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久秀は平蜘蛛火薬で粉砕す天正3年(1575)尾張州の原田直政が大和守護に任命、松永久通を重用天正4年(1576)塙直政が討ち死に、順慶が国主へ、興福寺は大歓迎、一方で軍事指揮権のみ天守台天正5年(1577)松永久通の謀叛、松永方から没収した領地の宛行は信長松陰堀「屋代弘賢氏所蔵文書」信長は岡氏に「松永右衛門佐」の信貴籠城を言語道断逸話「平蜘蛛」:信長に献上したら助命?「松屋名物記」多羅尾光信が破片を継いだ、「天王寺屋会記」多羅尾綱知が茶会で使用「山上宗二記」信貴山城で失われ
正室巻五5回目四月七日、信長は京を出陣し、守山に陣を構えた。鯰江城に立て籠もっている六角義治を討つためである。百済寺が鯰江城を支援していると聞いた信長は百済寺を包囲した。四月十一日、信長は百済寺を焼き打ちした。信長は岐阜に帰還し、「お濃、帰った」と言った。「ご無事のお戻り、おめでとうございます」「将軍とは和睦した。鯰江城は佐久間・蒲生・丹羽・柴田に包囲させた。これで六角も動けまい」(殿様も武田に備えられる)と、濃姫は思った。信長は大船の建造を大工の棟梁の岡部又
大徳寺展に行ってきました。大徳寺は行きたいなって思いつつ、多分、大学出てからは一回も行ってない。大学時代に行ってるかどうかは記憶にないのです。やっぱり新鮮だったし凄く良かったけど、僕的には、一番良かったのは、教科書で何度も観ている牧谿の「観音猿鶴図」いや~~~こんなに大きかったんだ。そのサイズ感にまずびっくりしました。当時の人もこれを見たら、牧谿にかぶれるのもわかるよなーって感じがしました。個人的にはこれが一番でしたね。真・行・草の表装も良かった
小学生の頃に読んだ学研の歴史マンガ。戦国5部作。今でも実家に残っていて、帰省した時によく読み返している。「国取り稲葉城」「奇襲!桶狭間」「逆襲!本能寺」「決戦!関ヶ原」「風雲!大坂城」。ボクが歴史好きになった原点がこのマンガだ。戦国時代を人間味溢れるドラマに仕立ててあり、非常に面白い。歴史は暗記ではなく、流れを掴むことが大切なのだが、そういう意味では歴史本として極めて秀逸だ。武将達が生き生きと、魅力的に描かれているため、道三、信長、秀吉、家康などの為人がよく分かる。ボクはこれで信長好きになった
正室巻五4回目十二月下旬、遠江浜松の徳川家康から三方ヶ原で武田信玄に敗北したという報告が岐阜の信長の許に送られて来た。信長は苦い顔つきで、「家康の馬鹿。信玄とは戦うなと命じておいたのに」と濃姫に言った。「武門の意地だったのでしょう」「武門の意地が何の役に立つ」(その通りだ)と、濃姫は思った。家康が信玄に敗北したことで、武田の軍勢は西上する。信長が信玄と戦うことになった。信長はひとりで将軍義昭・越前の朝倉・北近江の浅井・石山本願寺・甲斐の武田を相手にしなければなら
ほめることは難しいです。一言で言えば、自分との比較をしてしまうからか。子供でも、「あの子は、優しくて、人から好かれる」という誉め言葉を言おうとしても、中々、素直に言えないのは、自分のプライドが邪魔しているからかも知れない。「あの人の気遣いは素晴らしいね」と素直に言えない。人をほめるときは、自分のことは抜きにして、100%相手のことを思って言うことが必要かと思います。少しでも、自分がでてしまうと、中々、言えなくなります。逆に、人を非難することはたやすいです。上司が部下
正室巻五3回目信長と将軍義昭との間が不仲になっていた。信長は九月に将軍義昭に17か条の意見書を送っていた。「将軍様は殿様の意見を聞き入れてくれましたか」と、濃姫が信長にきいた。「いや、知らぬ顔をしている」「困りましたね」「遠江には武田が攻め寄せて来ているし、北近江では浅井が越前の朝倉を引き入れ抵抗している。将軍の相手をしている暇がない」「将軍様は殿様が手詰まりと思っているのかも知れませんね」「八方塞がりであることは間違いない」信長は冷静に現状を見ていた。将軍義昭
ホトトギス鳴くまで待つのは誰だっけ?顔から入る日本史カードゲーム信長・秀吉・家康・ザビエルの4択に特化したハイスピード日..........≪続きを読む≫[アメーバニュース]
六月一日の夜、私は亀山城を出た。『明智光秀の軍勢一万三千、午後十時頃、居城の亀山城を出発』軍議の席で、私は家臣に告げた。これから向かうのは備中ではない、東である、と。家臣の何人かは、顔色を変えた。当然である。私は信長から、西国へ向かう軍を率いよと命じられていた。その私が、進路を東に取ろうとしている。命令違反は、それだけで死に値した。私は、あの席の家臣の顔を、いまも思い出せる。一人は唇を噛み、一人は目を伏せ、一人は私をまっすぐ見ていた。筆頭家老の斎藤利三は、最後まで私の眼を見ていた
正室巻五2回目七月上旬、信長は濃姫の部屋を訪ねて、「信忠の具足初めをしようと思っている」と濃姫に告げた。信長の子、信忠・信雄・信孝らは一月に元服を執り行っていた。「殿様の思うままにしてください」「お濃がそう言うなら、信忠に初陣をさせよう」(信忠殿も戦に出られる。吉乃殿、見ていますか)と、濃姫は心の中で思った。七月十九日、信長は信忠と共に北近江に出陣した。二十一日、信長は浅井長政の小谷城を攻めた。二十三日、信長は与語・木本一帯を焼き払った。二十四日、信長は草野の
本項は明智光秀についてで、カテゴリは怖い日本史に入るんですが、特に怖いという内容でもないです。それと、ちゃんと書くとすれば本一冊分にもなってしまう話なので、できるだけ端折って述べていきます。後半でなかなか面白いオカルトが出てきますよ。さて、みなさんは光秀の名前を聞けば、おそらく「本能寺の変」という語を思い浮かべる方が多いでしょう。主君信長に対する下克上。これによって、日本の歴史は大きく変わってしまっただろうと思われます。それは、後継が秀吉になり、最終的に家康になったということより、
天野セミナー4予告(有岡mami)先日の村重研究会例会で、次回の天野セミナー(令和9年2月12日開催予定)について打合せをした。テーマは「村重と官兵衛ふたりは生かし生かされた?」に決定。今年の映画黒牢城の「殺す信長生かす村重」から浮かんだ言葉だが、ふたりのその後の人生をよく表していると思う。早速メンバーのkさんがイメージを絵にしてくれた。ただいまチラシも作成中。乞うご期待❗️
正室巻五1回目元亀三年(1572)三月五日、信長は北近江に出陣し、赤坂に布陣した。三月十日、信長は常楽寺に宿泊。三月十一日、信長は志賀郡に出陣し、和邇に陣を構えた。三月十二日、信長は上洛し、二条の妙覚寺を宿所にした。五月十九日、信長は天下の執務を行ない、美濃の岐阜に帰った。「長らく留守にした」と、信長は濃姫に言った。「お疲れさまでした」「北近江では浅井勢が出て来なかったので戦にならなかった。それで上洛した。京に滞在している時、細川昭元と石成友通が和睦の挨拶に来た。あ
ワトソンです。私が撮った写真も一部ご披露します。初「さがみ」で食べたお昼ご飯滋賀県在住のジーンがご馳走してくれました。「さがみ」の駐車場のお隣は三澤の創業者が卒業した高校だそうです。滋賀県在住のジーンが教えてくれました。ゆったりのんびりの90分でした。朝5時から車を運転してくれたので、おやすみ中です。滋賀県を案内でしてくれたジーンがお土産にくださいました。ジーンとitui氏の「おもてなし」に感謝するワトソンでした。
一週間後。桐生庵のガラスに、貼り紙が出た。衛生記録、検査結果、三代の写真、そして一行。『当店は、誹謗の投稿について、発信者情報開示請求の手続きを進めています。同時に、当店のすべてを公開します。ご来店のうえ、厨房をご覧ください』信長の指示で、厨房はガラス張りになった。七海の父は、最初こそ渋った。だが、初日の昼、常連の職人が厨房を覗き込み、こう言った。「おう、綺麗じゃねえか。これなら安心だ」その日の売上は、平常の七割まで戻った。投稿は、三日後にすべて消えた。書き手は、店に二年いた元従
七海が二人に、事件のすべてを話した。光秀は黙って聞いていた。最後に、彼女が訊いた。「あの、明智さんも……探偵、なんですか」「いいえ。私は、ただの相談者です」光秀は、自分の名刺を置いた。表には何も書かれていない。裏に、小さな字で「人、その話を聞く」とだけ。「私は、あなたの店を救いに来たのではありません。あなたが、あの投稿を書いた者を赦せるかどうかを、見に来たのです」七海は、初めて泣いた。「赦せないです。うち、潰れかけてるんです」「そうでしょう。だから訊きます。あなたは、その男を
12月1日の山例会城巡りが、会報に出ましたが小牧山城が、題目から、抜けて居ます‼️ホームページに記載し、追加で蟹江城跡も入れます。大野城跡、徳川家康の関連石碑です、東は、池です蟹江城跡も行きました‼️大野城跡と同じ小牧長久手の戦いに関連している勝幡城の信長の父と母赤ん坊が信長です勝幡城跡此処も城跡のみ下見に成ります‼️清須城と小牧山城はいきません‼️
『「死」を前に書くということ「生」の日ばかり』秋山駿著講談社2014年3月10日発行秋山駿さんは1930年生まれ。文芸評論家「小林秀雄」で群像新人文学賞、「人生の検証」で伊藤整文学賞、「信長」で野間文芸賞、毎日出版文化賞、他著書多数ありこの『「死」を前に書く、ということ「生」の日ばかり』は書かれた日記(一)~(二十八)に分れて書かれていて、四十九回目で終わっている最後に「私哲学」としての批評の力宮岡幸一郎「私哲学」としての批評の力
正室巻四3回目京の日乗朝山と村井貞勝が、「内裏の修理が終わりました」と信長に報告して来た。「お濃、紫宸殿・清涼殿・内侍所・昭陽舎の普請が完成した」と、信長が濃姫に言った。「先年、殿様が命じられた内裏の修理ですね」「そうだ。内裏のご恩にむくいるために普請した」「よいことをなさいました」信長は内裏だけでなく、零落した公家の救済も実施した。また信長は領国中の関所を撤廃した。天下の安泰を図り、旅人の往来を盛んにさせる信長の施策であった。「天下の民も喜んだことでしょう」
またまたお久しぶりのituiです「ちい散歩」をもじった「つい散歩」に続く新企画!「ブラタモリ」をもじった「ブラタカダ」!記念すべき第1回の開催でございます♪この秋で退職となったジーン・高田氏のご招待で彼の実家のある滋賀県琵琶湖を中心とした観光案内だそうで第1回は「信長を偲んで水郷を漂う」です♪題名だけは本家「ブラタモリ」に負けない(笑)今回の行程は…ワトソン助手を迎えに行って草津経由で安土駅でジーンをお迎えその後、安土城、信長の館、八幡山、水郷巡り、彦根城、多賀大
いよいよ明日冥王星が順行します。11時40分から水瓶座3度で嘘つきや悪人搾取の仕組みは崩壊へ!改革が大きく進みます。それを記念して熱田の大神様を愛でる歌!ここ尾張名古屋は天下分け目の戦いが11度。信長、秀吉、家康と3代に渡って天下泰平の世を現出させた偉大なる熱田の大神様…魔を払い闇を切り裂き天照大御神の光明と剣の霊威を授ける神、熱田神宮神霊の秘儀を歌います!「君たちキウイパパイヤマンゴーだね」の替え歌で「君ら信長、秀吉、家康ね!」「♪動乱の尾張〜ちょっ
正室巻四2回目八月十八日、信長は北近江に出馬、横山に陣取った。八月二十八日、信長は佐和山城に進み、丹羽長秀の屋敷に泊まった。九月一日、信長は志村城を攻めた。九月三日、信長は常楽寺へ移動。九月十一日、信長は山岡景猶の城に陣を据えた。九月十二日、信長は比叡山を攻撃した。九月二十日、信長は美濃の岐阜に帰陣した。「無事のお戻り、お祝い申し上げます」と、濃姫が信長を出迎えた。「比叡山を攻めた」「はい、聞いています」「比叡山の僧は延暦寺が都の鎮守であるのに、行動でも仏道修
その日の夕刻、桐生庵の暖簾を、二人の男がくぐった。一人は信長。もう一人は――。信長が店内に入った瞬間、空気が変わったことを、彼は肌で知った。戦場で三十年、彼が最も敏感だったのは、背後に立つ者の気配である。振り返った。男は、桐生庵の客席の隅に、静かに座っていた。四十がらみに見える。薄いグレーのシャツ。細い縁の眼鏡。茶を、両手で持っている。所作が、あまりに整っていた。この世界の人間の所作ではない。男は茶碗を置き、立ち上がった。そして、深く頭を下げた。「……殿」信長は答えなかった。しばらく、
正室巻四1回目元亀二年(1571)正月一日、武将らが岐阜城に出仕して信長に挨拶をした。二月二十四日、浅井方佐和山城主の磯野員昌が降参。信長は佐和山城に丹羽長秀を入れた。五月六日、浅井長政が姉川に布陣し、浅井七郎が箕浦の堀秀村と樋口直房を攻めた。木下藤吉郎が浅井七郎の軍勢五千を打ち破った。浅井長政が撤退。五月十二日、信長が河内の長島を攻めた。五月十六日、信長は撤退した。信長が濃姫に、「長島攻めに失敗し、多くの兵を失った」と言った。その中には、美濃三人衆の氏家卜全
こんにちは。アレテーを求めて~今日もトコトコ(・ω・)弁護士の岡本卓大です。家康くんの『豊臣兄弟!編』のまとめ記事です(・ω・)「二匹の猿」~「変事の予兆」『【まとめ記事】進め家康くん(・ω・)『豊臣兄弟!編』(「二匹の猿」~「変事の予兆」まで)』こんにちは。アレテーを求めて~今日もトコトコ(・ω・)弁護士の岡本卓大です。家康くんの『豊臣兄弟!編』のまとめ記事です(・ω・)「二匹の猿」『【進め…ameblo.jp「信長を笑わせろ!」『【進め家康くん
森乱が集めた資料を、信長は畳に広げた。紙と、タブレットと、七海が持ってきたスクリーンショット。「殿、掲示板の投稿、三つのアカウントから出ておりますが、文体が……」「同じ者だ。ただし、一人ではない」信長は指で一行を押さえた。「見よ。この文は『らしいぞ』で終わる。噂を装っておる。だがな、本当に噂を流す者は、もっと曖昧に書く。『保健所が入ったらしいぞ』――これは、入ったと確信しておる者の書き方だ。確信は、現場にいる者しか持てぬ」「厨房の写真は?」「それも同じ理屈だ。ネズミの話をしながら、
いつも見て頂いてありがとうございます調理師介護食アドバイザーのたんぽぽです(はい、自己紹介少し変えてみました)熱田神宮内に清水社という場所がありますいまいち、知られていない場所でしてでも、せっかくここまで来たのなら、お参りしなきゃもったいない…という訳で、僭越ながら少しだけ熱田神宮のガイドをさせてもらいます最初は大楠の横を通って、本殿をお参りします弘法大師のお手植えの大楠と言われています寿命1000年超えとも携帯の待ち受けにも良いのだとか本殿にお参
正室巻三4回目この遠征中、信長は弟の織田信興を戦いで失った。信興は尾張の小木江村に城を構えて居城していた。信長は、「石山本願寺は俺が志賀で滞陣しているのを見て、長島の門徒に一揆を起こさせ、小木村の城を攻めさせた」と濃姫に言った。(長島の一揆勢に信興殿は殺されたのか)と、濃姫は思った。信長にとって全国に道場を持つ一向一揆勢は本当に厄介な敵だった。(六角、三好、浅井、朝倉、一向一揆勢、比叡山。殿様の周りは敵だらけだ)と、濃姫は信長の苦労を思いやった。信長は、「体が
こんばんは、アナログです。今週の「豊臣兄弟」見ました。昔から淀君🟰茶々の気持ちがわからなかった私。父浅井長政を殺され、母お市の方と義父柴田勝家も殺され、伯父信長の権力をそっくりそのまま手に入れた秀吉の側室に何故なる気になったのか?(両親の仇だよ〜)これまでの大河ドラマでもその時代を彩る女優さんたちが演じてきた茶々が秀吉の側室になる場面を見てきましたけど今ひとつ納得がいかなかった……(両親の仇だよ〜2回目)私なりに茶々の心理を推し量って見るに、二度の落城を経て、もう負け方につくのは嫌にな
賤ケ岳の戦いの後三姉妹が秀吉と寧々が対面するシーンで、寧々が、頑なな茶々に「名を名乗りなさい、それが礼儀というものです」と言ったシーンがありました。こうした態度に、仮にも信長の姪に対して、いきなり高飛車じゃないか、なんか急に、って感想を述べる方もいらっしゃるようですが。寧々さん、短期間のうちに最高権力者の妻になって、急に態度が大きくなってやいませんか?私の感想ですが、寧々さんよくぞ言った!と思いました。むしろスッキリした、というのが正直なところです。何か、根本的に言って、織田一族ってそん