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2024.11.4.~6.今回は、以前より行ってみたかった甲斐の国へ(甲府)お泊り遠征~計画を立ててる時に、移動で悩んでいたのだけど新幹線と電車移動で甲府行きだと、片道5時間半かかるので往復でほぼ1日無駄になってしますそこで!一日有休を取って2泊3日の遠征にそして、道中で掛川を挟み、掛川からはレンタカー移動としました4日。朝一の新幹線で掛川へ9:07ここからレンタカーで出発です掛川のマンホール先ずは、掛川城🏯へ復元された大手門
「大高城」に行ったら、ここも見なくては(前回の記事で「大高城」レポしてます。)「鷲津砦」に行ってみた!「鷲津砦」ってどんなところ?砕いて説明(わたしが調べた情報を簡単に噛み砕いて書いてます。間違いがあったらすみません。)織田信長は、今川氏の「大高城」を兵糧攻めで攻めようとした。(元々「大高城」は織田氏のお城だったらしいから、取り戻そうとしたのかなと思ったり😶)兵糧攻めをするには、「大高城」に兵糧つまり食べ物が届かないようにする必要がある。そこで信長は
台北の忠烈祠へ前回に引き続き、台湾の史跡巡り。台北市にある忠烈祠です1942年台湾護国神社がこの地に創建。1966年社殿が取り壊され、跡地に国民革命忠烈祠が建設される。牌坊(中国の伝統的建築様式の門)一糸乱れる事なく進む衛兵の交代式が有名です。広場と山門大殿と回廊海外でも史跡巡りができて幸せです最後まで読んで頂き有難うございました
GROMです年間走行距離は、1,169km昨年と、ほぼ一緒近場で史跡巡りGW中のひとコマアジフライツーリング特に変更なしです。モンキー125同様、opmidメーターを新型に変えました〜
とっても良いところでした名古屋駅から電車に乗って、城跡の最寄り駅まで。大高駅に到着すると、広めのロータリーがありました。駅裏には大きめの自転車置き場があって、地元の人が使う大きい駅って感じでした。スマホでナビをしながら目的地に向かいます道が狭くて、車は無理らしいという情報があったので、徒歩で向かいます!史跡散策路「大高城下コース」なるものがあって、歩きながらいくつかの立て看板も発見しました。平坦な道もあったけど、途中から登り坂が多めになるので、荷物は少なめのが良さそう
ずっと行ってみたかった「晴明神社」に行ってきた日のお話しの最終章は気のせいかもしれないけど、不思議に感じた出来事をお話しします。(※個人的な感覚なので、賛否両論あるかと思いますが、お手柔らかに)急に雨が降ってきた晴明神社に参拝して、境内も一通り見学→「よし、違うところに行こう」と思って、神社を出ようとしたあたりで、急に小雨が降ってきました。雨予報は出ていなかったので、折り畳み傘はコインロッカーに預けていて「少し雨宿りしよう」と「桔梗庵」に寄ることに決めて、向かお
ずっと行ってみたかった「晴明神社」に行ってきた日のお話し続き晴明神社といったら「五芒星(ごぼうせい)」皆さま「五芒星(ごぼうせい)」って知ってますか?この提灯に描かれている星のような形が「五芒星(ごぼうせい)」です。星みたいでかわいい境内に入る前から、「五芒星」がたくさんおみくじにも。2種類あったけど、見た目のかわいさで、写真のおみくじを選択。スライド式に読むことができます「五芒星(ごぼうせい)」の形キキョウの花(花びら5枚)を図案化した形で、安倍
ずっと行ってみたかった「晴明神社」に行ってきた日のお話し最寄り駅は、京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」駅から10分ちょいくらい住宅地のようなところを歩いていると着きました。平坦だけど、ちょっと分かりづらかったかもしれないです突然ですが皆さんは、目的の場所に行く前に下調べとかしますか?わたしは、少しでも場所の歴史?みたいなのを下調べしてから行く派でして、今回は、大阪駅→京都駅間の電車内で調べました少しだけ説明を。「晴明神社」ってこんなところです。・晴明神
台湾の高雄で史跡巡り夏に訪れた台湾の史跡巡りの様子について、遅ればせながらまとめておきます台湾高雄市にある高雄忠烈祠へ高雄忠烈祠(カオシュンツォンリエツー)です。日本統治時代にはこの地に、高雄神社(たかおじんじゃ)がありました。高雄神社は、明治43年に讃岐の金刀比羅宮から勧請し、打狗金刀比羅神社の社名で創建。大正9年能久親王が増祀され打狗神社に改称。大正12年高雄神社に改称。1945年中華民国の革命英雄等を祀る忠烈祠に転用。1974年神社建築を撤去。19
東京から広島まで軽自動車を運転して来ています。古民家実家とお墓掃除の合間に史跡巡りをしています。三原市浮城と言われた小早川隆景公の三原城跡城址の半分を突っ切るのが山陽新幹線小早川隆景公像梅木平古墳広島県最大の石室6〜7世紀安芸高田市毛利元就の吉田郡山城跡前回は毛利元就公のお墓のみ訪れたので、行きたかった吉田郡山城跡に行けて感激です。戦国時代の山城かくありき、という感じで、当時を偲び想いを馳せました。(写真は本丸から二の丸、三の丸を臨む)安芸高田市民俗
我が家では新年の恒例行事があります!それがあしかがフラワーパークと佐野プレミアムアウトレットへ行くこと。来年は1月20日・21日に行く予定となっています♪あしかがフラワーパークは、初日に舘林の七福神巡りにも行ってきます。これもまた、毎年の恒例行事。雪国から関東へ行くと、その天気の良さに感動しながら、観光を楽しめるので最高です(笑)・館林七福神巡り館林七福神巡りは、1月3日~1月31日まで開催されています。花と史跡を巡る館林名所七所|つつじの館林七福神会
今年の登りおさめは、大平山でした🎵大平山は神奈川県鎌倉市街の北東部に位置する山で、東西に伸びる尾根一帯は「鎌倉アルプス」の愛称で親しまれています。尾根道一帯からの展望は素晴らしく、眼下に鎌倉市街を望みながら、その先に相模湾、天気の良い時は大島まで見ることができます。さらに西側には富士山の眺望を楽しめます。北鎌倉から明月院や建長寺を通るコースや、鎌倉宮から覚園寺を通るコース、獅子舞ヶ谷を通るコースなど、さまざまな史跡巡りを楽しみながら歩くコースがありますよ。
私の話を少しだけ。学生時代は、正直言って歴史の勉強が苦手でした。テスト前の一夜漬けはもちろん、語呂合わせを作ってその場限りの勉強でした今覚えているのは・・・(お察しください)いつからか、いまだにいつから?と聞かれると曖昧ですが、おそらく20歳になったあたりから、急に「歴史」というものに興味を持ち始めました。(不思議だ)確か最初に興味を持ったのは「仏像」だった記憶があります。何故仏像に興味を持ったか曖昧だけど、仏像の目を見ると、何かスっとした気持ちになったり、ゾクゾクした
先日東京に出ることがあり時間が取れたので、趣味である史跡巡りをしようと思い調べるとすぐ近くの四谷という所にかの有名な清麿の墓を供養している寺がある事がわかり墓参をする事にした。清麿とは江戸時代後期の刀工で、大慶直胤·左行秀と共に新々刀期の三名人の一人である。文化十年(1813)信濃国赤岩郡に生まれ、武芸者で作刀にも励んだ兄真雄の影響を受けて鍛刀。武芸修行の為江戸の旗本窪田清音に入門し、その傍ら刀鍛冶業にも取り組む。天保十三年頃(1842)には長門国萩城下においても作刀する。弘化二年(1
おはようございます、たけちです。2024年・令和6年12月22日日曜日、みなさん、いかがお過ごしになりますか?たけちは、今年も自分のご褒美を兼ねた自分へのクリスマスプレゼントを選びに越谷レイクタウンに行ってきます。クリスマス前、(プレゼントとの)運命の出会い、あるかな?さて、今日は深谷ポタリング前後編の2回にわたりお送りします。たけちはブロンプトンでポタリングというゆるい趣味を持っています。今年は春先に荒川沿いでもぽたろうと思っていましたが、その機会もなくあ
2024.10.21.戦国時代、甲斐の武田信玄公は信濃善光寺から善光寺如来様を持出し、甲府に新善光寺を建立しお祀りしました。信玄公が没すると、織田信長公によって岐阜に迎えられます。本能寺の変後は、信長公の次男織田信雄公により尾張の甚目寺に、豊臣秀吉公によって京都の方広寺に、徳川家康公により遠江浜松の鴨江寺に移され、そして信濃善光寺の本所にお帰りになったのであります。この様に信長公時代に善光寺如来がお祀りされていたこの岐阜伊奈波の霊跡に、信長公の嫡孫織田秀信公は、稲葉善光寺堂を
江戸時代、岐阜奉行所(現在地・岐阜県岐阜市新桜町)に、徳川家康が発給した『伝馬朱印状』と、美濃国奉行であった大久保長安が発給した『五箇条法度』が保管されており、やがてこれらを「貴重なものである」として、保管場所の御朱印蔵に神棚を設け、上記を御神体とし徳川家康の神霊を祀ったのが始まりとされ、以降、葵の御紋入りの酒壷や唐櫃が奉納されて、神廟としての形式が整えられた。こうして、「岐阜東照宮」と称せられるに至り、歴代尾張徳川藩主をはじめ、岐阜の町民たちもこれを200年以上
この記事も読まれています。↓『【日本の原始時代】東京のど真ん中にナウマン象がいた?!!』東京日本橋付近にはナウマン象がいた9月に東京国立博物館で神護寺展を拝観した際、宿泊したのが浜町のホテルでした。浜町は、東京の友人に伝えても「どこ?…ameblo.jp伊勢堂岱遺跡は世界文化遺産の一つ今年8月に秋田県北部の北秋田市にある伊勢堂岱遺跡を訪れました。近くに秋田内陸縦貫鉄道線縄文小ケ田駅があり、そこから見える位置にあります。歩いて5分くらいです。大館
ロードバイクに乗る前に、必ず行うのがタイヤの空気圧チェック。ロードに乗り換えてからは、空気漏れが幾分減ったので2回に1度程度でも構わないと思うが、こ~ゆ~事を疎かにすると、出先でパンクって事も....ちゃんと管理していても、クロスバイクで2回もパンクを経験しているんでね。で、いつも通り空気を入れてたら、リアタイヤ本体に違和感。よ~く見たら、サイドの一部に軽くひび割れが....早くも、もうタイヤの交換時期?まぁ、購入したロードが在庫一掃のセール品。長期在庫だった可能性もあ
自転車で五街道を辿るシリーズ第4弾の日光道中。旧日光街道を辿る、その2日目のつづき。小金井宿を抜けて、石橋宿を目指します。R4を離れて旧道を進みます。日光街道を歩く案内板注意看板。これより赤道。赤道(あかみち)とは、国家が所有していますが道路法の適用のない道路のことです。簡単に言えば廃道です。当然、ここを進みます。赤道の途中にある、下石橋一里塚赤道を進みます。赤道を抜け、現道R4に復帰。伝関宿城移築大手門石橋宿に入ります。
織田信長公を主祭神として祀る信長神社岐阜県岐阜市の岐阜信長神社は、橿森神社の境内に鎮座しています。正式名称を建勲神社(たけいさお神社)と言い、明治時代に京都の「建勲神社」の総社から分祀されました。1567年(永禄10年)に「美濃国」の大名「斎藤龍興」を討ち、美濃国まで勢力を拡大させます。これを機に「稲葉山城」を「岐阜城」へと改称して移り住みました。その地で着手した施策が楽市楽座です。
こんばんは。小さな地下水路に入ってきました。2代目大工の三島です。前回の伊坂ダムサイクリングの後。いつも通りに寄り道する。向かったのなんとも不思議な名前。その名は片樋(かたひ)まんぼです。いなべ市の史跡になっている所。しっかりと駐車場もありました。地域に愛されてる感がありますね!看板には農業・生活用水路とある。でももちろんただの水路ではない。はたしてどんな場所なのか。さっそく民家の間を抜けて出発〜。なーんてほどでもない。駐車場から歩いて15秒。ココが片樋まんぼの入
東海道53次WALK第二弾。今回は川崎宿から、神奈川宿を通り過ぎて保土ヶ谷宿まで。スタートは、前回のゴールの川崎宿から。関連記事『東海道53次WALK日本橋-川崎』東海道53次WALKの旅をスタートしました。今回は、日本橋を朝9時ごろ出発して品川宿を通り過ぎて川崎宿まで。品川宿を過ぎて3〜4km歩くと、鈴鹿森刑場遺跡があ…ameblo.jp川崎宿は、史跡巡りの看板や旧東海道の表示があったり、53次っぽさがそこここに見られたけど、そこを抜けると旧道も残されておらず、ただの街中の道という
自転車で五街道を辿るシリーズ第4弾の日光道中。旧日光街道を辿る、その2日目のつづき。古河宿の入口まで来ました。古河城御茶屋口門址菓子処清水屋さんで糖分補給。古河町道路元標高札場址本陣跡古河宿道標よこまち柳通り関東の奇祭古河提灯竿もみ祭り発祥の地碑武蔵屋(国登録有形文化財)古河宿を出て現道のR4と合流して野木宿に向かいます。日光道中野木宿周辺の松並木馬頭観世音
斎藤道三の菩提寺へ鷲林山常在寺は岐阜県岐阜市梶川町に境内を構えている日蓮宗の寺院です。常在寺の創建は室町時代の宝徳2年(1450)、当時の土岐氏守護代の斎藤妙椿が日範(妙覚寺世尊院の僧)を招いて開山したのが始まりと伝えられています。西村(長井)新左衛門尉(道三の父親)は妙覚寺の僧だった人物で、常在寺4世日運が土岐氏重臣長井利隆の弟で妙覚寺で修行していたところから長井氏に取り入り、やがて長井氏を名乗るようになります。道三の代になると守護代であった斎藤氏の名跡を継ぎ、さらに美濃守
枝吉城跡からの続き高山右近の居城を巡る旅の続きです。前回の枝吉城跡から移動し、船上城跡へ。ここでキリシタン大名、高山右近について少し…1585年高槻城から転封により枝吉城、そして船上城へ。1587年バテレン追放令により追放。小西行長に庇護され小豆島へ。1588年小西行長の転封により加賀前田家に預けられる。秀吉は右近を豊臣政権に復帰させようと考えるも、棄教を拒まれ断念。右近は前田家においては小田原征伐に参加したり、高岡城の設計に携わるなど、結構活躍しているようです
自転車で五街道を辿るシリーズ第4弾の日光道中。旧日光街道を辿る、その2日目のつづき。幸手宿の出口である御幸橋(中川)を渡るとすぐに左に折れ、旧道を進みます。日光街道道しるべ小右衛門一里塚(弁財天祠堂)小右衛門の庚申塔・十九夜塔川通神社川通神社の力石会津見送り稲荷炮烙地蔵栗橋宿に入ります。栗橋宿です。栗橋関所址の碑栗橋まちめぐりスタンプが設置されていました。利根川橋(R125)で利根川を
愛知県の城や史跡巡りをしている社会人サークル・愛知ウォーキング城巡りクラブで名古屋市熱田区の東海道宮宿の史跡巡りに行ってきました。宮宿は東海道、佐屋街道、美濃路の宿場。また熱田神宮の門前町でもあるので江戸時代はかなり賑わっていました。その東海道宮宿には多くの史跡が残っていますが、個人的に印象的だったものを3つ紹介します。蓬莱軒本店は本陣跡名古屋めしのひつまぶしで有名な蓬莱軒本店は、宿場があった頃、大名や公家、幕府要人が泊まった本陣の跡です。実は駐車場に名古屋市教育委員会のカ
立花宗茂史跡巡りの続きです今回は柳川観光のメインエリアにある御花・立花家史料館柳川城跡を見学したあと徒歩5〜6分のところにある史料館に向かいましたこちらが柳川藩主立花邸・御花の西洋館や宿泊棟です五代藩主立花貞俶(さだよし)が側室や子息たちの住まいを柳川城近くのこの場所に移して以来令和の現在に至るまで立花家が受け継いできました屋敷が建てられた後この場所は季節の花々で彩られるようになったのでいつしか「御花畠(おばたけ)」という愛称で親しまれるようになりますそれが
自転車で五街道を辿る企画第4弾となった日光道中第二日目です。2024年10月4日(金)いつものように始発で前回旅を終えた場所へ向かいます。まずはJR京浜東北線で上野駅へ上野駅からJR常磐線快速で北千住駅へ北千住駅からは東武スカイツリーラインの準急に乗換え。向うのは東武動物公園駅。6:26am組み立て&準備を整え日光道中に向けスタート。6:29am前回最後の史跡となった、杉戸宿明治天皇御小休所阯碑から日光道中の旅再開です。高札場跡手前の道標。高札