ブログ記事1,604件
移植コーディネーターの方の、その口調からは、失礼ながら、「ドナーを増やしていきたい!」といった熱意は、皆無で、与えられた仕事をこなすことにのみ、集中していて、「仕事以外のことなど、やっていられない」感だけが、伝わってきました。彼女にとって、移植に従事することは、単に、与えられた業務をこなすこと…それが、電話を通して伝わってきました。韓国では、マスコミや民間と連動して、広報に力を入れてきたと言いますが、この落差に、心底がっかりした記憶がありますし、日本では、
不足要素が明確であるにもかかわらず、日本の移植行政は、もう何十年もの間、移植後進国である、という現状に甘んじ、変革しようとしませんでした。そんな日本の移植の現状には、歯がゆさを覚えるばかりです。そうそう、日本の移植行政の、不熱心さというか、「民間と連動して、脳死ドナーの数を、増やしていこう」とする、韓国のような空気感が、日本には欠如していると、実感したことがあります。今から3年前に、私たちが、『臓器移植ドナー登録推進協議会』を、立ち上げた際に、都道府県に
この章、〈何が足りないんだろう?前編〉では、日本の移植の低迷要因を、探ってきましたが、その中でも、『日本人の意識変化の必要性』に、焦点を絞ると、明確な、不足要素が2つ、浮かび上がってきます。1・「脳死ドナーになることは、とても尊い行為である」と、日本社会全体で、認識できるようにすること。2・ドナー遺族が「臓器提供を決断して、本当に良かった」と思えるような、アフターケアを十分にすること。この2点は、譲ることのできない、変革事項だと思います。中でも、「脳
10月限定のこの行事は、所詮は、恒例行事に過ぎませんから、10月が終われば、「はい、今年も無事に終わりました。来年の10月もよろしくね」とばかりに、何も進展しないまま…で、何十年も費やされてきました。全国の施設を、同時期・同時刻に、ライトアップしたところで、「脳死ドナーになるのはとても尊いこと」なのだと、伝えられる訳ではありません。都内の公園で、年に一回、野外フェスティバルを開催して、参加者が、仲良くランニングをしたからと言って、所詮は、「こんなことをや
「精神的な対価を与える」ことに、韓国は、熱心に取り組んでいます。韓国では、ドナーになってくれた人の、栄誉を称える、記念公園を作り、定期的に、ドナー遺族を招待して、追悼行事を行っていると言います。一方、日本の現状はと言えば、厚労省や下部組織のJOTは、臓器移植に関する委員会開催や、移植医療機関の情報や管理、ドナーやレシピエントの割り振りなど、移植に関するほとんど全ての権力を、握っています。ですが、この組織は硬直的ですから、脳死ドナーを増やすために、思い切った
その気遣いの一例として、日本にも、海外の国々と同じように、日本臓器移植ネットワーク(JOT)を通した、「匿名のサンクスレター」という存在があります。実務上は、レシピエントから、ドナー遺族への、一方向のお礼の手紙が、主流です。このサンクスレターでは、レシピエントとドナーの匿名性、及び、プライバシーの順守が、世界共通で、優先されています。けれども、この程度のことは、命を助けてもらった、レシピエントにとっては、命の恩人への感謝の表明に過ぎず、いわば、当たり前
おは蜜さまです。前日、お金を拾った話を同僚にしているのですが行動そのものを後悔していないものの人間、ビックリしすぎると何も考えられないのね。と痛感「小林さんが、直接警察に届けたらお金もらえたんじゃない?」『なるほど』気になって調べてみました。拾得の権利が放棄された「落とし物のお金」誰も申し出がなかった場合はどうなるのか。→自治体に税金として処理されるとのこと。
韓国では、一時(2006年)、脳死ドナーを増やすための施策として、『経済的インセンティブシステム』と言われる、『ドナー遺族に経済的対価を供与する』ことを、始めましたが、長続きはせずに、廃止されたようです。先述のAちゃんのお父さんの手紙を読めば、ドナー家族が、経済的対価など、一切求めていないことは、一目瞭然です。そう考えると、韓国での早期廃止は、適切な措置だったと思います。韓国のような機動力のない日本では、そもそも、切羽詰まらないと、何もしないし、逆に、
…なんだか無性に泣けてきてしまう、お父さんの手紙です。お父さんの我が子への愛情の深さが、まっすぐに伝わってきますし、子どもに向けての、簡明な手紙なのに、臓器ドナ―になることの素晴らしさが、十二分に、語られています。大切に育ててきた我が子を、脳死によって、今まさに失ってしまうという、究極の悲しみを体験している、この若きお父さんは、憔悴しきった状況に置かれながらも、重病で、命が今日明日にも尽きようとしている我が子を見守る、別のお父さんやお母さんの苦しみと、自
≪それは素晴らしいことだと思ったんだよ≫(その3)Aちゃんが、人の命を救うことができれば、それはAちゃんが生きた証しじゃないかって思ったの。今のお父さん、お母さんみたいに、苦しんでいる人が、一人でも笑顔になってくれれば、どんなに素晴らしいだろうと思ったの。そして、その笑顔は、お父さんやお母さんの生きる勇気にもなるんだよ。いつもまわりのみんなを笑顔にしてくれたAちゃんだから、きっとまた世界の笑顔を増やしてくれるよね?命はつなぐもの。お父さん
≪それは素晴らしいことだと思ったんだよ≫(その2)どうだろう?Aちゃんはどう思う?いやかな?お父さんやお母さんは悩んだ末、Aちゃんの臓器を、困っている人に提供することを決めました。もし、いやだったらゴメンね。お父さんもお母さんも、臓器を必要としている人がたくさんいて、その人を見守る人たちが、どんなにかつらく苦しい思いをしているか知っています。もしその人たちに、Aちゃんが役に立てるなら、それは素晴らしいことだと思ったんだよ。一人でも人の命
【ドナー女児の両親の手紙】(全文)≪それは素晴らしいことだと思ったんだよ≫(その1)Aちゃんが体調を崩してから、お父さんとお母さんつらくてね。毎日毎日、神様にお願いしました。目に見えるものすべてに、お山に行ってお願いして、川が見えればお願いして、海に向かっても…。いろいろ神社なんかも、夜中に行ってお願いしました。最後には落ちている石ころさんたちにも、お願いしたんだよ。でもね、どうしてもAちゃんとお父さんを入れ替えることは、できないんだって。もう
昨日、7年振りに献血をして来ました何故そんなに間が開いたのかと言うのもだいぶ前に、美容目的でプラセンタ注射を受けましたその注射を受けてしまうと献血が出来ない決まりになっていましたが先日、厚生労働省のホームページを見てみると、それが解除されていましたそれで早速、昨日超久々に献血に行ってみたのでした7年振りに行ってみると、前とは変わった点がいくつかあってひとつは献血カードが使えなくなっていたこと(カードからアプリへ移行)そしてもう一つが献血前の血液検査が、前は腕からの採血だっ
この記事は、今から10年以上前の、2016年2月26日に、産経新聞、大阪夕刊社会面に、掲載されたものです。東海地方の病院で2016年2月23日、インフルエンザ脳症で、脳死と判定された、6歳未満の女児の、臓器提供に応じた、女児の両親の手紙を、JOT(日本臓器移植ネットワーク)が、公表しました。判断基準が厳しい、6歳未満からの脳死移植は、5例目。女児からは、2月25日に、臓器が摘出され、肺と肝臓が、10歳未満の男児と女児に、腎臓は、40代男性に移植されました
臓器提供(ドナーになること)が、「犠牲」ではなく、「他者を生かす尊い行為」であるという、メッセージを、厚労省の担当部署や、JOTといった、政府の御用達機関に、任せっぱなしにするのではなく、さまざまなメディアや学校教育、草の根運動を通じて、じわじわと浸透させていくこと…それが、日本の現状には必要なのに、ほとんど、改善も実行もされていません。この先もしも、「日本の有名人が、脳死状態になり、生前の意思表示によって、臓器提供が行われた」といった、センセーショナルな出
「虐待の恐れがある」から「臓器提供を禁止する」という、論理の飛躍を指摘する法学者たちは、「どうしてこんな、バカげた禁止条項が入ったんだ!」と、唐突に組み込まれた法規制に、異を唱えていたそうですが、残念ながら、この禁止条項は、今日に至るも、存続しています。そして、法学者から、『バカげた禁止条項』と揶揄されている、こんな禁止条項によって、子どもの脳死ドナーは、ますます削られ、年間1~2例程度しか現れないので、重病の子どもたちは、移植を待ちきれずに、亡くなっています
『虐待の痕跡を隠ぺいしようとする』ことと、『臓器提供を承諾する』ことは、現実的には結び付けが困難なので、そんな事例は生じていないのに、生じていない事例を基にして、全てをシャットアウトすることで、トラブル回避や世論の批判回避が、最優先にされてきたように、感じます。少なくとも、「ただでさえ貴重な、子どもの脳死ドナーを、一人でも増やして、重病に苦しむ子どもたちを、助けてあげたい…」といった、当事者意識は、感じられません。それよりも何よりも、(実際に、親の虐待によ
この忖度条項によって、(以前に、このブログで紹介しましたが)「実際には、虐待などしていないのに、脳死に陥った我が子が、ドナーになれず、とても悲しく、悔しい思いをした」という悲しい現実が、出現しました。もともと、厚生省研究班が、1990年から1999年までの、10年間で把握した、6歳未満の子どもの脳死患者、140例のうち、親の虐待が原因で亡くなったのは、4例だったと判明しています。この4例は、『親の虐待による脳死』という犯罪(殺人罪)が、認定されたのですから
改正臓器移植法が施行された、2010年以前の日本は、と言えば、臓器移植に対する理解度は、とても低く、ましてや、それまでは、すべてシャットアウトしていた、『子どもからの臓器提供』を、『家族の意思があれば、提供可能にする』という、大きな方針転換に、踏み出そうとしていた訳ですから、「親の意思が、暴走することはないのか」「親の暴走に、しっかりと歯止めをかけなければ、子どもが可哀そうすぎる」という、(想定されうる)世間の非難を、事前に封じ込めるために、『虐待の恐れがある子
2010年に、突然盛り込まれた条文。一読するだけでは、なるほどねと、簡単に頷いてしまうであろう、この条文にこそ、「日本で脳死ドナーが増えない原因」が、織り込まれていたのだ…と、臓器移植について、いろいろ学んだ末に、やっと私は、気付くことが出来ました。簡潔に表現するなら、「臓器を摘出されるドナーは、可哀そうだ」というイメージに、ガチガチに固められていたのが、今から20年近く前の日本を覆う、風潮だったのではないか、と言うことです。このイメージに凝り固まっていた、
八方塞がり状態のままでは、日本の臓器移植が、ますます世界から、取り残されてしまう…そこで、日本では2010年に、本人の意思が不明でも、家族(遺族)の承諾があれば、臓器提供ができるように、法改正が、行われました。(本人が生前に、提供拒否を示していた場合は、当然不可で、臓器提供は、行われません)また、15歳未満の子どもに対しても、「児童が、脳死状態に陥った時に、家族の同意があれば、その児童は、脳死ドナーになることが出来る」との変更が行われました。この法改正に
昨日述べたように、「当人は死んでも、移植された臓器は、誰かの身体内で、ずっと生き続け、誰かの命を、支え続ける」というイメージが、明るい情報として、世の中に、広まっていけば、「脳死ドナーになる」ことへの、何となく不透明なマイナスイメージは、払拭されていくのではないかと、考えています。さて、話は16年前にさかのぼりますが、2010年という年は、臓器移植法の改正が行われた、重要な転換の年でした。それ以前の旧制度では、「本人が書面で、提供意思を示した場合に限り
「やっぱり死後は慣例通り、そのまま灰になりたい」という選択には、深く頷く一方で、私が目指しているのは、臓器移植の情報を、得たことによって、あの若者のように、「もう死ぬとなったら、そのまま灰になるよりも、誰かにあげた方がいい」と、考えてくれる人の増加です。そして、同じように目指しているのは、友人が、残念がっていたように、臓器移植の情報が、事前に与えられていることによって、「ドナーになってもいい」と承諾したり、「誰かを救えればきっと本人も喜ぶよ」と、家族が、臓器
その自動車事故から,10数年が過ぎたある日、私が、臓器移植ドナー登録の推進活動を始めたことを、知った彼女が、ふと、こんなことを口にしました。「実は、あの事故の時には、ずっと意識不明の状態が、続いていたのだけれど、そんな時に、病院の看護師さんから、臓器移植ドナーのお話があったの。でも、その時は、それどころじゃなかったのと、臓器移植って、どんなことをするのか、全然分からなかったので、すぐに断ってしまったの」…友人のその口ぶりからは、「今だったら、情報があるか
脳死ドナーが、出現した時に、ドナーになってもいいと、最終的に判断するのは、脳死者本人ではなく、家族です。家族は、脳死者本人が、臓器提供の意思表示を、生前に示していたり、口にしていたなら、判断しやすい(承諾しやすい)と、言われています。問題になるのは、本人が生前に、そういった意思表示や臓器提供の話題に、言及していなかった場合です。判断するのは、家族ですから、家族が断れば、移植は行われません。ということは、脳死者本人の意思と同じくらい、重要なのが、『家族の
先日、義父が心筋梗塞で亡くなりました7月に会いに行ったと時も元気そうだったので、「まさか!」という気持ちでした突然亡くなると、家族みんな戸惑いました。本人も驚いているのではないかと思います突然死すると、こんなことになるのか?と思ったことがありました。義父は健康だったので、掛かり付けの病院がありませんでした。だから、本当に心筋梗塞や脳溢血のような突然死だったのか?という疑いがもたれたようです。だから、自宅に警察の捜査が入り、薬預金通帳残高死亡保険の加入などの確認が行われた
それから、「気付き」もありました。脳死ドナー登録の話を初めて知った彼の言動を見ていて、判ったことなのですが、ドナー登録が推進するためには、「脳死状態になったら、100%死につながる」という事実を、全ての日本人に、理解してもらう活動が、基本中の基本として必要なのだと、改めて思いました。次に、「死んで灰になるよりも、誰かにあげた方がいい」という、彼の言葉を、より多くの人たちが、口にできるような、移植情報を、もっともっと頻繫に、マスコミや我々が、広めていかねばなら
もともと、移植医療という医療は、古代から存続、発展してきた、一般的な治療方法とは、一線を画しています。それ故、移植に関する誤解も、数多く流布してしまいました。その中でも、最たる誤解は、『臓器を提供する人は、臓器をもらう人から、お金をもらう』という、金銭授受説です。この誤解が広まった結果、『自分の命の延長のために、他の人から、臓器を調達する』…もっとあからさまに言えば、『金持ちが、札束を積んで、貧乏人から臓器を買う』という、ダーティなイメージに、つながってし
ひと昔前の日本人ならば、「人は死んだら、遺族や友人に見送られて、火葬され、灰になったら、骨を拾って、お墓に納骨する」という、一連の流れを、当然視し、それに従わなければ、「故人が哀れ」だと、多くの人から、非難ごうごうになったことでしょう。ところが、彼は、「そのまま灰になるよりも…」と言って、「灰になってしまう」ことの、非合理性よりも、「誰かにあげた方がいい」という選択、つまりは、「灰になる前に、誰かに自分の臓器をあげて、その人の命を助けるほうがいい」という
この些細なやり取りは、思いのほか、私を勇気付ける要素を、たくさん含んでいました。この若者が、現代の日本の若者の典型であるとは、もちろん、断言できませんが、もはや、彼ら・彼女らは、「和田心臓移植事件」などとは、無縁の存在ですし、「脳死」を「うさん臭い死」だと、懐疑的に見下すこともありません。また、(仏教信仰自体は素晴らしいものですが)「他者の身体を傷つけてまで、自分が助かろうとするエゴイスティックな行為」なのだと、否定的に臓器移植を捉える、日本の仏教僧侶