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楠木正成を代表とする「悪党」とは何か、彼等はなぜ後醍醐天皇のために最後まで戦ったのか、って話をします。「悪党」とは、鎌倉幕府から認められた御家人ではない、「武士とは認められていない」非正規武士のことです。悪党は幕府体制に入らない者を差していますから、悪の意味は「bad」ではなく「irregular」です。元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まっています。ところが。鎌倉幕府が滅亡したのは、貨幣経済の浸透です。
「将軍は源氏しかなれない」というのは嘘です。鎌倉幕府にも摂家将軍や皇族将軍がいたように、源氏でなければ将軍になれないというのは俗説に過ぎません。なので、足利義昭に「養子にしてくれ」ともちかけ、それを断られてので、征夷大将軍になるのを諦めた、という話も、如何なものかと思います。秀吉が本気で望めば、足利義昭が何をどういおうと、征夷大将軍でも何でもなれたでしょう。ただし、「征夷大将軍になれば幕府を開ける、日本の支配者になれる」というのも、誤解です。鎌倉幕府と後世呼ばれる組織(当時は幕府なんて
鎌倉幕府が三寅を第四代将軍として鎌倉に迎え入れると打診してきたのは建保から承久への改元のあたりと想定される。北条時房がどのような交渉をしたのかは残念ながら歴史資料に残っていないが、承久元(一二一九)年六月初頭には確定事項となり、六月二五日に北条時房がいったん六波羅へ立ち寄ったのちに京都を出発して鎌倉に向かい、七月一九日に北条時房が鎌倉に到着したことは他の記録から明らかとなっている。また、散逸している吾妻鏡も承久元(一二一九)年七月一九日より記録が復活し、その後の記録を追いかけることが可能と
2025.11.20(木)の神奈川新聞の記事についてです。戦国時代の“毛利氏”と言えば、あの中国地方の有力大名で、“三本の矢”の逸話でも有名ですよね~その毛利氏を名乗ったのが、鎌倉幕府の源頼朝の側近であった大江広元の四男:季光(すえみつ)とのこと。この大江季光が、“毛利荘”の地頭職(現在も厚木市内に“毛利”の地名は残る)となって、“毛利氏”を名乗りその季光の子孫に毛利元就が居ることからの“毛利氏発祥の地”としているそうです。【2025年11月20日付神奈川新聞より】この冊
「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結した」という捉え方は、あまり実情を反映していないからです。つまり、北朝の天皇は、戦ってもいないし勝ってもいません、実際のところを見れば。足利尊氏や後醍醐天皇のせいで天皇家が二つに分かれちゃった訳では、ありません。天皇家は、尊氏よりずっと以前、鎌倉時代のうちから、「持明院統」と「大覚寺統」の二つに割れて、交互に天皇を出しながら反目していたんです
「元寇のとき『神風』が吹かなければ、日本はモンゴル帝国に征服されていたのか?」それは、ありません。神風、関係ないです。鎌倉幕府が指揮する日本軍は、北九州一帯に土塁を築き、十分な防衛体制を整えていました。対する蒙古軍の実態は、指揮官のみがモンゴル人、率いる兵士は征服された高麗、南宋の民で、戦意も低いものでした。蒙古軍は、上陸したものの日本側の抵抗で土塁を越えられず、夜になると船に引き上げざるを得ませんでした。そのうえ、鎌倉武士による小舟での襲撃、遠征が長引いたため病気の蔓延、と戦闘
今日の長話。「後醍醐天皇とは、何だったのか」長男より末っ子のほうが可愛いから、そっちを跡継ぎにしたい、と言い出すワガママなヒトって歴史上いっぱいいますが、特に古代から中世の天皇家に多いですね。なんでですかね。要は「優秀な跡継ぎをちゃんと選ばないと家が没落する」という危機感を抱かなくてもすむ、日本で唯一のエライさんの家、だからでしょうかね。「保元の乱」もそうですよね。白河上皇が、長男の崇徳天皇が気に入らず、弟の近衛天皇に位を無理やり譲らせたのが戦争の発端ですからね。それで国ぢゅうが大乱にな
鎌倉幕府を滅ぼすのに、多大な功績をした「悪党」とは、何か?て話をします。「逃げ上手の若君」の時代の話、です。「悪党」とは、幕府から認められた御家人ではない、「武士とは認められていない」非正規武士のことです。悪党は幕府体制に入らない者を差していますから、悪の意味は「bad」ではなく「irregular」です。元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まっています。ところが、です。鎌倉幕府が滅亡したのは、貨幣経済の