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下関市彦島弟子待町には、明治時代に設置された【彦島水雷衛所】の遺構が残っています。地図で場所を示します。関門海峡は重要な防御地区として、明治20年以降、陸軍の下関要塞の砲台が数多く構築されましたが、海軍においては日露戦争(明治37-38年,1904-05年)の開戦前から、彦島と壇之浦の2か所に水雷衛所を設置していました。地図を見ると、関門海峡への敵艦の侵入を阻止すべく北側と南側に置かれているのが分かりますね。なお檀之浦水雷衛所の場所については史料に基づき地図に記載しましたが、周辺は
今日は陸軍元帥で総理大臣も務めた寺内正毅(てらうちまさたけ)の誕生地を訪問します。まずは山口市の遺跡地図で場所を確認します。山口市平井の県道から脇道に入ると案内板が見えてきます。案内板から細い道を200mほど進むと到着です。以前は草むらだったと記憶していますが、舗装されて綺麗になっています。「元帥伯爵寺内正毅君誕生地」です。説明書きです。では寺内正毅さんについてもう少し詳しく書いていきます。嘉永5年(1852年)、長州藩士宇多田正輔の三男として旧平井村(の
徳山湾の南側入口に岩島と言う小さな島が浮かんでいますが、この島には湾内の監視を目的とした海軍の見張所が置かれていました。地図で場所を確認します。太華山(たいかざん)から見た岩島です。この見張所は前回紹介した徳山要港に関わる施設となりますので、繰り返しになりますが簡単に概略を書いていきます。************************************海軍の燃料基地だった徳山港は、昭和13年(1938)4月1日に要港指定を受けて軍港に次ぐ重要な港として位置付けら
秋吉台は美祢市中・東部に広がる日本最大級のカルスト台地です。現在は国定公園となっていますが、明治時代から大東亜戦争終戦の昭和20年8月まで、旧日本陸軍が戦闘訓練の演習場として利用していました。ではまずは歴史から。陸軍が秋吉台上を使用し始めたのは明治18年(1885年)と言われています。最初に広島野戦砲兵隊が、明治22年(1889年)には下関要塞砲兵連隊が実弾射撃場として使用し、明治32年(1899年)ごろから山口歩兵第42連隊が戦闘訓練の演習を開始しました。明治42年(1909年)
下関市みもすそ川町の火の山山頂には「火の山公園」がありますが、園内に【戦艦大和の砲弾】が置かれています。火の山公園の場所には、明治期に築城された下関要塞火の山砲台がありました。戦後、この遺構の一部を保存しつつ公園として整備されましたが、砲台については既にブログでレポートしましたので、詳しくはそちらをご覧ください。『下関要塞探訪①~火ノ山砲台第四砲台(前編)』◆起工:明治22年(1889年)1月4日◆竣工:明治24年(1891年)2月28日◆除籍までの経過:・大正8年(1919年
これまで宇部市、山口市南部を紹介してきましたが、今日から美祢市の遺構を見ていきます。美祢市の遺構地図を掲載します。今回紹介するのは「大嶺炭田(海軍煉炭製造所採炭部)」ですので、山口県全域の地図で場所を確認します。では簡単に概略を書いていきます。大嶺炭田は、現在の美祢市西部の大嶺町から豊田前町に至る東西10㎞、南北12㎞に及ぶ広大な炭田で、明治10年(1877年)ごろに発見されたと言われています。(諸説あり)大嶺炭田で採掘される石炭は燃焼時に煙や臭いがほとんど出ない炭化が
今日は上関町(かみのせきちょう)の白井田(しらいだ)集落に立つ回天特別攻撃隊員和田稔記念碑を訪れます。場所はこちら。和田稔(みのる)さんは福岡県の小倉出身。東京帝国大学(現在の東京大学)に進学しましたが、学徒出陣により徴兵され、昭和18年(1943)12月に大竹海兵団に入団。翌昭和19年(1944)には武山海兵団→航海学校→川棚魚雷艇訓練所を経て、同年11月に回天特攻隊員として光回天基地に赴任しました。少尉に任官されたのち、昭和20年(1945)5月28日、轟隊の一員として出撃し
昨日紹介した防府北基地の南側に航空自衛隊防府南基地が置かれていますが、この基地の前身は防府海軍通信学校でした。戦後米軍が撮影した空中写真で見るとこのような配置となっています。(国土地理院地図・空中写真閲覧サービスUSA-M122-23を加工して掲載)なお、施設の名称については「甲飛防通会名簿」を参考にしています。それでは簡単に説明していきます。=============================昭和5年(1930年)、無線通信術を教育する海軍通信学校が横須賀
大田陸軍演習場の記事は2021年7月に書きましたが、その後何度も秋吉台を歩いていますので、新しく見つけた標柱などを追記していきます。過去記事はこちら[概略][廠舎][標柱][給水施設跡][忠魂碑][殉職碑][反対記念]演習場地図です。*****************************************境界内南東側の五郎山で2本の標柱を見つけました。まずは1本目です。向かって右側面に「二十五ノ一補植」とあります。左側には「赤、青色界」。
防府市田島には航空自衛隊防府北基地が置かれていますが、この基地の前身は陸軍の防府飛行場でした。まずは防府飛行場と駐屯した部隊について説明します。==============================大東亜戦争開戦翌年の昭和17年(1942年)、陸軍は防府市南西部の中関地区に航空隊の飛行場を建設することを決定しました。土地の買収を行い、昭和18年(1943年)9月より工事が始まりましたが、地区民を始め中学生が動員され、突貫工事にて昭和19年(1944年)5月に完成しました。飛
前回に続き寺内元帥関連の遺構を紹介します。まずは「桜圃寺内文庫」(おうほてらうちぶんこ)ですが、本ブログで取り上げている所謂「戦争遺跡」ではないので、サクッと紹介するだけにとどめます。桜圃寺内文庫は寺内家の私設図書館です。寺内正毅さんが設立の構想を練りましたが大正8年(1919年)に病死したため、息子の寿一さんがその遺志を引き継ぎ、大正10年(1921年)11月に完成させました。なお名称の「桜圃」ですが、前回も説明した通り正毅さんが持っていた書道の雅号で、旧宅のあった宮野村桜
◆蓋井島リンク:[概略][第一砲台下段][第一砲台上段砲座][第一砲台上段観測所][第一砲台補助観測所][第一砲台関連施設][第二砲台][第二砲台/関連施設][247mピーク施設/大隊本部][電燈所][第二電燈所][繋船場][洞窟砲台][偽装砲台][白瀬防備衛所][賢女鼻防備衛所]=========================================昭和8年(1933)の「要塞再整理修正計画」にて朝鮮海峡要塞系に編入された下関要塞は、昭和10年(1935)3月に蓋井島砲台
今日は戦前・戦中の関釜連絡船で、戦後は引揚げ船として活躍した興安丸(こうあんまる)を紹介します。(仙崎の海外引き揚げ上陸跡地の説明看板より)関釜航路は下関と朝鮮半島南端の釜山を結ぶ航路です。山陽鉄道傘下の山陽汽船が明治38年(1905年)9月に運航を開始しましたが、翌年には鉄道国有法によって山陽鉄道が国有化されたため、関釜航路も国有に移管されました。ちなみに山陽鉄道は明治21年に設立された神戸に本社を置く鉄道会社で、同社が建設した神戸~下関間の路線は、現在JR西日本が管轄する山
下関市彦島弟子待町には、明治時代に設置された「彦島水雷衛所」の遺構が残っています。地図で場所を示します。関門海峡は重要な防御地区として、明治20年以降、陸軍の下関要塞の砲台が数多く構築されましたが、海軍においては、日露戦争(明治37-38年,1904-05年)開戦前に、彦島と壇之浦の2か所に水雷衛所が設置されました。なお、「檀浦水雷衛所」の設置場所については当時の資料から推定して地図に記載しましたが、遺構は残っていないようですので詳細は不明です。「水雷」は火薬を詰めた球形
室津海岸シリーズ(?)第3弾ですw甲山(こうやま)は海岸を見下ろす絶好の場所に聳える標高117mの山で登山道も整備されていますが、山頂には土塁を配した円形窪地が残っています。★マークがその場所になります。これが円形窪地です。サイズ的には直径10mくらいある感じです。土塁が設けられており盛り上がっているのが分かります。なお土塁には1ヵ所切れ目がありますが、内部への出入口ではないかと思われます。やや上方から見下ろしています。見難いかもしれませんが、内部はすり鉢状に窪んでいます
蓋井島(ふたおいじま)は下関市吉母(よしも)の沖合約6kmの響灘に浮かぶ島です。周囲約10kmで、35世帯81人が暮らしています。(令和5年4月1日現在)島中部の金比羅山(標高148m)から南東部の乞月山(こいづきやま)を眺めています。島に渡るには市営渡船を利用します。本土側の吉見港から1日2~3便が往復しており、乗船時間は約40分です。季節や曜日によってダイヤは異なりますが、4~9月の土日祝日なら最大6時間半ほど島に滞在できます。なお吉見港には船着き場の前に有料駐車場(1日400
◆起工:明治20年(1887年)9月28日◆竣工:明治21年(1888年)12月28日◆備砲:加式鋼製二八口径二十七糎加農砲4門→明治29年(1896年)9月備砲完了→大正8年(1919年)十二糎速射加農砲に改む→大正12年(1923年)二十七糎加農砲に復す◆設置標高:16.85m◆廃止:昭和8年(1933年)・廃止決定→昭和10年(1935年)3月13日・全部除籍◆参考リンク:「下関要塞の概略(明治期)」はこちら→→→1か月半に亘ってレポートしてきた対馬要塞が終わ
海軍燃料廠の前身となる煉炭製造所が徳山の地に開設されたのは明治38年(1905)でした。これ以降海軍の燃料基地として大いに貢献しましたが、昭和20年(1945)8月の敗戦で閉鎖となり、40年の歴史に終止符が打たれました。煉炭製造所の開設から燃料廠への改組(明治38年~大正10年)までの概略は以下の記事をご覧下さい。『山口県の戦争遺跡52~大嶺炭田(海軍練炭製造所採炭部)(美祢市)【概略】』これまで宇部市、山口市南部を紹介してきましたが、今日から美祢市の遺構を見ていきます。美祢市の遺構地
1か月半ぶりの広島湾要塞です。今日から4回に亘って取り上げるのは、能美島北西端に置かれた岸根鼻砲台と鶴原山堡塁となりますが、訪問したのは今年1月初めでした。できればもっと早く行きたかったのですが、砲台に通ずる唯一の道が土砂崩れで通行止めに。復旧工事が昨年12月下旬にようやく終わりましたので、まさに満を持しての探索となりました。それでは概略から説明していきます。ロシアとの戦争が迫る明治30年代半ば、広島湾要塞では湾内や呉軍港への敵艦侵入を防ぐため、那沙美、大野、早瀬、音戸の4つの瀬戸
蓋井島には2つの防備衛所が置かれていた。前回は西側の白瀬防備衛所をレポートしたが、今回は東側の賢女鼻防備衛所を詳しく取り上げる。「賢女鼻」は九七式水中聴音機5基と九ニ式管制機雷3個群連を配備した防備衛所(甲)として、海上見張および対潜哨戒と撃退を任務とした。詳細は以前のレポートで述べたので省略する。===================【以前のレポート】『下関海軍防備隊探訪㉑~蓋井島の防備衛所』蓋井島に置かれた下関海軍防備隊所属の2つの防備衛所を紹介する。==========
下関市彦島にある老の山公園は明治期に築城された砲台跡地に作られています。砲台は昭和12年(1937年)の要塞再整理にて廃止となりましたが、その後大東亜戦争(昭和16‐20年)が勃発すると、陸軍の高射砲や電波標定機と言った米軍の空襲に対する防空施設がこの場所に設置されました。明治期の砲台についてはこちら。『下関要塞探訪104~老ノ山砲台-書換-』老ノ山砲台の跡地は公園となっており時間調整の休憩などでよく利用しますが、先日園内を散策していたら昭和期の高射砲の砲床と思われる遺構を見つけまし
海軍燃料廠の前身である海軍煉炭製造所の徳山への誘致に際して設けられた取水口を紹介します。煉炭製造所のち燃料廠の概略は昨日の記事にて。『山口県の戦争遺跡139~徳山海軍燃料廠(周南市)』海軍燃料廠の前身となる煉炭製造所が徳山の地に開設されたのは明治38年(1905)でした。これ以降海軍の燃料基地として大いに貢献しましたが、昭和20年(1945…ameblo.jp海軍燃料基地となった徳山の発展はこちらの記事にて。『山口県の戦争遺跡136~徳山要港(周南市~下松市)』今日は、戦前の昭和
今日は戦争末期に旧美祢郡赤郷村(現在の美祢市美東町)に設けられた海軍の飛行場跡地を訪れます。昭和20年6月、沖縄失陥により本土決戦が現実味を帯びてきた中、海軍は航空特攻兵力温存のため全国各地に飛行場を建設して分散秘匿に努めることにしました。主要な飛行場は空襲に晒されて被害を受けていましたので、新たに作る飛行場は、敵の目につかないように山間部に設けたり、耕作地に偽装するなどの工夫が施されました。これら「秘密航空基地」は秘匿名称として「牧場」と名付けられ、近隣住民が老若男女問わず駆り出さ
山口市上宇野令に陸上自衛隊山口駐屯地(第17普通科連隊基幹)がありますが、元々この場所は大日本帝国陸軍歩兵第42連隊の屯営地でした。大正6年(1917年)の歩兵第42連隊兵営全景です。(山口歩兵第四十二聯隊史より)**************************************では連隊の歴史を簡単に紹介します。明治29年(1896年)12月1日歩兵42連隊、広島で創設(本部、第1大隊編成)明治30年(1897年)8月8日広島仮兵舎から山口の兵営に行軍移
今日から大嶺炭田の遺構を紹介していきます。なお炭鉱の概略については前回の記事をご覧ください。美祢市大嶺町の麦川地区に置かれている海軍マーク入りキーストンを紹介します。美祢市街地から西に国道435号線→県道38号線を車で走ると、道沿い右手側にM字型のモニュメントが見えてきます。隣に駐在所と郵便局が並んでいますので分かりやすいかと思います。正面から。中央に付いているのが海軍マーク入りキーストンです。キーストン(キーストーン)とは、石やレンガでアーチ型に組み立てた場合のアーチの
光海軍工廠は光市の光井・島田地区に建設された国内7番目の海軍工廠で、大東亜戦争開戦前年の昭和15年(1940年)10月1日に開庁しました。海軍の兵器工場として、砲煩、水雷、製鋼、爆弾、造機、航空機用魚雷の生産が戦時中においても着実に行われていきましたが、終戦前日の昭和20年(1945)8月14日、米軍の空襲によって施設の7割が壊滅し、700人以上が犠牲となりました。場所を地図で示します。茶臼山から見た光海軍工廠跡地です。戦後跡地には日鉄ステンレスや武田薬品などの工場が建設されました
下関市菊川町の【松崎少佐散華の地】をレポートします。まずは下関市中部の地図を掲載します。松崎真一少佐は福岡県前原市出身で、旧制糸島中学校を出たあと陸軍士官学校を卒業。飛行隊に所属し、1945年(昭和20年)7月下旬に陸軍小月飛行場(現在の海上自衛隊小月基地)に駐屯しました。(飛行第4戦隊配属と思われます)昭和20年7月28日、米軍機を迎撃すべく四式戦闘機「疾風」で飛び立ちましたが撃墜され、24歳で戦死しました。小月飛行場に駐屯した陸軍飛行第4戦隊については以下の記事を参考にし
大東亜戦争末期の昭和20年(1945)、米軍による日本本土への空襲が本格化しましたが、徳山は2度の大規模な空襲を受けました。最初の空襲は昭和20年5月10日で、第三海軍燃料廠と大浦油槽所が狙われました。午前9時50分、B29約110機による燃料廠への爆撃が開始され、その15分後にはB29約80機が大浦油槽所を襲いました。空襲は午前10時50分に終わりましたが、投下された3,500発以上の爆弾(燃料廠に2,017発、大浦油槽所に1,533発)により、設備の大半は破壊されて事実上壊滅、5
賢女鼻防備衛所には増改築したと思われる箇所が存在するので本項で考察する。『引渡目録』の配備図には、衛所の左斜め前方と右横に2つの区画が描かれている。(色付けした部分)平面図でも示す。衛所左斜め前方の(A)には石積みを施した掩体が残っている。対して衛所右横の(B)は平坦地で谷側に石垣が積まれているが、建物基礎などの遺構は確認できない。ただ、衛所の窓を出入口に改築して(B)に繋げた痕跡が見られる。***********************************まずは(
今日は筋山砲台の隣に位置していた田ノ首砲台の記事を書き直します。*************************関門海峡(下関海峡)は周防灘方面の北東部と響灘方面の西南部に出入口を持っています。明治期の下関要塞は敵艦の海峡侵入を阻止することが主任務でしたが、海峡がカーブする西南部出入口の大瀬戸(大迫門)には、北側の下関市彦島と南側の北九州市小倉北区/門司区に4つの砲台が設けられました。田ノ首砲台:明治21年12月28日竣工加式鋼製二十八口径二十七糎加農4門筋山砲台:明治