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中学時代にご同郷の福井藩士・橋本佐内公が、わずか15歳で書かれた『啓発録』を拝読、「偉い政治家になり、国のために働きたい」とご決意、以後勉学に励まれたと伝わります。佐内公は、早くも積極的に西欧技術の導入・対外貿易を考えられ、帝国主義と地政学の観点から、日本の安全保障を訴えられた先覚者でもあられ、当時の偉人たちからも大変尊敬され、あの西郷公も「同輩としては橋本左内を推す」と遺されていますが、わずか25歳で、安政の大獄により死罪とされました<(--)>合掌『啓発録』去稚心(稚心を去る
昭和天皇は「朕ココニ緊急ノ必要アリト認メ枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ帝國憲法第八条第一項ニヨリ一定ノ地域ニ戒嚴令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件ヲ裁可シヲ公布セシム」との緊急勅令のお考えを示し、これを受け枢密院は27日午前2時40分に戒嚴令施行を決定、午前3時50分をもって東京全市に“戒嚴令”が公布、午前8時20分に“奉勅命令”は天皇の允裁を得た。この戒嚴令は、同年7月18日午前0時をもって戒嚴が解かれるまでの142日間布かれることとなる。但し、「戒嚴司令官ハ三宅坂付近ヲ占據シアル將校以下ヲ以テ速ニ現
今回の物語は、ホビホビの入隊と重なる内容になったので、ちょっと胸が痛くなりますね🥲いつの時代であれ、どんな世の中であっても戦争を良しとするなんてことは、人間であったらなかったはず私は息子を授かった時に、絶対に戦争に取られたくないと強く思いましたし今、また推したちの兵役に際して再びその思いは彼らに対しても同じように思います《銃を向ける、銃を向けられる》そんな事が起きないよう切に願います今、まだ戦いの最中にある人達にも🙏前回の物語https://ameblo.jp/136405/ent
前回の続き…。陸軍では、四式重爆撃機、飛龍に桜弾という大型爆弾を搭載し、その桜弾機で出撃した特攻隊があったという話。桜弾を詳しく書きます。【桜弾】とは…桜弾は、直径1.6m、重さ2.9tの対艦用大型爆弾。航空機に装着して体当たり特攻をすることで爆発する。爆発威力は、前方3㎞、後方300mが吹き飛ぶことを想定していた。搭載された機体は、四式重爆撃機であり桜弾機(キ167)と呼ばれた。Wikipediaより引用https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%
こんにちは。本日は、埼玉県T.M様から陸軍航空頭巾二種のオーダーをいただきましたのでご紹介したいと思います。この航空頭巾二種の詳細と共にお伝えしたいと思います。完成品★表革は赤茶色★昭和17年タイプの通常縫い★レシーバーカップは帽子本体と同色★官給品のサイズ表記「大」のパンチ★サイズ59cmとのご要望で製作いたしました。表革は上質な山羊革です。特徴は柔らかく、多少の伸縮性があり、小さめの独特のシボがあります。色は赤茶色に染めました。裏側
※2023年12月21日に書き直し上見坂(かみざか)堡塁は、対馬中部の厳原町上見坂の標高390mピーク周辺に構築された陸正面防御の堡塁です。「佐須阿連、小茂田及び厳原方面より侵入せんとする敵を防止し、根緒堡塁と相待って鶏知平原を援護」することが任務とされ、明治37-38年の日露戦争では戦闘配置に就きました。◆起工:明治34年(1901)8月1日◆竣工:明治35年(1902)11月30日◆備砲:九糎加農4門、三十一年式速射野砲(※諸説あり)4門◆設置標高:390m/386m
まずは見取図を掲載します。後編では、北東部から南東部に移動して遺構を見ていきます。まずは、南東部に上がる手前にある「水槽」です。大小2つあります。大きい方は烹炊所の所にあった物と同型かな。南東部の丘陵地に上がると、まず最初に「円形窪地」が目に入ります。さらに「円形窪地」の中央に、コンクリートで囲われた円形の窪みが見られます。コンクリートで囲まれた円形の窪みを計測すると直径3mほどでした。前編でも書きましたが、この「円形窪地」には照空灯もしくは聴音機を設置していたの
大東亜戦争時、日本の鉄鋼生産の3割を担った八幡製鉄所を守るべく、製鉄所北部の若松半島には数多くの防空部隊が配置されましたが、弥勒山高射砲陣地(仮)もその一つだったと思われます。地図で場所を確認します。(仮)としているのは、ここに高射砲陣地を置いたことを示す史料を確認していないからです。ただ戦後すぐの空中写真には高射砲陣地と思しき影が写っており『福岡県の戦争遺跡』でも紹介されていますので現地探索を行った結果、大きな6つの円形窪地と小さな3つの窪地を確認しました。なお陣地から南東方向に歩
北九州市門司区最高峰の戸ノ上山(標高518m、とのうえやま、とのえさん)は、企救自然歩道沿いにありますので登山者が多い山ですが、明治期の陸軍はこの地に戸ノ上山框舎を建設する計画を立てていました。框舎(きょうしゃ)とは、少数の機関砲をもって防御を行う堡塁よりも小規模な陣地ですが、明治34年(1901)に経費の関係で建設中止となりました。中止になったとは言え、框舎は要塞地帯を形成する防御営造物の1つですので、戸ノ上山の周囲には第一区地帯および第二区地帯の区割線が設けられていました。参考記事
神ノ島高砲台は、長崎湾口北側に位置する神ノ島に設置されました。地図で場所を確認します。砲台の履歴です。◆起工:明治31年(1898年)4月19日◆竣工:明治33年(1900年)3月31日(?)◆備砲:28㎝榴弾砲8門(明治34年7月備砲完了)◆標高:78m(砲座位置)◆経過:・明治37-38年(1904‐05年)日露戦争で動員下令・大正8年(1912年)要塞整理にて6門編成となる・大正12年(1916年)要塞再整理要領にて4門編成となる・昭和11年(1925年)
北九州の防空を担った地上部隊の紹介がひと段落つきましたので、本項では小月飛行場に配備された航空部隊について取り上げます。小月飛行場の場所は下記リンクにて。『北九州の防空①~概略』本日から新しいカテゴリーを投入します(・∀・)大東亜戦争3年目となる昭和19年(1944年)に入ると、米軍機がインドを経由して中国大陸に進出してきました。中…ameblo.jp******************************************小月飛行場は昭和15年(1940年)に
明治20年代後半の下関要塞では、海上射撃を行う砲台建設と合わせて、敵上陸兵に対する陸正面防御が「下関地区」「企救半島地区」「洞海方面地区」の3か所において計画されました。このうち下関地区と企救半島地区ではいくつかの堡塁が設けられましたが、洞海方面地区は経費の関係で明治34年(1901)に建設が中止となりました。地図で示します。洞海方面の陸正面防御地区は現在の北九州市若松区、八幡東区、八幡西区に跨る地域です。結果的にこの地区には防御営造物たる砲台、堡塁、框舎、弾薬庫は造られませんでし
※2023年12月3日書き直し明治29年(1896)に策定された「対馬第2期防御計画」に基づき明治31年(1898)から堡塁砲台の工事が始まりましたが、四十八谷(しじゅうやたに)砲台は築城第2期において最初に起工された砲台です。浅茅湾(浅海湾)の湾内中央に位置する島山島に構築され、湾口を縦射して敵艦の侵入を防ぐことを任務としていました。明治37-38年(1904-05)の日露戦争では二十八糎榴弾砲6門をもって戦闘配備に就きましたが、戦勝後は海岸防御の見直し気運が高まり、明治43年(191
宗像の大島には10回以上渡島していますが、砲台の記事は4年前に書いて以来更新していませんので、この度全面的に書き直します。***************************「大島」は福岡県宗像市神湊(こうのみなと)の北西約6.5kmの沖に浮かぶ島で、「筑前大島」、「宗像大島」とも呼ばれています。約500人が住む周囲約15㎞の島ですが、大東亜戦争中には陸軍の砲台や海軍の防備衛所が置かれていました。昭和15年の下関要塞砲台配置図で場所を確認します。大島全景。大島は響灘と
1979年12月13日の朝、つまり全斗煥らが12・12クーデターを起こした翌日。朝刊各紙の一面や社会面には、前夜に首都ソウルで漢江ハンガンの橋が遮断され市内に軍隊が展開するという事件が起きたことが大々的に報じられた。『東亜日報』の社会面の記事(右上)はこんな内容だった。(手動でスクロール)漢江の南北遮断5時間漢江の橋、車両通行禁止に会社帰りの市民が歩いて橋を渡る路肩の車の中で徹夜も帰宅できなかった人は旅館の相部屋で12日午後7時、ソウル龍山ヨンサン区漢南洞ハンナムドン
西照空中隊陣地は、小倉南ICから下った東谷地区の標高120m付近(山名は西谷山)に設置されました。おおまかな場所は下記リンクにて。『北九州の防空①~概略』本日から新しいカテゴリーを投入します(・∀・)大東亜戦争3年目となる昭和19年(1944年)に入ると、米軍機がインドを経由して中国大陸に進出してきました。中…ameblo.jpここは高射砲第132連隊第15照空中隊の陣地で、展開地域に自身を含めて6つの照空隊を配置して北九州防空の南側を警戒していました。なお中隊陣地だったこと
探索日2015/12/31東武鉄道野田線六実駅からのびていた軍用線廃止時期は不明1947年の航空写真では貨車が確認できる1961年では線路はなくなっている飛行場は海上自衛隊下総航空基地になっている六実駅左二線の留置線は貨物側線跡(軌道は当時のものやないやろけど)飛行場線はそこから左へ分岐する草の生えてるとこが専用線跡飛行場線はここを通過して駅を出る上写真の場所に来てみた専用線はここへのびてくる民家沿いが廃線跡建物間の空間が廃線跡
藍島(あいのしま)は小倉駅北部の沖合約12㎞に浮かぶ島で、現在の行政区画では北九州市小倉北区に属しています。地図で場所を確認します。今回取り上げる照空陣地は島の北西部・標高24m地点にありますが、これ以外にも島内には、臨時野砲陣地、高射砲陣地、複数の照空陣地、さらには本土決戦に備えて守備隊が配備されたりと、大きな島ではありませんが多くの部隊が駐屯しました。これら部隊が配置された場所はすべてを特定できていませんので、もしかしたらこれから紹介する照空陣地は他の部隊の陣地だったりして(^
遺構探索は陸海軍の砲台・見張所に絞って行っています。◎陸軍…要塞の砲台・堡塁・関連施設、北九州の防空陣地◎海軍…警備隊/防備隊所属の防空砲台・見張所・防備衛所・関連施設◆目次◆~クリックで各ページが別ウインドウで表示されます下関要塞(明治/大正期)[概略]砲台:[田ノ首*][筋山*][老ノ山*][田向山*][笹尾山*][古城山*][門司×]火ノ山砲台*:[概略][第一][第二][第三][第四][補助施設][低観測所]堡塁:[戦場ヶ野×][一里山×][金比羅山×][龍司山*]
しばらく中断しておりました「大東亜戦争ダークツーリズム長崎県編」を今回より再開したい思います。長崎県内の戦争遺跡探検は何度も行っておりまして、今回からご紹介するものは、2015年9月にシルバーウィークという五連休がございまして、その休みを利用して訪れた時のものからご紹介致します。今回ご紹介する所はあの世界遺産「軍艦島」のある長崎市南部に向かう途中の長崎市伊王島町地区というにある伊王島という島でして、ここにかつて陸軍部隊が置かれていましたので、その痕跡を探しました。そもそもこの島
久々の由良要塞探訪です。友ヶ島第四砲台は長らく立入禁止でしたが、昨年2022年12月より解禁となりましたのでレポートを掲載します。砲台の履歴は以下の通りです。◆起工:明治23年(1890年)11月29日◆竣工:明治25年(1892年)5月25日◆備砲:二十八糎榴弾砲6門(明治32年12月備砲完了)、十二糎加農砲2門◆砲座設置標高:75m、72m◆廃止:昭和10年(1935年)3月、要塞再整理にて廃止※由良要塞の概略はこちら→→→見取図です。地下弾薬庫から砲座間
週末、F1ピットで行われたArmyopenhouseに行ってきました。スロット制で当日までには予約満席になったそうです。私たちは夕方から、といってもまだかなり熱い~戦車やヘリコプターなど、軍用車両に乗り込んで記念撮影ができます。私たちは夕方行ったので列が長すぎて締め切りになってる車両もあるくらい!でも、軍のお兄さんたちが順番に撮影してくれて、一緒に写ってくれたりもして結構いい写真がとれたよ(外でもマスクをしてる人が多かったですが写真を撮る時には
映画「ソウルの春」の元ネタの12・12クーデターの背景について整理しておこう。朴正煕暗殺事件と鄭昇和参謀総長12・12クーデターが起きる1ヶ月半前の10月26日夜に起きた朴正煕パクチョンヒ大統領と警護室長車智澈チャジチョルがKCIA部長金載圭キムジェギュに撃たれた事件。その事件現場となった青瓦台のそばのKCIA施設「安家アンガ」は、今は「ムグンファ公園」になっていて当時の建物はない。事件の当日には、金載圭と約束があった鄭昇和チョンスンファ陸軍参謀総長が安家の本館に来てい
豆酘崎電燈所は、射光機(探照灯)による夜間時の警戒と加農砲の射撃補助を任務として、砲台前方に2つの照明座が設けられました。見取図で配置を確認します。電燈所は豆酘崎砲台と同じく昭和14年(1939)1月20日に竣工しました。『日本築城史』には、「電灯照明所は右翼砲座の南方、左翼砲座の東南、標高40メートルの稜線に2個所設置した。照明所北方の180mの地点に地下鉄筋コンクリート造の掩燈所を設け、150センチ可搬式射光機を収容し、照明所に誘導できるように施工した。発電所は掩燈所の北方山蔭
今日は下関要塞地帯の最も外側に引かれた区割線を辿ります。**************************要塞地帯の概略に書きましたが簡単に説明します。明治31年(1898)7月、『要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件』が公布され、要塞における防御営造物(既設・未設とも)の周囲より外方5,750間(約10,450m)以内において、水陸の形状を測量、模写、撮影、筆記をしようとする者は要塞司令官の許可が必要となりました。ここで初めて要塞の区域が示されたわけですが、そのラインを
【23年12月9日探索・24年7月15日公開】現在地はこの辺千葉県佐倉市城内町佐倉城址公園だ。この公園内に旧陸軍が使用していた、トマソン階段があると聞いてやってきた。姥ヶ池の縁を進んでいく。ここで視線を左に移すと・・・これがそうか。兵士の飛び降り訓練用の階段だったそうだ。コンクリート製だったため、壊すのが大変でそのまま残されたらしい。心霊スポットにもなっているようだ。何でも上る時には12段、下りでは13段になるとか・・・
先月の大久野島に続き今月は2年ぶりに小島(おしま)を訪問しましたので、あらためて記事を書き直していきます。(※芸予要塞の概略と小島の紹介はこちら→→→)小島の施設案内図です。案内図にある番号順にレポートしていきます。まずは来島南部電燈から。夜間に海上を照らすドイツのジーメンス・シュッケルト社製90㎝射光機(探照灯)を有する電燈所は島の北部と南部の2か所に設けられました。南部電燈は明治34年(1901年)7月31日に竣工、その2か月後の9月30日に北部電燈が完成しました。
映画『八甲田山』で神田大尉(北大路欣也)が悲痛に叫ぶ(八甲田山のシナリオから)「天は……天は我々を見放した」……この映画の原作は新田次郎『八甲田山死の彷徨』である。新田次郎は登場する人物名を匿名としている。「神田大尉」は匿名で、実際には「神成大尉」である。小原さんは神成大尉のそばにいたので、神成大尉の怒号を実際に聞いている。その内容が一番最初に記録として残るのは、第5普通科連隊の幹部が録音したもの(①)それからしばらくして、この遭難事故研究の第一人者小笠原弧
12・12クーデターの現場はソウル市内各所に広く散らばっている。クーデターの発生からすでに45年。当時からそのまま残っている建物や施設もあるが、1979年当時とは全く違った姿になっている場所も多い。旧朝鮮総督府だった中央庁庁舎は撤去されて久しく、クーデターで「ハナ会」の拠点だった30警備団の駐屯地も、保安司令部や首都警備司令部も全て移転して当時の面影はない。45年前の当時の現場を、今のソウルの地図と照らし合わせながら、エリアごとに見てみよう。漢南洞公邸エリア保安司令部の憲兵隊が、鄭昇
「リボルバー・リリー」を観てきました。ストーリーは、大正末期の1924年。関東大震災からの復興で、活気にあふれた東京。16歳からスパイ任務に従事し、東アジアを中心に3年間で57人の殺害に関与した経歴を持つ元敏腕スパイ・小曽根百合は、いまは東京の花街の銘酒屋で女将をしていた。ある時、消えた陸軍資金の鍵を握る少年・慎太と出会ったことで、百合は慎太とともに陸軍の精鋭部隊から追われる身となる。というお話です。1924年(大正13年)、東京は関東大震災から1年が過ぎ、復興に向