ブログ記事1,615件
お盆休み旅行がいよいよ始まりますよ今回1発目は武田勝頼最後の城と云われる新府城山梨県韮崎市にあった戦国時代の平山城で、従来の甲府(躑躅ヶ崎館)の手狭さと広範囲に広がった領国を統治する為の交通・軍事的要所として天正9年(1581)に武田勝頼が築城したが、織田・徳川軍の侵攻により、入城からわずか68日で勝頼自ら火を放ち焼失した。武田家最後・集大成の城として知られ、国の史跡に指定されている。約300段の階段を登ると本丸らしい赤い鳥居の先にも階段階段を登り切ると藤武神社蘊蓄縄
引き続き山梨県です☀今日も良き天気でした😆行ってみたかったパン屋さんがあります!丸十パン屋さん本店✨ここのレモンパンが美味しい💕とのことで行って参りました🙌💨山梨県で創業100年!パン酵母の元祖老舗ベーカリーです😉店員さんの雰囲気めっちゃ良くて😄癒されました💕クラッシックレモンパン🍋右下😆優しい味でほっこりします😊長年愛されているロングセラーも納得😁👍一度食べたらまたあの食感と味に会いたくなる!!さて…今日は武田勝頼さんが最期を迎えた天目山へと足を運びます😌長
【問題】武田勝頼の嫡男・信勝の幼名として正しいものは、次のうちどれか?【選択肢】玄治丸武王丸晴統丸徳力丸【正解】武王丸【解説】武田信勝は永禄10年(1567)、勝頼の嫡男として誕生した。幼名を武王丸(たけおうまる)という。元服後、武田家累代の諱「信」の字を冠した「信勝」を名乗った。
【問題】真田昌幸が自らの岩櫃城へ武田勝頼を迎え入れるために築いた場所は、現在何と呼ばれるか?【選択肢】亀楽院獅放院潜龍院鳳候院【正解】潜龍院【解説】武田氏滅亡直前、真田昌幸は居城・岩櫃城の麓に石垣で固めた館を築き(古谷館)、勝頼を迎え入れようとしたが実現しなかった。同地は現在「潜龍院」と呼ばれる。
軍船の数の上では劣勢だった武田水軍が、北条水軍に対して優位に立つことのできた要因の一つに、駿河湾の潮流があげられます。駿河湾の潮流の一例三枚橋城から出撃すれば、潮流に乗って伊豆の海岸を素早く攻撃し、そのまま潮の流れを利用して離脱すれば、本拠地のある清水湊に容易に帰還することができたのです。武田水軍は、潮の流れに乗って伊豆に点在する北条水軍の支城や砦、船入を奇襲攻撃し、北条方の援軍が駆けつけると離脱するというヒット&アウェイ戦法を繰り返していたようです。西伊豆の田子城に夜討ちをかけたり、子
全国的に寒い日が続きますが、こちらは徐々に暖まって参りました!!合戦イベント「甲州征伐」の告知が続きます。今日は、両軍の部隊長と陣中見舞いが決定したのでお知らせいたします!織田軍は、当時信忠の直属であった森・河尻に、信長が付属させた織田有楽・滝川一益を加えた陣容です。さらに武田家から離反して甲州攻めの先鋒を果たした木曽義昌の姿も見えます。武田軍は、親類衆の信豊(勝頼従弟)、信廉(同叔父)、盛信(同弟)が馬を揃えます。また、当時勝頼を岩櫃城へ迎えようとしたともいわれる真田昌幸、