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防府市田島には航空自衛隊防府北基地が置かれていますが、この基地の前身は陸軍の防府飛行場でした。まずは防府飛行場と駐屯した部隊について説明します。==============================大東亜戦争開戦翌年の昭和17年(1942年)、陸軍は防府市南西部の中関地区に航空隊の飛行場を建設することを決定しました。土地の買収を行い、昭和18年(1943年)9月より工事が始まりましたが、地区民を始め中学生が動員され、突貫工事にて昭和19年(1944年)5月に完成しました。飛
こんにちは。本日は、いつ頃のものか気になっている日本陸軍飛行帽をご紹介いたします。気になっているのは、こちらの飛行帽です。星章は無く、耳蓋が海軍前期型の耳蓋に似ています。再現この画像でいう③の飛行帽について推測したいと思います。いくつかの資料の中で、練習生はこの飛行帽に鷲の目眼鏡開発前の航空眼鏡を装着されています。それを踏まえて考えますと、飛行帽は昭和12年頃には存在していたもので、レシーバーではなく最初は伝声管対応としての飛行帽だったのではと思います
淡路島を探索してきましたので、山口県の遺跡紹介をお休みして1ヶ月半ぶりの由良要塞を探訪していきます。なお由良要塞の概略はこちらのリンクから→→→では成ヶ島に築城された3つの砲台を紹介していきます。まずは地図から。成ヶ島(なるがしま)は淡路島の東南端、紀淡海峡に面して浮かぶ島です。北の成山と南の高崎を結ぶ約3㎞の砂州で形成されており、その特徴的な地形から淡路橋立と呼ばれています。なお成ヶ島は無人島ですが渡船が出ているので楽に渡れます。しかも2分で(笑)ただ運航は金・土・日・月曜と
蓋井島(ふたおいじま)は下関市吉母(よしも)の沖合約6kmの響灘に浮かぶ島です。周囲約10kmで、35世帯81人が暮らしています。(令和5年4月1日現在)島中部の金比羅山(標高148m)から南東部の乞月山(こいづきやま)を眺めています。島に渡るには市営渡船を利用します。本土側の吉見港から1日2~3便が往復しており、乗船時間は約40分です。季節や曜日によってダイヤは異なりますが、4~9月の土日祝日なら最大6時間半ほど島に滞在できます。なお吉見港には船着き場の前に有料駐車場(1日400
◆蓋井島リンク:[概略][第一砲台下段][第一砲台上段砲座][第一砲台上段観測所][第一砲台補助観測所][第一砲台関連施設][第二砲台][第二砲台/大隊関連施設][247mピーク施設/大隊本部][電燈所][第二電燈所][洞窟砲台][偽装砲台][白瀬防備衛所][賢女鼻防備衛所]=====================前回砲座の紹介を終えたので、今回は主観測所を見る。石垣沿いの軍道を歩く。大きな掘削地がある。下段砲台の出入口付近にもあるが何用途なのか?地下壕が崩落
遺構探索は陸海軍の砲台・見張所に絞って行っています。◎陸軍…要塞の砲台・堡塁・関連施設、北九州の防空陣地◎海軍…警備隊/防備隊所属の防空砲台・見張所・防備衛所・関連施設◆目次◆~クリックで各ページが別ウインドウで表示されます下関要塞(明治/大正期)[概略]砲台:[田ノ首*][筋山*][老ノ山*][田向山*][笹尾山*][古城山*][門司*]火ノ山砲台*:[概略][第一(発掘)][第一][第二][第三][第四][補助施設][低観測所]堡塁:[戦場ヶ野×][一里山×][金比羅山
ただ今❝2年経つと書き換えたくなる病❞を発症中ですので(笑)、今回は下関要塞の概略を書き換えていきます。===========================明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、下関海峡(関門海峡)の防御を担うべく立案されたのが「下関要塞」でした。山口県西部の「下関」(当時は“関”の旧字体“關”を使い、“下關
◆蓋井島リンク:[概略][第一砲台下段][第一砲台上段砲座][第一砲台上段観測所][第一砲台補助観測所][第一砲台関連施設][第二砲台][第二砲台/大隊関連施設][247mピーク施設/大隊本部][電燈所][第二電燈所][洞窟砲台][偽装砲台][白瀬防備衛所][賢女鼻防備衛所]==============================長らく非公開にしていた蓋井島の軍事遺構の記事だが、大幅に加筆修正した上で公開する。まず最初に蓋井島砲台(第一)を取り上げる。以下に履歴と経緯を記す
昭和天皇は「朕ココニ緊急ノ必要アリト認メ枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ帝國憲法第八条第一項ニヨリ一定ノ地域ニ戒嚴令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件ヲ裁可シヲ公布セシム」との緊急勅令のお考えを示し、これを受け枢密院は27日午前2時40分に戒嚴令施行を決定、午前3時50分をもって東京全市に“戒嚴令”が公布、午前8時20分に“奉勅命令”は天皇の允裁を得た。この戒嚴令は、同年7月18日午前0時をもって戒嚴が解かれるまでの142日間布かれることとなる。但し、「戒嚴司令官ハ三宅坂付近ヲ占據シアル將校以下ヲ以テ速ニ現
◆蓋井島リンク:[概略][第一砲台下段][第一砲台上段][第一砲台の考察][第一砲台関連施設][第二砲台][第二砲台/大隊関連施設][247mピーク施設/大隊本部][電燈所][第二電燈所][洞窟砲台][偽装砲台][白瀬防備衛所][賢女鼻防備衛所]上段砲台は乞月山の山頂一帯に築かれているが、下段砲台に向かう軍道が分岐して山頂に向かっている。道すがら下段砲台の物と思われる射界標石が抜かれて放置されている。軍道沿いの石垣が見えてくるまで下段砲台から10分足らず。見取図を掲載する
現在、渋谷地方合同庁舎、渋谷区役所、渋谷区神南小学校のある辺り一画(渋谷区宇田川町)には、嘗て赤煉瓦塀に囲まれた東京陸軍刑務所があった。“二・二六事件”において蹶起した将校たちは勿論、起訴された者は71名におよび、首魁(首謀者)は事件終結後にここに収監され、今から88年前の昭和11年7月12日にその先組がここで刑場の露と消えた。先ずは、事件に至る背景あたりから触れてみたいと思う。昭和4年(1929年)10月に起こった世界恐慌の影響は、日本経済にも甚大な影響を及ぼし、とりわけ生糸の対米輸
◆蓋井島リンク:[概略][第一砲台下段][第一砲台上段砲座][第一砲台上段観測所][第一砲台補助観測所][第一砲台関連施設][第二砲台][第二砲台/大隊関連施設][247mピーク施設/大隊本部][電燈所][第二電燈所][洞窟砲台][偽装砲台][白瀬防備衛所][賢女鼻防備衛所]=======================後編では砲側庫から第2砲座そして指揮所に向かう。第1砲座と第2砲座を繋ぐ通路間に2つの砲側庫が並んでいるが、『日本築城史』には掩蓋式穹窖と同じく100㎏爆弾
12・12クーデターの現場はソウル市内各所に広く散らばっている。クーデターの発生からすでに45年。当時からそのまま残っている建物や施設もあるが、1979年当時とは全く違った姿になっている場所も多い。旧朝鮮総督府だった中央庁庁舎は撤去されて久しく、クーデターで「ハナ会」の拠点だった30警備団の駐屯地も、保安司令部や首都警備司令部も全て移転して当時の面影はない。45年前の当時の現場を、今のソウルの地図と照らし合わせながら、エリアごとに見てみよう。漢南洞公邸エリア保安司令部の憲兵隊が、鄭昇
大東亜戦争末期、北九州市小倉南区曽根に陸軍の飛行場が建設されました。場所はこちら。大東亜戦争中、北九州・関門地区の防空は第19飛行団(のち第12飛行師団に改編)が担っていましたが、航空基地増強のため、水田79ha余、塩田64haを買収して、昭和18年(1943)4月より曽根飛行場の建設が開始されました。昭和20年(1945)2月から第70独立整備隊、4月には第80飛行場中隊が学生などの勤労奉仕を得て鋭意建設に務めたものの、終戦までに完成しませんでした。(昭和19年9月に建設したとの
今回は休石(やすみいし)砲台の再訪記を書いていきます。広島湾要塞では広島湾・呉軍港への敵艦侵入を防ぐべく4つの海峡を堡塁砲台で封鎖しました。その内の1つである音戸(隠戸)ノ瀬戸は幅が非常に狭く最狭部は90mほどしかありませんので大型艦艇の航行はできませんが、呉軍港に一番近い水路であることから、2つの堡塁砲台と海軍水雷衛所による布設水雷での防御が計画されました。高鳥堡塁から見た音戸ノ瀬戸。音戸ノ瀬戸周辺地図で砲台の位置を確認します。続いて簡単な履歴です。◆起工:明治33年
こんにちは今日は久々にリリースのこちらの商品をご紹介します★☆★☆★ジャンキースペシャルからお客様へ★☆★☆★当店はいままで通り時短営業で営業中です(AM11:00~PM20:00)皆様ご存じのように新型コロナウイルスの感染拡大防止の為お客様におかれましては・入店時の手のアルコール消毒・(個人の判断での)マスク着用をお願いいたします最近また感染者数が増えてきていますので、お客様ご自身並びにスタッフの安全確保の為、皆様のご理解とご
今日は船舶工兵第六連隊補充隊および広島陸軍第一病院柳井分院が置かれた柳井市伊保庄(いほのしょう)を訪れます。地図で場所を確認します。**********************大日本帝国陸軍における船舶工兵とは、「大小発動挺を運航し、上陸作戦において輸送船より陸岸に到る上陸部隊の上陸軍需品資材の揚陸を担任し、また敵の妨害を排除しつつ行う水路輸送及び第一線で海空の敵の勢力下における舟艇輸送、隠密輸送等に任じた」部隊のことを言います。そもそも工兵は、築城(味方陣地の構築、敵陣地の
映画「ソウルの春」の元ネタの12・12クーデターの背景について整理しておこう。朴正煕暗殺事件と鄭昇和参謀総長12・12クーデターが起きる1ヶ月半前の10月26日夜に起きた朴正煕パクチョンヒ大統領と警護室長車智澈チャジチョルがKCIA部長金載圭キムジェギュに撃たれた事件。その事件現場となった青瓦台のそばのKCIA施設「安家アンガ」は、今は「ムグンファ公園」になっていて当時の建物はない。事件の当日には、金載圭と約束があった鄭昇和チョンスンファ陸軍参謀総長が安家の本館に来てい
先日、平戸で壱岐要塞の砲台を再訪しましたが、平戸から佐世保は意外に近いことに気づいたので、佐世保に転進して堡塁跡を再訪してきました。*******************************今日からしばらくの間、前岳堡塁をレポートします。3年ぶりの訪問となりましたが、前回見逃した十五糎臼砲砲座の確認と、藪の中に埋もれる堡塁の全体像を把握することを目的としました。簡単な履歴を掲載します。◆起工:明治33年(1900)4月24日◆竣工:明治34年(1901)11月23日◆経過
2年前の記事書き直しは下関を終え広島へ。今回は厳島北東部に設けられた鷹ノ巣高砲台を再レポートしていきます。日露風雲急を告げる明治30年代、広島湾内および呉軍港への敵艦侵入を防ぐため、那沙美、大野、早瀬、音戸の4つの瀬戸に堡塁/砲台が構築されました。中でも大型艦艇の航行が容易な厳島東海峡の那沙美瀬戸には、4つの砲台と2つの堡塁が設置され強固な防御体制が敷かれましたが、鷹ノ巣高砲台はその一角を担う砲台でした。広島湾要塞の配置図で場所を確認します。写真で示すとこんな感じ。(鷹ノ巣山
こんばんは。連日、雨でイライラしますね。最近、日勤時に眠れないので内科に赴き睡眠導入剤を処方してもらいましたよ、睡眠障害なんかなりたくは無いですからね。先日、上の大砲は完成したので、今回からは下の対空機関砲を作って行きます、日本軍は対空砲と呼ばないで対空火砲は高射と呼んでいるのですかね?組立作業・機関砲製作これは、過去に一度制作したことあるので何となくは把握しています。では、今日はこんな感じで失礼。
こんにちは。本日は、日本陸軍の酸素マスクを詳細にご紹介したいと思います。この3タイプのゴムモールドは資料などの当時の写真での搭乗員の画像から再現しております。陸軍の酸素マスクは現存数も少なく、詳細な部分もあまり解りませんでした。①マイクなしの酸素マスクこちらは実物の陸軍酸素マスクです。マイク無しの状態で保存されています。裏側に陸軍のマーク☆のしるしがあります。(拡大)昭和17年製飛行帽に酸素マスク酸素マスクは
今日は“愛のトンネル”内の遺構をレポートします。第一砲台(旧第二砲台)と第二砲台(旧第三砲台)を繋ぐ軍路には全長約90mの隧道が設けられており、公園整備に伴い“愛のトンネル”と言う愛称が付けられました。隧道の中には2階構造のレンガ造りの部屋が大小12部屋も残っており、これらは弾薬の一元管理を行う弾薬元庫と旧第一砲台(旧)の物と推測されています。猿島の砲台は明治14年(1881)に着工、明治17年(1884)に竣工しましたが、おそらく同時期に構築されたのではないかと思われます。猿島
テテが双竜部隊に配属され、8日に移動しました韓国メディア情報をまとめると陸軍総合行政学校を終えて、2024年2月8日、Vは江原道(カンウォンド)春川陸軍2軍団の双竜部隊に配置されました。第2軍団で司令部直轄の軍事警察団特任隊として服務をします。Vは、首都防衛司令部特殊任務隊(SDT)に志願。1次書類選考と2次面接及び体力検査に合格した後、2023年12月11日に新兵教育隊に入所。5週間の軍事基礎訓練を受け、後半期教育部隊である陸軍総合
⚔️聖蹟之碑⚔️⏫️✨聖蹟之碑✨⏬️昭和2年11月21日昭和天皇、豊橋を御展望された記念碑(陸軍大演習御統監の時)梅や桜で有名な向山公園は台地の上にあり、西側からは豊橋を一望できます👀昭和2年11月に愛知県で行われた陸軍特別大演習に昭和天皇が来られた際にはここから豊橋を眺められたとのこと👀というわけで、ここに記念碑が建てられています‼️
1941年の今日12月25日は香港の「St.Stephen'sCollegemassacre(聖士提反書院大屠殺)」の日および「日本軍の侵攻により香港が陥落した」日です。旧日本軍の犠牲になったかたがたへ哀悼の祈りを捧げます。『2021/12/25(土)黒色聖誕節』今日12月25日は香港の「St.Stephen'sCollegemassacre(聖士提反書院大屠殺)」の日です。旧日本軍の犠牲になったかたがたへ祈りを…ameblo.jp勝利の記録(二)香港攻撃―攻撃開始
例によって、幻と消えた新版『帝国陸海軍事典』向けの原稿から、今回は旧陸軍の食事についてです。--------------食事営内での食事は聯隊の炊事場でまとめて調理されたものを内務班に運びこむ。炊事場へ食事を受領しに行くことを一般的に「メシアゲ」と称した。主食は麦まぜ飯で、大東亜戦争陸軍給与令(昭和18年8月)では精米600グラム(4合5勺)、麦186グラム(1合9勺)と定められていた。ただし、献立によっては白米のみを炊く場合もあり、ウドンやスイトンなどを主食とする献立もあった。
「リボルバー・リリー」を観てきました。ストーリーは、大正末期の1924年。関東大震災からの復興で、活気にあふれた東京。16歳からスパイ任務に従事し、東アジアを中心に3年間で57人の殺害に関与した経歴を持つ元敏腕スパイ・小曽根百合は、いまは東京の花街の銘酒屋で女将をしていた。ある時、消えた陸軍資金の鍵を握る少年・慎太と出会ったことで、百合は慎太とともに陸軍の精鋭部隊から追われる身となる。というお話です。1924年(大正13年)、東京は関東大震災から1年が過ぎ、復興に向
奄美大島要塞の砲台建設地は安脚場、皆津崎、実久(江仁屋離島含む)、西古見の4地区ですが、今日から西古見(にしこみ)地区の砲台遺構をレポートしていきます。奄美大島要塞の配備図で場所を確認します。西古見地区は奄美大島南西端に位置しており、大島海峡西口から侵入せんとする敵艦を撃退する目的で2つの砲台の建設が計画されました。大正10年(1921年)9月に榴弾砲配備の第一砲台、12月には加農砲配備の第二砲台が着工しましたが、翌大正11年2月に成立したワシントン軍縮条約により太平洋上の島嶼にお
しばらく中断しておりました「大東亜戦争ダークツーリズム長崎県編」を今回より再開したい思います。長崎県内の戦争遺跡探検は何度も行っておりまして、今回からご紹介するものは、2015年9月にシルバーウィークという五連休がございまして、その休みを利用して訪れた時のものからご紹介致します。今回ご紹介する所はあの世界遺産「軍艦島」のある長崎市南部に向かう途中の長崎市伊王島町地区というにある伊王島という島でして、ここにかつて陸軍部隊が置かれていましたので、その痕跡を探しました。そもそもこの島