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アマプラで見られます。犬神家の一族的な、ミステリーでもあり、水木先生の戦争体験なども織り込まれていてなかなか興味深い話です。主人公の新聞記者も少し嫌なやつだし、でもリアリティがあって感情移入はできました。始めの10分をみたら、とりあえず、面白く見られるのでは?鬼太郎の話はいろんなバージョンがあるので、まあ、細かい話にはこだわらなくていいかなと。。。これからの日本を憂いてるところは、なんか、考えさせられるものがありました。昔に比べて良くなっていますか?日本は?
映画祭りしたよん🧡🤣GW前半は仕事だったから、日勤仕事終わりの夜勤前にAmazonで映画2本見💚🤩どっちも面白過ぎて久々真剣に一気見💛🤩どっちも戦争体験したPTSDが関連してて、内容シリアスだったけど、ゲゲロウもゴジラもカッコ良すぎ💛🤩🤩🤩見る価値アリ💚💙💚💙
皆様、ご機嫌YOです!「ゲゲゲの鬼太郎」などの代表作を生み出し、様々な魅力的な妖怪を掘り起こし、生み出した漫画家、故水木しげる氏。水木しげると言えば妖怪漫画のイメージですが、それと同時に彼は太平洋戦争を題材とした数々の戦争に関する漫画も生み出しているのです。それは彼が徴兵されて南方戦線で味わった地獄のような体験から来る説得力のある作品であり、彼が戦争を徹底して忌み嫌う理由でもあります。今回はそんな水木しげる、本名武良茂氏の過酷な戦争体験を一緒に見ていきましょう。【水木しげる】
太平洋戦争末期の学童疎開に関する情報を集めるため、インターネット検索する中で、2023年6月22日付け琉球新報の次の記事が目に留まりました。その記事の一部を紹介します。~学童疎開の手記、36年越しに発刊首里第二国民学校の体験者「沖縄楢木野会」~首里第二国民学校(現在の那覇市立城西小学校)の学童疎開体験者らでつくる「沖縄楢木野(ならぎの)会」はこのほど、学童疎開記録集「五丈の松と大いちょう」を発刊した。米潜水艦に撃沈された対馬丸と同じ船団などで集団疎開した。熊本・阿蘇での疎開体
振り返るジョンさんがボイスオブアメリカで活動していた日々は猛烈で刺激的だった世界中のすばらしい・新聞記者・作家・哲学者・詩人などと知り合うことができた彼らの価値観や感性を身近に知り感じられたことがジョンさんにとってかけがえのない戦争体験になった
2024年4月30日のブログで、高尾山歴史探訪登山の様子について紹介しました。その際、確認できた戦争遺跡は数々ありました。最初に出会ったのは、西側のレーダー施設基礎跡【写真①】です。登山道から少し離れているため、その場所はわかりにくいです。現在、周囲は樹木に覆われており遠くを見渡すことはできません。当時は、レーダー監視方向の西側には樹木がなかったのではと思われます。次に出会ったは、登山道脇に設置された防空壕跡【写真②】でした。レーダー施設を攻撃された際の避難場所で、
作家の宗田理さんが4月8日に名古屋市内の病院で95歳で死去されました。宗田さんは昭和3(1928)年生まれ、戦争一色の少年時代を生きてこられた方です。学徒勤労動員として働き、特攻隊の訓練も受け、常に死を意識して生きてこられました。『早咲きの花~ぼくらは戦友』角川つばさ文庫2019年を読み終え、主人公の植松真次の姿は、同時代を同年齢で実際に生きた宗田さん自身の体験や思い、願いに重なって描かれていることが理解できました。父親の戦死、父の実家である愛知県三河地方への転居、そこでのガキ
2024年2月6日のブログで、絵本『赦しの花』にまつわるお話を紹介しました。手紙とともにいただいて大切に保管しておいた朝顔の種を、4月の終わりに植木鉢に12粒ほど蒔きました。それから2週間近くかかったでしょうか。4月30日の朝、植木鉢を見るとなんと双葉が出ているではありませんか。この夏に花を咲かせ、種を少しでも多く収穫して、私の友人に広げていきたいと思っています。もう少し芽が出てくるのを期待して、毎日玄関前に置かれた植木鉢を眺める日が続いています。時々、このブログでも紹介していきたい
こんにちはまつじゅんです!『あの花の咲く丘で、君とまた会えたら。』前回、家族で映画を観たと書きましたが『祖父の戦争体験【映画あの花の咲く丘で君とまた会えたら】』こんにちはまつじゅんです!ゴールデンウィークですね!ずっと観たかった映画を家族でみました!映画館での上映は終わってしまったため、U-NEXTの配信です。この春…ameblo.jp実は私はその前に本を読んでいました。(本でも泣きました)あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。(スターツ出版文庫)Amazon(アマゾン)文の
今日、5月1日は父の命日。かれこれ15年が経つ。もう15年が経つのか・・・・。今では回忌はやらなくなってしまったけど、お彼岸やお盆の時は仏壇の前で手を合わせている。生きていれば90歳。昭和一桁生まれで、戦争体験している。(戦時中は小学生くらいの為、出征はしていない。)今日は冷たい雨。父の事を思いながら過ごそうと思う。
2024年4月27日(土)の午前中、予定通り出雲市日御碕にある高尾山へ太平洋戦争時の戦争遺跡を巡りながらの登山を実施しました。出発当初は曇り空で気温もあまり上がらず、心地よい風が吹き通る若葉のトンネルとなった登山道をゆっくりと登りました。この高尾山道路では、昭和17年(1942)の1学期、日御碕国民学校の3年生以上の児童が、数回にわたって砂やレンガを運び上げる勤労作業に当たりました。地元の日御碕の人々や大社中学校、高等女学校の生徒、近郷の青年団、簸川郡や出雲市の生徒たちも、毎日入れ替わ
いつ我が家へ帰ることができるか知れない旅にでるいつ家族が戦争で命を奪われるか分からない日々を過ごす今日交わした明日の約束が保障されない明日が訪れる今を生きる子ども達が、とても想像できない日々を体験した小学生がいたことを知ること。この事実との出会いや学びは、今を生きる子ども達の「戦争を身近に感じる・考える入口」になるはずです。「学童疎開」について、児童が直接手に取って考える資料にはどのような書物があるでしょうか。現在、私の手元にある資料を紹介します。〇『字のないはがき』
自身の学童集団疎開の体験をまとめた『僕の戦争/三宿小学校の学童疎開』川原基尚・川原芳子・文芸社2023という書籍があります。東京都世田谷区立三宿国民学校は、8月13日に長野県東筑摩郡山辺村湯原温泉へ集団疎開のため出発しました。筆者は当時6年生で、その時の自身の記憶や友達が書き残した日記の内容が紹介されています。【出発の様子】〇出征兵士の見送りのような雰囲気の中、万歳の声に送られて出発した〇家の工場の人たちのたくさんの提灯に見送られた〇母は、わが子と生きて会えなくなるのではと思い
3回生から卒業まで、西三本木通荒神口下ルの先生のお宅までお茶のお稽古に。コーラスの先輩のご紹介で裏千家。ご主人が鞍馬口で道具屋さんをされているとかで、学生には分不相応なお道具に接することも。通ったのは1年余りでお茶の方は大したことはありませんが、襖の開け方、畳の部屋の歩き方、ご挨拶の仕方などはみっちり。そんな訳で、お茶と言えばやっぱり裏千家に親しみが。先の家元・鵬雲斎宗匠のお話の第二回は戦争体験。西村晃さんとたったお二人、待機命令中に敗戦となり、特攻隊舞台から生還されたこ
8月5日(月)に開催予定の教員研修「集団疎開体験者の証言を聞く会「大社へ集団疎開した本田国民学校の子ども達」」の講師の方を島根に迎え、研修内容の打合せや研修会場の確認等を実施しました。ご本人のご希望により、当日と同じ航空便・宿泊ホテルで島根においでいただき、まず最初にホテルのロビーで約1時間30分にわたる打合せを行いました。事前にお送りした研修会スライド資料をもとに、どのようなお話をしていただけるかひとつひとつ確認しました。講師の方のお話を聞かせていただきながら、この貴重なお話がい
「戦争が終わった次の日を見ることが、あたしたちにはあるのかしら?」『あの日のオルガン~疎開保育園物語』久保つぎこ・朝日新聞出版201を読み終えて、一番印象に残った言葉でした。太平洋戦争末期、東京から埼玉県南埼玉郡へ集団疎開した恩賜財団大日本母子愛育会の疎開保育園の保育士であった福光えみ子の言葉として紹介されていました。いつ終るか知れない連日の空襲による恐怖と絶望、24時間保育による重労働、食料不足、睡眠不足の中で、20代前半の若い保育士達のまさに「保育士たちの戦争」を描いた物語で
毎年、朝日新聞社は教育特集「知る原爆」「知る沖縄戦」「知る水俣病」を発行しています。今年度の無料配付の案内が、4月16日にホームページに掲載されました。「知る原爆」は主に小学生以上が対象の資料です。漫画「はだしのゲン」作者の故・中沢啓治さんのインタビューや、広島、長崎修学旅行ガイドなどが盛り込まれています。広島への修学旅行の事前学習資料として最適かと思われます。希望する学校は、希望する特集名の「知る原爆」、学校名と住所、電話番号、担当者名、必要部数を記入して、ファクス
小学校での平和学習のお手伝いとして、大阪から島根にやって来た集団疎開についてお話しています。昭和19年年には国民学校の3~6年生の児童が対象となり、昭和20年3月には1~2年生も参加対象になりました。私の説明を聞いた子ども達から、「どうして1~2年生は、最初疎開の対象にならなかったの?」という質問を受けることがあります。小学校低学年の児童は、身のまわりの支度が自律できておらず、引率の先生だけでは管理が難しいことが一番の理由だったと思われます。「防空訓練の足手まといにならぬ
『政治的配慮のチカラで大豆信者となってしまった日本人』『向こう見ずは天才!高級会員制リゾート東京ベイコート倶楽部でランチ会開催しました』『芦屋ベイコート倶楽部で楽しいランチ会』実は高級会員制リゾートサンクチュ…ameblo.jp今更ですが、、アカデミー賞受賞のゴジラ生誕70周年記念作ゴジラ-1.0観てきました。映像が素晴らしいと聞いていたのでどうしても、映画館の大画面で観たいと思ってました!仕事終わってからで20:50-22:50という遅い時間でしたが横浜駅前の映画館で観るこ
島根県出雲市立荘原小学校の校地内には、古墳時代中期の「神庭岩船山古墳」があります。全国的に見ても、校地内に古墳がある学校はめずらしいのではないでしょうか。この古墳は、昭和43(1968)年に島根県指定史跡になった前方後円墳です。後円部頂上には長さ2mあまりの来待石の舟形石棺の蓋があり、古墳時代中期の出雲地方では規模の大きな前方後円墳です。しかし、太平洋戦争の際にこの古墳の北側(校庭側)に2ケ所の防空壕が設置されました。掲載した測量図の北(下)に確認できる二箇所の掘り込み跡が
太平洋戦争末期の昭和19(1944)年9月、大阪市西区にある国民学校14校の学童約3,000名が島根県に集団疎開しました。あれから80年という月日が経過しました。当時の国民学校の児童たちは、ふるさとや親元から離れ、見知らぬ土地で戦禍を逃れ、厳しい環境の中で疎開生活を続けました。学童疎開実施80周年を記念して、小学校教員対象の研修会「集団疎開体験者の証言を聞く会~大社へ集団疎開した本田国民学校の子ども達」を8月に開催します。今年2月に大阪へ出かけ、中山耕一さんとお会いして講師依頼をし
太平洋戦争末期の昭和19(1944)年9月、大阪市西区にある14の国民学校の学童約3,000名が島根県に集団疎開しました。それから今年で80年という月日が経過しました。当時の国民学校の児童たちは、ふるさとや親元から離れ、見知らぬ土地で戦禍を逃れ、厳しい環境の中で疎開生活を続けました。集団疎開実施80周年を記念し、小学校教員対象の研修会「集団疎開体験者の証言を聞く会~大社へ集団疎開した本田国民学校の子ども達」を開催します。この研修会は、PIECEofPEACE島根教師の会、島
太平洋戦争中に日御碕にある高尾山周辺には、陸海軍の見張所やレーダー基地が建設されたという歴史があります。「PIECEofPEACE島根教師の会」の今年度の研修会として、2024年4月27日(土)に、戦争の遺跡を訪ねながら登山を実施します。360mほどの高さで、資材荷揚げのために造られた登山道です。比較的勾配の少ない登山道になっていて、登りやすい山です。当日の様子は、あらためて紹介したいと思います。天気になる事を今から祈っています。今回は、周辺地図を紹介したいと思います。【高尾
こんばんは、医療従事者のための心理カウンセラーの春風ゆみです。カウンセリングを学ぶとしんどい生き方をしている方に戦争が影響している方がおられことがわかります。実際に私も初めてカウンセリングを受けたときに父の戦争体験が私の生き方に影響していたことがわかりました。戦争はその家族にとって3代にわたり影響すると言われています。1人の人の戦争体験でうけたトラウマはその家族に大きく影響し連鎖してゆくのです。新聞の連載で『戦争トラウマ連鎖する心
過去の出来事を知るための方法は、残された文献資料や体験者の証言があります。官庁が作成した資料の信頼性は高いものがありますが、次のような証言に出会い、歴史の実際は様々であることが分かりました。大阪西区・九条北国民学校の学童は、戦禍を逃れて昭和19年9月に島根県東林木・西林木村へ集団疎開します。「6年生男子は、出雲市西林木町にある龍善寺を学寮とした」の記録があります。これは、『大阪の学童疎開』(赤塚康雄・クリエイティブ21)に記載されている記録です。しかし、当時九条北国民学校6
温泉祭りの催しの中でブルーインパルスが上空を舞うイベントがある予定だった事で市民のほとんどが空を見守った。が天候不良で残念ながら中止となった。幸い昨日のリハーサルでは六機がきれいな三角形を作って華麗に飛ぶ姿を感動しながら、運良く目に焼き付けたので目の保養となって、ラッキーだと思った昨日だった。今日は、花見方々市営の公園に出向き友人と一緒に上空を見守ったのだがご年配の戦争体験をされた方々の中に上空を指差して、戦闘機が飛んでいると言ってた人がいた、と教えてくれた。当時
お久しぶりです。2024年6月28〜30日、中野ザ・ポケットにて上演されます。プラチナネクスト第29回公演のご案内です。加藤道夫の小品3作品を上演します。メインは「思い出を売る男」劇団四季にて上演を重ねて来ました。残る2作品は「街の子」「誰も知らない歴史」こちらは本邦初演になるのではないかと。どちらもラジオ劇の小品です。ワシは「誰も知らない歴史」で六蔵爺やとして出演します。演出の的早孝起さんは文学座の若手演出家の一人。若手と言ってももう40歳になられるとか
風化させてはならない記憶をよみがえらせた活動なぜ彼女は号泣したのか?▶️再生⚙️1.25〜1.5倍速推奨「Zストリーム」配信スタート今回は東京大学4年の庭田杏珠さんをお招きして、記憶の解凍プロジェクトとは?白黒写真をカラー化する理由や活動のきっかけについてお伺いしました「Zストリーム」配信スタート今回は東京大学4年の庭田杏珠さんをお招きして、記憶の解凍プロジェクトとは?白黒写真をカラー化する理由や活動のきっかけについてお伺いしましたご視聴はこちらhttps://
1972年公開の深作欣二監督作。昭和40年代に実際に実話っぽい話を小説化したのを原作として二本の原作を一本に纏めて映画化した強烈な反戦映画。深作欣二といえばこの後に実録シリーズで次々とHITを飛ばしていく監督ですが、この映画も妙に生々しくて強烈ではあった。元陸軍軍曹がなんら証拠裏付けのないまま敵前逃亡ということで処刑されたのであるが、未亡人は執念と言おうかどうにも主人が敵前逃亡したとは信じられない、あわよくばニューギニアなんで横井さんや小野田さんのように生きてい
Tohip方言戦争体験とかですかw現在方言離れが続いており県外出身者公共の場では方言などは一切通用せず医学的に言語に障害があるとみられ方言はこのざま9課