイントを歩くが、時間切れで行けなかったところで、まず岩門城跡へ、早咲きの桜咲く遊歩道入口から急な階段を登っていくと20分くらいで城山頂上へここが岩門城跡、頂上からは那珂川の町が眼下に望め、城主の気持ち良さを感じる。ここは伝説ではなく実際に室町時代に大蔵氏が築造したことに始まり鎌倉時代は小弐氏(小弐の名前の由来は大宰府の次官である太宰少弐に由来する)の持ち城となって元寇の際の総大将・少弐景資の居城となる。その後豊臣秀吉の九州征伐時に廃城となる。それから安
邪馬台国論争のように資料の少ないテーマは素人でも参入できて、想像力を働かせてストーリーを構築できる。歴史推理小説にはもってこいの材料であることは間違いない。しかも数少ない文献の「魏志倭人伝」(「魏書」烏丸鮮卑東夷伝倭人条)の情報が邪馬台国の位置を特定できないが、主として大和説と北部九州説に分かれる。下手に首を突っ込むと自分の無知が恥ずかしくなってしまうので、あまり深入りすることはやめておこうと思っていたのだが、基本的なところから勉強してみようとしたのがこのブログだ。還暦過ぎの手習い
歴史調査卑弥呼・台与までの倭国は「九州世界」だった(日本初の国の女性リーダー・卑弥呼の謎)黒井ドラゴン以前、筆者の邪馬台国=九州説の小論を発表した時、邪馬台国=畿内説のある研究者から「邪馬台国の所在地問題は、すでに畿内説でほぼ決まっている。いまさら、『邪馬台国はどこか?』などと唱えるのは意味のないことだ」という反論を受け、この時「畿内説はそこまで有力視されているのか」と驚いた経験があった。序.今まで、卑弥呼・台与当時の倭国の範囲は具体的に考えられてこなかった
陽気が良い所為で、お客さんは来るのですが・・・・・見学の方が多く商いには結び付か無いのですが、此れが商いと言う物かもね?金曜日です。珍しくお買い上げのお客さんの御来店でしたよ。金子さんと言うお客さんでした。ゲストルームの洋服コーナーで選んだシャツは、暖かそうな物でした。チョイと写真はボケてしまいましたが・・・・・宴の遊びの盃です。四国の方の物だと思います。陶器の絵柄の独楽を回して出た絵柄の盃で飲むお遊びです。何人かの興味を示す人は居たのですが・・・・・お買い上げを戴いたのは金子
原文G17下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭說事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾読み下しY17下戸大人と道路に相い逢えば、逡巡して草に入る。辭を傳え事を說くに、或いは蹲り或いは跪き、兩手は地に據り、之が爲に恭敬す。對應の聲を噫と曰い、比するに然諾の如し。
2026年2月2日の考察言葉しかない当時の倭国においてヒミコ=日の巫女や蛭子など考察してきました。昨夜ふと思ったのですが、ヒミコでは無くイミコ(忌み子)ではなかったのか。虫歯が多く欠歯が多い時代です。イをヒと聞こえた可能性があります。ヒミコは、小さい頃から霊感が強く忌み子と気味悪がられていたのではないか?しかし、この様な忌み嫌う名を付けて魏の使者に伝える筈もありませんが?日本書紀に出てくる天照大御神≒卑弥呼の説を唱えられている方々が多く居ますが、卑弥呼は夫も子も居なかったと魏
三輪王朝から河内王朝までの時代(1)まずは中国の史書に登場する話を中心に、五世紀以前の状況をみていきましょう。『漢書地理志』に「わかれて百余国と為す」とあるとおり、わが国(中国の史書に「倭国」として登場)では1世紀ごろ、100以上の「国」が割拠し、『後漢書倭伝』によると、2世紀の後半に「倭国大乱」によってこの国が大いに乱れたことがわかります。その激しい戦乱の結果、小国に分立していた倭国(関東以東を除く)は、『魏志倭人伝』を参考にすると、「一〇〇余国」が「三〇余国」へ集約
原文G17王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國。及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書、賜遣之物詣女王、不得差錯。読み下しY17王、使を遣わして京都、帶方郡、諸韓國に詣(いた)り、及た郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書、賜遣の物を傳送して女王に詣(いた)り、差錯するを得ず。
宮崎康平さんの破天荒人生です宮崎康平さんは全盲になりやがて島原鉄道を解任されますその後宮崎康平さんは「邪馬台国」にのめり込んでいきますついに著書「まぼろしの邪馬台国」の調査と研究そして執筆ですもちろん全盲の康平には文字は書けません文字を書いたのは妻和子さんですそれは「イメージ」や「想像」を遥かに越えた凄まじい執念と綿密な共同作業でしたその「研究手法」と「執筆活動方法」ですまずこれまでも書いてきた膨大な著書「魏志倭人伝」に「古事記」「日本書紀」から「各地方の風
松本日世先生のブログ。おお、なかなか攻めておられる。先生のブログより抜粋します。もはや、天之手力男神(あめのたぢからおのかみ)の力を借りて、九州からそして畿内から、「卑弥呼」をここ会津に引き戻すことこそ、越(星)民の使命なのでは、と思えてきます。邪馬台国と言えば、ふつうは九州説と機内説が拮抗しているのだが、松本先生は【卑弥呼が没した248年9月5日の皆既日蝕】に着目したのだ。先生のブログにも248年9月5日の天文現象図が載っているが、わた
宮崎康平さんの生涯です宮崎康平が島原鉄道と縁のない邪馬台国に入り込んでいくのにはこの島原鉄道復旧工事が関係しています1949年、豪雨で寸断された鉄道の復旧のために康平は自ら現場に立ち土を掘り起こしますすると地下から出てきたのは数多くの弥生式土器と古い時代の遺構だったのです古代史にはさほど詳しくない康平ですが土木の知識はあります地中の粘土層のあり方など直接手にして康平は島原の地層は古代から大きく変化していると肌で感じますそして「この地には、歴史から消された巨大な王国
原文G17自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。読み下しY17女王國より以北には、特に一大率を置きて、諸國を檢察し、諸國之を畏れ憚る。常に伊都國に治し、國中に於て刺史の如き有り。
「卑弥呼は、謎に包まれています」おっ!今度は卑弥呼か、これは期待できそうだ。「誰だよ、卑弥呼って?」石田はつまらなさそうだ。「一説には、卑弥呼は一人ではなく、呪術師の総称だという説もあります」それは、俺も聞いたことがある。「呪術師って、呪術廻戦に出てくる奴か?」時代がまったく違うだろ、石田。「三国志における魏志倭人伝では、卑弥呼は約30における倭の国の女王で、邪馬台国に都を置いていたと記述されています」その邪馬台国がどこにあったか、謎なんだよな。「そうです、九州や
原文G16其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盗竊、少諍訟。其犯法、輕者没其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無使大倭監之。読み下しY16其の俗、國の大人は皆四・五婦、下戸も或いは二・三婦。婦人は淫せず、妒忌せず。盗竊せず、諍訟少なし。其の法を犯すや、輕き者は其の妻子を没し、重き者は其の門戸及び宗族を滅す。尊卑(そんぴ)、各差序有りて、相い臣服するに足る。租賦を収む、邸閣有り。國國に市有り、有無を交易し、使大
田中英道・存在しない邪馬台国2026/01/12高校生のブログ田中英道氏が書籍だけで語り、YouTubeで語らなかった事がーーー昔から中国人は日本に憧(あこが)れていたーーー話です❶孔子が日本は道が存在する国だとして日本に行きたがっていました。❷鑑真(がんじん)は盲目になっても日本で仏教の宗派をたちあげました。❸日本は朝貢していた事実は無い←この部分は書籍のみです。❹中国からの高僧はほぼ日本に定住したが、中国に渡った僧侶あるいは官僚(実は僧侶は官吏として中国に行きました)は必
今回は「黄泉の国(よみのくに)」に関する生野先生の考察です。ちょっと新年に相応しくないタイトルですが・・「記紀」では伊邪那岐神が妻の伊邪那美神が居る穢れた「黄泉国」から「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)に逃げ戻り、そこで禊払(みそぎはら)いをした時、その左目から天照大神、その鼻から須佐之男命が生成されたことになっている。つまり、天照大神と須佐之男命の姉弟は共に「父親の伊邪那岐神の御体から生まれた」のであって「母親はいない」ことになっている。と
極右で高市早苗の提灯持ちとして知られる自称経済学者の高橋洋一が、「最近、高市さんは現代の『卑弥呼』のように思えてきた」と高市早苗を卑弥呼に例える投稿をXにしてから、高市信者の間で高市は卑弥呼だと喚く者が増えてきました。元は、小野田紀美が、卑弥呼に憧れて政治家を目指すようになったなどと、訳の分からない寝言を言ったのが始まりで、そこへ幇間のような高橋洋一乗ったという景色なのですが、小野田紀美も高橋洋一もネットの高市信者も愚かすぎます。ウヨたちの歴史では、『日本書紀』に書かれていることは全
2026年1月9日の考察あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。多くの反対・反論意見をお待ちいたしています。2025年10月13日の考察で大唐六典の1里(1尺24.12㎝、6尺が1歩=144.72㎝、300歩が1里=434.16m)が、魏志倭人伝の倭国の記載に使えないことが分かりましたが、どうしてでしょうか?1.まず1尺24.12㎝がおかしい。1尺=18㎝とすべきだ2.1歩が、2股が日本と違っている。1歩=1股と考えるべきではないのか。中国からの伝承間違
【大和の一エリアとしての倭国】『日本書紀』の中に出てくる「倭国」を全数確認した。全部で32回出現している。内訳は、神武天皇紀2回、孝昭天皇紀1回、孝霊天皇紀1回、崇神天皇紀2回、景行天皇紀1回、成務天皇紀1回、仲哀天皇紀2回、神功皇后紀1回、雄略天皇紀2回、仁賢天皇紀1回、安閑天皇紀1回、宣化天皇紀1回、欽明天皇紀5回、推古天皇紀1回、皇極天皇紀1回、孝徳天皇紀4回、天智天皇紀1回、天武天皇紀4回。初出の神武紀では、即位前紀戊午年9月5日条に「倭国磯城邑」とあり、倭国が「
一年三ヶ月ぶりのブログの更新です。前回紹介した外猫の風来坊マロンは姿を現わさなくなりました。家猫のまりは来月で4歳になりますが、小柄なので子猫のような可愛らしさです。おひさしぶりでーす。ロングかぎしっぽでーす。にゃーんだ、これ?新刊を出版しましたので、ご案内します。天皇家のご先祖さまの物語なので、愛子さまに一冊寄贈しました。◎堀田はりい著『新・卑弥呼物語-卑弥呼と壹與の女王国』◎2026/1/7発売(本体1350円【税込み1485円】四六判122ページ発行:つむ
【コラム】邪馬台国論争と今後の日本。「魏志倭人伝」の卑弥呼、台与。海部穀定氏の箴言二。邪馬台国論は、単に「邪馬台国がどこにあったのか」をめぐる議論ではありません。実は、日本という国が、どのような思想や歴史観の上に成り立ってきたのかを考えるうえで、今もなお大きな意味を持つ問題です。もし卑弥呼が、一地方を治めていた有力な首長にすぎなかったと考えるなら、この問題は比較的穏やかに受け止めることができます。しかし、卑弥呼や、その後を継いだ台与が、のちの天皇家につながる存在だったとすると、話は大
こんにちは。ぴる来るです。(以下、本文は常体で続きます)「おくれてはしがき」何だか文法的に『翔んで埼玉』のような表題になってしまった。このブログを始めるに当たり「はじめに」という文章を一応は用意していた。ブログ説明欄にあるように、当初は筆者の出身で在住の山口県の方言や文化、昭和の頃の思い出などを綴っていくつもりだった。だが思いの外【日本語上代】シリーズの考察に身が入ってしまったため、一旦方針を変更したのである。ある程度書き溜めてからというつもりだったが、見切り発車の状態で投稿
われわれ、基礎教育を受けて、社会に出たものに、、、「飛鳥時代」と「卑弥呼」と、「推古天皇」と言う存在は、教えてもらっているはずだ。。。わたしは、、、、今回の旅で、、、卑弥呼(ヒミコ)と、「推古」(スイコ)、、邪馬台国(ヤマタイコク)と、大和国(ヤマトコク)を強く、感じてしまいました。典型的な田園地帯。「明日香村」飛鳥駅から、数分のところに、、、推古天皇御陵があった。推古天皇って、「女帝」でした、、、ふと、あなたは、「ひみこ」の伝説って、覚えているか?「HIMIKO」