ブログ記事2,257件
長かった修羅の刻義経編もついに完結します!さて舞台は壇ノ浦の戦い。もちろんこの両雄が対峙します!陸奥鬼一vs平教経!まぁこの修羅の刻源義経編における鬼一の戦闘シーンは少ないからね、教経くらいはビシッと倒してくれなきゃ困ります。つーわけで鬼一の実力を見抜いた教経。教経「さがれ…ぬしらでは歯が立たぬ…こいつは物ノ怪だ。」刀や薙刀や弓で殺し合うという時代において「飛び蹴り」という発想はなかなか生まれないか。蹴るくらいならその前に斬っちゃえよと思っちゃうもんねぇ。さて揺れる舟の上での戦い、
「一条家」「二条家」「三条家」と、計らずも「○条家」紹介のシリーズと化してしまった当ブログ。だったら「四条家」もやってしまおうと、今日はそんな試みです。自己満足もここまでやるとかえって清々しいってもんよ。四条家は、大河ドラマ『平清盛』と『鎌倉殿の13人』の時代ドンピシャ(ちょっとオーバーするけど)なので、今年のうちにやるとちょうどいいですしねw四条家は、藤原氏善勝寺流の流れをくむ家です。善勝寺流は、以前に紹介した奈良時代に左大臣にまで登り詰め、そして失脚した藤原魚名の
4/27の土曜日に地元の観音寺さんの藤をパパさんと二人で見に行きました~朝刊に掲載されていたのでお買物ついでに・・・・滋賀県守山市の天台真盛(しんせい)宗「観音寺」で、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝(1149~99)にゆかりのあるフジが見ごろを迎えている。フジは山門の前にある老木。平治の乱(1159年)で平家に敗れた頼朝が逃亡中、同寺を訪ねた。フジの木の杖を地面に挿して再起を祈願したところ、フジの芽が出た。幸運の兆しだと勢いづき、後に鎌倉幕府を開く契機になったと伝わる。フジの近くには大
源頼朝の突然死の知らせが京都を混迷に招いたことは既に記した通りである。それは二月になってある程度鎮静化してきたものの平穏が取り戻せたというレベルにはほど遠いものであった。特に後鳥羽院の周辺警護の物々しさは際立っており、土御門通親が自らの身を守るために後鳥羽院に身を寄せたのも、土御門通親への不満を増すことにつながるものの身の安全のためにはやむをえないことと納得されてもいた。そんな中、建久一〇(一一九九)年二月一一日に左馬頭である源隆保が自邸に武士を集めて謀議していた事実が明らかとなった。
大きな木には必ず触っとく思考の学校校長の大石洋子です。ところでですね、このお寺、うちから100歩くらい歩いたところにあるお寺なんです。九品寺(くほんじ)って言います。このお寺、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞さんが、当時の鎌倉幕府の権力者だった北条一族のみなさんの菩提を弔うために建てたお寺なんだそうで(最期は北条一族さんみんな自害されたみたいですね、昔の政権交代はそんなかんじだったんですよねえ、そう考えるといまはずいぶん良い世の中になりましたね。)つい最近そのことを知りました。なんと
〈南北朝〉三部作、第1弾『悪党の裔』、第2弾『道誉なり』、そして第3弾『楠木正成』。『楠木正成』上巻裏表紙時は鎌倉末期。幕府の命数はすでに尽き、乱世到来の情勢下、大志を胸に雌伏を続けた男がひとり――。その名は楠木正成。畿内の流通を掌握した悪党は、討幕の機熟するに及んで草莽の中から立ち上がり、寡兵を率い強大な六波羅軍に戦いを挑む。日本史上屈指の軍事的天才と称される武将の真の姿を描く、北方「南北朝」の集大成たる渾身の歴史巨編。第1弾『悪党の裔』は赤松円心を中心にして大塔の宮護良親王、足
南北朝の争いは「南朝が正統」で決着しました。北朝の天皇が「北朝1」「北朝2」みたいな脇扱いされているのは、そのときの「政治決着」が今も生きているからです。北朝のスポンサーである室町幕府、足利義満が、三種の神器を南朝から取り戻すための方便として、名目上だけ妥協した、ということです。どういうことか、以下、説明します。天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂したのは鎌倉時代のことで、これは純粋に天皇家の内輪もめです。後嵯峨上皇という困った人がいて、末っ子が可愛いからといって、兄
現在の天皇家は「北朝」の子孫です。なのになぜ、「南朝が正統」とされているのか?足利義満が「南朝を正統と認めます」という政治的決着で南北朝を合一したから、です。そんな馬鹿な、南北朝は「北朝勝利」で終わったから、南朝の子孫は消えて、北朝の子孫が今の天皇に至るのではないのか?実質的にはそうでも、形式的には、南北朝の分裂は「南朝正統」で決着したんです。「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結し
【高校日本史】目からうろこの北条氏の覚え方みなさん初めまして、蒼欄(そうらん)です。とつぜんですが、日本史に興味をお持ちではないでしょうか。少しでも興味ある人はぜひ見ていってください。まず北条氏がなぜ力をもつようになったのかということです。一番有名なのが北条政子(ほうじょうまさこ)ですね。鎌倉幕府の初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)の妻であり承久の乱のときには、武士に熱い演説をしました。政子が頼朝に嫁いだのは、実は父の北条時政(ほ
鶴岡八幡宮参拝を終えて、てくてく歩き次に向かったのは源頼朝公墓所。途中には、政治の中心となった大倉幕府跡があります。御所があった場所です。現在は、清泉小学校になっています。大倉幕府跡碑奥に進むと…白旗神社石段を上ります。鎌倉幕府初代征夷大将軍源頼朝公の墓所。*第26回悲しむ前に髻を落すと、観音様が出て来た。*比企尼には、観音様は捨てたと言ってたのに。捨てられないよね。大切な観音様だから。昏睡状態だった頼朝が、これは何ですか?*頼朝、意識回復したんだ!最期の力を、振
本日は、改めて「防人(さきもり)」について考えてみたいと思います。防人については、日本史の考え方29「なぜ古代の農民たちは逃げるのか②」でも少し触れました。高等学校で使用している教科書には、実に興味深い記述があります。「防人には東国の兵士が当てられ、3年間大宰府に属した。」ここで重要なのは、なぜ防人は東国出身の兵士なのか❓ということです。この問いは、授業でしっかり扱っておくべきだと思います😊先ず、東国について説明します
1月2日、NHK・BS「鎌倉殿サミット2022(源頼朝死をめぐるミステリー日本史上の大転換点)」が放送されていました。1月9日から始まる大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を更に面白くなるといううたい文句だったので早速見ました。2時間の討論番組で長いため簡略して報告させていただきます。(番組内容)「通説では、「落馬」で急死したとされる源頼朝。しかし、鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」では、頼朝の死の前後の記録が、なぜかすっぽり抜け落ちている。しかもその後、2代頼家、3代実朝も相次いで亡くなり、頼朝の
建久一〇(一一九九)年二月一四日、源隆保に対する噂が一つの結末を生み出した。この日、後藤基清、中原政経、小野義成の三名の武士が六波羅在中の鎌倉幕府の雑色に捕らえられ院御所に連行されたのである。これにより源隆保が集めた武力が激減したが、それで源隆保の身に降りかかった不幸が終わるわけではない。二月一七日、西園寺公経、持明院保家、そして源隆保の三名が出仕停止。さらに源頼朝の帰依を受けていた僧侶の文覚も検非違使に身柄を引き渡された。事態が沈静化したのは二月二六日のことである。この日に鎌倉から中
静岡県熱海駅から1.5㎞の伊豆山にあるのが伊豆山神社です石の鳥居ここに駐車場もありますが上の本殿の裏にも駐車場がありますまた、バスもこの鳥居のところで停まります伊豆山神社前停留所です銅の鳥居立派な鳥居です!社殿によれば第5代孝昭天皇(BC475-BC393)に創建され最初日金山(ここから北に8㎞)にありましたがその後本宮山を経て承和3年(836年)に僧侶によってここに遷座したのです銅の鳥居側面大和朝廷の時代から伊
結局仕事に行きましたが問題は解決出来ず休み明けに何とかする事に😭今週は大変だったけど来週こそは良い事ありますように。で、何だか疲れてしまったので帰りにたこ焼き買って帰りました。銀だこってテイクアウトだけじゃなくて中で食べたり飲んだりできるんですねwリーズナブルです。塩辛ポテトが気になりすぎました笑で、話が変わりますが今テレビを見てて興味深い事が!私の頃って鎌倉幕府設立は1192年(いい国作ろうと鎌倉幕府)と覚えてましたが今って1185年(いい箱作ろう鎌倉幕府)に