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こんにちはみなさま、いかがお過ごしでしょうか。新年のご挨拶から一ヶ月もたってしまい、ご無沙汰していて申し訳ありませんでしたそれにもかかわらず、寛大なお気持ちでこのブログを読んでいただいている皆様には、心より感謝申し上げます。今年最初の記事ですが、久しぶりに日本史の女性を取り上げたいと思います。今日ご紹介するのは、時代は戦国時代、かの有名な武田信玄の側室で、武田勝頼の産みの母である、「諏訪御料人」という姫です諏訪御料人は、1530年に、諏訪頼重と側室の小見氏の娘との間に生まれま
いよいよ今週金曜日に迫った合戦イベント「甲州征伐」。今日は総攻撃と大手柄武将に関する発表です!スケジュールの発表時に、システムに大きな変更はないと書きました。ただ、今日発表の大手柄武将に関してはいつもと違う点がありますので、最後までよくお読みくださいませ。まずは総攻撃の回数から。総攻撃は、織田・武田両軍ともに2回ずつ予定されています。これまで通り、総攻撃は前もって部隊長によって予告されます。続いて大手柄武将について。織田軍の大手柄武将毛利長秀丹羽氏次金森長
長篠の戦い(ながしののたたかい)(長篠の合戦・長篠合戦とも)天正3年5月21日(当時のユリウス暦で1575年6月29日)(現在のグレゴリオ暦に換算すると1575年7月9日)三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である⚔️安土桃山時代年月日、天正3年5月21日(1575年6月29日)場所、三河国長篠城・設楽原(設楽ヶ原)交戦勢力織田・徳川連合軍指導者・指揮官織田信長徳
大名未満の小さな領主を「国衆」とか「国人領主」といいます。この「国衆」の連合体が「戦国大名」だと理解したほうがいいです。今でいえば郡とか市とか程度の領主が「国衆」です。こいつらは単独では領地を守れないので、近所の国衆たちと同盟を結び、なかで一番強いヤツを棟梁にして、他の皆はその家来になる。こうして信濃国とか越後国とかいった国単位(いまでいう県)くらいでまとまったものが「戦国大名」だ、というふうにイメージしてください。戦国大名の中には、室町幕府の守護や守護代の家が持ち上がった者もいますが、多
「長篠日記」の軍議場面を拡張・再構築した物語の核心本作の脚本的な骨格は、「長篠日記」に記された重臣会議の記述を出発点としながら、そこに登場する人物をさらに増やし、軍議そのものを映画の中心軸に据えた点にある。(C)ミヤオビピクチャーズ史料上の軍議は、勝頼の主戦論に対して宿老たちが慎重論・反対論を唱えたという大枠が伝わるものの、誰が何をどう語ったかという細部は断片的にしか残っていない。宮下玄覇監督はその余白に大胆に踏み込み、十人前後の重臣それぞれに固有の論理・立場・感情を与えた
織田信長は武田討伐へと先発した嫡男・信忠に対し、執拗なまでに自制を促す書状を送り続けた。それは勝頼侮りがたしという畏怖の表れであった。だが、信忠は美濃から信濃の地へ踏み込むや、父の危惧をよそに破竹の勢いで伊那谷を駆け抜ける。その姿はまさに若き日の信長を彷彿とさせるものであった。一方、これを迎え撃つ勝頼は要所に親類衆を配置し、信濃を決戦場と定めて自身は諏訪の地に本陣を据えた。何の因果か、そこはかつて“諏訪四郎”の名で将として歩み始めた自らの原点であった。信長の後継者として自らの手で武田を
甲州征伐の戦場のひとつ高遠城跡(長野県伊那市)合戦イベント「甲州征伐」、早くも熱々の中盤へと突入して参りました!本日は恒例の「よくある質問編」をお届けします。そして!前回の「北の関ヶ原」で実施して非常にご好評をいただいたあのキャンペーンを今回も実施することとなりました!!後半に詳細を記載していますのでこちらもご注目ください!Q.「注進」における“実戦活用情報”の定義は?A.実戦活用情報は、“軍功を増やす方法や合戦のノウハウ”に該当する投稿です。そのため、再掲となりま