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※閲覧注意※この記事には腫瘍写真が含まれますこの記事は私が今まで選んだ治療①色彩療法私が今まで選んだ治療②コロイドヨードの続きになりますこの頃の私は腫瘍が大きくなりすぎて厚みは6cm……約人差し指1本分皮膚から腫瘍が飛び出していました腫瘍の厚みと重さが凄すぎて胸を伸ばして寝ると血管が切れて、出血しそうで……平らなベッドで寝ずにソファに傾斜をつけて寝るようになりましたこれは、普段から"後悔とかしても意味ない"と考える私も後々後悔せずにはいられませんでした
私が最初に乳がんを見つけたのは26歳の時でした偶然、胸の小さなしこりに気づいて"一応検査しておいとこ~"くらいの軽い気持ちで病院にいったらステージⅠの初期の初期直径1.5cmくらいの乳がんだと発覚しましたそれを知った瞬間いきなり死を突きつけられた感じで……もう歩くのもままならない1人で寝るのも恐い意味もなく手足は震えてもうただただ恐怖で……でもその恐怖を乗り越えられたきっかけは"自分で治そう"そう決めたことでした笑最初ただお医者さんの言われるがままに
もともと病気を知る前の私はアパレルで販売員を17歳から病気を知った26歳までずーーーっと本当に仕事人間でしたどれくらいって仕事第1で"親の死に目にも会えない覚悟で居ろ"って上司に言われてそれを覚悟として受け止めてるくらいでしたそして体調悪くても、熱があっても休まない。てか休めない。なんでって……"まだ倒れてはいないから"そんな事本気で思ってました今、思えば本当にありえないのですが笑どこかで聞いた話"癌になった人はガンばりすぎた人"これを聞いた時凄く納得
僕らが究極に欲しいもの。お金でも、ブランドでも、権力でも、地位でも、時間でも、なくて。それはね。「自分は存在しててもいい」という許可。逆に、僕らが一番恐れてるのは、貧乏でも、病気でも、事故でも、失敗でも、(怖いけどねw)ない。それは、「無視されること」ってのは、「存在を否定」「存在を許可されない」ってこと。これが死ぬほど
26歳の時に乳がんを宣告された私の状態はステージⅠの初期の初期1.5cmの腫瘍でしただから、手術したとしても"少し皮膚が凹む程度の傷しか残らない"と言われましたそれでも、その時の私には胸を切るという事が、女性として嫌でたまりませんでしたもちろん"命には変えられない"それは絶対なのですが……26歳のわたしが乳がん告知された時にも書いたように当時の私は自分が癌だということさえも受け入れ難いのに胸に傷がつく。その事は更に輪をかけてショックでしたそして、手術
私は乳がん告知されて約9年目になりますが……この闘病生活、9年の大半はいつも自分より健康な人を羨んでいたように思いますそれは、もう日常的なことでとにかく事あるごとにだし例えば、健康な人が悩んでる姿を見ては"この人は癌じゃないからいいな。悩んで辛いだろうけど私みたいに命に関わる悩みはないんだろうな。。羨ましい''みたいに、、ふと気づいたらどこかで、そんな事を考えてる自分がいつもいたように思いますそして、今の私はいつも健康な人を羨んでいたあの頃の私より歩くこともで
先日私の記事をアメバのトピックに掲載して頂いたようで沢山の方のイイねやフォローを頂きありがとうございますこれからもつたない文章ですがありのままの私を飾らずにお伝えできればと思います!こんなミミポポを今後ともどうぞよろしくお願いしますっ(↑この時の私は既にいつ出血してもおかしくなくて常に大量のガーゼを持ち歩いて…それでも大好きなスタバに行っては腫瘍を気にしながらも友達とお茶していました笑)そんな訳で……飾らずに……私の今の日々の過ごし方を書いてみようと思います笑
今、振り返ってみて私が一番しんどかった時期が2019年9月末に余命宣告を受ける前の2019年の4月頃歩けなくなり始めた頃から始まりましたこの時の事を詳しく今まで書かなかったのはあえて書かなかった訳ではなくあまりにも、その時の私はもう毎日を生きるのに大変で必死で正直、記憶もあいまいで思い出すのも少ししんどくて……でも、この時の事はこの経験が誰かの何かの参考になるかもしれないしいつか書いておきたいと思っていたのでようやく少し落ち着いた今、思い起こしながら
いい加減自分の身体に慣れたとはいえそれでも不自由には変わらないのでどうして思うように動いてくれなくてイラついてしまう時はある。手って本当に細かな作業をするものなので左手が思ったように動かせなくてイラつく事は多い…あぁ、しんどい…そんな日。俺は2度死ぬ(ぶんか社コミックス)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}StartingOver(スターティングオーバー)1Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}
この記事は33歳、少しずつ歩けなくなった余命宣告前[前編]の続きになりますこの頃私は家の中でも両杖無しには歩けなくなっていてしゃがむ事、地べたに座ることもできずついに、アルバイトにも行けなくなりましたそんなある日、冷蔵庫の上のものを取ろうとした瞬間グキッて右肩甲骨が鳴ったのが分かりましたその瞬間から激痛で右手を上げることコップやお皿さえ持ち上げられなくなりましたそして既に両杖をつかないと歩けなくなっていた私は肩甲骨を痛めた事によって杖をつけなくなり
※閲覧注意※この記事には腫瘍写真が含まれますこの記事は私が今まで選んだ治療①色彩療法私が今まで選んだ治療②コロイドヨード私が今まで選んだ治療③テラヘルツ私が今まで選んだ治療④BlackSalveの続きになりますこの頃からもう家の中を自力で移動もできなくなり部屋の段差も足が上がらないから越えられないもう誰かの介助無しには生活出来なくなってある日、訪問看護の方に来てもらうことになりましたそして私の状態を見て1度病院に行く事を勧められ……私も血がなくてフラフラ
いきなりですが……私は癒されたら韓国に住みたい笑実は24歳くらいの時に初めて韓国行ってから多分20回近くは行ったくらい韓国が好きです何が好きって韓国のセンスが好き!いちいち可愛いしスタイリッシュなお店が多い食事も好き!辛いもの好きの私としては最高ですしかもオーガニックとか無添加とか日本より断然意識が高い!こんなオシャレで身体に優しいお店がいっぱいあるここは砂糖無し乳製品なし化学調味料なしグルテンフリー卵なし他にも色々なしがあった忘れた笑と
今は前向きに乳がんの自分を受け入れて……でも乳がんは私に必要無いものだから"必ず癌は私の身体から去る!"と確信して恐怖もなく生きれている私ですが……最初乳がんを知った時の恐怖は今でも忘れられません正確に言うと恐怖が強すぎて記憶もあいまいになるぐらい。(人間、痛みが強すぎると、生きていく為にその痛みを忘れるというけど、それと似た感じ)だから今となってはその時の恐怖を実感はできないけど……どれだけ絶望して恐怖したかは覚えています最初のきっかけは胸の小さ
今まで、腫瘍や病状の変化や状況の変化を主にブログで書いてきたので……乳がん告知された26歳2012年〜2016年までの4年間の、あまり腫瘍の変化が無かった時期の事を書くことが無かったのですが実は、、身体の変化は無くても心の変化は大きくあったので今回は心の変化にスポットを当てて、思い起こし書いてみようと思います実は元々の私は…[全編]で書いたように乳がん告知される前の私はずっと10代から働いていたアパレルで仕事人間で……でも、クラブや派手な遊びは大好きで、真
普段、私はブログで自分の日常を載せたくない。というより"誰が私の日常に興味あるねーん"的な感じであまり載せてなかったのですがコメントで同じ乳がんの方から"ミミポポさんの今の日常を見せてくれたら参考になるので嬉しい"と、温かいお言葉をもらい"確かに……いつもありのままの私を。と思ってブログを書いてるからそういうのも書いてみよう!"と思い…{アリガトゴザイマス!前置き長くなりましたが……早速、今日の私の日常を書いてみようと思います!とりあえず今日の私です
2019年9月末"このままだと年は越せない"と私はお医者さんに言われましたその時の私の状況は……身体中が痛くて寝るのも苦痛痛さ、しんどさで泣き叫んで寝れない毎日座る事も痛いし自分で身体を動かせないし起こすこともできないから1度座ったらポジションを変えれずいつも痛いソファとか柔らかい所には座れない少し硬めの椅子にクッションやタオルを置いて座るだからリラックスなんて24時間1秒も無いベッドに寝ても寝返りできない腰が痛くても自分で動かせない本当に人形みたい
私がガンになって、やめたこと末期ガンになって、ようやくやめれた事がありますそれは……"完璧を求めない"ということですガンになるまでの私はいつも完璧を求めていましたそれも、無意識に!そもそも完璧って何だろう??いつも目指すところがあってそこに到達してもまた目標が出てきて追いかける車輪を転がすハムスターみたいにどこまでも、どこまでも突き進んで結局、どこまでいっても満足出来ない!そんな風になってしまう……以前の私は、そうでしたいつも、何かを目指していていつ
年に一度の人間ドック来年の6月までずっと舞台が続くのでスケジュールが空いている今のうちに身体の管理、検査を色々と婦人科健診もその1つドックの時に色々な科に周るとき持ち歩くミニバック👛PUMA色が可愛い検査は毎回怖いし不安だけど自分の身体の管理は自分でしなくちゃね大切な事です憂鬱な気分を上げる為にも可愛いバックをお供にしました
※閲覧注意※この記事には腫瘍写真が含まれます今日は1ヶ月検診で朝から病院に行ってきました!イブランス1クール目の検査結果も見て今後の治療方針も確認しました{本題に入ります…{ピ…まず、今日したのは採血(血液検査)ランマークの注射(骨を強くする為)ホルモンの注射(お尻に2ヶ所)です{チューシャイッパイ…まず採血の結果!先月から始めたイブランスこの1番の副作用が白血球の低下なんですけど…2週間目の時に少し下がったけどそれもイブランス使用した割に全然下がっていな
はじめの初め①~わたしが乳がん見つけたとき~の続き↓↓↓今その時を振り返って思うのは自分の命を他人(お医者さんとか)に任せるのを止めて良かったでも極端に医者を否定して医学的視点から見ることまでも避けてしまったのは良くなかった……と私は今まで手術も抗がん剤も受けずにやってきてそれを受けない理由もあるけれど……だからって他の人にもそれを勧める訳では無くて何が1番大事って"自分が納得できる治療"それが私は1番回復の近道だと今振り返って思います"あの時
(※閲覧注意※この記事には腫瘍写真が含まれます)こんにちはミミポポですっ今日は、1ヶ月検診の為朝から病院に行ってきましたー!今日の主な検査内容は……▫️採血▫️主治医のドクターの問診▫️ランマーク(骨を強くする皮下式注射)▫️リュープリン(お尻に2ヶ所ホルモンの筋肉注射)です今日も、こうして治療を受けれることに感謝して……ペットのタレの動画も観ながら……笑痛い注射も何とか乗り切れました!!✨特に私はお尻の筋肉注射が苦手でしかも、量も多く液が重いらしくていつも
このブログを始めてはや1ヶ月とちょっと私がブログを始めるにあたって変わらない想いがあります以前も少し書いた事が、ありますが……同じように闘病中の方が見ても"恐くないブログ"を書きたい。まだ私は腫瘍もあるし中には恐がらせてしまう事もあるかと思います{ゴメンナサイでもこれだけは、したくないのは……誰かの希望を奪うような絶望を与えるような……そんなブログにはしたくない!と思ってます……というのも、私が乳がん告知された当初26歳という歳で、周りに同じような
この記事は33歳、少しずつ歩けなくなった余命宣告前[前編]33歳、少しずつ歩けなくなった余命宣告前[中編]の続きになります時間と共に良くなると思っていた腰。これが中々思うように良くならず…それに伴って、いきなり介助が24時間必要になり家族も大慌て。髪の毛は洗えないまま10日の時が過ぎましたもう、身体も、精神的にも限界だった頃訪問看護の方達に来てもらう事になりました初めて訪問看護の方に来てもらった時……その時の私はしんどすぎて腰だけじゃなく足なんか左太
ヘモって何?って…痔の事です笑(以下、一応女性として痔の事を医学用語のヘモと記します↓↓↓)正直この話するのはこんな事ブログで話してどうかと結構私の中では勇気のいる事だったのですが……まぁ、これが実際最近の私の最大の悩みであり…ありのままの私なのでさらけ出してみようと思います笑笑但し、抵抗のある方はこれ以上読まないようお願いします!{ゴメンナサイそもそもヘモになる原因って便秘の方が多いみたいなのですが私の場合、全く真逆で腸の働きが良すぎて……
ブログでもたまに紹介する私のグローバルな家族何かハーフでも無いしでも、どう見ても外人が居る笑笑{アソコニイル不思議な家族構成だと思われた方も少なくないはず実はここに至るまでちょっとばかし複雑な家庭環境だった方かもしれません私が3歳の時に母は私の実の父親と離婚し私が6歳になる前に再婚しましたその人は私の育ての父親となり私が16歳の時母と育ての父親が別居するまでずっと一緒に暮らして来ました私は育ての父親にいつも気を使っていて父が家にいる時いつも窮屈で
何かはまだ言えないけど新しい取り組みをしています。女優なのだから、Instagramにグラビアを避けてくれと言われて少し控えています。が、やはり上げたい。もはや趣味なんだろうな…生き甲斐と言うか…小さい頃のリカちゃん人形と一緒。。それを自分の身体でやってる。そんな感じの月曜日でした❤️
※閲覧注意※この記事には腫瘍の写真が含まれますこの記事は私が今まで選んだ治療①色彩療法私が今まで選んだ治療②コロイドヨード私が今まで選んだ治療③テラヘルツの続きになりますこの頃辺りから今までで1番しんどい時期になりますテラヘルツ治療で腫瘍は小さくはなったものの……毎日大出血で常に貧血で息するのもしんどいもう1人では歩けなくて誰かに支えられないと歩けないすぐ近くのトイレに行くのも激痛で両杖ついて泣き叫びながら10分くらいかけて行くもう座っても寝ても激痛でも
私の腫瘍が皮膚から飛び出して来たのが2016年30歳ぐらいの時今思うと自分でもビックリなんですが…というか"バカだったな~"てつくづく思うのですが……最初皮膚から腫瘍が出てきたのを"あ、外に腫瘍が出たのは中で広がらずに身体の外に出してくれてるんだ"そう思いましたその後すぐに、これは悪化だと気づいたのですが本当にこの時の私は身体を見る方向が偏っていたように思いますだから今はその失敗を反省して偏った見方に捕らわれないようにと思っていますそして、腫瘍が飛び出
"私に病気はふさわしくない"この言葉とても好きな言葉です病気になって私が一番心がしんどかった時は"癌を恐れてる時"でしたなんか、、私自身が癌に支配されてる感じ。例えば、私が身体がしんどすぎて自分で自分をコントロール出来なかった時この時も本当に、恐かったし辛かったなんか、これと似ていて癌を恐れて癌に支配されてしまうとちょっとした事で不安になったり恐怖で絶望してしまったりするまだ、私は生きてるのに。死んだ訳でもないのに。癌の恐ろしい所でもあり希望でもある
※閲覧注意※この記事には腫瘍の写真が含まれますこの記事は前回の私が今まで選んだ治療①色彩療法の記事の続きになりますちょうどこの頃の私の状態は出血も激しくなって外で大量出血したら命が危ないのですが……それでも大量のガーゼを持ち歩いてなるべく車移動とかで動いてましたこの時ぐらいからケトジェニックの食事療法をしていたので外食はままならないのですが……それでもこんな風にカフェに行って私はお茶だけ飲んだりしてました笑そして色彩療法にも限界を感じてた頃知った