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今年の桜おはようございます。お久しぶりです。四月の初めに松本に戻りました。先月はブログを書けなくて、今になりました。自宅に戻ってから毎週、夫と出掛けた時に撮った、今年の桜などの写真です。4/5松本城公園や本丸庭園にて4/12安曇野市にて4/12松本市内にて4/19信州スカイパークにて4/20安曇野市にて4/26安曇野拾ヶ堰にて今年は桜を見ていると、今までの思い出が蘇ってきて、かなしく思えた。この二ヶ月間…母との別れ二月と三月の二ヶ月間は、ほぼ大
やってきた転院の日。私は仕事だったので、姉が付き添い。母は車椅子に乗って、介護タクシーで家の近所の脳神経外科へ移動しました。仕事終わりに会いに行ったその病院は、夜なのもあり想像通り薄暗く、個室の部屋ももの悲しく感じた。その頃の母は、割とぼんやりしていることが多く、病院については何も言わなかった。その数日後、私の仕事が休みの日、姉と2人で担当医と面談の約束をしていた。時間通り担当医の前へ。おじいちゃん担当医は私たちが目の前に座っているにも関わらず、数分間ガラケーを触っていた。話し始
昨日は母の命日だった。もうあれから丸6年。母なしで過ごした6年。この間に犬と暮らし始め、家を建て、地元を離れた。犬と遊びながら、母なら「お芋さん持ってきたよー」って可愛がってくれたんだろうな、って思ったり、ここに遊びに来たら海沿いを一緒に散歩して、母なら少し離れたお寿司屋さんまで歩いて、帰りは直売所で買い物して帰ってくるんだろうなって想像したり。心の中にはちゃんと確かにいるんだけど、移住先の人は私の母のことを知らず、愛犬と母の写真は存在せず、私の未来にも母の身体は無いわけで、やっぱり
おはようございます。今回は朝ドラ「あんぱん」について書いています。ところどころ、話が飛び飛びになっているところがあります。ご了承ください。↓前回はこちら。『あんぱん(第一週)の感想』こんばんは。今日は1日風が強かったです。晴れていたと思ったら、雨降ったりと難しい天気でした。さて、録画していた第一週のあんぱんを観ました!!もう3週目ですね。…ameblo.jpあんぱん第二週。「フシアワセさん今日は(こんにちは)」★あらすじ朝田家は父が亡くなり、祖父の釜治の仕事と、母の内職での収入で
母が入院していたのは、地元では県立中央病院と並んで大きい大学附属病院。数年前に建て替えられたその病院は、とってもきれいで施設も充実してた。コメダ珈琲にタリーズ、食堂はもちろん、売店も充実。最上階へ登ると市内が一望できた。母から行きたがることはなかったけど、車椅子で外に出てみたり、売店に行ったり、市内を見ながら、「あっちは〇〇(地名)だね。あそこのパン屋さんまた行きたいね。」って話をしたり。今から思うと、母がそこに存在していて、触れることができて、話すこともできたあの頃、なんて幸せだ
さあ母との別れも済ませて明日から上野鈴本演芸場昼席恒例の大喜利高座舞です今年の組踊は『五万石』番組御案内鈴本演芸場の公式Webサイトです。www.rakugo.or.jpもちろん落語でもご挨拶申し上げます高座の出番は以下です是非皆様お越しくださいませ上野鈴本演芸場4月上席昼の部4月1日.4日.7日.9日.10日13時30分の出番是非お越しくださいませ♪
検査入院をした大学病院で脳腫瘍が発覚した母。疑わしい箇所だけではなく、全身検査をしてくれたようで、その結果乳がんと歯の欠けも見つかった。乳がんは細胞診をして詳しく検査。かなり小さいことと、年齢的に進行はとても遅いだろうということで様子見、無治療になった。歯の欠けに関しては大学病院内で3回ほど治療をして、ブリッジを作ってくれた。結果的に、母は脳腫瘍の術後、普通の生活に戻ることはできなかったので、あまり装着することはなかったけど、少しでもQOLを上げるために入院中にベストを尽くしてくれ
手術前は体調の悪さや身体の異変はあったものの、母はいつもの母だった。ところが、術後はたまに違う世界にいるようになった。実家にアシナガバチが住みついた話をすると、数日後には病室にも蜂が現れ怖がるようになった。来ていないはずの親戚がお見舞いに来たことになっていたり、若い男性の看護師さんが子供をたくさん育てるシングルファザーになっていたり普段全く電話しない人に電話をかけて、通じてるのか通じてないのかよくわからない会話をしたり。中でも1番多く登場したのは父。一時期、病室では父がいるのが当
#御曹司には恋はムズすぎる#11「俺たち、別れよう」自分はまどか(山下美月)の重荷になるだけだと考え別れを切り出した昴(永瀬廉)・・・翌日まどかの顔を見た成田(小関裕太)は、二人の間になにかあったのではないかと察しあることを思いつく。成田の誘いに・・まどかは「だれも信じられない」「口では好きといっても結局みんないなくなる。」「もうだれのことも信じられない」と昔母との別れを思い出しながら言う。それを遠くから見ていた昴は・・
膠芽腫の説明の時、手術後はサポートを受けながら自宅で生活する人も多いと聞いて、介護の相談のため地域包括支援センターへ。幸いなことに、実家から歩いて3分ほどのところにあったので、気軽に尋ねることが出来た。相談員さんも穏やかでとっても話しやすかった。事情を話し、その後は訪問員さんからの連絡を待つことに。同時に病院で主治医の意見書を依頼。電話はすぐに来て次の週に大学病院へ来てくれることになった。当日は「介護度重い方がお金でるからね今日は何日?って聞かれたら、適当な日にち言ってよ。」って私
昨日の仕事帰り救急車を避けて止まっているバスの中から横を通り過ぎる救急車を見ていたら母が最期に搬送された時のことを思い出して涙が出てしまったもう四年も経つのになんでいまさら
先週の母の見舞いの帰り道駅構内の売店でドリンクを2本購入するとご当地なんちゃらのグッズがいただけるというので購入しました息子にお土産話で持ち帰ろうとしかしそこの売店の方がこのノベルティ目的で買ってくれたの?もし良かったら、違うノベルティに近々変更になるからこの在庫捨てなきゃいけないのよ良かったら全部もらってくれない?え!!いいんですか!思わず周りを見渡してしまいました(客がおじさん1人いましたが、ドリンクは全く選んでいない方)もちろんいただきたいですおばさまに迷惑
特養に入ったときから、父は、大変だったのですが、私たちにとってその前のことを考えると徐々に静かになっていった父でした。まあ、急にドカンと雷が落ちるようなことは、何度かあったようですが。特養に入った日にあまりにも大変だったら、退所してもらうという話も出ていたくらいの父でした。それが、特養での生活が長くなり、そこが自分の家と思うようになっていった父でした。昔の生活は、特に覚えていたのですが、それが、特養の生活とごっちゃになっていった父でした。そして、母も入院をしてから父と一緒の生活ができ
放射線が終わり、アバスチンは続けられないとわかった母。あとはリハビリと定期的なテモゾロミド。それだけの治療では大学病院にはいられないとのこと。勧められたのは家の近所の脳神経外科。家から10分もかからないし、母も通院していて慣れている病院。でも、私は嫌だった。最終的に大学病院に行くよう促してくれた病院ではあるけど、その前から血圧の高さや体調不良を気にして通っていて母の病気に気づいてくれなかった病院。院内は薄暗く、お医者さんたちも高齢。積極的な治療を行えるようには思えなかった。私
名古屋市天白区平針駅前エステサロンSAKURAのムラカミです昨年の暮れは大変に忙しくて、、、と言うか、母との別れに、なんだか気分が乗れずにいて、それでもエステ通して、お客様と接すると私もパワーをもらえます。母が空へ、その空を見ながら「もう楽になったよね」「そっちで、皆と楽しくね」「長い間、疲れ様」っと、毎日々、話するのが日課で、なんか、見ている気がする思い出すことがいっぱいで、一つ一つそれは一生かかりそうです。自
母が入院していた大学病院と自宅と職場は線で結ぶと三角形になるぐらい、それぞれ離れた違う方角にあった。しかも、職場から病院は繁華街を通っていくため、時間帯によっては結構混み合う。病院から自宅は街中から郊外のため、夕方だとこれまた混み合う。フルタイムで働きながら毎日病院に行っていた私は、ほとんど家のことが出来なくなった。大学病院の時は、売店が充実していて、ご近所の洋食屋さんが作ったお弁当や市内のパン屋さんのパンなど、毎晩買って帰るようになった。(帰る頃は割引もしていた)結局、母の入院中
手術後まもなくはじまった放射線治療。脳腫瘍の場合、頭部を固定するためにまずマスクを作成する。その後、確か15回ほど強い放射線を当てた。放射線を当ててるからといって、母の具合は良くはならなかった。でも痛いとか、やめたいとか何も言わなかった。最終日に「今日で終わったよ。看護師さんたちが拍手してくれたよ。」って嬉しそうに話す母を見て、やっぱり楽な治療なんてないんだろうな、放射線も辛かっただろうな、と感じた。車椅子で大病院の人の中を通り、放射線室へ通うこと。外へ出る時や人と会う時は身なり
ICUを出たその日から、「廊下を歩いてみましょう。」と支えつきでリハビリスタート。でも、右側に力が入らない。足がぐにゃぐにゃして全く歩ける様子がない。右手も不自由。食欲はあるけど、自分でお箸を持って食べることが出来ない。トイレも自分で行けず、部屋におまるを置くことになったけど、そこまでの移動も看護師さんと私たちのサポートが必要。喋ることはできるし、頭もはっきりしてた。それが余計、残酷に感じた。母はきっと「手術したら良くなる」って思ってたはずだから。
翌日仕事だった私は迎えに来てくれた夫と姉と夜に病院へ。病院の面会時間は過ぎていたけど、ICUなので入れてもらえた。母は弱々しいものの話ができて、「夫くんの心配そうな顔」って言ってみたり、私と姉に「あんたたちがちゃんと来ないから、若い男の子にオムツ変えてもらった」って言ったり。この時は身体は動かなくても、頭はしっかりしてて、いつも通りの母だった。その翌々日にはICUをでて、一般病棟へ。個室にしてもらい、私と姉はできる限り入り浸ることになった。仕事の日も前か後に必ず病院へ、母の畑にも行
当日は姉と一緒に8時前に病院へ。入院してからなかなかよく眠れていなかった母だが、個室になり、睡眠薬ももらってぐっすり眠れた母は元気いっぱいだった。いつも通り騒がしくお喋りした後、お迎えに来てくれた看護師さんと手術室へ。手術室の扉が閉まる直前、振り返った母は「じゃあ、ちょっと行ってくるわ。」と吹っ切れた笑顔で私たちに手を振った。自分の足で歩く元気な母の最後の姿は今でも目に焼きついている。それからは家族用待合室へ。4畳ぐらいの和室で姉と2人きり。ぽつりぽつりと喋りながら、とてつもな
1月20日に母が他界して、今年の大寒で3回目の命日を迎えました。職場で連絡を受けて、泣きながら仕事をしたあの日。ちょうどコロナの真っ最中で、成田空港から各宿所で、まる2週間の完全隔離をしなければならなかったり…なんだかそれひとつとっても、遠い昔の出来事のような、、あっという間の3年間でもあったような、そんな気持ちです。今年はお墓参りにも行けなかったので、家で手を合わせました。私は亡くなっても魂はあると思っているので、鈍感で何も感じないけど、きっとあっちこっち行ったり来たりして
母が亡くなった96歳だったインフルエンザ感染して、それでも一度は治った!!施設のスタッフさんから、連絡「◯◯さん、お熱も下がりました。もう、元気になっていくものと思います。ま、お熱あった時も、◯◯さんは元気だったんですけどね^^;」こんなふうに言われて、めちゃくちゃ喜んだ嬉しかっただが、そこから1週間・・・施設から夫に連絡が入る酸素濃度が薄く、便が黒いので出血があるものと思う今から病院に搬送します、ご家族さまも向かってください・・・慌てて夫と合流して病院に向かう母と対面し
Aloha🌺ハワイに帰ってから目まぐるしく日常が戻り日本滞在記がなかなかUpできずにいました。前回の記事はこちらから『神戸港を離れて哀しさが増して』Aloha🌴久しぶりに乗る阪神高速もう10年は乗ってない気がする。ハワイに移住前は神戸に住みドライブが好きでよく走ってた。義兄に神戸港まで送ってもらいながら懐…ameblo.jp関空につくとハワイアンエアラインにはたくさんの人が並んでいでいました。自動チェックインマシーンが一時的に使えなくなっていて。。ハワイでは使えたのでチェック
かわいいガラス仏具で大切な人の思い出を彩る専門店Bee-S(ビース)の住吉です。一つ一つ手作りのかわいいガラス仏具Bee-Sではオーダーガラス仏具も承っております一緒に検討しながらおつくりしています一番多いのは既存のシリーズ仏具の雰囲気で色の変更をしておつくりする仕様です大切な方のことを思ってかわいいを考えるとき明るい思い出がよみがえりますその時間を共有させていただけることがとってもうれしいですピンクと紫の斜めの切り替えの仏具セ
脳腫瘍はできるのが脳なだけに、できた場所によって様々な変化が考えられる。あくまでうちの母の場合にはなるけど、兆候だったかなと思われるものを残しておこうと思う。検査をし発覚したのは5月。私が見ていて気になることが出てきたり、母が後から「そういえばあの頃から・・・」という兆候が出てきたのはその年の2月頃。・とにかく疲れやすくすぐに座る・顔色が時々悪い・指がうまく動かない時がある・靴が片方だけ脱げる・マレットゴルフが得意だったが、ボールを思うところに打てなくなる・連絡が頻繁になる(こ
週末に当番医に行って血圧の薬をもらって帰宅。帰り道、行き慣れた近所の直売所に寄ったけど、母は車から降りてこなかった。夜に電話。「やっぱり体調が悪い。ごはん作れないから、何か買ってきて。」とのこと。スーパーで買って持っていくと、置いてって、と言われ、顔を見ずに置いて帰った。週末が明けた仕事中、「近所の脳神経外科に行くとすぐに大学病院に行くように言われ向かっているから、迎えに来れる?」と母から電話。すぐには仕事を抜けられず、ぐずぐずしていると、「タクシーで帰ってきたよ。お昼買ってきて。
母は常に元気な人だった。そんな母がある病気になり、1年も経たずにいなくなってしまった。健康にも気をつかっていたし、食べ物も自分で野菜を育て料理して食べていたし、ちょっと不調があるとすぐに病院に行っていた母。普通に80代、90代になり少しずつ助けが必要になっていくのだろう、でもまだまだ先だろうと勝手に思っていた。その当時私たち夫婦は私の実家のすぐ近くに住んでいた。よく行き来はしていたけど、その年の2月頃から電話等の連絡が頻繁になった気がした。あまりに頻繁で、ちょっと嫌だな、と思って
Aloha🌴お葬式が終わりわたしは母の写真を胸に抱き火葬場へ。最期のお別れは…とてつもなく辛いものでした。それまで涙が出なかった。旦那さんをガンで亡くした時もなぜか涙がでなかった。けれど最期の最期のお別れは思い切り泣きました。それまでは突然だったのでなんで!ウソでしょう!ママ起きてよ!だったけれど火葬の直前はママありがとう!!ありがとう!ありがとう。パパが待ってるね。と。言葉が変わりました。感謝しかありません。火葬が終わり肩を落としながら葬儀場へ戻
Aloha🌺日本に着いた翌日にお通夜その次の日がお葬式でした。滞在ホテルから歩いて2分くらいでした。母に会うまで何も信じられない。朝早ったので誰もいなく母に対面。まるで今にも口もとが動きそうで喋りかけてきそう。嘘でしょう!!!ママ起きてよーとしか声がかけられない。何も信じることができない本当に。お葬式の日になり、棺の上に一枚の布をかけることになっていてその裏にみなさんメッセージを書いてくださいました。わたしが知らない母との交流をもった方、わたしたちの家族、親戚一
時々ブログの中で私の兄嫁さんはキツイところがあると書いてきましたが本当にキツイんですそんな兄嫁さんは退院後の母の面倒を看る気はなさそうでしたし私も姉もその兄嫁さんに介護をお願いするのも気が進みません母が怒られている姿が目に見えるから今でも実家で介護されるよりグループホームでお世話になる選択はベストな事だったと思っています人間誰しもいつかは別れが来る親が元気で長生きしてくれれば子供とし