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井沢元彦「逆説の日本史8/中世混沌編」2/「懶惰の帝王」足利義政編~「無責任」将軍が招いた応仁の乱【再読】一揆勢の要求は一度は認められた。それは「山城国に限って徳政を認める」というものであった。一揆勢は喜び勇んで市中の酒屋・土倉つまり金融業者に押しかけた。「証文を破る」ためである。ところがおさまらないのが大寺社、特に比叡山延暦寺である。徳政の対象には、人々が寺社へ寄進したものも取り返すことが認められていた。「神仏に捧げられたものを今更返せとは何事か」と彼等は怒った。彼らが唯一恐れた最大の仏
井沢元彦「逆説の日本史8/中世混沌編」1/「懶惰の帝王」足利義政編~「無責任」将軍が招いた応仁の乱【再読】足利義教の最大の誤算は、その完成目前に暗殺によって成果を失ったことと、もう一つ適切な後継者を用意しておけなかったことだろう。子供はいる。それも男子が二人、兄が千也茶丸(後の義勝)、弟は三寅(後の義政)という。しかし、この二人はあまりにも幼く、とうてい義教の政治理念を引き継ぐような力量が無かった。結局、義教の後継者は、義教が生前最も嫌った形で、しかも義教の政治理想を逆行させる機関でもある
井沢元彦「逆説の日本史7/中世神風編」11/「恐怖の魔王」足利義政編~「くじ引き将軍」が目指した絶対権力【再読】天下を掌握するためには最大の障害であった関東公方足利持氏を倒した将軍義教にとって、もはや敵らしい敵はいなかった。結城合戦の戦勝祝いが始まった。義教は諸大名の屋敷に招かれ勝利の美酒を味わった。有力大名は争って義教を酒宴に招き、贅を尽くしたもてなしで「恐怖の魔王」の機嫌をとった。1441年(嘉吉元)6月、有力大名の赤松教康から招待状が届き、義教は喜んでこの招待を受けた。赤松家の当主は
井沢元彦「逆説の日本史7/中世神風編」10/「恐怖の魔王」足利義政編~「くじ引き将軍」が目指した絶対権力【再読】義教の目的は乱世を収束させることである。義教は室町の世の状態を見て、将軍に真の権力が無く諸大名の力が強過ぎるから世の中がまとまらないのだ、と思ったはずである。そこで義教が最初にしたことは、管領の力を弱め、義満が創始した奉公衆の強化である。奉公衆とは将軍に近侍した家来のことで、義教の時代までに五つの軍団に編成され番頭がこれを統率するというシステムが完成された。室町幕府にとって
井沢元彦「逆説の日本史7/中世神風編」9/「恐怖の魔王」足利義政編~「くじ引き将軍」が目指した絶対権力【再読】四代将軍足利義持は有力守護大名の合議(宿老会議)の頂点に立つ存在に過ぎなかった。確かに最終決定権は将軍にあったが、例えば幕府が軍事行動を起こす際には、まず宿老会議によって決められた結論が将軍に対し上申され、それを元に決定するというのが基本形であった。また室町幕府には職制として三管領四職というものがあった。管領とは鎌倉幕府の執権にあたるものだが、これは北条氏のように独占するものではな
井沢元彦「逆説の日本史7/中世神風編」8/「日本国王」足利義満の野望編~「天皇家乗っ取り」直前の不可解な死【再読】義満の野望はまだ終わらない。天皇が「神聖にして侵し難い」権威であるのは、人事権という権力を持っているだけではない。祭祀の主催者、つまり祭主という権威の座にあるからだ。この祭主の権威を奪うために義満が考えたのは、仏教勢力の利用であった。義満は仏教界に圧力をかけて、宮中ではなく自分の邸内で祭祀を行わせたのだ。宮中でやるべき鎮護国家の祈禱を、自邸で行わせるというのは、義満邸が「宮中」
井沢元彦「逆説の日本史7/中世神風編」7/「日本国王」足利義満の野望編~「天皇家乗っ取り」直前の不可解な死【再読】足利義満は、なぜ懐良親王の持つ「日本国王」の称号を狙ったか?一つは、南朝が明と組んだら大変なことになるという危機感である。明は超大国である。その超大国が懐良の要請を聞き日本に攻めてきたら、まさに元寇の二の舞になってしまう。しかしそれだけではない。ただそれだけなら、懐良だけを討ってしまえばそれで済む。義満には別の思惑があったのである。そのことについては後に触れることとし、ここで義
井沢元彦「逆説の日本史7/中世神風編」6/「日本国王」足利義満の野望編~「天皇家乗っ取り」直前の不可解な死【再読】二代将軍足利義詮の治世は短い。義詮の一生も戦いに明け暮れた人生であった。義詮の戦いはなんと四歳の時に始まる。鎌倉攻めの名目上の大将として幕府討伐の立役者となった。元服後も関東に留まり幕府の基礎を固め、父尊氏の代わりに京を守ったこともあり、尊氏死後も、細川清氏らの反乱によって都を一時追われたこともあった。京に戻った義詮の代わりに、尊氏の次男(義詮の弟)である基氏が鎌倉を預かったが
井沢元彦「逆説の日本史7/中世神風編」5/尊氏対直義編~幕府政治の確立を遅らせた兄弟ゲンカ【再読】鎌倉は武家政権発祥の地で、坂東八十八国の要でもある。だからこそ、尊氏も鎌倉攻めには元服前の義詮を参加させ、陥落後は成人になる迄そこに留め置いて東国経営に当たらせたのである。しかし、いまや鎌倉すら直義派の上杉憲顕に押さえられている。尊氏がようやく直義撃滅を決意したのはこの時だった。武士の本場坂東を奪われては、幕府存立自体が危うくなる。尊氏が鎌倉へ出撃しようとした時、最も困ったのが南朝の存在であっ
井沢元彦「逆説の日本史7/中世神風編」4/尊氏対直義編~幕府政治の確立を遅らせた兄弟ゲンカ【再読】文治派の直義の考えは「後醍醐天皇以前の日本は、朝廷を頭に置き、公家と武家がうまく協調して政治を行ってきた。特にこれがうまくいったのは鎌倉時代の得宗専制の時代だ。この時代に帰ることが政治の原点である」。そういう考え方からいけば、佐々木導誉や土岐頼遠が天皇家に無礼を働いたのは、許すべからずことだ。直義はこの二人を処罰した。婆裟羅者は当然不満である。直義の方にもいささか無理があった。天皇家を圧倒し武
井沢元彦「逆説の日本史7/中世神風編」3/尊氏対直義~幕府政治の確立を遅らせた兄弟ゲンカ【再読】後醍醐は、吉野の山中で無念の想いを抱いたまま死んだ。これで尊氏の勝利となり、戦争も争乱もこれで終わりになるはずだ。ところがそうはならなかった。1339年に後醍醐が死んでから、南北朝の対立が収束するのは53年後の1392年である。室町三代将軍足利義満の時代である。なぜこんなことになったのか。それがこの時代における最大の問題なのだ。もちろんその責任の一端は後醍醐にある。しかし責任の半分は勝者の尊氏に
井沢元彦「逆説の日本史7/中世王権編」2/尊氏対後醍醐編~戦乱を招いた天皇絶対国家の理想【再読】この時期、尊氏が打ち出したもう一つの政策が、武士たちの心をがっちりと掴んだ。それは「元弘没収地返付令」と呼ばれるものである。後醍醐が打ち出した政策「土地所有権について白紙に戻す。これからは綸旨を得た者が新たな所有権を持つ」。これが空前の混乱を招いた。これを「無かったこと」にして土地を旧所有者に返還することを、尊氏の名で保証したのだ。光厳天皇の院宣は、この宣言も天皇家が保証しているという観点で受け
井沢元彦「逆説の日本史7/中世王権編」1/尊氏対後醍醐編~戦乱を招いた天皇絶対国家の理想【再読】北条時行の軍勢は信濃から出撃した。公家の中では幕府と最も密接だった西園寺の当主公宗がこの反乱の首謀者であった。しかし、計画は事前に漏れ公宗らは逮捕され一斉蜂起は失敗した。しかし、それでも時行は兵を挙げた。足利尊氏にも弟がいた。直義という。この直義が、後醍醐の息子成良親王、そして尊氏の息子義詮を奉じて鎌倉に駐在していた。時行軍は鎌倉を目指した。鎌倉を奪回し、幕府復活の大号令を全国に伝える。直義らの
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」13/後醍醐天皇の新政編~権力と責任を分散させる伝統的システム【再読】足利尊氏は建武の新政の成立の大功労者であった。足利家は源氏本家が三代で滅んだ以降は、源氏の中で最も有力な名門であった。そのために北条氏は、一門の娘を尊氏に与え、いわば「同族会社の女婿」とした。尊氏は諸国に檄を飛ばし、呼びかけに応じて集まった軍勢を加え京へ進撃した。六波羅は陥落した。しかし、幕府の本拠地である鎌倉を攻撃し陥落せしめたのは尊氏ではない。後に宿命のライバルになる新田義貞だっ
さて、ここまでの三項目については私ならずとも現代のマスコミ事情に詳しい人間にとってはある程度容易に思いつくアイデアかもしれない。そこで、少なくとも私の知る限り、誰も述べていないもう一つのアイデアをここで示そう。それはひと口に語るのがなかなか難しいのだが、スポンサーのCMを番組内に挿入するやり方を根本的に変革することである。言うまでも無く、現在の民放の営業システムはスポンサーから支払われるCMの広告料によって成り立っている。ただしここには重大な問題があり、たとえば薬品会社のスポンサーがついて
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」12/後醍醐天皇の野望編~「河内の土豪」楠木正成を結び付けた朱子学思想【再読】鎌倉時代末期の日本は、東国を中心とした「自給自足農業経済圏」と、西国を中心とした「商業経済圏」が対立していたのである。御家人は、所領が細分化される→経営効率が落ちるが幕府への義務は果たさねばならない→借金をするが返せず土地を奪われる→無足人となる、この繰り返しであり、御家人は次々に窮乏化し、幕府は弱体化した。また、元寇の軍役負担もこれに拍車をかけた。幕府は「倒産」する運命にあ
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」11/元寇と日本人編~危機管理なき防衛意識を決定付けた”勝利体験”【再読】1266年(文永3)11月、フビライの国書を持った正使と福使が高麗に到着した。日本がモンゴルに侵略されることになったのは、朝鮮半島がモンゴルの支配下に置かれたからである。この時は、高麗王に冬の日本海を見せられ、とても渡航出来ないと一旦は引き揚げたが、フビライの叱咤によって今度は高麗の使者が国書を携え、翌々年(文永5)1月に九州大宰府に現れた。フビライの国書は実質的な脅迫状であった
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」10/道元と日蓮編~昭和のファシストが心酔した「日蓮サイクル」の虚と実【再読】『立正安国論』を書いた日蓮は、幕府の前執権北条時頼の近臣に差し出した。時頼はこの書を黙殺した。これは日蓮に対する好意であろう。少なくとも日蓮の学識が並々ならぬものであることは時頼には分かったはずである。そのような学僧を政治的に弾圧するのは正しくないと思ったのだろう。ところが念仏の徒はおさまらなかった。自分たちの信じていることを全面的に否定した上にそれを「邪説」だと最高権力者に
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」9/道元と日蓮編~昭和のファシストが心酔した「日蓮サイクル」の虚と実【再読】鎌倉新仏教の開祖たちはいずれも個性的である。。法然、栄西、親鸞、道元、一遍と並べれば一目瞭然だろう。しかし、いかに彼等が個性的だと言っても、浄土真宗のことを親鸞教とは言わないし、曹洞宗を道元教とも言わない。にもかかわらず日蓮の宗教は日蓮宗と言う。ここに日蓮という宗教人の全てがあると言ってもいいだろう。つまり、極めて「個性的」なのである。では、日蓮はどのような問題意識を持っていた
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」8/道元と日蓮編~昭和のファシストが心酔した「日蓮サイクル」の虚と実【再読】1200年(正治2)生まれの道元が、入宋求法を志し大陸の明州に入ったのは1223年(貞応2)のことだった。承久の乱の2年後である。道元は24歳だった。禅を生み出したのはインド人だが、それを禅宗という形で一つの思想体系として完成させたのは中国人である。しかし、それを完全に「民族の思想」としたのは、むしろ日本人だろう。道元が日本に伝えた「日常生活こそ修行」という考え方が、日本をアジ
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」7/浄土門の聖者たち編~平安後期に流行した「極楽浄土」信仰【再読】越後で俗人にされた親鸞は、どのような生活を送っていたのだろうか。法然の流罪は、元々法然自身の罪によるものではないため、四年後に許されることになった。師が許されたので、弟子も同じく許されることになったが、親鸞はあえて非僧非俗(僧でも俗人でもない)立場を主張するために愚禿(ぐとく)と名乗った。親鸞は赦免の沙汰を受けてもすぐには京へ戻ろうとはしなかった。一つは師の法然が赦免のわずか二か月後に京
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」6/浄土門の聖者たち編~平安後期に流行した「極楽浄土」信仰【再読】時代はここで鎌倉時代となる。平安時代末期に発達した浄土教は、元々個人の修行が中心だった仏教を、信仰と救済に大きく重点を移したものとして評価されるべきだ。もちろん「小乗から大乗へ」の流れの中で、修行の重要性はかなり減ってきてはいたが、それでも仏教である以上は布施や持戒といった「行」を全く無視するわけにはいかなかった。ところが浄土教は、極楽浄土への往生を第一義としたため、むしろ阿弥陀の本願を
週末の夜にこんばんは♪昨年の今頃は帝国劇場にて「千と千尋の神隠し」を観劇。(千尋役上白石さん)大好きな作品なのでとても楽しかったです先日帝国劇場は建て替えのため休館に。優雅で楽しいひと時をありがとうございました!そして本日は異色の推理作品のご紹介織田信長!推理帳シリーズ(作者:井沢元彦)※番号は発行年順①修道士の首こちらは7つの短編集!舞台は織田信長様の御城下安土天狗の化け物や、凄腕のスナイパーが登場する怪事件の数々。そして南蛮時計や、大理石の少年像などの海外
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」5/浄土門の聖者たち編~平安後期に流行した「極楽浄土」信仰【再読】平安時代後期から、新たな仏教が発展し一世を風靡する。それは浄土教である。浄土教とは何か?一言で言えば、修行による悟りより、浄土への往生を重視する仏教の一派のことだ。ちなみに今でも「死ぬこと」を「大往生」と言うが、本来の意味は「浄土に生まれ変わる」ことを指す。ただ、生まれ変わるためには、その前段階として「死ぬこと」が必要なので、いつの間にか「死ぬこと=往生」になってしまったのだ。浄土教自体
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」4/鎌倉以前の仏教編~日本における仏教伝来の特殊性【再読】最澄の業績を現在の大学に見立てると、まず比叡山に仏教総合大学を創立し、法華学部、戒律学部、禅学部、密教学部の四学部を設けた、と考えればいいだろう。そして、日蓮、親鸞、道元といった鎌倉新仏教の担い手は、全てこの大学で基礎を学んだのである。日蓮は法華学部、道元は禅学部、そして親鸞は戒律学部の出身である。ただし、この大学は創立当初から密教学部は弱点だった。最澄が唐で密教を完全な形で学ぶ時間がなかったの
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」3/鎌倉以前の仏教編日本における仏教伝来の特殊性【再読】仏教というのは宗教であるから民衆の信仰が先に来るはずである。ところが、日本では公伝という特殊な形で仏教が伝来した。百済王から「こういう神がいるから日本でも信仰しないか」というメッセージと共に仏像が贈られた。それまで日本には人の形をした「神像」は無かった。ここで初めて、朝廷が仏教を公認したのである。538年のことだ。もっとも、渡来系の蘇我氏は仏教受容に賛成したが物部氏は反対した。この後蘇我系の聖徳太
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」2/鎌倉以前の仏教編~日本における仏教伝来の特殊性【再読】仏教とは、ある意味で「例外のかたまり」のような宗教である。大乗仏教そのものも原始仏教から見れば「例外」なのだ。では、どうしてそんなに例外が多いのか?これについては少し説明が必要であろう。キリスト教やイスラム教ではそんなことはないからだ。例えば「神」にしても、キリスト教やイスラム教は「一神教」であって神は一つしかない。だが、仏教では釈迦如来以外にも、阿弥陀や薬師や大日如来といった、釈迦と同格(ある
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」1/鎌倉以前の仏教編【再読】鎌倉新仏教を理解するためには、それ以前の仏教を一通り理解しておく必要がある。しかし、仏教がインドの人釈迦(ゴータマ・シッダルタ)によって始められたのは紀元前500年前後のことだから、それから鎌倉時代までは1700年もある。その間の仏教史を述べるのは容易ではないが、出来るだけ単純化して鎌倉以前の仏教史を述べてみよう。では、釈迦の仏教とはどんなものか。簡単に言えば解脱を求めることだ。解脱とは輪廻から脱することで、悟りを開く
井沢元彦「逆説の日本史5/中世鳴動編」11/北条泰時と御成敗式目編~「法の正義」に優先する「道理」精神【再読】北条泰時は承久の乱後に御成敗式目を発布した。この式目には「過去において発布した法規(律令)と全く無関係」と明記されていることも、意外に知られていない事実だ。しかし、現代の日本人は承久の乱後の戦後処理が「革命」という認識も、その結果発布された御成敗式目が律令に代わる「新憲法」だという意識もない。これはなぜだろうか?もう一つ不思議なことがある。泰時は非難されるどころか、彼ほど評判
井沢元彦「逆説の日本史5/中世鳴動編」10/悲劇の将軍たち編~「言霊将軍」実朝を暗殺した黒幕【再読】後鳥羽上皇が拒否したのは当然だったであろう。上皇にしてみれば「忠臣」実朝が補佐してこそ「鎌倉支配」という計画は完成する。幕府を骨抜きにして、朝廷の傘下に置くためには、親王将軍が単なる飾り物であってはならない。理想を言えば、実朝が早目に引退し、将軍位を上皇の子である親王に譲り後見人となり、幕閣の中枢は源仲章ら上皇の腹心で固める。ところがその目論見は、実朝と仲章の暗殺によってすべて崩壊したのであ