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最初に向かったのは中津城です。黒田家の居城から江戸時代は奥平家へ甲冑が展示されています。奥平家の馬印江戸時代は、奥平家へ鳥居強右衛門の旗印徳川家康像奥平家に関する資料長篠の戦いの図残念ながら、複製ばかりでした。天守閣からの眺め手前には川が見えます。ご覧になった方は1票の投票をおねがいします。下の3つのうちいずれかに読んだよのクリックご協力よろしくおねがいします。クリックすると画面がきりかわり、順位があらわれます。にほんブログ村にほんブログ村にほん
湯婆婆さんが仕事に励んでます。(空に飛び交う契約書)長篠の戦いを見た翌日。ジブリパークへ。シンデレラ城ではありません。大倉庫はけっこう遠い。長い行列で待ってからようやく入ります。まず哲学研究会部屋があります。「コクリコ坂から」のカルチェラタンの一角。企画展示室を覗いてみよう。「食べる」がテーマ。ここは写真🆖確かね。「千と千尋」でお父さんとお母さんが食べ過ぎるカウンターとか。「魔女の宅急便」で運ぶニシンとカボチャの包み焼きとか。それからと。「天空の城ラピュタ」飛行
「強右衛門磔の図」徳川家康ファンの方や名古屋辺りにお住まいの方に人気とのこと。他地域の方は昨年の大河ドラマを思い出してね。設楽原歴史資料館から、なかなか来ない電車で長篠城駅に到着。では歩きましょう。駅を出てすぐ。まだ本丸から遠い場所に搦手門跡がある。やはり本格的な城であったようだ。徒歩8分で長篠城趾史跡保存館に着いた。長篠城を取るかどうかが戦いの鍵となった。武田軍にとってはここを織田軍に取られると背後を絶たれる。だから設楽原の戦いの前に1万5千の兵で500人が守る長篠城を
火縄銃がズラリと並んでます。磔磔でキョンキョンを観た翌日。京都駅から乗り継いで、JR飯田線で三河東郷駅で降りる。(なかなかのどかなローカル線です)駅前に設楽原決戦場案内図がある。(駅員さんは居ない。電車はワンマン電車)まず設楽原歴史資料館へ向かう。てくてく。途中で「首洗池」の看板を見る。「長篠の戦いの時、この池で戦死者の首を洗ったという」そう記されている。「血洗池」とも呼ばれた。(ちなみに。石川県にも源平の古戦場、倶利伽羅峠の戦いの際、斎藤実盛の首を洗った首洗池がある
昨日2024年3月30日。かねてより訪問したかった場所、いや訪問できそうもないと思っていた場所に出かけて来ました!出かけて来たのは、愛知県新城市。長篠・設楽原の戦いがあった場所♪関連史跡を歩いて巡って来ました!まずは、長篠の戦い、長篠城跡から、と言いつつ、「中央構造線長篠露頭」から笑日本列島の中央(関東から九州まで)を東西に走る断層である「中央構造線」の地層が露出している場所です!写真右手の黒い地層と、その上の地層とが分かれている様子がよく分かって、なかなか
山県昌景は武田信玄・勝頼に仕えた重臣で、武田四天王の一人に数えられた武将だったが、長篠の戦いにおいて家康の陣地に突撃して戦死した。墓は家康本陣の東にあり、昌景の胴を埋めた場所だとされ、昌景以外に3人の墓が並んでいる。
馬場信房は武田信虎・信玄・勝頼に仕え、武田四天王の一人にも数えられた重臣だが、長篠の戦いで退却する勝頼を守って討ち死にした。墓は長篠城の西(新城市長篠西野々)にあり、首を埋めた場所だとされる。
廣澤山・天恩寺・・・岡崎市片寄町山下33貞治元年(1362)足利尊氏の遺言で足利義満が建立したと伝わる、臨済宗の寺院。昨年から家康所縁のお寺や神社を訪問することが多くなりましたが、ここもその1つ、家康が生涯において強運だったことの例えとして語られる場所です。参道の石段を上がるところに、水掛け不動明王が・・総門が見えてきました。門をくぐったところには、石仏がたくさん。「見返りの大杉」・・樹齢は約450年。家康が長篠の戦いに向かう途中、ここで一泊した翌日にこの杉の下
考える主体的に学ぶ自学自習ができるこういうことができる子の基本はまず気づくこと気づけることですもう40年ぐらい前でしょうか当時筑波大学附属小学校の先生だった有田和正先生が長篠の戦いの絵を見て気づいたことをできるだけたくさん書き出しなさい!と言われて授業されていましたその影響を受けて当時30才ぐらいだったぼくもクラスの子にさせましたどんなに小さなことでもいいどんなにくだらないと思うことでもいいという指示を出して取り組ませましたほんとに50以上も出してくる
本日9時30分、合戦イベント「長篠の戦い」が終戦しました。結果は、織田・徳川軍の勝利となりました!勝利した織田・徳川軍のみなさま、おめでとうございます。そして、「長篠の戦い」に参加頂いたすべてのみなさま、誠にお疲れ様でしたm(__)m今回は久々のフルサイズの合戦イベントということで、色々なものが長かったです。開戦後、混戦模様から明けるまでもいつもより時間がかかり、明けた時には織田・徳川軍が約9万軍功勝っていました。早朝から午前は織田・徳川軍が押し、一進一退を経て日付が変
皆様、お疲れさまでした🙇♂️長篠の戦い終了しました☝️最初は武田軍に押されていましたが、総攻撃してからはギリギリ押し込んでいたように見え、最後乱戦で逆転されないか、ドキドキ💓の展開でした☝️今回も織田・徳川連合軍に参戦の皆さまに感謝です😆
竜王駅前にありました。武田信玄の四天王・二十四将のひとりで、長篠の戦いで戦死した山県昌景の子孫です。江戸時代の学者で、竜王駅近くで生まれ甲府勤番与力から江戸にでて大岡越前の親戚である大岡忠利に使えた後、江戸で塾を開きましたが、謀反の疑いで幕府によって処刑されました。著書【柳子新論】は「士農工商は階級ではなく職務上の分担」と人間尊重や尊王攘夷を記していたので、吉田松陰など幕末の志士に好まれ、死の120年後の明治24年に正四位が送られました。
2月9日のブログで、「グルメモニターリニューアル」のための準備段階として、現在のグルメモニターが長期メンテナンスに入ることを告知しました。その際に、2月16日から1ヶ月間“程度”と書いたんですが、今日は3月22日。もうさすがに“程度”で許される日数を超えてきているので、先に謝罪させて下さい。リニューアルのための開発が遅れておりまして、メンテナンス期間を延長します。現時点で明確な日程が言えないことから、“当面”という表現へと変えさせて頂きます。年度内予定だったリニューアル自体も、年度を
長篠城(野牛郭)跡今日は、昼の長さ軍と夜の長さ軍の時間がほぼ拮抗する「春分の日」。アプリの中でも、織田・徳川軍と武田軍の勢力がほぼ拮抗して非常に熱い戦いが繰り広げられています。そんな中、例によって今回も合戦にまつわる「よくある質問」をまとめましたので、初陣の方はもちろん、歴戦の兵の方々もぜひご一読頂ければと思います。損はしません。Q.総攻撃“2回ずつ”は何の回数?A.「長篠の戦い」では、総攻撃は“両軍ともに2回ずつ”と以前告知しています。これは軍単位で数えた
〖石川県能登地方での地震による被害を受けられた皆様へ心よりお見舞い申し上げます。〗義援金受付窓口↑ニセサイトではありません💦石川県のホームページのリンクを貼ってあります。力になりたいと思われたら訪問してみて下さい!みんなで助け合いましょう‼️⚫そろそろまた頑張ってみようかと、復活。⚫愛用です😉店頭よりかなり安く買える魅力🐸【第2類医薬品】フェイタスZαジクサス21枚Amazon(アマゾン)ドラゴンボールZ[お菓子チョコレート]仙豆チョコポット/バレンタインAm
今日から始まりました、長篠の戦いです☝️今回は信長軍に所属しました☝️羽柴秀吉軍に配属されました☝️
本日17時30分、いよいよ2024年最初の合戦イベント「長篠の戦い」が開戦しました!!と、過去形で書いてみたものの18時更新のこのブログ、今日は15時頃に書いてるので実際には今はまだ開戦してません。果たしてどんな緒戦が繰り広げられているのか、楽しみでなりません。今回の合戦イベントでは、クエストイベントも実施します。同じく17時30分よりスタートしています。クエストイベントとは本来、家臣団コレクション内の“クエスト達成に必要な武将”が古戦場跡で一気に発見できるものです。さ
来週の「長篠の戦い」を前にして、今週は結果的に3回の更新すべてが合戦関連という告知ウィークとなりました。本日は総攻撃と大手柄武将のお知らせです!まず、総攻撃については両軍ともに2回ずつを予定しています。ご自身の部隊がいつ総攻撃に入るのか、常に総大将・部隊長の発言を注視しておいて下さい。次に大手柄武将について。「長篠の戦い」の大手柄武将は以下の通り、織田・徳川軍、武田軍ともに7名ずつとなります!!織田・徳川軍の大手柄武将織田信雄水野信元河尻秀隆佐々成政前田利家
合戦イベント「長篠の戦い」がいよいよ1週間後に迫って参りました!みなさんそろそろ具足をタンスから引っ張り出して臨戦態勢でお願いします。今日は合戦の論功行賞と最低必要軍功の予告です!全参戦者参戦者全員に、築城の限定建物「落合左平次道次背旗」を贈呈!勝利軍勝利軍全員、家臣団コレクションで「亀姫」の登用が可能に!軍功第一の部隊両軍通して軍功第一の部隊全員に、「10,000貫」を贈呈!軍功ランキング両軍軍功上位1~50位までの方へ、
先月末陣触れが発せられた合戦イベント「長篠の戦い」について、両軍の部隊長の着陣が完了しましたので、本日はその発表などをさせてもらいます!さっそく見てみましょう!!以上のようなラインナップとなっております!織田・徳川軍についに三英傑が一堂に会しました!と書こうと思ったら、もう既に姉川の戦いでそれは実現してました。今回の合戦でも歴戦の面々が勢揃いしています。徳川勢としては、家康の他にその嫡子・松平信康が初登場しました。武田軍は、勝頼が初の総大将となり、穴山信君・武田信豊の
長篠古戦場跡(愛知県新城市)先日、アプリでは合戦イベント「長篠の戦い」の陣触れが発せられました。他方、現実世界では一足早く花粉との戦いが開戦しました(T∇T)そういえば5年前の公式ツアーで長篠古戦場周辺をめぐった時も、花粉で意識朦朧としてた記憶が蘇ってきました。歴史って繰り返すんですね。合戦イベントに話を戻しましょう。本日は各種日程の発表です。「長篠の戦い」は、以下のようなスケジュールを予定しております!【開戦日時】2024年03月13日(水)17:30
決戦か撤退か―。甲論乙駁の議論の末、武田勝頼が出した答えは織田・徳川との決戦であった。いまだ抵抗を続ける長篠城に抑えの兵を置いた勝頼は、残りの全軍を率いて設楽原へと転進した。対する信長・家康は、武田に恐れをなしたかそれとも弱敵を装い誘い込む戦略か、馬防柵の内に籠もったまま動く気配はない。戦端を開いたのは武田軍の一番手・山県昌景隊。押太鼓を打ち鳴らしながら徳川軍に襲い掛かり、瞬く間に戦場は馬蹄の響きと火縄銃の銃声に包まれた。主力と主力が激突する一大決戦!信玄以来の宿敵同士がついに雌
日本の歴史の中でも特に重要で、歴史の転換点の一つとして数えられる戦いがあります。時は戦国、1573年。『甲斐の虎』と怖れられた猛将、武田信玄が上洛の道半ばで病に斃れました。信玄の遺言によってその死は3年間秘されることになりましたが、織田・徳川の情報ネットワークはそれを見逃しませんでした。織田信長と徳川家康はこれまで武田に対して劣勢でしたが、一転して攻勢に出ます。その結果、信長と家康は失地回復に成功。しかし、武田との領土境界では緊張が続きました。遺言の期限が明けた1575
今回は愛知県新城市の長篠城のお話。上の画像中央部の川に挟まれた台地の先端部分が長篠城です。中学の時に習った長篠の戦いは強く印象に残っていましてこれを契機に織田信長という武将が脳裏に焼き付いてしまいました。長篠城は宇連川と豊川を天然の堀にした東三河の入り口に位置する正に要衝という名が相応しい砦です。思いの外、城はその痕跡を留めています。上の画像は見取図の「堀1」の部分。武田方から徳川に寝返った奥平貞正は500の兵力で15,000の武田勝頼の攻撃から城
こんばんはKelly0121です。今回は去年12月18日に、織田信長と繋がった時にお聞きした『天下を取る秘訣』を載せようと思います。「天下を取る秘訣を教えてください」とお聞きしたら、5つ返ってきました。①常に孤独であり続けること②日々鍛錬に勤しむこと③辛い経験を教訓にすること④ほんの少しの可能性をも信じ、諦めないこと⑤誰にも負けない強い心を持ち続けること以上です「常に孤独でしたか?」とお聞きすると、「そうだ」と、とても悲しそうでした。織田信長についてウィ
テレビで見た時に"えびすくい"って面白いって思った。岡崎でもみんなが楽しんでやれるといいです。海老すくいとは、戦国時代の武将であり、徳川四天王の筆頭として知られる酒井忠次が得意とした狂言(おどけ)の一つです。酒井忠次は、海老をすくう仕草をしながら、滑稽な歌詞を歌って笑いを取りました。この海老すくいは、長篠の戦いの前夜に家康公に披露したことで有名です。家康公は、酒井忠次の海老すくいに大爆笑し、陣中の重苦しい雰囲気を和ませました。
隠れ教育ママの願いが叶う♪のびのびと遊ぶように学ぶ子になる1日5分の家庭学習法『親勉(おやべん)』インストラクター産後不調だからこそ省エネで!不安子育てをおだやか安心子育てに♫わが子の天才性を磨く『親勉チビーズ』インストラクター見習い栗山ちかこです6歳がハマった火縄銃!火縄銃、打ったことがありまるか?ないですよね!?笑織田、徳川連合軍vs武田勝頼で繰り広げられた長篠の戦いそこで使用されたことで有名な火縄銃!まさかまさか!その火縄銃を
私のブログに訪問していただき、ありがとうございます。☆☆1603天正三年(1575年)長篠・設楽原の戦いに用いられた馬防柵を再現したものがあると前々から知っていました。今回、はじめて観てきました。↑連吾川に向かって右側の下手に徳川軍のものを、左側の上手に織田軍のものを、区別して構築してみた。両者の様式には、攻口(出入り口)の設け方に違いが認められる。当時、天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め、その内側に
ぐりさん、今日はマラソン大会に行って来ました。有名な長篠の戦いの舞台でもあるコースを走りました。福子さんも応援に来ましたよ~長篠の戦いで初めて織田軍が戦に取り入れたと言う火縄銃の実演がありました構え〜打て〜!バンバンバンバーンこれに驚いた福子さん走ってその場から逃げ出しましたが怖くてしっぽがべろりんちょ車に逃げ帰りました。長篠の戦いと言えば、知る人ぞ知るヒーロー鳥居強右衛門とりいすねえもんhttps://www.yoritomo-japan.com/sen
珍解答で、安土桃山時代の戦国武将の1人、織田信長は長篠の戦いで大量の鉄砲を用意した理由とはそれは、鉄砲を撃ちたかったからだそうですこの時代には、信長を始め、他の戦国武将たちが鉄砲を買うための十分なお金があったこと、もう1つは、信長は尾張(今の名古屋市付近)の領主として領地と財産が沢山持っていたからこそ、長篠の戦いや桶狭間の戦いでそれを使ったのではないかなと思います