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長篠の戦い(新暦)から450年いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!新暦をとった場合ですが、本日は長篠の戦いから450年です。再三書いていますが、自分の直接の先祖や事故の日付といったアイデンティティを語る上でも研究として語る上でもこの戦いは外せません。そして、研究全般に言えることですが、こういった史実や文献や作品をとおして先祖に向き合
長篠の戦いの際に、長篠城を囲む武田軍によって利用されたという中山砦。その跡に建つ展望台です。現在は新東名高速の道路脇になっています。詳しい地図で見る場所は長篠城の南東。車を新東名の橋の下に駐めて、砦跡まで階段で登る。一応車で上まで行けるようだが、山をぐるっと回ることになるし道も細い。鳶ヶ巣山砦跡と一緒に巡るならそちらのルートでもいいかもしれない。公園へ続く階段。看板に「全212段高低差32m8階建ビルの屋上に上る高さです」とあった。ちなみに公園の名前はネット
どうも、ブネです。今回は武田勝頼の家来の1人にして武田四天王の1人ーー内藤昌豊(昌秀)の観点から長篠の戦いについて書きたく存じます。長篠の戦いの面白さをもっと理解してくだされば、ありがたく存じます。「内藤昌豊(昌秀)の最期」永禄9年(1566年)9月29日、上杉輝虎(後の上杉謙信)に従っていた箕輪城城主ーー長野業盛は武田信玄・勝頼父子の家来の1人ーー山県昌景と一騎打ちを行い、死亡した。城主死亡により、箕輪城は陥落し、武田の領主と化した。武田信玄は箕輪城に
あなたが今夢中になっているアーティストは?▼本日限定!ブログスタンプ今はZZTOP、ニュー・オーダー、アリスターですね…「ビートルズの日」1966年(昭和41年)イギリス🇬🇧のロックグループ「ザ・ビートルズ」が初来日した日です…翌日から3日間で計5回の公演が行われました「佃煮の日」日付けは佃煮の発祥の地、東京・佃島の守り神である住吉神社が創設されたのが1646年(正保3年)6月29日であることからです「星の王子さまの日」日付けはフランス🇫🇷の作家で飛行士のアントワーヌ・ド・サ
【起稿2025年6月29日記事】今日はもう一つ徳川家康関連話題を😅...皆さん、今から450年前の1575年6月29日は、三河国長篠(現愛知県新城市)において、織田・徳川軍と武田軍の史上名高い「長篠・設楽原の戦い」があった日です。(旧暦5月21日)戦いの背景、経緯は、皆さんもドラマ、小説等でご存知かと思いますし、異説(私得意の通説批判)も無いので省きます🙇「どうする家康」(2023年、NHK大河ドラマ、天才信長の考えとは解離した徳川陣営の想い)※画像は借用いたしましたm(__)m
マイスイートダーリンダーリンダーリンここに来て見えるでしょう♪新城市郊外へ行った瞳何かが見える・・・
な、長篠!ー深夜の大事件いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!本日は夏至です。ある意味パワーがある日に起こったことなので意味があると信じていますが、本日の深夜、いきなり秋山虎繁という戦国武将が気になりネットを見ていたところ、この人↓『「あなたの行く末を私に預けてください」-とある武将のプロポーズ』「あなたの行く末を私に預けてください」-とある武
天文12年(1543年)、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着しました。種子島の領主である種子島時尭は20000両で購入した鉄砲を家臣の篠川小四郎に渡し、その仕組みを研究させ、刀鍛冶の八板金兵衛に鉄砲の複製を命じ、製造が始まりましたが銃身と銃底を繋ぐネジの仕組みは難問でしたが、その後、ポルトガル人から技術を習得し、国産化に成功しました。ポルトガル人の名前は、史料によって異なり、特定されていません。その後鉄砲は、堺や根来、国友などの鉄砲鍛冶によって量産され、戦国大名たちの間で急速に
どうも、ブネです。今回は天正3年(1575年)5月21日に起こった長篠の戦いのことを前田利家の目線も加えて書きたく存じます。前田利家ことをもっと知ってくだされば、ありがたく存じます。「母衣武者達」元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄は病に負け、死去した。亡くなった場所は信州駒場であった。一旦、甲斐へ戻る途中のことだった。遠江・三河侵攻の半ばのことでもあった。この時、武田信玄は輦台に乗せられていた。馬に乗れる健康状態ではなかった。病に侵食された我が身体に鞭を打って、徳川方を攻め
百度屋敷大発見‼️これは、百度屋敷にあった六地蔵…この石碑を読むと…此の地蔵尊❓️花田町字築地内所在元羽田村字百度屋敷管理の地の理❓️地に安置し❓️❓️豊橋市土地❓️❓️理施行の為二十九年五月此の地に奉安す元羽田村百度屋敷関係者⏬️✨百度屋敷の遺構✨(ずんどう、ずんどやしき)⏬️あんまり確り読めませんでしたまた、よく見にいったんですけど勉強不足と頭の悪さです…百度屋敷は、終わりに戸田氏の事をまた詳しく…長篠の戦いの深掘りも現地行きたいと思いますがこれはそ
長篠の戦い(ながしののたたかい)(長篠の合戦・長篠合戦とも)天正3年5月21日(当時のユリウス暦で1575年6月29日)(現在のグレゴリオ暦に換算すると1575年7月9日)三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である⚔️安土桃山時代年月日、天正3年5月21日(1575年6月29日)場所、三河国長篠城・設楽原(設楽ヶ原)交戦勢力織田・徳川連合軍指導者・指揮官織田信長徳
今回も一人旅初日から2日目は、大樹寺〜岡崎城〜ホテルクラウンパレス知立〜長篠堰堤余水吐〜四谷の千枚田〜長篠城址史跡保存館〜設楽原歴史資料館〜設楽原決戦場馬防柵〜鳳来寺山自然科学博物館〜鳳来寺サッカー観戦の前に訪れたのは、岡崎市にある大樹寺。松平家、徳川将軍家の菩提寺で、戦に敗れた徳川家康がここで住職の説得を受け切腹を思いとどまったらしい。松平家と初代将軍家康から14代将軍家茂までの位牌が安置されていて、家康手植えの椎の木も見ることができる。宝物殿・大方丈は有料で撮影禁止。多宝塔は国指
私の夢の一つが、歴史上実在した女性を演じることでした。その夢が一つ叶いました。戦国時代、壮絶な人生、生涯を送った、織田信長の祖母にあたる、お艶の方をやらせて頂きました。時代背景を忠実に再現するため、メイク、かつら、衣装、細部までこだわりぬかれた世界で演じれたことは、とてもありがたく、貴重な経験でした。第一弾の予告編がYouTubeに上がったそうです。YouTubeにて『長篠映画』で検索してみてください。『長篠』〜なぜ彼らは負けると分かっていながら、織田、徳川の大軍
ほぼ、前回の続きです(=゚ω゚)ノ乳岩峡の帰路・・・新東名高速道長篠設楽ヶ原PAに寄って、PA内から登れる、茶臼山へ。。。たぶん、7,8年ぶり??かな🤔🚶案内板階段とかキレイになってる♪🚶戦国時代の、長篠の合戦の信長本陣跡ね駐車場から5分ほど登ったトコの、祠に参拝🙏山名看板(実は、山頂ぢゃないのよね😂)でも自撮り~🤳w🚶東方向に下って、少し登り返すと…立派な石廟が!!😳三角点もあって、ココがY
映画「長篠」の撮影で京都に行った話。隙間時間に行った場所。八坂神社は時間あったら行くようにしています。好きな場所。この日も良い天気で気持ち良かったです。初めて行った北野天満宮。初めて行った②。京都御所の敷地があんなに広いなんて知らなかったです。かなり久しぶりに清水寺も行ったり。結構満喫しました。映画「長篠」只今クラウドファウンディング中https://camp-fire.jp/projects/839042/view「長篠合戦450年」記念映画を作りたい!【武田家衰亡の
本日、2025年5月21日は、長篠・設楽原の戦いから450周年の記念日。日本唯一の花城となった中津城(奥平家歴史資料館)天守閣の2階にある特別展示室。長篠城籠城戦で武門の名を挙げて、徳川家康公の娘婿となる、奥平信昌公が当時着用していた甲冑など奥平家の歴代の家宝を展示。奥平家所蔵長篠合戦図屏風命を賭して城内の味方へ、織田・徳川の援軍がくることを伝えた、武士の鏡である鳥居強右衛門の磔図も展示されています。戦国に咲いた忠臣の華は、450年の時を経た
戦国時代、国内各地では数え切れないほどの合戦が行われましたが、その中でも大きくその後の勢力地図や戦法の転換期となったのが長篠の戦いだったといえましょう。織田・徳川連合軍38,000と武田軍15,000が現在の愛知県新庄市長篠にあった長篠城周辺の設楽原で全面衝突したのが、今からちょうど450年前の今日・1575(天正3)年5月21日のことでした。武田勝頼は、この2年前に父・信玄を亡くしたことで動揺の広がる領内に自らの力を誇示すべく、遠州・三河に再び勢力を伸ばそうと画策。一
長篠の戦い(天正3年5月21日)と言えば、長篠城を攻めている武田を後詰にやって来た織田信長が鉄砲隊で打ち破ったことで名高いが、その時の長篠城の守将が奥平信昌(当時は貞昌)である。当時の奥平家は、徳川と武田の国境である奥三河に根を張る小さな土豪に過ぎない。徳川家康の関東移封に従った際に上野小幡3万石を宛がわれたことから、当時もそれ以下の領地だったであろう。今川、次いで徳川、武田、そしてまた徳川と時勢に応じて、身を寄せる主を変えながら命脈を保っていたが、長篠直前の武田から徳川への鞍
先日見た長篠・長久手合戦図屏風を見て長篠の戦いに関する認識が浅かったと気づいて改めて見たくなったので再度見に行くことにした。この日は昼まで雨の予報で予想最高気温は27度、予報通りの気温が出るなら暴力的な風が吹き荒れて雨雲をはるか彼方に押し流して雲一つ残さないほど晴れて来ないと有り得ないのだが、午後も灰色の雲に覆われた空から霧くらいの極小の雨粒を感じるような天気。同じ尾張地方の範囲でも片道1時間離れた場所の天気はどうしようもない。道中、雲の吹きだまりみたいなので気まぐれにそ
今日は豊橋へ。久しぶりのひかり号に乗る。結構混み合う。6時21分発。時間があるので、長篠の合戦の舞台に足を伸ばしてみる。豊橋で飯田線に乗り換え、1時間少し。三河東郷駅へ。長篠の戦いの舞台の設楽原古戦場を目指す。しかしなんという運の無さ、強めの雨が降る。写真にも写る位の雨量。1575年、織田徳川連合軍と武田軍が激突した歴史を変えた戦いの舞台。雨があまりにも凄いので予定を変更して半分位の行程にすることにする。駅から歩いて、最初に合戦で討ち取った首を洗ったとされる首洗池。古戦
【問題】長篠の戦いの後に武田勝頼に嫁いだ妻の説明として正しいものは、次のうちどれか?【選択肢】里見義堯の妹である北条氏康の娘である佐竹義宣の姉である今川義元の孫である【正解】北条氏康の娘である【解説】長篠の戦いによって国力を低下させた武田勝頼は、その立て直しのため北条氏との連携を図り、北条氏康の娘(北条夫人、桂林院殿)を自らの妻に迎えた。
13時前に出発して14時前に到着。今回は親の切り替えなしの自転車を徴発したが足を伸ばし切ったところでペダルが6時の位置に来るようにとサドルを上げたらすっぽ抜けたんで少し低い位置で固定したが踏み込み切れずストレスだった。タイヤ径から小さいのかな?あとハンドルがフラットじゃなくサドルより高い位置にあるから体重が全部尻に乗る。腰と尻が痛い。ハンドルも高いから背筋が立つ。風を受けて進まない。なんでこんな酷な乗り物に乗ってるんだろう?足の回転数を意識する分には悪くないが。目的
山梨県民ですが、武田勝頼が好きな人です。たぶん戦国武将で1番好きな武将は?と聞かれたら武田信玄でもなく、上杉謙信でもなく、島左近でも、もちろん三英傑でもなく「武田勝頼公」と答えます。という訳で、山梨県立博物館で開催されている「武田勝頼-日本に隠れなき弓取」を連休を利用して見てきました。2回目です。2回目なんで、目的の物を中心に見たのですが、見ていると悲しくなるんですよね。そもそもの出自からしてもそうですし、今回自分としては「武田勝頼・同夫人・信勝画像」(高
長篠の戦い。主人公は凡人に描かれる徳川家康だった。めちゃくちゃ面白かった鉄砲の挺数は、武田も織田・徳川と遜色はなかったらしい。問題は、弾丸と火薬の量の差。弾丸の原料の鉛は輸入に頼り始め、火薬の硝石は全てを輸入していて、武田は水運に恵まれず差が開いていた。織田は弾薬をたくさん輸入できたから鉄砲を撃つ練習もよくできたし、弾薬の量の差が勝敗を分けた感じだった。知らなかった戦いの描写はハラハラした。武田のカッコ良さも伝わってくるし、信長のとんでもなさも凄い。歴史を知ってる
山梨県の県立博物館にて、本日まで開催されていた『武田勝頼展』ここに4月19日に武田の歴史に詳しいAちゃん、Bちゃんと訪れた話をやっとこの日に綴ります。山梨県立博物館。青竹が美しい。エントランス。わお!黒ハグマの毛槍です。ホンモノ?ほんもの?ハグマとは、ヤクの毛のこと。中世の武将が好んで兜などにつけていたアレです。NHKの2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、(天目山にて最期を迎える武田勝頼)この兜についているのが、『赤ハグマ』肖像画では
山梨県立博物館で明日まで開催の武田勝頼展を見てきました。織田信長が日本に隠れなき弓取と強いイメージを持ち続けていた勝頼の人生。一門衆から、嫡男亡き後の武田家後継者として駆けずり回った戦場。10年間に及ぶ徳川家康との死闘。長篠の大敗からの領国経営。暗君や愚将と呼ばれる勝頼ですが、むしろ甲陽軍鑑のように強すぎた大将だからこそ、滅亡の道を辿ってしまったのかもしれませんね。信玄の負けない美学、五分をもって勝ちとなす。今の私にもぴったりな心境でした。勝頼展は明日まで開催です。ぜひ、山梨県
今朝は6時前に目が覚めてしまったが、売店が開店するのが9時…💦寝るに寝れないので、スマホや景色を見て時間を潰す😮💨そして9時になり、売店が開いたので地元野菜などを買った🥦昨日は眠気に負けて風呂に入れなかったので、何か嫌な感じ😑なのでネット検索で探す📱そして行こうと決めたのが、豊川市にある『ゆうあいの里ふれあいセンター』つまりは市民センターみたいなもんだ😁GWでやってるか不安だったが、着いてみたらやってる✌️ある程度予想はしてたが、高齢者が多い…と言うか、ほぼ全員😅でも入浴料
今年2025年とはいったいどんな年なのかと思案する。3月に、『本栖湖のガイドのプログラムを作って欲しいととあるNPOに依頼されてから、まったくドツボにハマっている感じ。相変わらずの好奇心と探究心のオバケとあいなって翻弄されているような日々。本栖湖といえばまずは甲州と駿河をつなぐ『中道往還』だ。ふうん、だからなんなのだ。と、決め込んでも、あとからあとから押し寄せる歴史の残骸。武田信玄、織田信長、徳川家康、が通った道と言われても、だからなんなのだ、
とりあえず花桃の旅part2~岐阜市の歴博を楽しむっ!!1~本編の前に我が家のプチネタ。今日のお題は「ももた、お花見をしにちょいドライブ6」。重信川の割と上流の方へ花見に行ったときのスナップ。今回で最後です。ここは元学校だった場所なんでこういう記念の碑があったりする滑り台を降りたところももたがまぶしそう…まさにうららかそのもの、といった感じの日でありました。ちゃんちゃん。閑話休題。旅行1日目、午後3
1566年箕輪城落城後に武田信玄は家臣の春日虎綱・真田幸綱を1566年〜1567年まで在番による城代を務め1568年〜1569年までは浅利信種が城代を務めます😃浅利信種が1569年の「三増峠の戦い」で戦死した為内藤昌豊(昌秀)が1570年〜1575年の「長篠の戦い」で戦死するまで城代を務めました🥰武田信玄は上野國制覇の足掛かりとして箕輪城落城を大喜びしたと思います😊しかしこの箕輪城の場所が大きな問題を抱えているんです🤗もちろん利点もあり越後にも相模にも近いのですが反対に