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その4では両翼の側防穹窖を取り上げるとともに、北端の地下にも匣室が設置された可能性について考察していきます。まずは堡塁の定義を明治期の史料から抜粋します。「堡塁とは近戦自衛の設備を備え陣地の支点又は複郭たる任務を有する防御営造物である。堡塁の形状は通常平扁なる多角形にして之に平行せる壕を設け、壕内は外岸側防穹窖又は「カポニエール」と称する特別の側防設備に依りて側防す。咽喉部も亦側防の設備を為す。而して壕内の側防には小口径速射砲若しくは機関砲を備ふるものとする。」定義の通り龍司山
前回、前々回と爆沈した戦艦陸奥の関連遺構を取り上げましたが、今回は柱島に建つ「戦艦陸奥英霊之墓」を訪れます。広域地図で場所を示します。戦艦陸奥の爆沈に関しては前々回の記事にて。『山口県の戦争遺跡190~陸奥記念館(周防大島町)』久しぶりの山口県の戦争遺跡カテゴリーの投稿ですが、今回は周防大島町の陸奥記念館を紹介します。********************************…ameblo.jp============柱島(はしらじま)は岩国港の南東約26kmの海上
昨日に引き続き光海軍工廠に関するレポートです。大東亜戦争4年目の昭和19年(1944)半ばになると、光海軍工廠において空襲に備えて防空壕の増設や工場設備の分散疎開が急ピッチで進められることになりました。・工廠北部の島田に設けた隧道に弾丸工場・室積に水雷部機械工場・神代、大畠に精密工場および器具工場・戸田に薬莢工場および弾丸工場・大嶺に薬莢工場以上のように、光市内だけではなく柳井市、徳山市、美祢市など幅広く疎開工場が設けられることになりました。実際終戦までに稼働した工場は
大津島(おおづしま)は徳山港の南西約10㎞に浮かぶ島ですが、戦時中に人間魚雷「回天」の訓練基地が置かれたことで全国的にも知名度が高い離島です。島内には基地時代の遺構が数多く残っており、回天に関わる遺品・資料を展示する回天記念館が設けられています。なお大津島には回天の訓練基地以外にも海軍の防空砲台が置かれていました。既にレポート済みですので、こちらをご覧下さい。『徳山海軍警備隊探訪㊼~大津島防空砲台-書換-その1(兵舎)』前回大津島の発電所を取り上げましたが、ついでなので昨年7月に書
その3では時計回りに圍壁と外壕を巡ります。下関の最北に置かれた龍司山堡塁は、敵に攻められた際に持久戦を展開できるよう砦の形を為しています。独立閉鎖堡に分類される形状ですが、堡塁全周に亘って高い位置に圍壁(歩兵壁)を構築し、北東側(Jの箇所)には深い外壕が掘られています。現在の圍壁は破壊されている箇所も多いですが2/3の圍壁は現存しており、外壕、高石垣、両翼の側防穹窖も確認することができます。なお側防穹窖は「その4」で詳しく紹介します。************************
徳山湾には仙島、黒髪島と言う2つの大きな無人島が浮かんでいますが、島の海岸には花崗岩で造られた複数の水槽が残っています。遺構地図で場所を確認します。**********************************まずは島の紹介から。仙島は元々有人島で、戦後は希望の家と呼ばれる養護施設が建設されました。いつの頃からか人が住まなくなりましたが、近年は元島民の方が島に通い、数十年に亘って整備を続けています。元島民の方が整備された小屋と段々畑。(写真は2021年3月渡島時)
今日は平生(ひらお)町の阿多田(あたた)半島に置かれた回天基地を取り上げます。回天は日本で最初に開発された特攻兵器で、いわゆる人間魚雷です。回天の搭乗員を養成するために、山口県下では大津島、光、平生の3か所に回天訓練基地が設けられました。平生基地の正式名称は平生突撃隊(通称:嵐部隊)です。昭和17年(1942)に竣工した海軍潜水学校柳井分校に隣接する形で、昭和20年(1945)3月1日に開設しました。回天の現物が遊就館に展示されています。(回天一型改一)平生突撃隊は呉鎮守府指
防府市南部、三田尻沖を望む江泊山(えどまりやま)の麓に、特攻艦隊留魂碑が建立されています。まずは「特攻艦隊」について説明します。=====================大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)4月1日、米軍が沖縄本島への上陸を開始しました。日本軍は沖縄防衛のため天一号作戦を展開、陸海軍機による特攻攻撃を行うとともに、戦艦大和以下海軍残存艦艇を用いた海上特攻も立案され実行に移されました。この艦隊がいわゆる「特攻艦隊」となります。艦隊の編成は以下の通りです。第
昨日紹介した防府北基地の南側に航空自衛隊防府南基地が置かれていますが、この基地の前身は防府海軍通信学校でした。戦後米軍が撮影した空中写真で見るとこのような配置となっています。(国土地理院地図・空中写真閲覧サービスUSA-M122-23を加工して掲載)なお、施設の名称については「甲飛防通会名簿」を参考にしています。それでは簡単に説明していきます。=============================昭和5年(1930年)、無線通信術を教育する海軍通信学校が横須賀
海軍燃料廠の前身である海軍煉炭製造所の徳山への誘致に際して設けられた取水口を紹介します。煉炭製造所のち燃料廠の概略は昨日の記事にて。『山口県の戦争遺跡139~徳山海軍燃料廠(周南市)』海軍燃料廠の前身となる煉炭製造所が徳山の地に開設されたのは明治38年(1905)でした。これ以降海軍の燃料基地として大いに貢献しましたが、昭和20年(1945…ameblo.jp海軍燃料基地となった徳山の発展はこちらの記事にて。『山口県の戦争遺跡136~徳山要港(周南市~下松市)』今日は、戦前の昭和
「その2」では衛所内部を見ていく。平面図を掲載する。部屋にはアルファベットを付与した。増設部屋(H)を含めて8つの部屋が確認できるが、増設以外にも改築されたと思われる箇所がいくつか見受けられる。なお屋上建屋は増設分となる。『一五定防備衛所工事基準(草案)昭和15年』(以下『工事基準』)には、衛所に設置すべき部屋と面積および条件が記載されている。表に纏めると以下の通り。『工事基準』はあくまで(草案)なので現実に即していない部分も多いように感じるが、この表に基づき部屋の用
今日から大嶺炭田の遺構を紹介していきます。なお炭鉱の概略については前回の記事をご覧ください。美祢市大嶺町の麦川地区に置かれている海軍マーク入りキーストンを紹介します。美祢市街地から西に国道435号線→県道38号線を車で走ると、道沿い右手側にM字型のモニュメントが見えてきます。隣に駐在所と郵便局が並んでいますので分かりやすいかと思います。正面から。中央に付いているのが海軍マーク入りキーストンです。キーストン(キーストーン)とは、石やレンガでアーチ型に組み立てた場合のアーチの
徳山湾の南側入口に岩島と言う小さな島が浮かんでいますが、この島には湾内の監視を目的とした海軍の見張所が置かれていました。地図で場所を確認します。太華山(たいかざん)から見た岩島です。この見張所は前回紹介した徳山要港に関わる施設となりますので、繰り返しになりますが簡単に概略を書いていきます。************************************海軍の燃料基地だった徳山港は、昭和13年(1938)4月1日に要港指定を受けて軍港に次ぐ重要な港として位置付けら
本項では増設箇所を探索する。正面図と背面図。平面図。赤色で記載した部分が増設箇所だが、衛所の基礎構造が赤煉瓦積みであるのに対し、増設箇所は鉱滓煉瓦で建てられているのが特徴となっている。なお、大東亜戦時下に竣工した下関防備隊波津崎防備衛所の建築物が鉱滓煉瓦造りであるため、「白瀬」の増設も同じく戦時下に施されたと推測される。*****************************まずは衛所右前方に築かれた(H)の増設部屋から見て行く。(H)は(A)に隣接して造られ
海軍燃料廠の前身となる煉炭製造所が徳山の地に開設されたのは明治38年(1905)でした。これ以降海軍の燃料基地として大いに貢献しましたが、昭和20年(1945)8月の敗戦で閉鎖となり、40年の歴史に終止符が打たれました。煉炭製造所の開設から燃料廠への改組(明治38年~大正10年)までの概略は以下の記事をご覧下さい。『山口県の戦争遺跡52~大嶺炭田(海軍練炭製造所採炭部)(美祢市)【概略】』これまで宇部市、山口市南部を紹介してきましたが、今日から美祢市の遺構を見ていきます。美祢市の遺構地
下松市内から笠戸大橋を渡って笠戸島に上陸するとすぐ、夕日岬の看板が見えてきます。西日本でも有数の夕日の名所として知られるビュースポットですが、この場所から少し視線を下げて海岸に目を向けると、何か塊のような物体が海面に見え隠れしていることに気付きます。初めて見た時は「なんだろう?」と思いましたが、夕日岬の案内看板にはこの物体についての説明も書かれていましたので、すぐに分かりました。この正体は戦時中に建造されたコンクリート製の油槽船で、戦争が終わってから湾内に係留されていたところ、昭
下関要塞龍司山(りょうじさん)堡塁は4年前の初訪問以来10回以上訪れていますが、堡塁自体の遺構確認と言うよりは、周囲を囲んでいた要塞地帯標探しがメインでした。紹介記事は2020年6月に書きましたが、今回はより詳しく書き直しを行います。要塞の全体図で場所を確認します。龍司山堡塁は、陸正面防御の堡塁として火の山北方に位置する霊鷲山(りょうじゅせん、標高288m)の山頂に築城されました。『現代本邦築城史』に書かれた本堡塁の任務は、「堡塁一般の首線を伊倉村方向に置き、其の兵備を以て火ノ山砲
大東亜戦争末期の昭和20年(1945)、米軍による日本本土への空襲が本格化しましたが、徳山は2度の大規模な空襲を受けました。最初の空襲は昭和20年5月10日で、第三海軍燃料廠と大浦油槽所が狙われました。午前9時50分、B29約110機による燃料廠への爆撃が開始され、その15分後にはB29約80機が大浦油槽所を襲いました。空襲は午前10時50分に終わりましたが、投下された3,500発以上の爆弾(燃料廠に2,017発、大浦油槽所に1,533発)により、設備の大半は破壊されて事実上壊滅、5
蓋井島(ふたおいじま)は下関市吉母(よしも)の沖合約6kmの響灘に浮かぶ島です。周囲約10kmで、35世帯81人が暮らしています。(令和5年4月1日現在)島中部の金比羅山(標高148m)から南東部の乞月山(こいづきやま)を眺めています。島に渡るには市営渡船を利用します。本土側の吉見港から1日2~3便が往復しており、乗船時間は約40分です。季節や曜日によってダイヤは異なりますが、4~9月の土日祝日なら最大6時間半ほど島に滞在できます。なお吉見港には船着き場の前に有料駐車場(1日400
宇部市吉見立熊(旧厚狭郡厚東村)には大東亜戦争時に陸軍の弾薬集積所が置かれていました。この地に展開した部隊は『大阪陸軍航空補給廠福岡支廠厚東出張所』で、航空機に使用する機銃弾や爆弾などの貯蔵を行いましたが、これら貯蔵品を格納したと思われる横穴式地下壕がいくつも残っています。弾薬集積所の設置が計画・着工されたのは、戦時中の昭和18年(1943年)ごろ。工事には最大3千人の徴用工や地元の学徒も動員されました。建物の建築、周辺野山の開削や横穴壕の掘開、集積所から山陽本線に繋げる鉄道引込線の
下関市東部の松屋地区には陸軍の小月(おづき)飛行場がありました。戦後は自衛隊の駐屯地となり、昭和40年(1965)以降、海上自衛隊小月教育群の基地として運用されています。小月飛行場については2年前にブログでレポート済みですが、昨年6月に日本戦跡協会様のお誘いで教育委員会や郷土史家の方々と場内の旧軍遺構を見学させて頂きましたので、新たなレポートを書くことにしました。撮影した写真についてはブログに掲載する許可を得ておりますが、不適切な内容などがありましたら即刻修正・削除しますのでご指摘下さい。
下関市菊川町の【松崎少佐散華の地】をレポートします。まずは下関市中部の地図を掲載します。松崎真一少佐は福岡県前原市出身で、旧制糸島中学校を出たあと陸軍士官学校を卒業。飛行隊に所属し、1945年(昭和20年)7月下旬に陸軍小月飛行場(現在の海上自衛隊小月基地)に駐屯しました。(飛行第4戦隊配属と思われます)昭和20年7月28日、米軍機を迎撃すべく四式戦闘機「疾風」で飛び立ちましたが撃墜され、24歳で戦死しました。小月飛行場に駐屯した陸軍飛行第4戦隊については以下の記事を参考にし
蓋井島に置かれた白瀬防備衛所を詳しく取り上げる。「白瀬」は九七式水中聴音機8基と九ニ式管制機雷6個群連を配備した防備衛所(甲)として、海上見張および対潜哨戒と撃退を任務とした。詳細は前回のレポートで述べたので省略する。===================【前回のレポート】『下関海軍防備隊探訪㉑~蓋井島の防備衛所』蓋井島に置かれた下関海軍防備隊所属の2つの防備衛所を紹介する。===================【参考記事リンク】◎下関海軍防備隊の概略→→→◎防備衛…ame
「山口県の戦争遺跡」カテゴリーで扱う戦争遺跡とは、山口県下に残る日清戦争以降の戦役記念碑や銅像および関連物(忠魂碑は除く)、記念館/博物館の展示物、軍関係の施設(砲台/見張所は別カテゴリーで紹介)などが対象となります。[]内をクリックすると各ページが別ウインドウで表示されます。◆下関市◆[地図]◎戦役記念碑/奉納砲弾:[菅原神社][礼拝山][覚苑寺][東行庵][松屋八幡宮][蓋井八幡宮][粟野八幡宮][滝部八幡宮][阿川八幡宮][垢田八幡宮][雌笠山][吉母][豊田町][竜王
先日、北山防空砲台の発電所跡を確認して来ましたのでレポートします。砲台の詳細と遺構は以下の記事にて。(2022年1月再訪)================================◎徳山海軍警備隊探訪51~北山防空砲台-再訪-(前編)◎徳山海軍警備隊探訪52~北山防空砲台-再訪-(後編)================================北山防空砲台は、周南市街地北方の標高180m付近の山に構築された防空砲台です。過去に2度訪問しましたが発電所の場所は未確認
今日は昭和11年(1936年)に起こったニ・二六事件の首魁のひとり、磯部浅一の故郷である長門市油谷(ゆや)を訪れます。なお訪問したのは2年前ですので、現状とは異なる所があるかもしれません。場所はこちら。長門市油谷は、向津具(むかつく)半島と本土に挟まれた油谷湾一帯に広がる地域で、すっかり人気スポットとなった赤の鳥居が並ぶ元乃隅神社(もとのすみじんじゃ)も油谷にあります。長門市に編入される前の油谷町はいくつかの村が合併した町でしたが、その内のひとつである菱海村(ひしかいそん)が磯部浅一
引き続き衛所内部を探索する。平面図『一五定防備衛所工事基準(草案)昭和15年』(以下『工事基準』)に記載の衛所に設置すべき部屋と面積および条件***********************背面の出入口から中へ。入ってすぐ左手の壁に凹みがある。方形の凹みの上にケーブル溝のような物がある。その内の1本は天井を走っている。おそらくこの凹みには分電盤があったのではないか。ちなみに賢女鼻防備衛所にも同じ位置に凹みがある。(凹みと言うか崩されて開口しているが)*
航空自衛隊防府北基地の前身は陸軍の防府飛行場でした。既に2022年6月27日のブログでレポート済みですが、先日行われた航空祭の折に陸軍境界標石を発見しましたので追記します。以前の記事はこちら。『山口県の戦争遺跡112~陸軍防府飛行場(航空自衛隊防府北基地-防府市-)』防府市田島には航空自衛隊防府北基地が置かれていますが、この基地の前身は陸軍の防府飛行場でした。まずは防府飛行場と駐屯した部隊について説明します。======…ameblo.jp今年の防府北基地航空祭が行われたのは6
2年前に山口市の歩兵第42連隊についてレポートしましたが、その際に書き洩らしていた点を追記します。2021年10月25日に書いた歩兵第42連隊の記事はこちら。『山口県の戦争遺跡82~歩兵第42連隊屯営地(山口市)』山口市上宇野令に陸上自衛隊山口駐屯地(第17普通科連隊基幹)がありますが、元々この場所は大日本帝国陸軍歩兵第42連隊の屯営地でした。大正6年(1917年)…ameblo.jp歩兵第42連隊は明治29年(1896)に広島で創設、その後山口の兵営に移動し、明治31年(18
蓋井島に置かれた下関海軍防備隊所属の2つの防備衛所を紹介する。===================【参考記事リンク】◎下関海軍防備隊の概略→→→◎防備衛所について→→→===================下関を出入港する船はすべて蓋井島を左舷に見ながら航行していたが、船が入って行く航路側(島の西側)には白瀬防備衛所、出て行く航路側(島の東側)には賢女鼻防備衛所が設置され、海上見張と対潜哨戒を行っていた。地図で位置を示す。南側から見た蓋井島。両衛所は元