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中華(漢)民族の祖は黄帝とされています。近年、中国では黄帝の実在性を探る研究が進んでいます。黄帝は、それ以前に中原(黄河中流域)を治めていた炎帝神農氏に勝利して中原を制するのですが、近年の研究では、黄帝=黄河文明(雑穀畑作民)炎帝=長江文明(稲作漁労民)の戦いと考えられています。さて、ここから先が面白いのですが…今、中国の研究者がどう考えているかというと…勝った黄帝の子孫が漢民族となり、敗れた炎帝の子孫が日本の天皇になった⁉️←今ココ‼️…のだそうです!Σ( ̄□ ̄;)本気でそ
「魏志倭人伝」を読んで邪馬台国へたどり着こうと考える人は、必ずこの「一里問題(仮)」にぶつかります。例えば、書かれた行程をたどって九州島の末盧国(まつらこく)へ上陸したとします。次は、末盧国から500里のところに伊都国を探さなければなりません。さらに、伊都国(いとこく)から100里のところに奴国を……。その過程では、1里が何メートルかを決めなければ先に進めないのです。しかし、邪馬台国論争はすでに300年を超えましたが、この最も基本的な「一里問題(仮)」には明確な決着がついていません。「
***【お知らせ】************************総合オピニオンサイト「iRONNA」に論文が掲載されました。タイトルは〈「邪馬台国は熊本にあった」魏の使者のルートが示す決定的根拠〉です。ぜひ、本ブログとあわせてお読みください。*********************************先日、『甦る三国志「魏志倭人伝」』(彩流社/2012年)の著者である中島信文氏とお会いする機会がありました。拙著『邪馬台国は熊本にあった!』の中で、ご著書から一部引用させてい
三国志の中に魏志があり、この中の烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)があり、日本に関する最古の記述がある。この中に女王卑弥呼が治める邪馬台国があり日本を治めていたと書かれている。この邪馬台(ヤマタイ)国こそ、日本(大和、ヤマト)のことであった。すなわち、魏の使者にはヤマトの音が漢字の邪(ヤ)、馬(マ)、台(臺、タイ)と聞こえたのであろう。この漢字の音について、邪をヤと読むのは呉音または訓読み、馬をマと読むのは唐音または訓読み、台(臺)をタイと読むのは漢音、ダイなら呉音となる。ところで、唐音(唐
280年代に陳寿が『三国志』「魏志倭人伝」を完成させた後の経緯を考えます。(2)空白の4世紀に突入する「魏志倭人伝」完成間もなく、時代は4世紀に入っていきますが、中国の文献から日本は姿を消してしまいます。「空白の4世紀」「謎の4世紀」などと呼ばれています。中国では華北が五胡十六国時代(304年〜439年)に突入し、多様な民族・国家が乱立しました。それが、華南で長く続いた東晋(317年〜420年)の記録にも日本のことが記されなかった原因かもしれません。具体的には、266年に邪馬
超次元ライブ351【新・日本列島から日本人が消える日】要約速報2024.4.18※なるべくさくやさん、ミナミさんが使った言葉、表現方法に忠実に組み立てました・ナーガ(アジア支配担当の宇宙人、レプティリアンの舎弟)は日本を天皇による支配から仏教による宗教支配でコントロールしようと試みた・日本は弥生以降、大陸の属国であった。〇王朝の日本支部という感じ。だからいつもお伺いを立てる・巨大な古墳は天皇など権力者の権威誇示の墓で間違いない・文字を最初に使ったのは縄文人。それが世界に散らばった・
邪馬台国論争において昔から争われている論点として、「会稽東治(かいけいとうち)」と「会稽東冶(かいけいとうや)」のどちらが正しいかということがあります。これは、中国から見て邪馬台国がどのあたりにあると考えられていたかということに関連しています。それが、『三国志』(「魏志倭人伝」)と『後漢書』で異なっているのです。『三国志』計其道里當在会稽東治之東(女王国〈邪馬台国〉までの)道里を計ると、まさに会稽東治の東にある。『後漢書』其地大較在会稽東冶之東その地(邪馬台国)はだいた
私の邪馬台国論の根幹をなすのは、魏志倭人伝後世書き換え説です。魏志倭人伝の行程記事は、帯方郡から不彌国までは里数が書かれていますが、不彌国から投馬国への行程と投馬国から邪馬台国への行程は日数で書かれています。(不彌国から投馬国)南至投馬国水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五万余戸(投馬国から邪馬台国)南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七万余戸里数は、尺度はともかくとして、万人が共通認識を持つことのできる具体的なも
さて、『三国志』「呉書」步騭(ほしつ)伝について、現在に伝わる『三国志』(以下、現『三国志』)と、敦煌(とんこう)の莫高窟(ばっこうくつ)から発見された東晋時代のものといわれる写本を、さらに見比べていきます。ざっと目を通しただけでも、いくつかの文字の違いがみつかります。それらの多くは写し間違い(誤字)などだと思われますが、一つ、文章として大きく異なる部分があります。■『三国志』「呉書」步騭伝の写本(再掲)*「砂漠の美術館―永遠なる敦煌」展図録(朝日新聞社発行)より転載それは
メンバー内ディスコードラジオ📻本日夜8時から土佐邪馬壹国勉強会ラジオ始まります❣️今回のテーマは倭国大乱其の四魏志倭人伝に書かれている女王卑弥呼の誕生秘話倭国の朝廷同士の内乱により国家存亡の危機に陥った男達はやむなく女性の王を共に擁立し安定を図った陰陽の法則に則り国家社会は成り立っておりツートップ制を敷いていた。陰国王陽国王とは?神武天皇の出自4兄弟とは?スサノオ月読尊天照大神とは?倭国大乱の謎に迫ります!お楽しみに!
「アテラ」3漢と魏と呉と日本(倭)川崎一水中国と日本後漢の混乱により董卓が献帝を擁して都を長安に移した。これに乗じて遼東太守であった公孫度が高句麗や烏丸を討伐し、山東半島も支配下とした。公孫度の子公孫康は三世紀初めには楽浪郡の南に帯方郡を新設した。韓や濊を攻略し、韓や倭は帯方郡に属した。そのころの帯方郡や楽浪郡は公孫氏によって支配されていたため、倭の魏への朝貢は公孫氏に対してであった可能性も高いといわれる。その後の後漢の衰退期には高句麗が侵攻し
「アテラ」1漢委奴国と邪馬台国と日本国川崎一水「日本」という国号は、文武天皇4年・西暦700年に完成した令11巻とその翌年の大宝元年・西暦701年に完成した律6巻からなる大宝律令に定められた。それまでは「倭」であった。しかしその名も実際には国名ではなく、その時の中国からそう呼ばれていたというだけのものであった。そして唐の時代に編纂された『翰苑』には後漢に朝見した倭の王は「倭面上国王帥升」であるとある。つまり、唐の時代には「倭面上」があったことにな
ミシガン大学のプレイスは頭蓋骨の計測資料の比較から1991年に「縄文人コネクション仮説」を発表しています。環太平洋に広がった「海の民」は縄文人であるという考えは古くから海外にはあるようです。ラピタ人をルーツとする「海のモンゴロイド」ポリネシア人は、日本人とは比較にならないほど体格が大きいのですが、縄文人とポリネシア人の骨格が似ているとの指摘は以前から言われています。小さな舟で遠洋航海に出るメンバーは、自ずと筋力逞しく脂肪を蓄えた体格の良い男性が選ばれた結果、現在のポリネシア人になったのでは
隋書東夷伝(記紀より古い656年完成)においては、日本列島は東西に長いがズングリした形になっている。そして、都は東方にあると正しく認識している。しかし、対馬国、壱岐国、筑紫国までの南下を東としているように、後年の1402年の世界地図でもそうであるが、中国、朝鮮が日本列島の大体の位置と形をいつも正しく認識しているかは疑わしい。日本が嘘を教えれば、いつでも南を東、東を南としてしまう不安定性が有ることを指摘したうえで、隋の使節がヤマトの都を訪問するまでの記述から秦王国の首都を求める。東夷の人は里数を
周辺国の2番目に記載されている国は「巳百支國」です。この国の読み方は諸説ありますが、巳は干支の「み」、百は「ひゃく」、支は分岐を表していると思われるので「き」とすると、「みひゃくき国」となりますが、百は多い様子の比喩とも取れるので、千や万なども含めて検討します。日本書紀には倭迹迹日百襲姫の三輪山伝説・箸墓伝説が記されており、箸墓古墳は卑弥呼の墓で、卑弥呼の九州→畿内移動説が取り沙汰されています。また、古事記では、崇神天皇を御眞木入日子印惠命と呼んでいます。ここで百襲姫の百→万に
だから魏志倭人伝なんて雰囲気だけで読んで、内容に付いては裏づけが必要だと考えるべきなのです。後になって別の国だった人間が編纂したのですから、物事の起こった年号なんて怪しいものです。他の国の人間が編纂したのですから確かめようも無かったはずです。何かそれらしき事が起こった、もしくはあったという程度でしかないのです。これを前提に物事を考えないのは誤りなのです。根拠のある内容を前提に物事を考えるのが正しいアプローチの仕方なのです。番組では当時の気象状況に付いて木の生長速