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長野県のスキー場にクマが出たニュースを見た。立地的には出ることはわかっていたが、雪の季節には冬眠してくれるだろうと思っていたので、雪の上を追いかけてくる映像で、衝撃を受けた。ダメだこりゃ。俺の技量では逃げ切る自信がない。ビビって転ぶわ。人間、いつ死ぬかなんてわからないが、クマに喰われて死ぬのはできれば避けたい。そもそも特別ウインタースポーツが大好きというわけではないのだが、仕事柄受験シーズン後にしか休めないので、それがシーズンオフの息抜きの定番となっていた。ゴルフは一番いい
2025.11.3.北条早雲こと、伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞)が、将軍の命により伊豆征伐に出陣し、拠点としたのが、興国寺城です早雲は、室町幕府将軍の申次集を務めたが、駿河の守護今川氏とは、姉北川殿が今川義忠の正室というつながりがあった。文明8年(1476年)義忠が急死すると、その後の家督争いで甥の今川氏親を助けた功により、長享2年(1488年)頃、富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となったとされる。明応2年(1493年)に伊豆韮山の堀越公方足利茶々丸を征伐し伊豆国を治める、そして京に
皆様ごきげんよう!名古屋市内で遊びまわている、地球遊び隊の三浦脩里衣です❣️今日もご覧いただきありがとうございます。最近お外遊びの愛智神話リトリートで本当に楽しすぎて、めちゃ楽しく遊んでおります。昨日は、今年3回目の徳重熊野神社島田緑地みどりが丘公園要池公園のルートでリトリート。鈴鹿から、京都からなど、遠方からのご参加に、驚いています。そこに何があるのかは、ご参加いただければわかるんですけど、愛智神話的にとっても大事な場所なんで、見方を変
この3日間はありがたい事にずっと小春日和で晴天でした帰って来て翌日の今日から各地冷え込むとの事で、ここ愛知も寒い日になっています最終日の昨日、最後のペンションでの朝食3人ともペロッと平らげ、まろんの散歩後チェックアウトしましたペンションでの最後の記念写真、ここのアイドル犬、モカちゃんとまろんと同じアプリコットですがまろんの半分くらいのちっちゃなトイプーです懐こくて可愛い😍さて、最終日は三井アウトレット竜王でもぶらっとしよっかな、と思っていましたがペンションのマスターから「近江八
ウクレレ生徒さん達とつくってる旅行会の来年の予定は、東京山梨ツアー(^^)山梨の武田信玄公の躑躅ヶ崎館跡などの史跡巡りがメインです。その為の飛行機予約完了しました!行き当たりばったりの珍道中ツアーですが、来年で3回目となります(^^)もう楽しみですね。
↑慶應義塾図書館旧館昨日のことになりますが、先週に続き福沢諭吉関係の史跡巡りで取りこぼした部分の回収に出かけてきました。というのも、先週に慶應義塾大学三田キャンパスに出向いたところ文化祭が開催されており、大学敷地内で進入禁止にされてしまったために福沢諭吉像の写真が撮影できなかったのですね。また、慶應義塾史展示館においても、文化祭絡みで人出が多く、展示品をしっかり見れていないということ、慶應義塾大学公式ショップへの立ち寄りもしていないなど、いろいろ再び行かねばという状態だったわけです。
今回は「新発田重家の乱」を巡る2つの城について触れたいと思います。遡ること戦国時代。上杉謙信には実子がなく、自らの甥にあたる景勝、北条氏との同盟の証として送られてきた景虎の2人を養子としていました。ところが、世継ぎを事前に決めることなく1578年に謙信が死去。その直後から景勝と景虎の跡目争いが起き、越後を二分する「御館の乱」に発展していきます。現・新発田市を地盤とする揚北衆の新発田重家は、御館の乱で景勝方に組し、大きな功績をあげたものの、論功行賞で軽んじられ不満を持っていました。そ
2025.11.3.今年最後の遠征に出発今回は、二年前から計画準備していた「三島&沼津~小田原~箱根」の城跡&史跡巡り+観光旅です巡るルートや宿泊先などバランスを取るのに時間をかけました朝一で出発~京都と静岡で乗り換えて、三島へ到着途中の新幹線から見えた富士山は、薄っすら雪化粧していた毎回、新幹線からは綺麗に富士山見えるんだよね~現地に着くと見えなくなる何故だ旅のスタートとなる三島駅ここからは、レンタカーで出発一番最初に訪れたのが、三島に在る『興国寺城跡
新幹線で上田市の前を通過したことはありましたが、下車するのは今回が初めて!しかも自由席はまさかの満席で、廊下や扉付近までぎゅうぎゅうの混雑…😅上田駅に降り立つと、街全体が“真田一色”。駅前通りには「真田十勇士」の銅像が立っていて観光ムード満点✨ただ大通りのわりには少しさびれた印象も。でもお店は普通に開いていて歩きやすかったです。🍁上田城跡へ今回の旅行のメインのひとつ、上田城跡へ!かつて真田家が活躍した場所ですが、現在は城跡公園として整備されています。まずはお堀沿いの欅並木を散策
くまもと花博今年のまち山エリアは、託麻三山11月15日(土)から24日(月)まで期間が年々短くなっていきます。まち山エリア|くまもと花博2025花博というより、フェスティバル???色んな行事をぎゅっと詰め込んであります。その中に「小山の史跡巡り」があって、たくま88ケ所巡り実行委員会メンバーがガイド役です。15日日曜、ガイド勉強のために参加しました。88ケ所巡りのコースもまともに覚えられない、完走できないのですが、小山の4キロコースな
今日は久しぶりに白河駅へ。東北新幹線に乗るのも約半年ぶりで、なんだか旅気分が一気に高まった。向かったのは小峰城。ここに来るのは、数年前に奥州街道を歩いた時以来。あの時は城内には入らず、周辺の公園だけを歩いたことをふと思い出した。白河は都内より紅葉の終わりが早く、景色を見て「北に来たんだなぁ」と実感。それでも場所によっては綺麗に残っている紅葉もあって、季節の深まりをゆっくり味わえた。城の一部が工事中で少し雰囲気に影響はあったけど、石落としや急な階段など、城らしい特徴はしっかり残
幕末史跡巡り長崎編、初回はプロローグだけでしたので、2回目からは歴史解説を交えながら、巡った史跡を紹介していきます。ただ最初に触れておきますと、巡った史跡の数はそんなに多くはないんですよね…さて、長崎といえば、江戸時代の鎖国(海外との交易や交流を制限した政策)において、唯一対外貿易をしていた(許可されていた)場所として有名ですよね。長崎駅に着いたら、土地勘は全く無いので、とりあえず路面電車乗り放題を購入。バスもあったのですが、路面電車の方が小回りが効くのかなと思い、チョイスしました。路面電車
続きまして。徳川ミュージアムから偕楽園をかすって通りまして。水戸城の遺構を見てきました。(常磐神社などのレポは省略。前回のレポは→こちらをどうぞ。)常磐神社の義烈館は休館してましたね...。旧弘道館跡。上の写真は正門。水戸藩の藩校跡です。時間的に中を見学する余裕がありませんでした...。残念→前回の見学レポ旧弘道館跡前からのびる道の先に。水戸城大手門があります。令和2年(2020
かなーり…久しぶり、記憶が確かであれば、コロナ前の2017年以来でしょうか?…幕末史跡巡りしてきました!!今回は飛行機でひとっ飛び、長崎県に行ってきました。今回も史跡の他の観光スポットやグルメも交え、数回に分けて更新していきます。ただ…途中別トピックも入ると思いますので、幕末史跡巡りの連続更新はないかと思いますが、興味のある方は更新した際はぜひ閲読して頂けますと幸いです。まだ帰ってきたばかりで、あれこれ整理できていませんので、今回Part01はプロローグ的な感じで終わってしまいますが…準備し
続きまして。回天神社からすぐ。歩いて5分程でしょうか。光台寺に訪れました。天正11年(1583年)佐竹義宣の開基の寺院です。水戸城西新本町(現在の栄町)に創建され、寛文年間(1661~1673年)に徳川光圀により現在地に移転されました。こちら本堂。場所がわからなかったのでお参りはできなかったのですが。桜田門外の変に加わり斬首になった、岡部三十郎忠吉の墓所があります。こちらは不動堂。
新幹線の「こだま」に乗ったのは…何年ぶりだろう?そして、掛川で降りたのはたぶん初めて。とはいえ、以前東海道を歩いた時に一度訪れているので、「また来たなぁ」と感じる懐かしさが込み上げてきた。こういう“再訪”の瞬間って、旅の醍醐味だと思う。風も心地よくて、街全体がどこか穏やか。🌾🏯掛川城へ。小ぢんまりとしたお城だけど、木造のぬくもりがあっていい雰囲気。階段はかなり急でちょっとドキドキ。天守からの見晴らしは抜群で、町並みが一望できる。でも、やっぱり少し寂しさを感じる田
続きまして。根岸寺のお隣にあります。回天神社。明治2年(1869年)新政府の初代水戸藩知事となった徳川昭武は、安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変など、幕末期に国のために殉じた水戸藩志士を慰霊・後世に伝えるため、志士の遺骸を収容し、常磐共有墓地の一角(現在の回天神社境内)に埋葬し、殉難碑を建立。昭和8年(1933年)には忠魂塔が建立。昭和44年(1969年)に明治維新100年を記念し、忠魂塔の前に回天神社が建立されました。根岸寺側
二日目最初に訪れたのは木曾三川公園センターに隣接する治水神社です。ここは江戸時代の宝暦年間に行なわれた治水工事で犠牲となった薩摩藩士を祀っています。現在は展望タワーの方が人気があるのでここは静かな佇まいでした。神社の入り口には東郷平八郎書の石碑があります。毎年水害に見舞われていたこの地域の治水工事を主に任されたのは薩摩藩でした。よりによってそんな遠くの藩に普請を命ずるのは徳川幕府の薩摩藩いじめ?だと思いましたが明治維新という倒幕クーデターは薩長主導でしたのでこの辺りはまさに因果広報ということで
先日の水戸お散歩記録。水戸へ訪れるのは約9年振りでした。前回は徒歩&バスで移動したのですが、今回は駅前でレンタサイクルを借りましたよまずは。通りすがりに寄りました、こちら。藤田東湖生誕の地。水戸藩9代藩主・徳川斉昭の側用人として藩政改革などに尽力した方ですね。文化3年(1806年)藤田幽谷の長男としてこの地で誕生しました。寛政8年(1796年)父・幽谷の代に藩から与えられた屋敷地で敷地内には私塾・青藍舎があり、東湖はそこで学問を
先日訪れた、一乗谷朝倉氏遺跡にてピンバッジを発見そしてGET~まさか!有ると思はなくて、見つけて時は、声が出てしまったデザインは、朝倉氏館跡の唐門がデザインされている少しずつだけど、集まったお城のピンバッジ。
今日は昨日の曇天が嘘のように晴れ間が広がり、日中は上着がいらないくらい。明日からも晴れの予報となっているが、気温はやや低めのようです。やっぱり上着はいるかな・・・?本日は東京旅行二日目。東京の街は昨夜のOasisの余韻覚めやらず、ホテルでも街中でもOasisのTシャツやジャージを来ている方々と何人もすれ違いました。私、若い頃東京に住んでいたこともありますが、お恥ずかしながら、国立西洋美術館と国立博物館にまだ行ったことがなく、本日行こうと楽しみにしていたら休館日でざ
今回は水原城(すいばらじょう)跡および水原代官所跡を訪れました。韓国にある水原華城(スウォンファソン)ではなく、新潟県阿賀野市の話です。鎌倉時代以降、この地を治めてきたのは、前回安田城の訪問記事でも触れました大見氏でした。大見氏はその後、主筋の安田氏、分家筋の水原氏、下条氏へと枝分かれしていきました。水原氏に関しては、南北朝時代、武蔵野合戦で武功を上げた大見盛家が足利尊氏より白河庄水原郷を与えられ、水原盛家と改めたのが始祖とされています。戦国時代を通じて水原氏は上杉氏に従属し、当時
いつも見て頂いてありがとうございます少し用事があって奈良県への日帰り旅道中少しだけ寄り道をしたのでブログにしていこうと思いますまずは…国営平城宮跡歴史公園https://www.heijo-park.jp/平城京だと思っていたら、平城宮でした正直な感想…だだっ広い公園途中地図がありましたこんな感じで当時、ここには平城宮があったらしいそして、遠くからでも目立ってた第一次太極殿ここの中は資料館になっていました無料なのに、警備員さんがあちこちにいらっしゃ
息子と行く一泊二日の男二人旅、最後に訪れたのが、永平寺でしたもち!関連はないし宗教なども興味はありませんが!永平寺には興味があったので立ち寄りました参道も土産屋などあり、ちょい楽しめますそして、到着寛元2年(1244)、道元禅師によって開かれた禅の修行道場。深山幽谷の境内には70余りもの殿堂楼閣が建ち並び、中でも「七堂伽藍」と呼ばれる7つのお堂(法堂・仏殿・僧堂・庫院・山門・東司・浴室)は、僧侶が修行をする清浄な場所として特に重要な建物とされています。曹洞宗の大本山は、2つ在
鎌倉時代から戦国時代にかけて、越後には揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる国人衆たちがいました。揚北というのは阿賀野川の北岸を指す地域であり、現在で言うと新潟県の北部にあたります。揚北衆は鎌倉時代からこの地を治めてきたプライドからか独立心が強く、後に越後を支配するようになった守護の上杉氏や守護代の長尾氏としばしば対立しました。また、揚北衆の中でも対立を深めたり、共闘したりしています。そんなこんなで、揚北衆の存在は、戦国時代の後期に至るまで越後の政情の不安定要素であり続けました。揚北
先日の福井旅行2日目、朝一番で「丸岡城」へ現存天守の一つだし、是非とも行きたかったお城ですと言っても!現在の丸岡城は、天守と本丸部と移築門くらいしか遺構は残っていないまぁ、しかし!流石に現存天守は、やはり良いね~丸岡城は、戦国時代の天正4年(1576)に柴田勝家の甥、勝豊によって築かれました。天守(国指定重要文化財)は外観は二層、内部は三階の独立式望楼型天守です。丸岡城の模型。丸岡城の特徴と言えば、この五角形の濠なんですが...。現在は埋め立てられ陸の孤島状態この
清水園(しみずえん)は、江戸時代に新発田藩が設けた下屋敷と庭園で、国の名勝に指定されています。新発田藩の3代藩主・溝口宣直(のぶなお)のときに、高徳寺を五十公野へ移転させた跡地に造営されました。宣直は、初代藩主・秀勝の時代から54年続いた新発田城を完成させた人物でもあります。数寄屋造りの書院が先に造られ、4代・重雄(しげかつ)の時代に庭園が整備されたようです。付近が清水谷と呼ばれていたことから、当時は「清水谷御殿」と呼ばれました。受付を済ませ、藁葺で風情のある大門をくぐります。
織田信長から「友であり兄弟」と信頼された織田四天王の一人で、柴田勝家と並び信長の片腕の一人です柴田勝家のお墓の近くに、丹羽長秀のお墓もあります右側が長秀の墓で、左は次男の丹羽長正の墓。柴田勝家が亡くなった後、北ノ庄に入ったのが丹羽長秀でした天正13年(1585年)4月16日、長秀は寄生虫病のために死去したと伝わる享年51。現代では考えられない死因だ!跡目は嫡男の長重が継いだ。丹羽家は、その後孫の光重の代から二本松藩にて続いていきます。総光寺は丹羽家菩提寺とし
永平寺東京別院のあとは、高野山東京別院へ。『東京にも、永平寺がありました』東京には、有名なお寺の東京別院が多くあります。この日は夫を誘って、永平寺の東京別院を参拝しました。住所は西麻布ですが、エリアとしては南青山。骨董通りを2…ameblo.jp高輪結び大師(高野山東京別院)↓は、今年の3月にも訪れています。久しぶりに、お砂踏みがしたかったのです。三鈷杵(さんこしょ)は、和歌山の高野山の方角を指しています。仏足石は、ブッダガヤの方角です。父はこういうお寺とか史跡巡りが
福井旅行で、時間があれば寄ってみたかった場所で、柴田勝家公とお市の方が祀られています。柴田勝家公の墓通常なら御朱印は別口で投稿するけど、一緒に合わせます