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母との別れについて、またぼちぼち更新したいと思います肝臓癌と診断された母ステージなどは言われていませんが、それはつまり末期ということだったのでしょう肝臓の状態的に積極的な治療は出来ないと告げられましただからといって「そうですか」とすぐに納得することもできませんでしたネットで他に治療出来る方法が無いかたくさん調べ癌の治療法としてCMをよく見る重粒子線のことを調べるうちに陽子線での治療法もあること、その治療は隣の県なら出来ることがわかりました主治医に重粒子線や陽子線なら治療出来ないだ
(こちらは、私のホームページに掲載しているブログの内容になります。)(母は淡いピンク色が好きでした🌸)私事ですが、昨年夏に母が倒れ、母の介護が始まりました。一生懸命できることをやり切ったので、何の後悔もありません。でも、それでも、やはり「もっと一緒に出掛けたらよかったな」「もっと優しい言葉をかけていたらよかったな」「もっと...もっと...」という言葉が浮かんできます。介護をしている間、看取りを経験された諸先輩方が「後悔しない介護や看取りはないものよ。
こんにちは。花療法士、フラワーエッセンス講師の未来です。はじめましての方は、こちら💐セッションで起きたお客様の変化💐旦那さんが優しくなり、夫婦関係が劇的に改善子どもへのイライラがなくなり、穏やかに接する自分へセッション後、月商が過去最高額に恋人ができ、結婚し、穏やかな家庭を築いた方長年辞められなかった仕事を手放し、自分の仕事を始めた方父親に本音を言えなかった方が勇気を持って本心を伝えられた方がその後、ビジネスが加速売り上げが上がった方
madtoraさんの以下の投稿を読んで、ホントにそうなんだよね、と共感した私でした。『想いを伝えたい時、その人はいないかも』いつもお読みいただきありがとうございます😊その時その時を大切に断捨離®の動画をお風呂でみていたときに、たまたま目にした動画がありました。それは、老いた母と…ameblo.jp良いことも悪いことも含めて、自分の中にいつかは伝えたい思い、何年も何年も心の中にしまってある思い、心の中から消し去ることができない、いつかは言葉にして伝えたいけど、まだ心の準備ができていな
母はだんだん病状が悪化し、歩けないのでトイレにも自分で行けなくなった。ベットの隣りにポータブルトイレを置いて、なんとか自分で移動してしようと練習するが、夜中も起きるので寝不足になってしまう。睡眠を優先させる為にもオムツをすることになった。ヘルパーさんにオムツ交換の仕方を教えてもらった。大の時はペットボトルにぬるま湯を入れて流して、キレイに洗う。母はまだ少し自分で体を動かすことができたので、痛くないか確認しながらオムツを交換した。まさか親のオムツ交換をする時がくるとは。これが親孝行なんだと
母は歩けなくなってきても、キャスター付きのイスで家の中を動き回り、できる限りのことを自分でしようとした。母は人には迷惑をかけたくない人だった。なんでも自分でやってしまうタイプ。でも、ここ数年入退院を繰り返すようになると、あんなに人に迷惑をかけたくないと言っていた母が、急に自宅介護を希望するようになった。だんだん自分でお風呂も入れなくなってきたので、ヘルパーさんに来てもらい、来ない時は私もお風呂の介助をした。髪の毛を染めてあげて、髪を洗って体を洗って、お風呂上がりに全身クリームを塗る。あ
2番目が生まれた頃には、手の病状が悪化し、沐浴はできなかった母。たった2年の間にできなくなってきたことが増えていった。寒い冬はさらに手にできた傷が治りづらく、とても辛そうだった。我慢強く弱音を吐かない母が「痛い、痛い」と言っていたので、きっと私なら耐えられない程の痛みなのだろうと思った。私が小さい頃、母はとても丈夫で寝込んでいる所は見た事がなかった。背も高く、太ってはいないががっちりしていて、子供たちの残したものも食べてくれる、頼れるお母さんだった。でも、歳を重ね、病気が進行していき、母
母は69歳で亡くなった。50近くで病気を発症。通院しながら闘病を続けてきた。急激に進行したわけではなかったので、最初は見た目も生活もそれほど変わらなかった。変わらず一緒にお出かけをしたり、ランチをしたりできた。1人目が生まれた時も里帰りして面倒を見てもらった。ずっと専業主婦だった母でしたが、3人子育てが終わってから、ハンカチ工場のパートをしていた。裁縫が得意だったので、仕事内容はすごく合っているものだったが、正義感が強く曲がった事が嫌いな母は人間関係でとても悩んでいた。いつも、特定
検査入院の日、母は家を出るとき玄関から家の中を見まわした。そして言った。「4日ぐらいで帰れたらいいな」それは叶わなかった。5月に入院し、家に帰ってきたのは12月。帰ってきて数日後、その日私は介護の学校だった。初めて家にお医者さんが訪問してくる予定だったけど、姉が1日中家に来てくれて、土曜だったので夫も家にいてくれた。だから安心だったのと、帰ったら母が家にいる嬉しさで、学校の帰りにいつも一緒に行っていた直売所に寄った。何か食べれるものあるかな、夜ごはんどうしようかな、とうろうろ
母が亡くなりました。10月に綴るって書いたのですが、、たくさんの写真もあるのに。。覚悟はしていたものの、どうにもならない気持ちに襲われています。
人生最大の悲しみの日から1年。1年というとなんだかひと区切りのような気がしてあまりこの日を迎えたくなかった。私ももう55才、自分でも嘘でしょ!?と思うくらいの年になり、最愛の母は生きていれば89才。2025年2月、突然に終わってしまった母娘の時間。♪~私たちもうそんな頃よ~♪♪~変わりゆくものは仕方がないねと手を離す軽くなる満ちてゆく~♪この1年幾度となく風くんの言葉に自分を納得させながら毎日を過ごしてきました。悲しみに浸る間もなく、今まで
先週の木曜の夜母が永眠致しました。夕食後に胸の痛みを訴えたらしいといとこからライン。そして同じ晩に息を引き取りました。いとこから「ここ最近でかなり弱ってきているよ」とは聞いていましたが先々週に電話で喋った時には本当に普通だったし米寿のお祝いもしていなかったのとバレンタインデーだったので少し贈り物をしたのがこの火曜日に届いて喜んでいた矢先の急逝。2年前心臓の具合が悪くペースメーカーを入れる手術もしていたし心臓が疲れていたんでしょ
関東地方も雪が積もりましたね体重が減り脂肪が全くなかった母はいつも寒い寒いって言ってたね暖房ガンガンで私は気持ちが悪くなるぐらいだったのに。雪が降って寒かった本日寒くなる前に慌てて旅立ったのかな葬儀屋さんと打ち合わせ母が生前から希望していたようにしてあげるための打ち合わせが幸せで私たちらしく明るく和やかな打ち合わせそんなファミリーがいてもいいよね母の願いのひとつ仏花は華やかにしてほしい棺の上に置く花束も華やかに葬儀会社にお願いせずに私たちで花を選んで母に似合いそうな
『名歌名句辞典』(佐々木幸綱・復本一郎/三省堂)より選句荻原井泉水Ogiwara-Isensui陰(ほと)もあらわに病む母も別れか母親の病が進行し、下半身を隠せないほど衰弱している。母との別れは、もはや避けようもない状況。母の臨終を前にして、作者の喪失感と悲しみ。Theauthor'smother'sillnesshasprogressed,andshehasbecomesoweakthatshecannolongercoverthe
皆さんあけましておめでとうございますかなり久しぶりの投稿になりました昨年は母の死や…自分の闘病生活もあり…あまり良い思い出がありませんそんな年末に思い立って、生前…母と行くはずだったソウルに年明け早々1人で弾丸旅行へ行ってきました以前と違って体力も落ちていてあまり楽しむことは出来なかったけど1番の目的美容ツアーは楽しめました抗がん剤治療後の転移は今のところありませんだからこそ元気なうちに母の分も自分らしく好きなことをしようと決めた年始でした皆様にとって良い1年でありますよう
昨夜は実家にて、総勢17人の宴定時を過ぎると眠くなる娘と父クエやトラフグに妹はみんなにピザ年末まで主婦が忙しいなんてそんなのあり得ないから、紙皿、コップも使い捨てにしました。ゴミは増えるけどねこんな日があっても良いでしょ今年は無駄をなくす事が目標時間もお金も。昨年は、いっちゃんが生まれ、母との別れがあった。母との別れから学ぶことが多く、自分の命を大切に使いきって、大好きで、大切な人たちへの恩返しにかえる人生にしたいと思った。まず行動。そんな年にしたいな。
かわいいガラス仏具で大切な人の思い出を彩る専門店Bee-S(ビース)の住吉です🌸大好きなもので大切な方の場所をかざってあげたいその気持ち凄くわかりますお名前にちなんだ果物だったり好きなお花などご依頼いただくことがおおいですがお好きな食べ物でもスイカ柄はとってもかわいいので生地のご用意がありますたまたま見つけてくださったご縁でかわいいカバーをおつくりいたしました✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼いつもお世
父が他界した後寂しい寂しいとずっと言っていた母私たちきょうだいが住む街の高齢者施設に越してきて3年ほど老衰症状で食欲も無くなってきてあと何ヶ月持つんだろうと少なからず心の準備はしていた金曜日の夕方施設から母が発熱し、インフルエンザ陽性になったと連絡が来たその時夕方6時過ぎ発熱しているなら苦しいだろうと翌日早めに面会に行くつもりだった次の日の朝7:30ごろ施設からの電話『呼吸が止まりました。すぐに来てください』呼吸が止まったって…また回復する?…冷静に頭で
今日は四十九日法要母の魂が仏になる、重要な節目だそう。心の中にはいるのに、姿が見えないのが寂しい。声もしない。でも。母の声は、ハッキリ覚えている。こんな時、きっとこう言うだろうなって事も、ちゃんとわかってる。母が亡くなってから、みんなが集まることがまた増えた。母が喜んでいるかな、と思うけど、母がいる時に、そうして欲しかった。だから、心から喜べない。でも。「お父さんは大丈夫」と言っていた意味がわかる。母との別れが、それぞれの思いの形になっているのかな。帰ってき
おはようございますあちこちの赤はだんだんと少なくなってるけどまだ少しは楽しめますいよいよ冬になってくんですね母が亡くなってまもなく2年12/8は私にとって忘れられない日2年前の今は毎日毎日が本当に悲しくまもなく訪れる避けられない母との別れにどうしていいか分からなかった自分の親は亡くならないなんて何故か思ってた頃があった人は誰もいつか亡くなるんだってあらためて知った55歳の私も若い頃は想像すらできなかったこの先が少し見えるようになってきた毎日を大切に過ごしていこ
こんにちは。空気が澄み、色づいた木の葉が静かに散りゆくこの季節。一年という時の流れの速さをあらためて感じています。ふと、これまでの時間や、出会いと別れに思いを巡らせる方もいらっしゃるのではないでしょうか。私は、母と親友の旅立ちを相次いで見送るという忘れがたい一年でもありました。「出会うものは必ず別れ、あらゆるものは移り変わっていく」ご住職がご自分自身と母との思い出を交えながら語られた、「無常観や会者定離などの『この世の理』」のお話が、折にふれ胸に浮かびました。
かわいいガラス仏具で大切な人の思い出を彩る専門店Bee-S(ビース)の住吉です🌸大切な方を偲ぶ時間は、人それぞれ。別れのあと現実とこころのギャップで手を合わせられない方もいれば、毎日のように話しかけたい方もいらっしゃいます。Bee-Sでは、“悲しみの中にある優しさ”をそっと支えられるような、透明感のあるガラス仏具をひとつひとつお届けしています。・お母様の好きだった色で揃えたい・明るい雰囲気で見守ってあげたい・コンパクトな仏具で日常に寄り添いたいそん
今から札幌へ向かい、人生で一度きりの大切な時間を過ごしてきます。心と生活にアートを添えるお手伝いcocoro-ma(こころま)◎両方に参加してます
パートナーより数日まえに送ってくれていたりんご写真おさんぽ時に見つけたらしい10月29日母は突然お空へ旅だったお天気にも恵まれながら昨日母の葬儀で朝パートナーと一緒に弟宅へむかった母の柩(ひつぎ)に入れるものどうやら入れるものも規制が以前よりもちょいときびしくなったようであと県や市にもよるかもだがわたしたちの地区(神戸市)は果物まるままはダメらしくて貴金属プラスチック類もダメで。なので母との思い出どらやきは袋がプラなのでプラ袋から出し持参していた半紙にく
血は繋がっていませんが、私には飛騨の高山に両親がいます毎年両親に会いに、私は高山に行っていました母はいつも私が行きますと美味しいお料理を沢山作って迎えてくれていました母は食堂を経営していましたので長女夫婦や奈々と行きました時も手料理をご馳走してくれていました高山の両親は、以前新穂高温泉で民宿を経営していました私は北アルプスの登山を始めたのが12才の時でしたが、奥穂高岳から新穂高温泉ルートを下山しました時に初めてその民宿で高山の両親と出会いましたその時私は17才でしたあれから
母との別れから百日が過ぎ納骨堂で百箇日法要と合同追悼法要を無事に終えました。喪失感や看取り期の後悔に押しつぶされそうだった日々も少しずつ心がほどけ今は心穏やかに感謝の気持ちで手を合わせています。両親ともに見送った孤独感と不安はこの先も抱えながら見守ってくれることを信じ生きていかなければ…ですねෆ⸒⸒❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽先日は百合が原公園で花散歩を楽しみました♡̆̈野外花壇のお花たちは長い冬に向かい見納めの時期になりま
病室の母の様子を見に行くと、ナースステーションに一番近い個室に配置されていて、「ああ、もうそれくらい状態が悪いんだ・・・」と改めて思うのでした。母は色んな管に繋がれていたけれど、もはや痛々しいとも思わなかった。医療の管理下がどんなに心強かったか。モルヒネが効いて穏やかに横たわっている姿、とにかく苦しんでいないのが救いでした。最期は家で看取りたかったけど、この免疫力では無理だと悟ったのです5年の闘病を助けてくれていた主治医の先生はとても謙虚で穏やかな方で、母は自
10/1(水)17:36、母、吉松明栄が旅立ちました。最後まで笑顔とみなさんへの感謝を絶やすことなく、健やかな心で出立いたしました。「一流の女優は葬儀は密葬で、後で〝お別れ会〟しはるやん。私、あれがええわ」という本人の意向で、身内だけで旅立ちの姿に、手を合わせ、手を振って別れをしました。母には、死後の夢がありました。その夢を叶えるには、少し早い臨終となってしまい、合わせて厳しい残暑が立ちはだかりました。病院のスタッフが、手を尽くしてくださり、母も脳も身体も停止しているなか、魂で懸命に
vannyの公式にもすべてのサブchからも消えてしまっているこの歌オランダとインドネシアのハーフでオランダ国籍のダニエルサフレカさん1960年生まれの彼が思春期の70年代半ば両親の別離によって父親に従いインドネシアからオランダに移住した時に母との別れの悲痛な思いを歌にしたのが、この英語曲です70年代後半に、発表ユーロビジョンコンテストで優勝したと聞きました欧州も英語の支配的な地域限定❓当然、日本には知られていませんが英蘭だけではなく後年、里帰りもしたイン
先日も実家の片付けに行ってきました。私たちは母が亡くなってから別の土地に家を建てて引っ越したので、実家はいずれ手放す予定。今も実家近くに暮らす姉と待ち合わせをして、自分たちの手で少しずつものを処分しています。かれこれ3年半以上・・・普通の一軒家にしては、あまりにのんびりでも、私たちには、少なくとも私には、必要な時間だった。母は暑いのがとっても苦手な人だった。なのに、じっとしていられない性格だから、早朝から畑に行き、昼間はバスに乗って買い物へ、夕方また畑に行って、犬の散歩に行っ