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まだ意識不明のなか、3/1抜糸した。大きな大きな傷に、かなりの数がホチキスのようにおおっていたもの。抜糸された。頭と、頭蓋骨を入れていたお腹、同時に抜糸。1月20日、開頭手術、お腹に頭蓋骨入れる2月19日、お腹から頭蓋骨取り出し、頭蓋骨戻す手術をした傷跡同じく3月1日、送っていた酸素をとめた。自発呼吸。たまに、苦しそうに大きく息を吸い込む父。心配…。どうにか酸素を父の口元に集められないかと思ってしまう。夜はまた酸素を送ってくれるそうなので、日中は側にいた。
今年1月20日に倒れてから約10日ほどで、ICUからHCUに移った。顔の腫れは落ち着いてきたが、父の意識はまだ戻らない。人工呼吸器もまだついている…。熱が出やすくて、からだのまわりにアイスを置いている。冷たそうだ。
保険証など、父の荷物をいろいろ見る、探すことが、とても嫌だった。こんな日がくるなんて…。あらためて父が見えないところまで几帳面な人だと知った。すべてひとつのところにあった。保険証券などもすべてひとつのところにあった。私は何かととっておき、不用な書類も結構ためてしまうほうだ。だが、父は不用な書類がなく、見つけやすく、探しやすかった。すぐに、見習った。自分に何かあったら、ここにすべてあると夫に伝えた。もっているクレジットカードもすぐ解約できるよう、わかりやすくまとめた。保険、クレジットカ
顔の腫れがひどい。腫れというより、顔の大きさが二まわりも三まわりも大きくなっていると言える。もう、父の顔とはわからなかった。そして、呼吸が苦しそうでもう死んでしまうかもしれないと恐怖を感じた。痰がつまっているようだ。右肺が真っ白だった。気管支鏡で針を刺した。苦しそうで、痛々しくて、可愛そうで、切なくて、信じたくなくて、見ていられなかった。辛すぎる…。
悲しんでいるところにも、病院からいろいろな質問事項に答える。父の身長体重からはじまり、普段飲んでいる薬や、生活習慣のこと、便や尿のことまで。家族でも、知っていることのほうが少ない…。お薬手帳、大事です。記入する書類も次々と手術同意書、入院手続き、レンタル申請や、今後に関するアンケートなど。病院以外では高額医療、介護申請、保険、すぐ書けて提出できればいいが、説明書類読んで、必要書類をとり、役所と病院と出向き、母だけでは体力的に無理だと感じました。
脳出血で倒れた父。目も開かず意識不明が続いている。それでも、顔を真っ赤にして苦しい顔をする時がある。苦しさで身体も動く。ピンコンピンコン、機械音も鳴る。最初はすごく驚いた。原因は痰がつまっているのだ。意識不明でも苦しいのか…。看護師の方が痰吸引してくださる。口からは人工呼吸器がつながれているので、鼻からチューブを入れ、吸引する。それが、すごく苦しいという。顔が真っ赤になり、身体全体で苦しさを伝えている。数分のことだが、見ていられない。そんなことが1時間おきにやってくる…。生き
病院到着すると父は緊急手術をうけていた。開頭手術病院についてやっと脳出血だと理解した。開頭手術…恐ろしい…そんな大変な手術を…でも手術すれば大丈夫!絶対大丈夫!父なら大丈夫!そんな自信がなぜかわいてきた。手術が終わり、ICUに入った父。少しの時間だけICUに入ることが許された。人工呼吸器がついた父。信じたくない父の姿があった。麻酔がまだ効いているとのこと。
頭蓋骨を戻す手術をした3日後の2/22から、日中は人工呼吸器をはずした。意識不明は続いている。ただ酸素は送っている。夜はまた人工呼吸器をつける。途中、呼吸を休んでしまうことがあるので心配の日が続いた。
今年1月13日(日)後から考えたら、倒れる1週間前のこと。その日は、母と観劇に行きました。観劇帰りの夕方、父と待ち合わせ、3人で食事へ。その時の会話は、観劇についてや、4日後が父の誕生日だったので、お祝いの話など、いつもどおり、笑顔で過ごした時間。誕生日をむかえることで、病気することなく健康でいられることに、父は亡き親への感謝の気持ちを語っていました。食事した東京の店を出ると、両親はバスで埼玉の家へ、私は電車で横浜の家へそれぞれ帰り、別れ際、父は私に、実家に泊まらないの?と泊まってほしそ
意識不明の父はオムツをしている。意識不明でも便がでてる。便意を感じてるのだろうか。少なくても、りきむ力が必要のはず…。なんか、嬉しくなった。
告げれらたのは、2022年4月だったかな。担当医に母が呼ばれた日。コロナ渦で、母一人で行きました。そこで父の余命を告げられました。あと1年と思ってください…。病院からすぐに、母から電話がきた。母の声が震えていた。わかってる、わかってるんだけどね、目をみて言われるとすごく怖くてショックで、、声を出して泣いていた母。また泣いてごめんね、すぐ落ち着くから。もう大丈夫だから。そんな言葉を私にかけていた。コロナ渦とはいえ、こんな話を、母ひとりだけで、なぜ背負わせたのかと、私も辛かっ
リハビリ病院までの所要時間は埼玉県の実家より1時間20分。私が住む横浜からは1時間50分ほど。面談は、父のことや家族のこと、病院の話、リハビリの話などした。病院には、父と同じように病気と戦う方々、リハビリをしている方々が沢山入院されていた。名前の書かれた経鼻栄養の袋が沢山ぶら下がっているのを目にし、衝撃を受けた。こんなにも大変な方々が…。病院はとてもいい印象で、入院できたらいいなとおもった。と同時に、入院できなかった場合、どうするかの不安が押し寄せる。
3/2、父が倒れて42日目。意識不明が続いている。今後の転院先についてのお話をすることに。ソーシャルワーカーが転院先のリハビリ病院を事前に調べ、提案してきたリスト…ひとつ。選択肢はない。ここは救命病院なので、入院できるのは2ヶ月。3ヶ月いることも聞いたが、早くリハビリをしたほうがいいのと、他の患者様もそうしているからこそ、父が倒れたときに緊急で受け入れができたと言ってきた。確かにそうだ。先生がここまで助けてくださって…と続いたソーシャルワーカーの言葉が入ってこなかった。複雑。
今年1月末に介護申請した結果、介護認定が3/7に届いた。父の意識不明で目も開かない状態から、家族が予測していなかった結果でした。介護認定には、特に理由もなく、認定結果だけなので、納得できる理由が見当たりませんでした。再度申請をすることにしました。病院にいると、まわりの患者の方にスーツを着た若い審査の方が話しかけているのを目にした。面談したソーシャルワーカーの方が案内していた。父のところにも、こうして、家族が誰もいない時に来たんだな。
今年1月20日に脳出血で倒れ、2月5日、一般病棟に移った。父の意識は戻らない。目も開かない。人工呼吸器がついている。その状態でも一般病棟なのは不安に思うが、仕方ない。ICUやHCUには、日々、救命のために、次々と運びこまれてくる。
開頭手術で左側を大きく開いたことにより、顔を右側に向けていることが多かった。向けていることが原因いうより、恐らく、右耳が折れた状態が続いていたと予測する。顔を右に向ける際に、耳の状態まで確認していないのだろう。ICUに入っていた術後数日で右耳が炎症し、血がではじめた。どんどん酷く大きくなり、耳鼻科の先生に毎日処置していただいたが、治ることはなかった。右耳壊死…。
3/4ソーシャルワーカーより電話くる。二日前の面談後、ひとつだけしか候補のなかったリハビリ病院へソーシャルワーカーの方が連絡していただき、リハビリ病院との面談に進むことになった。面談日についは、リハビリ病院に直接電話をして決めてくださいとのこと。面談は早くしてくださいとのこと。空きベットがうまるかもしれないとのこと。そう、焦らされる。うまるかもしれないのに、面談するのだろうか…。空きベットの数以上の人数と面談するのだろうか…。そう思ったがのみこんだ。まだ、リハビリ病院に電話する前で
3/3日、父が倒れて43日目。意識はもどっていない。日中は人工呼吸器もとり、酸素も送っていない。自発呼吸で頑張っていた。ここ最近は、ただ寝てるかのような表情だったのに、この日はちがった。眉間にシワをよせ、苦しそうだった。呼吸音が大きく聞こえ、身体も大きく呼吸で上下していた。苦しそうなので声をかけるのをひかえ、じっと様子を見ていた。一瞬、苦しそうな表情から違う表情にかわった。涙はでていないが、明らかに泣き顔。号泣するかのような表情。私はとっさに、お父さん!何かわかるの?ツラいの
一般病棟に移ってから2日後、医師から説明があった。最近撮った術後の脳の画像。腫れは落ち着いてきていたし、中心位置も戻ってきていた。意識不明のことについては、今後、目を開けてくれるかどうか…。倒れた日の説明では、片麻痺、失語などの可能性を話されていたし、家族も質問していた。ただし意識回復が目標だと。今回は、失語や片麻痺の言葉は誰からもでなかった。気管切開の話になる。私の気持ち、今の人工呼吸器がついた状態で目も開かない父。気管切開をして、この状態で生かされていくのはどうなのか…。医師に話
画像見たとき、知識のない私が見ても驚くほどの出血量だった。左被殻出血。さらに、右被殻出血…。高血圧によるものだと言う。出血量で脳が圧迫され脳の中心がずれていた。今回の開頭手術後、1ヶ月後に、左頭蓋骨を戻す手術を行うとのこと。それまで頭蓋骨は、お腹の脂肪のなかに入れていると。手術はあくまでも救命のため。予後のことを不安に感じていた私たち家族に、医師は、まずは意識回復すること、それが目標です。と…。
今年1月20日(日)休みだったので、目覚ましもつけず、携帯電話は音を切り寝室には置かなかった。朝までぐっすり寝て、8時ごろ起きた。寝室をでて、すぐ携帯電話の光に気付く。手にとってすぐに胸騒ぎがした。着信件数とLINE件数の多さに心臓の音が早く大きくなった。母からのLINE内容にはお父さんが意識不明で倒れた。朝方救急車で救命センターに運ばれたという。最初の着信やLINEから既に1時間30分がたっていた…。身体が震えた…声を震わせ母に電話した。生きてる、父は生きてる、とにかく急いで
1月21日少しの時間ならICUに入ることが許されていた。必死に生きている父。まだ意識はない。でもまだ少し麻酔を入れていると言われ安心した。ポロポロ涙を流しながら、じっと見つめて立つだけの私を見て、声をかけても大丈夫ですよという声をかけられた。でも、かけられなかった…。目を覚ましてほしい気持ちはあったが、現実が辛すぎるからだ。顔を見てたえられず、2、3分でICUをでた。声をだして泣きながら駅まで歩いた。スーパームーンがパワーをくれたらいいな。そう願った。
今年1月20日、左右両方の脳出血で倒れ、緊急手術をした父。開頭手術をし、頭蓋骨はお腹の脂肪のなかに入れた。2月19日、お腹のなかに入れていた頭蓋骨を取り出し、頭に戻す手術をおこなった。もう1ヶ月もたつんだ。術前の頭は、べこっとへこんでいて違和感ある頭でした。もとに戻るんだ、嬉しい。術後、またも包帯ぐるぐる巻きの頭。そして、4-5日間は顔も腫れあがった。これまで健康で手術の経験がなかった父、この1ヶ月で、頭を2回、お腹も20㎝ほどを2回きり、気管切開、肺、と、大変な1ヶ月を送った。体力
一日数回、栄養を鼻からチューブで入れている。口がたまに動く。何かはいってきてるってわかるのかな…。ふと見ると、父が口からあわをふいていた…。その姿にショックをうけ、すぐにはっと、きっと呼吸苦しいよね、危ない。ちょっとびっくりしたが、キレイに拭き取ったら落ち着いた。栄養入れると、痰もでやすくなり、苦しそうになる…。まだ私には、元気な父が鮮明すぎて、日々こういう姿を見ていくってことが、受け入れられてない…。何もできないとは、寝ているだけの姿を想像していたけど、こういうことか、、父をみ
どういうわけか、父の年齢が、実年齢より10歳若い57歳と書かれていた。ベッドにも。父の手首バンドにも。気がついたのは、1月20日に倒れ、そのまま開頭手術となってから、確か2~3日後のことだ。どういう経緯かわからないが、他人から見たら、50代でも違和感がないのかもしれない。背が高くて恰幅がよく、シワもまだないし、白髪も目立たない父。開頭手術する際、本人にはかなりの負担がかかる。その判断のひとつに、患者の年齢もあるのではないだろうか…。もし、57歳ではなく、67歳と理解していたら、何か違っ
何度か父が夢にでてきてくれた。意識回復して、これまでのこと、ゆっくり会話している夢。母がうるさくて困ってると、父が私に愚痴る夢。(母にこの夢の話を伝えると、微笑んだ。意識不明の父の耳元で話をすることが多いらしい。聞こえてるのね)兄の夢にもでてきたという。兄の夢には、声のみの出演。父から朝に電話がかかってきて、これから仕事か?仕事頑張れよ。って言ってくれた夢。父らしくて、涙がポロポロ。そろそろ声が聞きたい…。
今年1月20日に脳出血で倒れ、意識不明が続いている父。2月13日、気管切開手術をした。麻酔がきいているというが、見た目にはわからない。大きな管がとれ、父が少しでも楽になったと思うと嬉しい。今まで鼻からチューブを入れていた痰吸引は、気管切開したところから痰吸引する。それは、変わらず苦しいみたい。意識回復したときは、声がでなくてびっくりしちゃうよな。
3/3この日の父の表情はずっと苦しそうだったが、担当医師が病室にきて、今日は夜勤で、夜も人工呼吸器はつけずに、自発呼吸で様子みます。ずっと様子を診てくださるのは安心だけど、心配。こんなに苦しそうなのに。父が倒れて運びこまれた日から2ヶ月たつのは、3/18。この日に転院できるよう動いてるのが感じとれる…。家族にとっては父の体調でスケジュールを決めたいと思ってしまうが、そうはいかない現実。
3/6に面談したリハビリ病院に転院できることが決定した。よかった。転院日は、6日後の3/18。リハビリ病院が父を迎えにきてくれるという。車での移動。父は大丈夫か。呼吸が苦しくならないといい。