ブログ記事2,463件
問題提示これから鎌倉幕府を小さな政府として捉え直すことを試みます。このたびは中世前期で卒業論文を書くことを考えている偏差値の低い大学の学生に必読ということにしておきたいと思います。中世前期で卒業論文を書くことを考えている偏差値の低い大学の学生の皆さん、ぜひヒントにしてください。記述に至った経緯昨年の大河ドラマが「鎌倉殿の十三人」だっただけに、その話題性に依存するかのようになってしまうのですが、正直、内田樹、磯田道史、本郷和人、細川重男、呉座勇一、濱田浩一郎の各氏がするような、時
日本で1番多いと言われている八幡信仰の総本社宇佐神宮ですが古代は宇佐氏の磐座信仰の地と言われています。(宇佐氏は中臣氏(藤原氏)の始祖です)その後、比売大神信仰となります。比売大神は卑弥呼ではないかと言われています。571年に八幡信仰に変わります。神仏習合発祥の神社と言われており。東大寺大仏の建立の功績で全国に広まるキッカケとなります。そして応仁天皇に変わったのは8世紀頃と言われています。鎌倉幕府の氏神となり庶民にも広まっていきました。調べてみると、現在の神道の前に古
久しぶりに暖かい休日となった昨日鎌倉にある朝夷奈切通し(あさいなきりとうし)を見に行ってきました。(画像お借りしています)品川から京急線で金沢八景まで乗りました。金沢八景駅を出て階段を下りるとバスのロータリーがあるのでそこから「朝比奈バス停」までバスで乗って行きました。鎌倉駅行き(3B)に乗車。10分もせずに朝比奈バス停に着きました。こんな民家のどこに「切通し」が?と思いますがこの民家を横に曲がると「朝夷
今回はこういうお題でいきます。日本史のカテゴリですね。あんまり怖い話にはならないと思います。さて、新田義貞は、『太平記』に登場する武将の中で、楠木正成、足利尊氏と並ぶ3本の柱の一人ですが、他の2人に比べるとマイナーというか、歴史的評価もあまり高くないですよね。『太平記』は戦前、天皇に忠義をつらぬく物語として皇国史観に利用され、その反動から、戦後はあまり読まれなくなりました。中学校の古典教材に『平家物語』は出てきても、『太平記』が出てこないのは、『平家物語』のほうが文章が優れてるため
政治家としての源実朝の活動は前年から既に見えていたが、承元四(一二一〇)年に入るとより活発化することとなる。まず、時間は少し遡ることとなるが、中原広元を京都に派遣してからおよそ一ヶ月を経た三月一四日に武蔵国の検地台帳を作るよう命じた。検地自体は建久七(一一九六)年より断続的に実施していたが、その結果をまとめてはいなかったのである。検地結果をまとめる台帳の作成をこの日、まずは武蔵国から始めることとしたのだ。どんな施策であろうと、まずは現状把握から始まる。検地は土地政策における現状把握手段であ
今回、正統派のオタ活。聖地巡礼なるものをしてきました。これは初めての経験。とはいっても、そもそも鎌倉も京都も大好きなので(鎌倉は特に)既に何度も行ってるし、なんら違和感もなく、聖地巡礼っぽさもないな、うん。ただね。今回初めてやったのは、推しをいちいち写真に撮ることです。江ノ電の車窓から海を眺めるねんつるちゃん稲村ヶ崎を案内してくれるねんつるちゃん傘と、ねんどろいどと、カメラ&ケータイとで忙しかったこの子は鶴丸国永と言います。多分鎌倉時代の初期から中期の京から鎌倉にきました。今
阿津賀志山の麓まで行ってみることに。飛行機雲や不思議な雲が泳いでました~。義経のところから、歩いてすぐです。5分くらいで防塁に到着。歩いてみるといろんな歴史が詰まっていました。阿津賀志防塁については、①を参照してください。『【国見町】春の訪れに阿津賀志巡礼①奥州合戦とは』春らしく行きたいのですが、ディープな歴史です。先日、ひさしぶりに国見町へいき、道の駅にも久々に寄ってみました。※道の駅国見あつかしの郷※桃のジェラート…ameblo.jp追記、再びこちらの冊
長かった修羅の刻義経編もついに完結します!さて舞台は壇ノ浦の戦い。もちろんこの両雄が対峙します!陸奥鬼一vs平教経!まぁこの修羅の刻源義経編における鬼一の戦闘シーンは少ないからね、教経くらいはビシッと倒してくれなきゃ困ります。つーわけで鬼一の実力を見抜いた教経。教経「さがれ…ぬしらでは歯が立たぬ…こいつは物ノ怪だ。」刀や薙刀や弓で殺し合うという時代において「飛び蹴り」という発想はなかなか生まれないか。蹴るくらいならその前に斬っちゃえよと思っちゃうもんねぇ。さて揺れる舟の上での戦い、
どのような事情で対決姿勢を見せるようになったのかを調べた源実朝は、橘公成に対して彼女を美作朝親のもとに返すように命じ、両名に対して矛を収めるようにさせたというのが吾妻鏡での記載である。ただ、吾妻鏡のこのあたりの記載は不自然に感じる。たしかに鎌倉武士の気質は短期で物騒である。厳密に言うと南北朝時代の作品であるためこの時代の作品ではないが、かの有名なマンガ作品にある「侍の本懐とはナメられたら殺す」はこの時代の鎌倉武士にも通用する考えなのだ。不快な思いをさせられたとき、司法に訴えるより先に武
承元三(一二〇九)年一二月一五日。前述の守護と地頭の見直しについての第一段として、関東近隣の守護の見直し結果が発表となった。ただ、その結果は源実朝の期待を裏切るものだった。全て現状維持であったのだ。特に、下総国守護千葉成胤、相模国守護三浦義村、下野国守護小山朝政の三名が揃って、自らが守護であり続けることの根拠となる文書を持ってきたことは、源実朝の想像を超えていた。下総国守護千葉成胤が下総国の国守護である根拠が、祖父の千葉常胤に源頼朝が下総国守護の権利を与えたことに基づくとした。
承元四(一二一〇)年二月二一日に中原広元が京都に派遣された表向きの理由は、明王院僧正公胤が指導僧をつとめる後白河法皇の持仏堂の長講堂の法事に参加するためである。公胤と言えば、比叡山延暦寺対策のために源実朝が招いた園城寺の僧侶である。その僧侶が京都で開催される法事に参加する。それだけでもただの法事ではないことがわかるが、その法事に鎌倉幕府から中原広元が派遣されるというのは、理論上こそ一人の貴族が京都まで出向いて法事に参加するということであっても、実際には誰もそのような理論を信じない。いか
再び戻ってきました、阿津賀志探訪。また、ちょっと書きます~。今度は、バイパス(4号国道)から西側の阿津賀志山の麓へ。4号線を通ったことある方は看板を見かけたことはあると思います。この付近を散策。まず先にここに立ち寄ってみました。駐車スペースはないのですが、裏に停めて参拝。天然記念物「義経の腰掛松」江戸時代の紀行文や作品、絵図に登場する松。平安時代末、藤原秀衡をたよりに義経が金売吉次とともに平泉へ下向する際、松に腰をかけたとの伝説が由来としてあります。
石破茂総理が先の衆議院議員選挙で当選した1回生議員との会食に先立ち秘書に一人10万円の商品券を届けていたという問題が大きな波紋を広げています。報道を知って私は「石破内閣はつんだ。政権が崩壊する」そうフェイスブックで書きました。今回の国会は「政治と金」が1丁目1番地ともいわれる国会です。同じ日に企業団体献金の禁止をめぐって国会の政治改革特別委員会かな?で立憲民主党の江田憲司衆議院議員と小泉進次郎衆議院議員のやり取りなどもあり-YouTubeYouTubeでお
意外な結果に驚いてる七色ニャンコです何度か書いたことありますがニャンコは子供の頃から②派ですサザンオールスターズの「ピースとハイライト」の歌詞にもありますが『教科書は現代史をやる前に時間切れそこが一番知りたいのに何でそうなっちゃうの?』まさにこの通りだと思ってますリアルな戦争を体験してる方がいなくなる前に体験者の話を聞くべきだと思ってますそれこそが歴史の授業もうひとつの理由は昔の何年に何が起きたかなんて100%の証拠はないことですね現在すでに鎌倉幕府が出来た年や
こんにちは!(๑´ヮ`๑)本日もお立ち寄りいただきありがとうございます。昨日、仕事を終えて帰宅するや否や、娘の社会に付き合いました。ウソです。ちゃんとご飯食べてからやりましたー笑WEB講義を視聴直後、テキストを読み込んで線引き&補足説明をしていきます。単元は平安末期〜鎌倉幕府のおこり。源平合戦を経て、壇ノ浦の戦い、平氏の滅亡、守護・地頭の設置、義経討伐、奥州藤原氏の滅亡、鎌倉幕府のおこり、侍所・政所・門注所、承久の乱、いざ鎌倉、執権政治etc...と続きます。懐かしさを感じつつ、そ
【高校日本史】目からうろこの北条氏の覚え方みなさん初めまして、蒼欄(そうらん)です。とつぜんですが、日本史に興味をお持ちではないでしょうか。少しでも興味ある人はぜひ見ていってください。まず北条氏がなぜ力をもつようになったのかということです。一番有名なのが北条政子(ほうじょうまさこ)ですね。鎌倉幕府の初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)の妻であり承久の乱のときには、武士に熱い演説をしました。政子が頼朝に嫁いだのは、実は父の北条時政(ほ
現在の天皇家は「北朝」の子孫です。なのになぜ、「南朝が正統」とされているのか?足利義満が「南朝を正統と認めます」という政治的決着で南北朝を合一したから、です。そんな馬鹿な、南北朝は「北朝勝利」で終わったから、南朝の子孫は消えて、北朝の子孫が今の天皇に至るのではないのか?実質的にはそうでも、形式的には、南北朝の分裂は「南朝正統」で決着したんです。「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結し
本日は、改めて「防人(さきもり)」について考えてみたいと思います。防人については、日本史の考え方29「なぜ古代の農民たちは逃げるのか②」でも少し触れました。高等学校で使用している教科書には、実に興味深い記述があります。「防人には東国の兵士が当てられ、3年間大宰府に属した。」ここで重要なのは、なぜ防人は東国出身の兵士なのか❓ということです。この問いは、授業でしっかり扱っておくべきだと思います😊先ず、東国について説明します
楠木正成を代表とする「悪党」とは何か、彼等はなぜ後醍醐天皇のために最後まで戦ったのか、って話をします。「悪党」とは、鎌倉幕府から認められた御家人ではない、「武士とは認められていない」非正規武士のことです。悪党は幕府体制に入らない者を差していますから、悪の意味は「bad」ではなく「irregular」です。元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まっています。ところが。鎌倉幕府が滅亡したのは、貨幣経済の浸透です。
鎌倉観光(その3)白旗神社にある、源頼朝の墓に行ってきました。ヾ(●⌒∇⌒●)ノ鶴岡八幡宮を後にして、住宅街を白旗神社に向けて歩きます。C=C=C=┌(;・_・)┘トコトコ途中、レトロなコカコーラの自動販売機を発見。学生の頃、お世話になった自販機です。お金を入れて、左のドアを開けて、好きなビンを引き抜きます。なぜか、1本しか抜けない構造です。学生の頃、若気の至りで、二人で2本抜きを試みましたが、手にできたのは1本だけでした。自販機の、写真をよ
「楠木正成」(くすのきまさしげ)鎌倉時代から、南北朝時代の武将。元寇以降、鎌倉幕府は弱体化。国家運営が破綻していきます。このしわ寄せが民にきます。民の生活が厳しく悲惨になっていきました。これを見かねた後醍醐天皇は、諸国の武将や豪族に、倒幕を掲げます。そんな後醍醐天皇のもとに、義をもって駆けつけたのが、楠木正成でした。しかし、この計画は、事前に、幕府に発覚、後醍醐天皇は、島流しになりました。後醍醐天皇が島流しにあっても、楠木正成は、後醍醐天皇の本
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」放送開始日に、伊豆の国市でイベントがあります。出演者によるトークショー、初回放送をパブリックビューイングで鑑賞。豪華な出演者たち。既に応募は締切です。もちろん伊豆の国市会場で応募しました。抽選当たると嬉しいなぁ…お願い!当たって!!サテライト会場でのイベント。沼津市、三島市、伊豆市、函南町サテライト会場スペシャルゲストとともにメイン会場の様子と大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第1回放送を会場の大画面でお楽しみいただきます。<沼津市会場>【日