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今回はノスタルジーの旅。念願の高天神城に行ってきました。実に30年ぶりの攻城となります。私が覚えていることは、神社に行く階段の途中にお稲荷さんがあってそこでお祈りしたら宝くじが1万円当たったということ。あと牢を見た覚えがあります。昔大河ドラマの武田信玄に出てきていたのを見て連れて行ってもらいました。「高天神城を制するものは遠州を制する」と言われ、今川⇒徳川⇒武田⇒徳川といったように持ち主がじゃんじゃん変わります。武田信玄をもってしても攻め落とせなかった(無理攻めしな
誰もが目の前に起きたことに信じられない思いであった。あれほど武威を誇ってきた戦国大名・武田勝頼がこれほど呆気なく滅亡してしまう事態を。歴史の流れは時に雪崩のような凄まじい雪崩のような急速に動く時がある。如何なる者もその流れに抗うことはできない。勝頼を滅亡に追いやったのはあるいはそれであったかもしれない。甲斐の名門・武田家を建て直そうとした戦国武将・武田勝頼の苦闘が今幕を下ろす。○勝頼、最後の戦い小山田信茂に離反され行き場を失った勝頼一行。跡部勝資は、「天目山」に入り地下人を糾合して抗戦し
諏訪湖口に到着して、上諏訪駅内の足湯でも浸かって電車待とうかなーと思い、次の電車を調べるとなんと5分後しかも次くるのは1時間後なので、もうダッシュ💨てなわけで、足湯には入れませんでした。新府駅まで約1時間ほど電車に揺られ🚃到着!って、でた無人駅!そんな予感がしていたので、ICカードは使わず、切符を買っておきましたが、IC用の機械は設置されておりました。無人駅なのでもちろん待機しているタクシーはないし、人影も何もない。googleマップ先生に頼りながらいくしかないしかもgoogle
その一の続きです。『タケダ、スワ、タケダ‥0609(新府城その一)』今年は何かがおかしい。これまでいつもわたしは好奇心が服を着て歩いてる、と思っているし、人は誰もが興味のある方向へと動いていくのだけど、今年はそれに拍車がかかっ…ameblo.jp新府城とは、『武田勝頼公によって七里岩の台地に1581年に築城された城郭。新府とは、「新しい府中」という意味で、勝頼公が本拠を甲府市の躑躅ヶ崎館からこの地に移転を計画し、新しい府中を造ろうとしたことが窺うかがえます。1582年
幕末、水戸藩の過激攘夷集団・天狗党の首領として筑波山で挙兵した武田耕雲斎。彼はもともと跡部姓でした。ところが、戦国時代に武田信玄・勝頼父子に仕えた跡部勝資(かつすけ)が「武田を滅びした佞(ねい)臣(しん)」といわれていたことを恥じ、跡部から武田へ改姓したといいます。跡部一族の中には武田氏滅亡後、徳川家康に仕えて旗本になった者もいましたが、江戸時代を通じ、跡部勝資の評判はあまりに悪すぎました。武田耕雲斎の逸話はそのことをよく物語っています。それでは本当に跡部勝資は
今年は何かがおかしい。これまでいつもわたしは好奇心が服を着て歩いてる、と思っているし、人は誰もが興味のある方向へと動いていくのだけど、今年はそれに拍車がかかっているようだ。たぶん、初めは『本栖ツアー』を依頼されたことにより、武田の隠し金山、黄金の国ジパングマグマが出来る場所、と、そこで落ち着きそうなものなのだけど、諏訪信仰を、題材としたドキュメンタリー映画『鹿の国』を観に行く。そして、たまたま甲府で開催されていた『武田勝頼展』へ。なんとなんと、武田勝頼
おはようございます。ブログをご覧くださいまして誠にありがとうございます。ブログ管理人の高坂美慧です。信玄ミュージアムで今月末にイベントが開催されるようです。武田三代武田神社の散策と解説7月27日(日)9:00〜12:007月27日武田三代・武田神社の散策と解説|お知らせ|信玄ミュージアムshingen-museum.com躑躅ヶ崎歴史案内隊の歴史講座も開催されるようです。ご希望の方は事前申し込みが必要のため、上記のリンク先をご確認の上、お申し込み
武田勝頼=長篠の敗将で歴史に名を残している。その名を知られているのはこの戦いにあると言って良い。しかし有名すぎるこの合戦、後世になって「一人歩き」したかのように大きく変えられて、現在に語られている。勝頼は当時、何を考え何故行動したのか、それは「愚行」であったのか。今となっては真実を確定させるのは至難の業であるが、できれば勝頼の立場を慮ってこれから語っていく。歴史の教科書でも登場する「長篠の戦い」、だが有名すぎるこの戦いもその実態については今一つ「実像」が分かっていない。一般にこの戦いの概要
元亀四年四月。三方ヶ原で徳川家康を破り織田信長との決戦も視野に入った作戦の途上。病に倒れた信玄は勝頼と幕僚達を集め遺言を託した。我が死を三年の間秘匿し孫の信勝元服までは勝頼を陣代とする-。今回取り上げるのは信玄亡き後の最後の当主となった武田勝頼の軍装です。-強過ぎる大将。甲陽軍鑑にそう記された武田勝頼。信玄亡き後の武田家を率いた勝頼は父、信玄より家督では無く陣代とされました。陣代とは家督継承する次期当主が自ら統治するまでの代行、繋ぎの役とされます。しかしその陣代勝頼は父の版図を大きく塗り替え
おはようございます。ブログをご覧くださいまして誠にありがとうございます。ブログ管理人の高坂美慧です。歴史上の人物たちの失敗や敗北から学ぶというアプローチの歴史番組、BS11「偉人・敗北からの教訓」。7月19日(土)に放送100回を迎えるのに合わせ、通常1時間から2時間へ拡大し、武田氏三代を特集することがわかりました。BS11偉人・敗北からの教訓放送100回記念2時間スペシャル武田三代SP信虎・信玄・勝頼の足跡を訪ねて2025年7月19日(土)午後8:0
5月10日(金)晴れ18℃ずっと登ってみたかった白谷ノ丸に登ってきました。今日は、かみさんとヤリスクロスで。中央道の大月インターで下り、国道20号をゆるゆる標高を上げる。新笹子トンネルを抜け、20号を右折し大菩薩嶺に向かう山梨県道218号線に入る。天目山から焼山沢真木林道に入り狭い隘路をクネクネと上る。タクシーと2台すれ違う。登山客だろう。途中からダートに。以前CRFできた時は、もっと簡単なダートと思っていたが、轍あり、斜度もある。同じダートと思えないくらい。でも折角買っ
さ~て、今日の話題は、既に終わっている特別展の事です。小職、行きたいな、と思いメモしていた特別展なのです。それは、山梨県立博物館の開館20周年記念特別展です。以下、同館の公式ホームページに掲載されていた内容を転載させて頂きます。尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。武田信玄の後継者と成った武田勝頼については、武田氏滅亡の当主であった事や、父・信玄の偉大な業績と比較されて、これまで「暗君」「愚将」のイメージが残されていました。しかし近年では、研究の進展と
その男は突然やってきた。馬に乗り、こざっぱりとした服装をし、馬の手綱を持つ若い従者と一緒だった。姫と若君、そして六郎の前に座ると、「旧山本勘助様の家来で牧野平左衛門と申します。ずっと探しておりました若君様の居場所がやっとこちらだと解りましたのでお願いがあり、参上致しました。若君様、御母上様と一緒に、山本家の御家を再興する為武田の躑躅ヶ崎館に参りましょう。武田勝頼様にお家再興の御許しを頂きたいと思います」と落ち着いた声で話した。すぐに姫が「何を言っているの
2018年11月11日JR飯田線の長篠城駅にやってきました。秘境駅もあるローカル線なのですが、電車は通勤ラッシュ並みの混雑でした。もちろん、目的は「さわやかウォーキング」への参加です。怒涛のようにやってくる、人・人・人。昨日の高山線のウォーキングとは全然違いますね。お姉さんから地図をもらってスタートします。今回は、長篠の戦いの地を巡るコースになっています。長篠の戦いとは、戦国時代の天正3年5月に、三河国長篠城をめぐり、
2022年10月10日JR東海のさわやかウォーキングに参加しています。中央線の奈良井駅を下車して、奈良井宿の街並みを通り抜けると、いよいよ中山道の鳥居峠口になります。中山道の街道道には、山栗の木がたくさんありました。栗の実が入ったものも落ちてましたが、拾っている時間はありません。なぜならば、今にも雨が降り出しそうだから雨に降られないうちに峠越えしたいのです。道は細いですが、整備されているので通りやすいです。ぽつり雫が垂れ