ブログ記事1,324件
壱と呼んで良いのかわからんが、昨日これ『【信長の野望20XX噺】鬼ハンター』本来なら義賢ガチャを吟味すべきなのであろうが……まだ数値がな。そんなワケでお茶を濁そう。こまめに20XXの話を記事にせんと、タグの履歴から消えてしまい、一々打…ameblo.jpをやった以上、弍もやるべきであろう。とある理由で本当はやりたくないのだが……まあ良い。吟味していこう。最初は市川さん。敵ラ6体物ダメ1.05特に追加効果もなく、この範囲でこの威力であれば……特に魅力は感じない。極端に悪い数値というワ
先日3/6~8間の2泊3日、「春のお城めぐり」ツアー(長野、山梨)をしてきました。前回の「お城紀行」で「上田城」を投稿しましたが、その後「長野新幹線」で東京に戻り、特急「かいじ」で「大月」まで足を伸ばし宿泊をして、翌日の6城目の「岩殿城」登城に備えました。当日の天気予報では”晴れ”になっていましたが、ホテルの窓からはどんよりした鉛色の空が見えて少しガッカリしました。ホテルで重い荷物は預かっていただき、「大月駅前」7時25分発「富士急バス日影行」に乗車し、「自動車教習所前」が登城口に近いと
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」、武田勝頼の動向その2を紹介します。その1はこちら。天正10年(1582年)3月2日、仁科盛信(信盛)の籠る高遠城が落城しました。高遠城の壮絶な攻防戦の模様はこちら。それ以降、武田家滅亡へのカウントダウンは急速に加速します。3月3日高遠落城の報を受け、新府城の武田家一門、家老衆は慌てふためきもはや戦どころではなくなってしまいました。武田信玄の甥
鎌倉で護良親王が幽閉されたのが[東光寺]。甲府にも[東光寺]がある。しかも鎌倉時代の十二神将が見られる。と足を運んでみました。【法蓋山東光寺】山梨県甲府市東光寺3-7-37甲斐源氏の祖・新羅三郎義光により「興国院」を開かれたのがはじまり。織田信長による武田残党焼き討ちでも、第二次世界大戦の甲府空襲でも、焼けずに残った最強の仏殿はこちらです東光寺仏殿www.city.kofu.yamanashi.jpあいにく仏殿の戸は閉まってい
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、戦乱の旅、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い~天目山の戦い」史跡めぐりの旅です。武田領へ侵攻してきた織田軍と武田軍の初めての大規模な戦い、鳥居峠の戦いを紹介します。古戦場名ゆかりの武将住所鳥居峠武田軍:武田典厩(信豊)、阿部加賀守(勝宝)、今福筑前守(昌和)、跡部治部丞、有賀備後守、神保冶部、馬場昌房、多田治部右衛門、山縣三郎兵衛尉、横田十郎兵衛尉、仁科盛信、仁科伊豆守、秋山紀伊守、長
織田家を駆逐し、長宗我部家も倒し、残るは島津家のみ。東日本の大名から始めると、最後はやはり島津家になるんでしょうか。そんな島津家も疾風や風林火山を駆使して、勝利です。一部隊ずつを相手にしてもいいですが、大将目掛けて攻めるほうがスッキリしますね。約10年で天下統一。鉄甲船があれば、少し早かったかもしれないけど、どちらかと言うとプレイヤーの腕次第かな。(全然未熟ですが)縛りプレイを極めれば、いくらでも戦い方はあります。でも、他のゲームもあるので、このくらいにしとうございます。
注意!!今回はかなり『どうする家康』に関する感情的表現が入っています。「批判する者はおかしい」とか「どうする家康」は素晴らしいドラマ!と思っている方はお引き取りしていただくようにお願いします。私が戦国史にのめり込むキッカケとなったのは実は四郎こと武田勝頼の長篠合戦再評価であったりします。「旧時代の遺物である『武田騎馬隊』の威力を過信する愚将」「勇気はあっても知恵が足りない脳筋」「偉大なる父親にコンプレックスを抱く残念な二代目」そういった諸々の評価とは全く違う人物像…或る意味「歴史の面白
デリング・レンブラン『お前の提案には価値がない。皆そう言っているのだ。どんな大言壮語を吐こうともそれを裏付ける信用がお前にはない』めだたく今週での娘LOVEな親父ぶりを発揮した機動戦士ガンダム『水星の魔女』のダブスタが外れたクソ親父さんに敬意を払いまして、もう今週の感想これで終わり…いやもちろん続きますよ!とりあえずとりあえず今回の感想はデリングのこの一言で終わりです。もうさ、史実とかそういうの次元の話ではありません。三河・遠江二ヶ国の正室に過ぎない女性がいきなりEU…じゃないJU(
名将の思いも今はただ哀し風に儚き草のみぞ知る※武田信玄が病に倒れたとされる愛知県野田城跡にて今は入ることを拒むかのように草木が茂り、城跡を偲ぶのが難しい馬防柵歴史を変えし古戦場今時行きて野ただ悲しき馬防柵風林火山悲しきはただ「退く」の文字若武者知らず※長篠の古戦場に立ちて武田家ゆえに「退く」ことが許されなかった武田勝頼の悲運を思い
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将と姫の墓めぐり、理慶尼の墓の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅ともリンクしていますので、よろしくお願いします。人物名墓のある施設住所理慶尼大善寺山梨県甲州市勝沼町勝沼3559誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(__)mスマホで地図が表示されない場合、一度前の記事に戻ってもらい再度
名古屋市中区:名古屋城。2020年4月以来、2021年の初攻城。築城主:徳川家康。大坂、豊臣方への抑えのため、最大最強の近世城郭を築く。大天守は戦後に再建。(画像は、集合写真地点でもある鉄板撮影ポイント)いくつかの主目的があり。御城印帳のお迎え、桜、そして降臨している金の鯱に会うこと。まずはお迎えを。なんと、売店横には御城印仕様のカレンダーが(日付を手動入れ替え)。犬山城の御城印帳はすでに満員御礼。この金鯱御城印帳は、名古屋城ならではのナイス一品。
※設楽原再現馬防柵から見た設楽原…今は住宅と田畑が広がるのどかな風景ですが、いくら手前が湿地帯で三重の馬防柵に囲まれていたとしても必死の形相で馬で駆けてくる武田軍見たら震え上がるやろなと思います設楽原古戦場に行きました!パート7️⃣設楽原の戦いパート7️⃣長篠・設楽原の戦い後の武田家その1続きです🙇①敗戦後の勝頼に課せられた「武田家」再建長篠・設楽原合戦で武田家は惨敗し、その後滅亡したんやろと周りの歴史好きな方の殆
2022年10月10日JR東海のさわやかウォーキングに参加しています。中央線の奈良井駅を下車して、奈良井宿の街並みを通り抜けると、いよいよ中山道の鳥居峠口になります。中山道の街道道には、山栗の木がたくさんありました。栗の実が入ったものも落ちてましたが、拾っている時間はありません。なぜならば、今にも雨が降り出しそうだから雨に降られないうちに峠越えしたいのです。道は細いですが、整備されているので通りやすいです。ぽつり雫が垂れ
※鉄砲構え案内板…馬防柵が三重、しかも2kmもあったなんて…それに想像以上の鉄砲の数!武田軍は驚いたに違いありません!※柳田前激戦地…手前の連吾川を越え進軍する武田軍と織田・徳川軍が激しく戦い、また、武田軍敗走中、本陣の勝頼を守るため多くの武田軍将兵が踏みとどまり戦った場所ですいろはかるた「ぬかるみに馬もしりごむ連吾川」設楽原古戦場に行きました!パート8️⃣設楽原の戦いパート8️⃣長篠・設楽原の戦い後の武田家その2続きです🙇
天正9年、名倉奥平信光は、信長の命により三信国境の城を固守するよう命じられた(愛知県史資料編織豊111463私は、立地と出入口の工夫から、小田子砦もそのうちの一つではないかと考えている前記事小田子砦参照)。宮坂先生は2015)『信濃をめぐる境目の山城と館美濃・飛騨・三河・遠江編』(郭名を同書に準拠し、同書を参考に記述する)のなかで、この上郷城をそう比定している。武田勝頼滅亡によって、この砦の任務は終わるとし、極く簡単なつくりであるが街道を監視する砦として急造したことが伺え、一年も
2018年11月11日JR飯田線の長篠城駅にやってきました。秘境駅もあるローカル線なのですが、電車は通勤ラッシュ並みの混雑でした。もちろん、目的は「さわやかウォーキング」への参加です。怒涛のようにやってくる、人・人・人。昨日の高山線のウォーキングとは全然違いますね。お姉さんから地図をもらってスタートします。今回は、長篠の戦いの地を巡るコースになっています。長篠の戦いとは、戦国時代の天正3年5月に、三河国長篠城をめぐり、