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龍ノ崎(たつのざき)高角砲台は、対馬警備隊に編成された2つの高角砲台のうちの1つで、対馬南東部の龍ノ崎を見下ろす標高313mの高地に設置されました。対馬全域図は【警備隊概略】にてご覧いただくとして、高角砲台周辺を拡大した地図を掲載します。左上にあるのが高角砲台ですが、右側には陸軍の対馬要塞龍ノ崎砲塔砲台が2基設置されています。そして高角砲台の置かれた313mピークから南側の宮ノ岳(標高325m)に向けての尾根上には、侵入防止杭と陸軍軍用地境界標石が並んでおり、宮ノ岳のピークに対馬要塞
2023年6月にビックサイトで開催された東京国際消防防災展。ここで展示されていた日本製米軍消防車を紹介したいと思います消防防災展では米軍消防車の展示があり、今回は陸海空軍の車両を同時に見ることが出来ました。空軍はすべてアメリカ製車両、陸軍は日本製車両、海軍は米国製日本製両方の車両を使用しています。日野プロフィアポンプ車。(上)海軍、(下)陸軍どちらも最新モデルです。そして、カラーリングも若干の違いが見られます海軍の車両は艤装メーカー「モリタ」です。工場は兵庫県三田市です。陸軍の車両は
[陸軍燃料廠]横島貯蔵所広島県福山市内海町大浜2220(シーパーク大浜)昭和14年(1939年)12月20日、アメリカ政府は日本向けの航空機用ガソリン製造装置の輸出を禁止した。戦争を遂行するためには、戦闘機用燃料(高オクタン価揮発油)の製造は陸海軍にとって解決必須の課題になった。昭和15年7月に発足した陸軍燃料廠。航空揮発油製造のための第一製造所(製油所)を山口県麻里布町(現・岩国市和気町)、貯蔵所を広島県横島村(福山市内海町)に定め、用地買収を行う。貯蔵所の建設は昭和16
◆起工:昭和11年(1936年)7月20日◆竣工:昭和13年(1938年)3月31日◆備砲:四五式十五糎加農砲改造固定4門◆設置標高:64m乃至77m◆参考リンク:「対馬要塞の概略(昭和期/第三次築城期」はこちら→→→棹崎(さおざき)砲台は対馬北部の西岸に構築され、海栗島砲台や郷崎砲台とともに、味方艦船の航行の安全を図ることを任務としていました。対馬の全体図です。なお、砲台が設置された棹崎は「日本最北西端」となります。モニュメントが立っています。砲台の見取図
北九州市八幡東区にある皿倉山(標高622m)と、その南西に位置する権現山(標高617m)には、大東亜戦争時に陸軍の高射砲陣地と照空陣地が置かれていました。「北九州の防空」の概略はこちら→→→西部高射砲集団の配備要図で場所を確認します。八幡市(当時)には日本の鉄鋼生産高の3割を担っていた日本製鉄の八幡製鉄所がありました。守るべき重要施設として周囲には数多くの高射砲が配備されましたが、皿倉山および権現山に置かれた高射砲隊もその一つで、それぞれの山に7㎝高射砲が6門ずつ、計12門置か
※2023年11月27日書き直し芋崎砲台は浅茅湾南部の芋崎に構築された砲台です。湾口および湾内一帯を射撃して敵艦の侵入と碇泊を阻止することを任務としました。明治27-28年(1894-95)の日清戦争で戦闘配置に就いた後、明治30年(1897)から明治33年(1900)にかけて大改築を行いました。さらに明治35年(1902)にも改築されたのち、明治37-38年(1904-05)の日露戦争で動員されました。日露戦勝後の要塞整理議論において廃止砲台の部類となり、大正6年(1917)に防
先月1年ぶりに友ヶ島を訪れましたが、新たに確認した遺構がありましたのでレポートします。友ヶ島第三砲台左翼観測所の東方150m地点に観測所と思しき遺構があります。史料で確認が取れませんでしたが立地的に第三砲台の関連施設と思われますので、「第三砲台の補助観測所」として書いていきます。なお第三砲台は4回に亘ってレポートしましたので下記をご覧下さい。==============・その1(地下弾薬庫)・その2(砲座)・その3(地下弾薬庫、掩蔽部)・その4(地上施設)・友ヶ島の施設概
1982年、玉川上水駅から程近い西武運輸の倉庫に保管された旧陸軍鉄道連隊のE形タンク(コッペル社製)を訪れました。元を辿れば西武鉄道へ払い下げられて入間川の砂利採取線で使用された3両のうちの1両でした。(1982玉川上水西武運輸倉庫E16)元々は3両全てが玉川上水に集結していたのですが、うち2両(E18.E103)が1971年にユネスコ村へ移転し展示されました。(1991ユネスコ村跡E18.E103)1990年、ユネスコ村が閉園となり1両(E18)が豊島区内のエリエイ(プレ
※2023年12月1日書き直し後編では大石浦第一砲台を見に行きます。見取図です。第二砲台は2砲座2門でしたが、こちらは4砲座4門です。しばし歩くと切通しが現れますが、ここが第一砲台の入口となります。切通しを抜けると第2砲座と第3砲座が見えます。第3砲座です。大石浦にある6つの砲座には、いずれも弾室が設けられていません。第2砲座です。あいかわらず胸墻が低いですね。第2砲座後方にコンクリート製のスロープが残っています。このスロープは第2砲座しか確認できません
その2では、観測所の再訪記を書いた後で宗像大社を紹介します。その1の記事はこちら。『下関要塞探訪156~大島砲台その1(砲座/砲側庫)-書換-』宗像の大島には10回以上渡島していますが、砲台の記事は4年前に書いて以来更新していませんので、この度全面的に書き直します。*****************…ameblo.jp**************************観測所は砲座を見下ろす高い位置に設けられています。では入ります。スリット上の観測窓と観測
漫画家デビューを経て、ヒーラー・チャネ絵師になり、メタ意識のスピ講座もやっている、催眠療法士のヤミコです本日は『サイキック能力』の種類なんぞをザックリ書いてみたいと思います☆押忍!\(^o^)/ご存じの方も多いと思いますが、さっそくいきやしょ~【能力別クレア】①クレアボヤンス=透視(霊視)「眼」はっきりと物事を見通すことができること。いわゆる「視える」ってやつですな。②クレアオーディエンス=霊的聴覚「耳」耳元もしくは脳内で
陸軍元帥(イギリス)明治以降リスト天皇の名前があった!英国王室のメンバー日本の天皇家は二重国籍最後に陸軍元帥リストアメリカはイギリスの属国で、日本はイギリス、アメリカの属国なのか明治維新は日本にとって何が問題だったのか、このブログでもいろいろ取り上げてきた。ずっと、背後には英国がいると書いてきた。しかし、イギリスがここまで浸透していたとは知らなかった。天皇を元首とするべく明治維新が画策されたのなら、トップの天皇を囲い込んだことになる。それは、日本
佐瀬川堡塁は、東南方向から迫る敵上陸兵に対して防御陣地の拠点となるべく築城された堡塁でした。地図で場所を示します。佐瀬川堡塁の履歴です。◆起工:明治36年(1903年)5月7日◆竣工:明治37年(1904年)5月18日◆備砲:(低地)九糎加農砲6門、(高地)三十一式速射野砲4門◆設置標高:(低地)139.60m、(高地)152.50m◆廃止:大正3年(1912年)備砲全部撤去→昭和7年(1932年)3月・全部除籍◆参考リンク:「由良要塞の概略」はこちら→→→
対馬は九州の北方、玄界灘に浮かぶ島です。行政区分では、明治9年(1876年)8月に長崎県の管轄となり今に至っています。また、朝鮮半島に近いため古来より大陸との文化的・経済的交流の窓口としての役割を果たしてきましたが、その一方で、明治期になると国境の最前線として国防上重要な拠点に位置付けられるようになりました。そこで明治4年(1871年)に健軍された大日本帝国陸軍は、明治11年(1878年)に対馬分遣隊を派遣、明治19年(1886年)には分遣隊を改編して対馬警備隊として対馬の防衛にあたることに
明治期における対馬要塞では、明治20年(1887年)の温江砲台から始まり、明治39年(1906年)の多功崎砲台の竣工まで、15か所に堡塁砲台が築城されました。その後、明治38年(1905年)の日露戦争での勝利によって海岸防御の見直し気運が高まり、明治43年(1910年)から始まった要塞整理の審議の結果、大正2年(1913年)および大正6年(1917年)には以下の堡塁砲台の廃止が決まりました。「四十八谷砲台」「大平高砲台」「大平低砲台」「城山砲台」「城山附属砲台」「根緒堡塁(武隈山堡塁)」
おはようございます。家系図コーチング®︎山道紀子です。昨日は終戦記念日でしたね。1年で一番『戦争』に対しても意識が高まる8月です。昨日、Facebookでお友達の千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に関する投稿を見て今日は「軍歴証明(兵籍簿)」に関するテーマでブログを書こうと思い立ちました。以前にも、こちらのブログで、「軍歴証明(兵籍簿)」とは?「軍歴証明(兵籍簿)」をなぜ取得した方がいいのか?書
※2023年12月5日書き直し大平高砲台は、大平低砲台ととともに布設水雷の側防を任務として浅茅湾(浅海湾)南部に構築されました。明治37-38年(1904-05)の日露戦争では斯加式十二糎速射加農4門をもって戦闘配備に就きましたが、戦勝後は海岸防御の見直し気運が高まり、明治43年(1910)から始まった要塞整理議論の結果、大正2年(1913)に砲台の廃止が決定されました。◆起工:明治31年(1898)10月20日◆竣工:明治34年(1901)10月5日◆備砲:斯加式十二糎速射加
※2023年12月21日に書き直し上見坂(かみざか)堡塁は、対馬中部の厳原町上見坂の標高390mピーク周辺に構築された陸正面防御の堡塁です。「佐須阿連、小茂田及び厳原方面より侵入せんとする敵を防止し、根緒堡塁と相待って鶏知平原を援護」することが任務とされ、明治37-38年の日露戦争では戦闘配置に就きました。◆起工:明治34年(1901)8月1日◆竣工:明治35年(1902)11月30日◆備砲:九糎加農4門、三十一年式速射野砲(※諸説あり)4門◆設置標高:390m/386m
小倉北区と門司区の境界に位置する田向山(たむけやま、現在の表記は手向山、標高76m)には、明治期に下関要塞の砲台が築かれましたが、昭和期の大東亜戦時下には砲台跡地に高射砲陣地が置かれました。場所はこちら。(北九州の防空についての概略はこちら→→→)大東亜戦争が始まった昭和16年(1941年)12月の西部防空旅団の展開位置表を見ると、田向山には防空第22連隊第1大隊第2中隊の高射砲中隊が駐屯していました。その後西部高射砲集団に改編後の昭和19年(1944年)9月の編成表では、高射砲
※2023年12月1日書き直し大石浦砲台は浅茅湾(浅海湾)北部の大石浦北西ピークに構築された砲台です。対馬要塞築城第1期4砲台のうち最後に築造されました。任務は芋崎砲台と同様に湾口および湾内一帯を射撃して敵艦の侵入と碇泊を妨害することで、明治27-28年(1894-95)の日清戦争では対馬警備隊が動員され本砲台も二十八糎榴弾砲6門にて配備に就きました。日清戦後、新たな対馬防御計画で四十八谷砲台と大平高砲台が新設されることになったため大石浦砲台は不要となり、明治31年(1898)1月に廃
矢筈山堡塁は、北九州門司区小森江の矢筈山(標高266m)に明治31年(1898)に築城されました。大正期に入ると要塞整理議論において早々に廃止が決まり、昭和7年(1932)に防御営造物から除籍されましたが、遺構は北九州市のキャンプ場に取り込まれて保存されていますので、破壊の多い下関要塞砲台群の中では非常に良好な状態で残っています。==========================(矢筈山堡塁のレポートと要塞地帯標の概略)・下関要塞探訪110~矢筈山堡塁その1(入場)-書換--
テテが双竜部隊に配属され、8日に移動しました韓国メディア情報をまとめると陸軍総合行政学校を終えて、2024年2月8日、Vは江原道(カンウォンド)春川陸軍2軍団の双竜部隊に配置されました。第2軍団で司令部直轄の軍事警察団特任隊として服務をします。Vは、首都防衛司令部特殊任務隊(SDT)に志願。1次書類選考と2次面接及び体力検査に合格した後、2023年12月11日に新兵教育隊に入所。5週間の軍事基礎訓練を受け、後半期教育部隊である陸軍総合
※2023年11月23日に書き直し大平砲台は対馬要塞で最初に起工された砲台です。(竣工は2番目)布設水雷の防御を任務として浅茅湾(浅海湾-あそうわん-)南部に構築され、明治27-28年(1894-95)の日清戦争では他の3砲台(温江、芋崎、大石浦)とともに戦闘配置に就きました。戦後には新たな対馬防御計画に基づき、大平砲台の後方高地に大平高砲台が明治34年(1901)に構築されました。おそらく高砲台建設が決まった時点で大平砲台に“低”の文字を付与して大平低砲台と区分けされたと思われま
薬師山砲台は、函館山最高峰の御殿山ピーク(標高334m)から北東にやや下がった標高250m付近に位置しています。地図で場所を示します。なお矢印は射撃の首線となります。御殿山第一、第二および千畳敷砲台が湾内~津軽海峡に向けての海上射撃を行う海正面砲台だったのに対し、薬師山砲台の射撃の首線は後方にあり、函館港内および地峡に広がる函館市街地に敵が侵入した際にはこれを射撃し撃退することが任務でした。陸正面防御の要素が強いので砲台と言うよりは堡塁と呼んだ方がしっくり来ますが、実際史料には「薬師
世界四大博物館の国立故宮博物院→鼎泰豊本店でランチ→お茶セミナーの後にやってきたのは、忠烈祠です。前回行けなかったので今回は行きたいと思っていた所で台湾の歴史を感じさせる観光地です。ガイドさん曰く、日本で言う靖国神社のようなところだそうですが、こちらには英霊33万が眠っているそうです。こちらでは1時間に1度、陸・海・空軍の精鋭による交替式が行われます。韓国でもこういった交替式は何度も見ておりますが韓国のそれとは全然違う、まばたき1つせず思わず
◆起工:昭和4年(1929年)5月10日◆竣工:昭和9年(1934年)3月31日◆備砲:四十五口径四十糎加農砲2門(砲塔1基)◆設置標高:45.4m◆参考リンク:「対馬要塞の概略(昭和期/第三次築城期」はこちら→→→豊(とよ)砲台は対馬北端、現在の上対馬町鰐浦に構築されました。釜山の鎮海湾要塞と協力し、朝鮮海峡における敵艦の脅威を排除して航行の安全を図ることを任務としていました。場所はこちら。豊砲台には連装砲塔である45口径40糎加農砲1基が装備されましたが、これはワ
※2023年11月29日書き直し後編では掩蔽部と両翼の観測所を見て行きます。第1砲座の後方に半地下式の掩蔽部が3つ設けられています。堡塁砲台ではお馴染みのレンガ造りの掩蔽部ですが、明治21年の対馬要塞築城第1期ではほとんど石造りでレンガは使われていませんので、これら掩蔽部と観測所は明治30年代の改築で造られた物だと推測されます。角度を変えて。掩蔽部の間の隙間は右翼観測所に上がる階段です。=================左側の掩蔽部です。3つのうち一番小さいですが
その3では右翼観測所から見ていきます。第四砲台最大の見どころ...それは観測所直下に設けられた回廊です(・∀・)真ん中のレンガ積みされた八角形の中に観測所に上がる螺旋階段があり、その周囲が回廊のようになっています。特別この空間になにかある訳ではないのに、なぜこんな造りにしたのでしょうか。回廊には2つの窓があります。そのうちの1つ。灯り置きかな?奥から高塁道の出入口を見ています。観測所への階段です。螺旋階段です。見上げるとこんな感じ。初めて見るスタイ
こんにちは。昨日報道の違う記事です。毎日緊張の連続でスヒョン君が怪我をしないか心配です。どうか怪我や病気をしないで除隊するように祈ってます。紹介します。「地雷いっぱい最前線DMZで軍服務中のPFCキム・スヒョン近況」韓国語記事・・・クリックして見てください。http://www.insight.co.kr/news/149325日本語翻訳記事・・・クリックして見てください。https://translate.google.co.jp/translate?sl=k
『斟酌』って、阪急からお願いされることか?『斟酌』するしないは、客、取引先、世間がしてやることで、お願いされる筋合いのものではない。日本語の使い方としておかしい。https://news.yahoo.co.jp/articles/f2e44886aa884296ecb017214779a889de2e52a1/commentsリンクはスポーツ紙ではあるが、宙組公演再開について、手放しで歓迎ではなく、淡々と掲載している。まぁ、スポーツ紙ではあるが、歓迎ムードでないことは、まだ良識がらある