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関西の国宝建造物一覧へ関西の国宝彫刻(仏像)一覧へ目次へ国宝北野天満宮本殿、石の間、拝殿及び楽の間桃山時代1607年本殿桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、右側面三間庇付、檜皮葺石の間桁行三間、梁間一間、一重、両下造、檜皮葺拝殿桁行七間、梁間三間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝七間、軒唐破風付、檜皮葺楽の間東西各桁行正面二間、背面三間、梁間二間、一重、一端入母屋造、他端拝殿に接続、檜皮葺慶長12年(1607年)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として
国宝平等院鳳凰堂中堂、両翼廊、尾廊びょうどういんほうおうどうちゅうどう、りょうよくろう、びろう平安中期1053年中堂、両翼廊、尾廊より成る桁行三間、梁間二間、一重もこし付、入母屋造、本瓦葺鳳凰堂(ほうおうどう)は、天喜元年(1053年)に建立された阿弥陀堂であり、国宝である。「鳳凰堂」の呼称は後世のもので、平安時代の記録では固有の名称ではない「阿弥陀堂」あるいは「御堂」となっている。堂内須弥壇の格狭間に嵌め込まれた金銅板の延宝8年(1680年)の刻銘に「平等院鳳凰堂」と
国宝都久夫須麻神社本殿(つくぶすまじんじゃほんでん)桃山時代1602(身舎)、1567(向拝及び庇)桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、前後軒唐破風造付、周囲庇及び正面向拝一間付、総檜皮葺伏見城または豊国廟から移築したという伝承のある、装飾性の豊かな桃山建築であるが、建物中心部の身舎(もや)と周辺部の庇とは本来別個の建物であり、建立年代の異なる2つの建物を合体して1棟としたものである。本殿は永禄元年(1558年)に火災で焼失し、永禄10年(1567年)に再建されているが、これが現
国宝慈照寺東求堂(じしょうじとうぐどう)室町後期1486年桁行6.9m、梁間6.9m、一重、入母屋造、檜皮葺東求堂(とうぐどう)は一重入母屋造、檜皮葺で、文明18年(1486年)の建立である。軒は疎垂木、組物は舟肘木を用いる。義政の持仏堂として建立されたものであるが、様式的には住宅建築の要素が強い。平面は正方形で、東西南北の各面とも6.9メートル、三間半四方の規模である(ここで言う「間」は畳の長辺の長さ)。南を正面とし、内部は4室に分かれる。正面側は西(向かって左)を8畳大の仏
国宝広隆寺桂宮院本堂(こうりゅうじけいきゅいんほんどう)鎌倉前期八角円堂、一重、檜皮葺境内の西側、塀で囲まれた一画にある。聖徳太子像を祀る堂で、法隆寺夢殿と同じ八角円堂であるが、建築様式的には純和様で檜皮葺きの軽快な堂である。正確な建造年は不明であるが、建長3年(1251年)、中観上人澄禅による当堂建立のための勧進帳があることから、おおむねその頃の建立と推定される。堂内の八角形の厨子も堂と同時代のもので、国宝の附(つけたり)として指定されている。本尊の聖徳太子半跏像(鎌倉時代、重要文