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「武者の世の始まり」とされる、保元の乱は、日本の権力闘争の構造を根本的に変えた。藤原忠実、頼長と藤原忠通の政治的暗闘は、27年間続いたが、保元の乱の武力衝突により、一夜にして、決着したてしまったのである。更に、藤原信西は、薬子の変以来、平安時代を通じて、死刑を復活させ、源為義、平忠平等の武士を処刑した。平安時代の日本は、朝廷の公卿達が、政治を司り、権力の座を巡り、数々の陰謀を企て、政敵を陥れたが、武力を使うことはなかった。藤原北家を筆頭とする、公卿の政治抗争は、陰湿ではあったが
上皇と天皇、摂関家、源氏、平氏の各家の骨肉の争いは、崇徳上皇派が、藤原頼長及び、源為義、伊勢平氏の平忠正であった。後白河天皇派は、藤原忠通、源為義の長男、源義朝、伊勢平氏の嫡流で、平忠正の甥の平清盛であった。藤原頼長は、挙兵の正当性を得るため、崇徳上皇を擁立し、白河北殿に立て籠ったのである。1156年(保元元年)7月11日未明、平清盛の率いる、300余騎が二条大路を、源義朝の率いる、200余騎が大炊御門大路を、足利義康の率いる100余騎が近衛大路を東に向かい、午前4時頃、崇徳上皇派
藤原忠通は、既に、36歳になっていたが、男子が、生まれない事を危惧した、忠実は、忠通に、23歳年下で、13歳の異母弟、頼長を養子にするように勧め、1125年(天治二年)、藤原頼長は、兄の藤原忠通の養子となった。しかし、1143年(康治二年)、藤原忠通に実子の藤原基実が、生まれると、忠通は、摂関の地位を自身の子孫に継承させることを望んだ。そのため、藤原忠通は、異母弟の藤原頼長との養子縁組を破棄する。1150年(久安六年)正月に藤原頼長が、藤原公能の娘、多子を養女に迎え、近衛天皇に入内
1108年(嘉承三年)の正月の除目において、武家の平正盛が、「最下品」でありながら、「第一国」の但馬国の受領となる等、白河法皇の近臣が、多く受領に任じられた。その際、除目を主催したのは、藤原忠実であり、白河法皇への従属は、決定的になっていた。そして、5歳で、即位した、鳥羽天皇が、1113年(永久元年)、13歳になった。藤原忠実は、摂政から、再度、関白に転じるが、立場の弱さは、変わらず、永久の強訴で、藤氏長者として、興福寺の説得を試みるが、効果はなかった。白河法皇の北面の武士達が
藤原師通の長男、藤原忠実は、1078年(承暦二年)に生まれ、母は、藤原全子である。前述の通り、藤原師通は、全子と離縁し、藤原信子と再婚したため、忠実は、母の藤原全子を尊重して義母の信子の扶養を拒んだ。そのため、藤原信子は、「乞食」と揶揄される程の経済的困窮に陥ったと言われる。なお、信子の実父は、藤原隆家の次男、経輔である。1099年(承徳三年)、父の藤原師通が、急逝した際、22歳で、権大納言の藤原忠実は、年齢的には、最年少で、摂政となった、曽祖父の藤原頼通の26歳を大きく、
藤原師実の長男、藤原師通は、1062年(康平六年)に産まれ、1076年(承保三年)に、権大納言、藤原俊家の娘、全子を正室に迎える。藤原俊家は、藤原道長の次男の藤原頼宗の次男である。1078年(承暦二年)、藤原師通と全子の間には、長男の藤原忠実が生まれるが、その後、全子とは疎遠となり、前述の通り、藤原教通の息子、信長の養女、信子と再婚した。藤原師通と藤原信子の結婚は、摂家の主導権を巡って、長年対立していた、藤原頼通流と藤原教通流の確執に終止符を打つためであったが、実質的に離婚された、
当時の太政大臣は、既に摂政・関白にその権限を吸収されていただけでなく、左大臣以下の大臣の様に、実務に関わることは、完全になくなった、名誉職だった。表向きは、信長の昇進であるが、事実上の棚上げ人事であった。更に首席の権大納言、藤原俊家が、右大臣に、次席の藤原能長が内大臣に進み、停滞していた、人事は、玉突き状に一掃された。首席の権中納言、藤原祐家は、権中納言から中納言に進んだが、権大納言にはなれずに、席次が下の藤原実季(白河天皇の外伯父)、藤原師通(師実の息子)が、藤原祐家を超えて、権
藤原頼通には、六人の息子、通房、橘俊綱、覚円、定綱、忠綱、師実がいたが、頼通は、正室の隆姫女王を憚り、橘俊綱、覚円、定綱、忠綱を養子に出した。長男の藤原通房の母は、源憲定の娘であったが、子女に恵まれない、隆姫女王は、通房を自身の養子とした。しかし。藤原通房は、1044年(長久五年)、急病のために死去。享年。20歳。その結果、藤原頼通の後継者は、六年の藤原師実となった。藤原頼通の同母弟、藤原教通の三男の藤原信長は、頼通の養子となっていた。当時、藤原教通は、内大臣に過ぎないため
後朱雀天皇の即位後、1039年(長暦三年)8月に、藤原頼通の養女、後朱雀天皇の中宮の藤原嫄子が死去し、後宮は、皇后の禎子内親王(三条天皇皇女)、唯一の状況となった。藤原教通は、既に26歳になっていた、生子の入内の最後の機会と捉え、頼通の強い反対と妨害[9押し切って、12月に生子の入内を強行した。生子の入内に際し、藤原頼通が、最後まで反対して、輦車を貸与せず、教通は、自前で、輦車を新しく作って、準備せざるを得なかった。更に頼通への遠慮から、入内に随行した、殿上人は、僅かに5名(藤原経
1061年(康平四年)、70歳の藤原頼通は、太政大臣に任ぜられ、位人臣を極めた。翌年の1062年(康平五年)、頼通は、父の道長の例に倣い、太政大臣をわずか、1年で辞した。同年に、10年以上に及んだ、前九年の役が終結する。1067年(治暦三年)、藤原頼通は、関白を辞して、准三宮を宣下された。後任の関白には、同母弟の藤原教通が、就任した。1068年(治暦四年)3月、後冷泉天皇が、危篤になると、長年、冷遇していた、皇太子の尊仁親王の即位は、避けられなくなった。藤原頼通は、同月
しかし、藤原頼通は、「一家三后」を実現した、父の藤原道長と異なり、子女は、長女の藤原實子のみであった。なお、頼通には、六人の息子がおり、娘が、一人のみは、珍しい。藤原實子は、1036年(長元九年)の生まれのため、992年(正暦三年)生まれの頼通には、44歳まで、娘が、誰一人いなかったのである。藤原頼通は、正室の隆姫女王の妹の娘、嫄子を養女に迎えた。嫄子の実父は、一条天皇の第一皇子、敦康親王であり、母は、藤原定子であったが、20歳の若さで、死去していた。嫄子の母は、村上天皇の
前述の通り、1016年(長和五年)、藤原道長の外孫、後一条天皇が、即位すると、道長は、摂政に就任した。翌年の1017年(長和五年)藤原道長の長男、頼通は、内大臣に累進する。そして、藤原道長は、摂政を辞任し、父に代わって、藤原頼通が、摂政の宣下を受けると、藤氏長者を譲られた。藤原頼通は、その年、僅か、26歳で、史上最年少の摂政である。藤原頼通は、1019年(寛仁三年)、関白に就任し、1021年(治安元年)、左大臣に転じた。藤原道長は、息子の頼通を後見し、依然として、政治的影響
藤原道長は、三条天皇の治世に入ると、兄の藤原道隆と同じことを始めた。藤原道長は、自身の息子達を強引に引き立てるようになったのである。長男の頼通は、20歳で、正二位・権中納言、次男の教通は、16歳で、正三位であった。しかし、藤原伊周が、21歳の時点で、内大臣に任官していることと比較すれば、左程、強引と言えないかもしれない。藤原道長は、当初から、長男の藤原頼通を藤原北家の嫡流の後継者として、考えており、頼通は、1017年(長和六年)、26歳の年、内大臣に任官し、父の道長から、摂政の
藤原道長は、996年(長徳二年)、31歳の年に、当時の一上であった、左大臣に任官し、以降、1017年(長和六年)、51歳の年に、摂政を辞任するまでの20年間、太政官の頂点に立って、政治的実権を握り続けた。藤原伊周の生前は、甥の伊周と対立していたが、伊周が、1010年(寛弘七年)に死去すると、最早、藤原道長の政敵はいなくなった。藤原道長は、三条天皇に譲位を迫り、外孫の後一条天皇を即位させると、「一家三后」を実現した。それでは、本項の主題について、語りたい。位人臣を極め、天皇の首を挿げ
1020年(寛仁四年)3月、御堂の落慶法要が行われ、藤原道長の娘達の三后、太皇太后の彰子、皇太后の妍子、皇后の威子の行啓を伴う、盛大な儀式であった。2年後の1022年(治安2年)7月には金堂の供養が行われ、三后に加え、後一条天皇と皇太子の敦良親王が、行啓している。藤原道長は、造営した、法成寺に居住した。1025年(万寿二年)~1027年(万寿二年)の間に、藤原道長は、敦明親王の女御、三女の寛子、敦良親王の妃、六女の嬉子、三男の顕信、そして、皇太后で、次女の妍子と、四人の子供達に次々
作家の井沢元彦氏は、『逆説の日本史』において、朝廷が、刀伊の入寇の最大の功労者、藤原隆家に恩賞を与えなかったのは、朝廷の「危機管理能力の欠如」であり、その伝統が、戦後の日本の所謂、「平和ボケ」による、危機管理能力の欠如に続いていると、断じている。朝廷の公卿達は、刀伊の入寇に対して、危機意識を有していなかったのである。前述の通り、太政官は、陣の定めにおいて、「どのような恩賞を与えるべきか」ではなく、「恩賞を与えるべきか、否か」を論じたのである。平安時代、桓武天皇の「徳政論争」以降、日
しかし、996年(長徳二年)正月、藤原隆家は、従者の武士を連れて、花山法皇の一行に矢を射かけて、法皇の衣の袖を弓で射抜く、事件を起こす。その事件を藤原道長に利用され、4月になると花山法皇奉射・東三条院呪詛・大元帥法実施の罪状、三ヶ条を以って、隆家は、出雲権守に、伊周は、大宰権帥に左遷され、中関白家は、凋落した。998年(長徳四年)5月に藤原詮子の病による、大赦を受けて、帰京する。同年10月に、兵部卿として、官界に復帰し、1002年(長保四年)、権中納言に復し、1007年(寛弘四年)
1019年(寛仁三年)3月末~4月、刀伊の入寇が、発生した。刀伊とは、朝鮮の高麗語の高麗以東の夷狄である、東夷を指し、日本語の刀伊を当てたとされる。刀伊は、戦前の満州の女真の一派とされる、集団を主体とした、海賊である。刀伊が、壱岐及び、対馬を襲い、更に、九州に侵攻したのが、刀伊の入寇である。1019年(寛仁三年)3月27日、刀伊は、海賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで、突如として、対馬に来襲し、島の各地で、殺人、放火、略奪を繰り返した。対馬の被害は、36人が殺され
ここ暫く、気持ちが微妙に下降気味でした。え?ノーテンキ過ぎて、私のそんな違いがよく分からない?と思った貴方!鋭いですね。今日は!一味も二味も違って、晴れやかな気分です。本屋さんに行ってみました。するとどうでしょう?いつもは、注目の本コーナーを横目に見て、へぇーで終わるのに、今日は、買ってしまいました。新・古代史グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権(NHK出版新書)Amazon(アマゾン)↑遺跡からの発掘品の考察が、メインのようです。古代日本語?というか、古くから
藤原頼通及び、一上の藤原実資は、重大な案件に関しては、出家後の道長に判断を仰いだ。しかし、道長の意見が、摂関、太政官の方針に異論を挟んだ場合にて、頼通達が、必ずしも、道長の意見には従っていない。引退後の道長は、強力な影響力を持っていたが、宮廷の政策決定の枠から外れているため、在任中の様な、絶対的権力を有していないと考えられる。1018年(寛仁二年)3月、藤原道長は、11歳になった、後一条天皇に対し、自身の三女の藤原威子を女御として入内させ、10月には、中宮とした。藤原道長の代名
実は、藤原氏の歴史において、天皇の外祖父が、摂関になったのは、藤原良房、藤原兼家、そして、藤原道長が、三人目である。歴代の藤原氏の摂関は、基本的に天皇の外伯父、即ち、姉妹が、天皇の母であった。無論、藤原氏を母とする、天皇は、藤原氏の外孫ではあるが、存命中に、外孫が、皇位を継承したのが、良房、兼家、道長であったのである。藤原道長は、995年(長徳元年)、30歳の年に、内覧の宣下を受け、藤原氏長者となった。藤原道長は、右大臣として、一上となったが、翌年、左大臣に昇進した。しかし
その頃、藤原道長との関係改善を図るため、三条天皇は、第二皇女の禔子内親王の頼通への降嫁の打診がある。道長は、一旦同意するが、道長の長男の藤原頼通は、妻の隆姫女王への思いに悩んで、重病に伏し、禔子内親王との縁組は成立しなかった。藤原頼通の病床には、隆姫女王の父、具平親王の霊が現れて、涙ながらに訴えたとされる。10月下旬になって、藤原道長は、官奏を見ることを受け入れることにし、三条天皇は、道長に准摂政を宣下して、除目を委任し、自身は、与らぬことを詔した。道長は、准摂政に就任後、一上
その後、藤原道長は、重病に伏して、一時は、飲食物を受け付けないほど状態が、悪化し、致仕の上表を行う。道長の病について、前述の通り、比叡山に騎馬で登ったため、日吉大社の祟りを受けたためと噂された。藤原道長は、病のために焦ったのか、自身の息子達の昇進を強引に進めた。藤原道長は、兄の藤原道隆の中関白家と同じことを始めたのである。1013年(長和二年)、倫子の長男、藤原頼通を、四納言の藤原斉信・公任と肩を並べる、権大納言に任じ、倫子の次男の藤原教通を権中納言、明子の次男、藤原頼宗を
戦後になって「渡来人」の評価が一転した事情過大評価?実にわかりにくい渡来人の実態戦後になって「渡来人」の評価が一転した事情渡来系豪族を「渡来人」と総称することは、白人に征服される前のアメリカの住人を「インディアン」と呼ぶのに等しい行為であるらしい。イギリス人などの白人が移住してくる前の北アメリカ大陸には「アメリカ先住民…toyokeizai.net「渡来人」は意図的につくられた概念といえるワケ日本古代の文献で用いられた言葉ではない「渡来人」は意図的につくられた概念といえるワケ日本史の研究者
しかし、藤原娍子の立后の日及び、藤原妍子の参内の日が、同じ、4月27日に重なった。当日は、藤原妍子の参内の儀を終えた後に、娍子の立后、即ち、本宮の儀が、開始される、予定であった。実際、同日に参内した、藤原妍子は、娍子の本宮の儀に参列しており、両方の儀式を掛け持つことは、不可能ではなかったのである。しかし、藤原道長は、藤原娍子の本宮の儀を欠席する。道長を憚り、右大臣の藤原顕光は、病気と称し、内大臣の藤原公季は、物忌と称して、本宮の儀を欠席した。それを見た、公卿・殿上人が、数多
1011年(寛弘八年)5月下旬、一条天皇は、急病に倒れ、5月27日には、道長に対して、譲位の準備を指示する。譲位に先立って、一条天皇は、厚く信頼する、権中納言・藤原行成に対して、第一皇子の敦康親王の立太子の可否を相談する。藤原行成は、一条天皇に対して重臣及び、外戚の藤原道長が、外孫の第二皇子、敦成親王を皇太子することを欲する。一条天皇が、敦康親王を東宮に立てることを欲しても、藤原道長は、簡単に承知せずに、政変の発生、不満・批判が、巻き起こる可能性を考える必要がある。そのため、
これから投稿を考えて日本古代史の基本的なことをまとめておきます。石器時代(約4万年前~)南方の東アジア、大陸から朝鮮半島経由、台湾経由など北方からシベリアをから人類が日本列島に移住します。DNAではC系統、D系統とされています。縄文時代(約1万5千年前~)火や土器の文化が登場して縄文時期土器が普及集落を作り共同で狩猟などを行い生活広い公営気範囲があり部族同心お混血が繰り返され縄文人と呼ばれるようになります。弥生時代(約紀元前500年~西暦250年)大陸では秦の始皇
筆者が、長々と『光る君へ』の解説をしたのは、藤原道長の時代の登場人物達について、イメージして欲しかったためである。前述の通り、『光る君へ』は、フィクションの要素が、多分に含まれているが、藤原道長の周囲の人物、事件等は、史実を許に独自に解釈している。平安の貴族社会を扱った、ドラマは、少ないため、筆者は、本作をオススメする。話を史実の藤原道長に戻すが、中宮の藤原彰子は、入内後10年近くを経て、一条天皇との関係は、良好であったが、一向に懐妊の兆しは、無かった。藤原道長は、一条天皇の長
藤原道隆の一族、中関白家の道隆の嫡妻、高階貴子を演じるのは、板谷由夏。藤原道隆の長男、藤原伊周を演じるのは、三浦翔平。三浦の得意な過剰演技が、伊周にハマっており、面白かった。道隆の次男、藤原隆家を演じるのは、竜星涼。花山法皇に矢を放ち、中関白家の没落の契機を作ってしまった。隆家は、胆力があり、弓術に優れている。藤原道隆の長女、一条天皇の中宮、藤原定子を演じるのは、高畑充希。中関白家のため、4歳年下の一条天皇に入内する。一条天皇は、定子を寵愛し、藤原伊周を藤原道隆
『光る君へ』では、藤原為時が、12年間、散位であったため、まひろは、弟の惟規と共に非常に貧乏な暮らしをしている、様子が、描かれている。また、まひろの母は、藤原為信の娘であるが、本名は、不明で、本作での名は、「ちはや」である。ちはやは、第一話で、藤原道長の兄、藤原道兼に斬殺されてしまうのである。『光る君へ』で、藤原兼家を演じるのは、段田安則。兼家の嫡妻、藤原時姫を演じるのは、三石琴乃。藤原兼家と時姫の嫡男、藤原道隆を演じるのは、井浦新。藤原道兼を演じるのは、玉置玲央。