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鎌倉へは行かない!そう言っていた息子だが、私とMさんが行くと知ったら急に行くと言い出したのだ。「僕も行く!明日行くんでしょ?じゃあ、僕も行く!!」何を言ってるんだか…「だって行かないって言ってたからレストランも2名で予約しちゃったよ!それに神社はつまらないって言ってたし…」何とか諦めさせようと話すが「いやいや、神社好きだから!源頼朝?大好き!大好き(笑)!レストランもママとパパだけ食べていい!僕はコンビニのおにぎり食べるから!」何でそうなる?おかし
近くに用事があったので、源頼朝のお墓にお参りしてきた。白旗神社近くの公園に、地元の子達が調べた紙が貼ってあった。よく学習しているね。頼朝のお墓は、53段の階段を登った先にある。地元の子達の情報によると、頼朝が53歳で亡くなったので、それにちなんで53段なんだって。私の1個上だな。早稲田大学で日本史の勉強をした時、課外授業で鎌倉のお墓をめぐって勉強した。このタイプのお墓は時代が古い型だよね。江戸幕府を開いた徳川家康は、日光東
さて、ここまで後鳥羽上皇ではなく後鳥羽院と記してきたのには理由がある。実は、天皇を退位すると同時に上皇となるのではない。天皇退位の後に太上天皇の尊号が奉られてはじめて上皇となるのである。ゆえに、退位してから上皇となるまでの間は、後鳥羽院と記すことならばできても後鳥羽上皇とは記せないのである。また、どんなに用意周到な譲位ではあっても、退位と同時に上皇として院政を開始できるわけではない。このあたりは、衆議院の総選挙で次期首相が決まったとしても、正式に総理大臣に就任するのは国会での指名の後で
藤原定家が呈している苦言の全てを受け入れるわけにはいかないが、受け入れなければならない苦言もある。院政開始前から周囲に人を集めていたこともあって、一九歳にして治天の君となった瞬間に、後鳥羽上皇の周囲には後鳥羽上皇の意のままに動く人材が揃っていた。その多くは自らの不遇からの一発逆転を狙って院政に自らの未来を託した野心家である。その野心家の全てを後鳥羽上皇は周囲として迎え入れたのではない。後鳥羽上皇は自らの周囲に集った人材に競争させたのである。ここまではいい。問題はどのように競争す
元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まったんです。幕府権力は元寇のお陰で最盛期になった、と言えます。ところが、です。社会には、貨幣経済が浸透します。いまも昔も戦争ってのは巨大な景気刺激イベントであって、元寇のおかげで全国的な流通経済が盛んになってきます。そうなると当然、物価は上がります。領地が減ったわけでもないのに武士の生活はどんどん苦しくなります。土地本位制の封建主義を大前提とした幕府というシステムは
そして、源頼朝もこのときばかりはあくまでも一人の貴族として、すなわち、前権大納言として東大寺に参詣しており、周囲をかためる武士達が鎌倉幕府の御家人であるという違いはあるものの、この一瞬だけを切り取れば、牛車の周囲を守る武士の数が多いという以外は他の貴族と変わらないように見える。ただし、一点だけ無視できないポイントがある。源頼朝の周囲を固める武士達は、東大寺再建供養の警備を務める武士達の一部であるという点だ。さらに言えば、後鳥羽天皇の周囲を固める武士達も、その他の皇族や貴族の周囲を固める武士
さて、建久九(一一九八)年二月二〇日に土御門天皇の即位の儀のために、父である後鳥羽上皇も、内裏の中に入れないにしても大内裏には行こうとしていたこと、そして、直前になって予定を白紙に戻したことは既に記したとおりである。まだ三歳である土御門天皇はさすがに自分がこれから何をするか深く理解できていなかったであろうが、それでも自分がこれから父の後を継ぐこと、そのための儀式が執り行われること、そしてその儀式が他ならぬ父によって直前に予定が乱れたことは理解できていたであろう。さて、先に、三月三日まで
土御門天皇の治世が始まったことで新帝の外祖父となり、院政を始めた後鳥羽院の院司となった土御門通親こと源通親の権勢は頂点を極めるはずであった。しかし、後鳥羽院はまだ一九歳という若さながら既に老獪さの片鱗を披露するようになっていたのである。土御門通親の権勢の根幹は、天皇の外祖父であることと、後鳥羽院の院司別当、つまり、後鳥羽院に仕える貴族や役人達のトップであることの二点である。そして、この二点とも永続する要素ではない。どういうことか?替えが効くのだ。後鳥羽院にとっては自分の
上皇となり院政を始めるメリットは多々ある。責任からの回避や政治的自由も無視できないメリットであるが、忘れることのできないメリットとして資産がある。天皇は皇室予算や国家予算が資産であり、自由に行使できる資産は、ゼロではないにしても乏しい。行使できる資産の量は多大であるが、天皇の独断で行使できるものではない。しかし、院政となると違う。院が独自に資産を手にできるだけでなく、手にした資産を院が自由に使うことができる。その成果が如実に示されたのが建久九(一一九八)年四月二一日のことである。二条東
忘れてはならないのは鎌倉幕府の存在である。源頼朝が遠く離れた相模国鎌倉にいながら、その距離を感じさせないレベルで京都内外の情報を収集していたことは後鳥羽上皇も知っている。そして、情報伝達経路というものは一方通行ではなく往復で利用可能である。つまり、源頼朝が鎌倉にいながら京都の情報を手に入れることができるということは、後鳥羽上皇にとっても京都にいながら鎌倉の情報を手に入れることが可能だということである。しかし、ここで一点の問題がある。鴨川東岸にある六波羅だ。かつて平家が根拠地として構え、源平合戦
長かった修羅の刻義経編もついに完結します!さて舞台は壇ノ浦の戦い。もちろんこの両雄が対峙します!陸奥鬼一vs平教経!まぁこの修羅の刻源義経編における鬼一の戦闘シーンは少ないからね、教経くらいはビシッと倒してくれなきゃ困ります。つーわけで鬼一の実力を見抜いた教経。教経「さがれ…ぬしらでは歯が立たぬ…こいつは物ノ怪だ。」刀や薙刀や弓で殺し合うという時代において「飛び蹴り」という発想はなかなか生まれないか。蹴るくらいならその前に斬っちゃえよと思っちゃうもんねぇ。さて揺れる舟の上での戦い、
はじめに総本山第9世日有上人は、第26世日寛上人とならび、古来、本宗における「中興の祖」として尊崇を受けてきました。その具体例をいくつか紹介しますと、まず「有師堂」の存在が挙げられます。有師堂とは、本宗の古刹である妙教寺〈宮城県栗原市〉·常泉寺〈東京都墨田区〉·真光寺〈千葉市緑区〉などの諸寺院に建立されていた堂宇です。また、日有上人ゆかりの寺院には上人の御画像が現存しています。なかでも、上人が晩年隠棲(いんせい)された大杉山の地に、後年建立された有明寺〈山梨県身延町〉に
大きな木には必ず触っとく思考の学校校長の大石洋子です。ところでですね、このお寺、うちから100歩くらい歩いたところにあるお寺なんです。九品寺(くほんじ)って言います。このお寺、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞さんが、当時の鎌倉幕府の権力者だった北条一族のみなさんの菩提を弔うために建てたお寺なんだそうで(最期は北条一族さんみんな自害されたみたいですね、昔の政権交代はそんなかんじだったんですよねえ、そう考えるといまはずいぶん良い世の中になりましたね。)つい最近そのことを知りました。なんと
【高校日本史】目からうろこの北条氏の覚え方みなさん初めまして、蒼欄(そうらん)です。とつぜんですが、日本史に興味をお持ちではないでしょうか。少しでも興味ある人はぜひ見ていってください。まず北条氏がなぜ力をもつようになったのかということです。一番有名なのが北条政子(ほうじょうまさこ)ですね。鎌倉幕府の初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)の妻であり承久の乱のときには、武士に熱い演説をしました。政子が頼朝に嫁いだのは、実は父の北条時政(ほ
元寇で戦った武士に恩賞を出せなかったから鎌倉幕府は滅びた、というストーリーは、分かりやすいけど、あんまり正しくはありません。元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まっています。ところが、です。鎌倉幕府が滅亡したのは、貨幣経済の浸透です。いまも昔も戦争ってのは巨大な景気刺激イベントであって、元寇のおかげで全国的な流通経済が盛んになってきます。そうなると当然、物価は上がります。領地が減ったわけでもないのに武士の生活は
人間というものは、物質的な生活がより豊かなほうへ豊かなほうへと流れることを本質的に求めている。歴史も人間の営みの軌跡であるのだから、いつの世であってもそのことに変わりはない。ただ、そのテンポが川の早瀬のように急速な時代もあれば、ゆるやかな時代もある。急速な時代の典型は、現代であろう。1925年のラジオ放送開始を起点に見てみると、1953年にテレビ、1987年に携帯電話、2007年にiPhone、そして2023年に生成AIが登場。この間、約100年である。鎌倉時代。この時代もそうとう
鎌倉観光(その3)白旗神社にある、源頼朝の墓に行ってきました。ヾ(●⌒∇⌒●)ノ鶴岡八幡宮を後にして、住宅街を白旗神社に向けて歩きます。C=C=C=┌(;・_・)┘トコトコ途中、レトロなコカコーラの自動販売機を発見。学生の頃、お世話になった自販機です。お金を入れて、左のドアを開けて、好きなビンを引き抜きます。なぜか、1本しか抜けない構造です。学生の頃、若気の至りで、二人で2本抜きを試みましたが、手にできたのは1本だけでした。自販機の、写真をよ
現在の天皇家は「北朝」の子孫です。なのになぜ、「南朝が正統」とされているのか?足利義満が「南朝を正統と認めます」という政治的決着で南北朝を合一したから、です。そんな馬鹿な、南北朝は「北朝勝利」で終わったから、南朝の子孫は消えて、北朝の子孫が今の天皇に至るのではないのか?実質的にはそうでも、形式的には、南北朝の分裂は「南朝正統」で決着したんです。「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結し
用事で鎌倉に行ったついでに、お散歩まずは安産祈願のおんめさまこと大巧寺のお庭を見に行くコロナ以来、訪れるのは初めてむらさきのシランがいっぱいそして、白のシランこれはムラサキツユクサだけどこれはムラサキツユクサの白バージョンおんめさまを裏から出てしばらく歩くと、宝戒寺
三島大社「神は人の敬において、その威をまし、人は神の徳によって、運をそう。」御成敗式目本当に、人々が神様を敬い大切にすることによって、神様はその威力を増していき、そして、人々は、神様の徳によって、良縁を得、悪いものを退けたりするんだよね。御成敗式目は、武家政権の最初の武家法で、貞永式目とも呼ばれているんだよね。承久の乱(変)後に鎌倉御家人と公家、荘園領主間に問題が多発し、貞永元年(1232)に執権北条泰時によって源頼朝以来の先例と武家社会の慣習と道徳を基準に
結局仕事に行きましたが問題は解決出来ず休み明けに何とかする事に😭今週は大変だったけど来週こそは良い事ありますように。で、何だか疲れてしまったので帰りにたこ焼き買って帰りました。銀だこってテイクアウトだけじゃなくて中で食べたり飲んだりできるんですねwリーズナブルです。塩辛ポテトが気になりすぎました笑で、話が変わりますが今テレビを見てて興味深い事が!私の頃って鎌倉幕府設立は1192年(いい国作ろうと鎌倉幕府)と覚えてましたが今って1185年(いい箱作ろう鎌倉幕府)に
1.「私の将棋は王将取られてからが強いんですよ」2.クリスマスは誰の誕生日ですか?という問いに対して「七面鳥」3.日本語吹き替えの洋画を見ていて「最近の外人さんは、みんな日本語上手だねえ」amazon.co.jp4.ディズニーシーに行ったとき「デズニーAとBはどこにあんの?」5.「いやぁ〜、怖いのが半分、恐ろしいのが半分でしょうね」6.バナナがうまいのは20本まで7.北斗七星の位置を聞かれ「この辺の者じゃないから・・・」amazon.co.jp8.歯医者をサボ
目次基本情報御由緒御朱印境内案内参拝を終えて地図基本情報神社名:西御門白旗神社御祭神:源頼朝社格等:ー鎮座地:神奈川県鎌倉市西御門2-1-24最寄駅:鎌倉駅公式サイト:ー御由緒この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって髪の中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。正治元年(1199)一月十三日頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参列した。
本日は、改めて「防人(さきもり)」について考えてみたいと思います。防人については、日本史の考え方29「なぜ古代の農民たちは逃げるのか②」でも少し触れました。高等学校で使用している教科書には、実に興味深い記述があります。「防人には東国の兵士が当てられ、3年間大宰府に属した。」ここで重要なのは、なぜ防人は東国出身の兵士なのか❓ということです。この問いは、授業でしっかり扱っておくべきだと思います😊先ず、東国について説明します