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浄土真宗本願寺派福岡教区和光山寂定院明正寺(みょうしょうじ)福岡県飯塚市本町20-9当所は東本願寺初代の教如上人から「明正寺」という寺号を戴いたので、東派(大谷派・東本願寺)でありました。ところが、黒田如水の葬儀の時に調経についた時、黒田側より西派(本願寺派・西本願寺)に変わるように要請がありました。色々と理由は伝えられていますが記録には何も書いてありません。それ以来、当寺は本願寺派であります。色々と伝えられている理由というものが気になるところだね。明正寺の過去
加古川線に乗って黒田庄駅で降り、兵主神社を参拝しました。『加古川線黒田庄駅〜兵主神社[兵庫県西脇市]』北条鉄道に乗車し粟生駅で降りました。『のどかな北条鉄道に乗り鉄♪』兵庫県でのマンホールカード集めの記事に戻ります。北条鉄道北条町駅近くのカフェでモーニングを…ameblo.jp兵主神社前の池には鴨と川鵜がいましたすぐ近くに、太閤腰掛石が置かれている祠がありました。極楽寺の裏手にあります。太閤腰掛石由来記には「羽柴秀吉、天正年間三木攻略のとき大志野に陣し、兵主神社に戦勝を祈願
関西ひとり旅で、大好きなどら焼き6種類をゲットした私第2弾は、姫路名物「餅三笠」姫路駅のお土産売り場で、購入。製造は、伊勢屋本店と記載されてました。パッケージには、稀代の軍師黒田官兵衛のことが紹介されてました。おおー、黒田官兵衛とは。。。ひとくち食べた瞬間おっ、京都の阿闍梨餅のようなモチモチっとした食感ちょっと甘めの粒あんう〜ん。美味しい旅行疲れ引きずり気味の私には、この甘さが優しい126kcalが、なんとも嬉しいです。これは、もうひとつと食べたいところでしたが残念
「豊臣兄弟!」の追加キャストが発表されました。私が、今後のキーマンになると思っていた、秀吉のふたりの軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛のうち、竹中半兵衛が決まったのです。なんと、菅田将暉です。竹中半兵衛は、秀吉にとって、最初の軍師といっても良い存在ですが、病気がちで、早くに亡くなります。私が記憶に残っているのは、「国盗り物語」の米倉斉加年と、民放で太閤記をやった時の、田村正和です。確か「秀吉」では、古谷一行、「功名が辻」では筒井道隆が演じたはずです。知的で、繊細といった感じの役者が多かったので、
黒田官兵衛は、九州平定後、豊前国に配置となりますが。これは、豊臣秀吉が官兵衛の才を恐れ警戒し、官兵衛は中央から遠ざけられたのだ、と言われているが、それは違うのではないか?経済先進地帯であり、しかも大陸進出を控えて益々発展が見込まれる九州への転封は、栄転ではないのか?と論じておられる方が、いましたが。そもそも、この異動が栄転なのか左遷なのか、というのは、客観的な数字で決まるもんではありません。形式的な肩書の上下でもありません。左遷か否かは、本人たちの「捉え方」によるものです。異動させる側
昨年の11月7日の事です。この日は、一社目が、福岡県豊前(ぶぜん)市の大富神社(おおとみじんじゃ)、二社目が、同じく豊前市の角田(すだ)八幡神社三社目が、福岡県築上郡(ちくじょうぐん)築上町の鏑宅(かぶらぎ)神社を参拝しましたそして、四社目は、同じ築上郡の網敷天満宮(つなしきてんまんぐう)を参拝しましたそして、五社目は、、、、なんと五社目だ福岡県築上郡築上町宇留津1401-1に鎮座します須佐神社を参拝しました宇留津城(うるつじょう)というお城の
日本の二大パワースポットである伊勢神宮と出雲大社のど真ん中にある恒屋城跡(姫路市指定史跡)恒屋城は長禄元年(1457年)に恒屋伊賀守光氏が築城したと伝えられています。恒屋氏はその後、代々、播州に勢力を張ってきましたが、天正年間(1573年~1592年)に羽柴筑前守秀吉が中国遠征を行った時、毛利方に味方したために、滅ぼされました。同時に城は焼き討ちにあったといわれています。恒屋氏一族は黒田官兵衛を頼り、九州は筑前(福岡)に移り