ブログ記事2,463件
しばらく前にEテレ『3か月でマスターする江戸時代』にも触れて「しかして忠臣蔵の実態は?」てなことを書いたりしましたですが、歴史の認識を昔々に学校で習ったままの状態にしておきますと、それこそ「時代遅れ」の情報であったか…ということになりかねない(ま、歴史のことに限った話ではないでしょうけれど)。このほど手に取った中公新書『吾妻鏡―鎌倉幕府「正史」の虚実』でも、「そうなんだあね」と思うことしきりでありましたよ。そもそも「いいくにつくろう鎌倉幕府」と暗記して、鎌倉幕府の成立は1192年と覚え
政治家としての源実朝の活動は前年から既に見えていたが、承元四(一二一〇)年に入るとより活発化することとなる。まず、時間は少し遡ることとなるが、中原広元を京都に派遣してからおよそ一ヶ月を経た三月一四日に武蔵国の検地台帳を作るよう命じた。検地自体は建久七(一一九六)年より断続的に実施していたが、その結果をまとめてはいなかったのである。検地結果をまとめる台帳の作成をこの日、まずは武蔵国から始めることとしたのだ。どんな施策であろうと、まずは現状把握から始まる。検地は土地政策における現状把握手段であ
今回はこういうお題でいきます。日本史のカテゴリですね。あんまり怖い話にはならないと思います。さて、新田義貞は、『太平記』に登場する武将の中で、楠木正成、足利尊氏と並ぶ3本の柱の一人ですが、他の2人に比べるとマイナーというか、歴史的評価もあまり高くないですよね。『太平記』は戦前、天皇に忠義をつらぬく物語として皇国史観に利用され、その反動から、戦後はあまり読まれなくなりました。中学校の古典教材に『平家物語』は出てきても、『太平記』が出てこないのは、『平家物語』のほうが文章が優れてるため
承元四(一二一〇)年二月二一日に中原広元が京都に派遣された表向きの理由は、明王院僧正公胤が指導僧をつとめる後白河法皇の持仏堂の長講堂の法事に参加するためである。公胤と言えば、比叡山延暦寺対策のために源実朝が招いた園城寺の僧侶である。その僧侶が京都で開催される法事に参加する。それだけでもただの法事ではないことがわかるが、その法事に鎌倉幕府から中原広元が派遣されるというのは、理論上こそ一人の貴族が京都まで出向いて法事に参加するということであっても、実際には誰もそのような理論を信じない。いか
意外な結果に驚いてる七色ニャンコです何度か書いたことありますがニャンコは子供の頃から②派ですサザンオールスターズの「ピースとハイライト」の歌詞にもありますが『教科書は現代史をやる前に時間切れそこが一番知りたいのに何でそうなっちゃうの?』まさにこの通りだと思ってますリアルな戦争を体験してる方がいなくなる前に体験者の話を聞くべきだと思ってますそれこそが歴史の授業もうひとつの理由は昔の何年に何が起きたかなんて100%の証拠はないことですね現在すでに鎌倉幕府が出来た年や
承元三(一二〇九)年一二月一五日。前述の守護と地頭の見直しについての第一段として、関東近隣の守護の見直し結果が発表となった。ただ、その結果は源実朝の期待を裏切るものだった。全て現状維持であったのだ。特に、下総国守護千葉成胤、相模国守護三浦義村、下野国守護小山朝政の三名が揃って、自らが守護であり続けることの根拠となる文書を持ってきたことは、源実朝の想像を超えていた。下総国守護千葉成胤が下総国の国守護である根拠が、祖父の千葉常胤に源頼朝が下総国守護の権利を与えたことに基づくとした。
どのような事情で対決姿勢を見せるようになったのかを調べた源実朝は、橘公成に対して彼女を美作朝親のもとに返すように命じ、両名に対して矛を収めるようにさせたというのが吾妻鏡での記載である。ただ、吾妻鏡のこのあたりの記載は不自然に感じる。たしかに鎌倉武士の気質は短期で物騒である。厳密に言うと南北朝時代の作品であるためこの時代の作品ではないが、かの有名なマンガ作品にある「侍の本懐とはナメられたら殺す」はこの時代の鎌倉武士にも通用する考えなのだ。不快な思いをさせられたとき、司法に訴えるより先に武
壇ノ浦の戦いの日(3月24日記念日)1185年(寿永4年)のこの日、長門国赤間関(現:山口県下関市)の壇ノ浦で源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」が行われた。序盤は平氏が優勢であったが、やがて劣勢となっていく。最終的に、平氏は源義経を総大将とする源氏の軍に敗れ、安徳天皇と二位尼(平時子)は三種の神器と共に入水、総大将の平宗盛も捕らえられ、栄華を誇った平家は滅亡した。日本史上、最大規模の海戦の一つであり、この戦いにより6年間に渡る大規模な内乱は一応の幕を閉じた。また、この戦いで平氏政権が崩壊した
壇ノ浦の戦いの日(3月24日記念日1185年(寿永4年)のこの日、長門国赤間関(現:山口県下関市)の壇ノ浦で源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」が行われた。序盤は平氏が優勢であったが、やがて劣勢となっていく。最終的に、平氏は源義経を総大将とする源氏の軍に敗れ、安徳天皇と二位尼(平時子)は三種の神器と共に入水、総大将の平宗盛も捕らえられ、栄華を誇った平家は滅亡した。日本史上、最大規模の海戦の一つであり、この戦いにより6年間に渡る大規模な内乱は一応の幕を閉じた。また、この戦いで平氏政権が崩壊したこ
1185年(寿永4年)のこの日、長門国赤間関(現:山口県下関市)の壇ノ浦で源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」が行われた。序盤は平氏が優勢であったが、やがて劣勢となっていく。最終的に、平氏は源義経を総大将とする源氏の軍に敗れ、安徳天皇と二位尼(平時子)は三種の神器と共に入水、総大将の平宗盛も捕らえられ、栄華を誇った平家は滅亡した。日本史上、最大規模の海戦の一つであり、この戦いにより6年間に渡る大規模な内乱は一応の幕を閉じた。また、この戦いで平氏政権が崩壊したことにより、同年に源頼朝を創設者とし
日本で1番多いと言われている八幡信仰の総本社宇佐神宮ですが古代は宇佐氏の磐座信仰の地と言われています。(宇佐氏は中臣氏(藤原氏)の始祖です)その後、比売大神信仰となります。比売大神は卑弥呼ではないかと言われています。571年に八幡信仰に変わります。神仏習合発祥の神社と言われており。東大寺大仏の建立の功績で全国に広まるキッカケとなります。そして応仁天皇に変わったのは8世紀頃と言われています。鎌倉幕府の氏神となり庶民にも広まっていきました。調べてみると、現在の神道の前に古
久しぶりに暖かい休日となった昨日鎌倉にある朝夷奈切通し(あさいなきりとうし)を見に行ってきました。(画像お借りしています)品川から京急線で金沢八景まで乗りました。金沢八景駅を出て階段を下りるとバスのロータリーがあるのでそこから「朝比奈バス停」までバスで乗って行きました。鎌倉駅行き(3B)に乗車。10分もせずに朝比奈バス停に着きました。こんな民家のどこに「切通し」が?と思いますがこの民家を横に曲がると「朝夷
「楠木正成」(くすのきまさしげ)鎌倉時代から、南北朝時代の武将。元寇以降、鎌倉幕府は弱体化。国家運営が破綻していきます。このしわ寄せが民にきます。民の生活が厳しく悲惨になっていきました。これを見かねた後醍醐天皇は、諸国の武将や豪族に、倒幕を掲げます。そんな後醍醐天皇のもとに、義をもって駆けつけたのが、楠木正成でした。しかし、この計画は、事前に、幕府に発覚、後醍醐天皇は、島流しになりました。後醍醐天皇が島流しにあっても、楠木正成は、後醍醐天皇の本
先月、永井路子の『この世をば』を読んで、なかなかよかったので、鎌倉幕府の勉強でもしてみようとこれを読むことにした。昭和40(1965)年に直木賞を受けている。読み始めたら、NHK大河『鎌倉殿』のキャストたちがまぶたに甦った。四つの章は馬車を牽く四頭の馬だと著者は述べている。なるほど、と思わせる構成である。メモる。悪禅師:この章は、源頼朝の弟、阿野全成(ぜんじょう)の巻。大河では、女形のような僧形の新納(にいろ)慎也が、宮沢エマと夫婦をコミカルに演じていたのを思い出す。1180年秋、醍
どうして承元三(一二〇九)年末までの時点での評価となるのか?これは承元三(一二〇九)年一二月一一日の出来事を考える必要がある。この日、美作朝親と橘公成との間で一悶着起こったのである。美作朝親と橘公成の両名の住まいは近い、いや、近いなんてものではない。何しろ両者の住まいの門が向かい合わせなのだ。こんな間近に住まいを構える鎌倉武士同士の衝突だ。単なる殴り合いで済む話ではない。互いに武装して向かい合うという事態に発展したのだ。美作朝親は源を姓とする武士であることまではわかっているが、
鴨長明は武士ではなく、一人の民間人として源平合戦の戦場を体験した。一方の源実朝は源平合戦そのものを体験してはいなくても、武芸そのものは理解していたのである。だからこそ、武芸の重要性と、その成果を発揮すべき局面を理解し、その上で政治家として判断でき行動できているのだ。北条義時の演説の一〇日後、源実朝は北条義時に対して政治家として行動した。スタートは北条義時から源実朝への要望である。北条義時がこの日、北条義時に古くから支えてきた武士達を鎌倉幕府内において御家人に準じた扱いとすることを求めたこと
2014年12月21日鎌倉武士とサイボーグ馬明け方にメイちゃんに強引に起こされてちょうど良いタイミングで夢を記憶に残す事が出来た!(^o^)/メイちゃんがどんなことをしてワタシを起こしたかは、ご想像にお任せする(⌒0⌒)/~~夢の中では、ワタシは二十歳前後鎌倉幕府開闢から約800年!西暦で言えば2000年というところか?若い武士だ!最近、京の公家連中の動きが怪しく、ワタシは幕府の密命を帯びて京に潜入するそうだこの世界では、日本は鎌倉幕府のままミレニアムを迎えてるようだ!街
吾妻鏡を読んでいるだけでは源実朝が政治家としての名声を獲得していることを読み取れない。それどころか和歌に耽溺する軟弱な将軍というイメージを意図的に構築しているとさえ感じられる。承元三(一二〇九)年一一月四日、源実朝が臨席しての弓道大会が開催されたとある。それだけであれば鎌倉の武士達においておかしくない話なのであるが、関東武士は馬と弓矢の訓練を忘れてはならないと北条義時が進言したために開催されたというのが吾妻鏡の記載だ。さらに七日にはこの弓道大会の結果を踏まえての大宴会があったとある。そ
京都では、一七歳の権大納言九条道家が侮れない若者であると認識する者ならば多く、九条道家に比べると見劣りすると捉えられていたのがこれまでの源実朝である。特に、どうしても源頼朝と比べられてしまうことの多い源実朝は、その幼さが頼りなさのイメージに直結していた。これまでは。従三位に上り詰めたことで源実朝は九条道家と同様に侮れない若者であるという評判を生まれ、この国は、京都に一七歳の九条道家が、鎌倉に一八歳の源実朝がおり、その上に三〇歳の若き治天の君である後鳥羽上皇が君臨するという若き政治体制が
源実朝はその園城寺から僧侶を招いたのであるが、このことを延暦寺の立場から捉えると、かつての最大の抵抗勢力が鎌倉幕府と手を組むというのだから、何としても避けたい話となる。何しろ鎌倉幕府相手では延暦寺がいつも行使している武装デモが全く通用しないのだ。ここで園城寺と鎌倉幕府が手を組むとあれば、ただでさえ行動を制限されてきている延暦寺にとってさらなる脅威となってしまう。ゆえに、本来であれば延暦寺として何らかの形で抵抗を見せても良かったはずである。しかし、このときの延暦寺は公胤が鎌倉に赴くことについて何
阿津賀志山の麓まで行ってみることに。飛行機雲や不思議な雲が泳いでました~。義経のところから、歩いてすぐです。5分くらいで防塁に到着。歩いてみるといろんな歴史が詰まっていました。阿津賀志防塁については、①を参照してください。『【国見町】春の訪れに阿津賀志巡礼①奥州合戦とは』春らしく行きたいのですが、ディープな歴史です。先日、ひさしぶりに国見町へいき、道の駅にも久々に寄ってみました。※道の駅国見あつかしの郷※桃のジェラート…ameblo.jp追記、再びこちらの冊
たまたま通りかかったのは源氏橋という橋でこの荻野川に架かる橋が源氏橋という橋です。なぜ源氏橋と呼ばれるかといえばこの地に伝わる伝説として源氏再興を心に誓っていた源頼朝公が石橋山の戦いで敗れしときに敗走する中でこの荻野郷に来てこの荻野郷に百の谷戸があれば要害地として幕府を置くにふさわしくしかし一つの谷戸が不足しているため
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」13/後醍醐天皇の新政編~権力と責任を分散させる伝統的システム【再読】足利尊氏は建武の新政の成立の大功労者であった。足利家は源氏本家が三代で滅んだ以降は、源氏の中で最も有力な名門であった。そのために北条氏は、一門の娘を尊氏に与え、いわば「同族会社の女婿」とした。尊氏は諸国に檄を飛ばし、呼びかけに応じて集まった軍勢を加え京へ進撃した。六波羅は陥落した。しかし、幕府の本拠地である鎌倉を攻撃し陥落せしめたのは尊氏ではない。後に宿命のライバルになる新田義貞だっ
3月15日(土)メタ認知という言葉が、本屋でもよく見るようになりました。問題を解決する力。たとえば、ルービックキューブを揃えるのが得意な人は、このメタ認知能力が高いと言われています。感情や行動にとらわれず、自分の力で問題解決できる力。小学生頃から伸びる能力なのですが、今の日本の子供たちは、この力が弱いようです。暗記や覚える教育。いい国作ろう、鎌倉幕府(1192年)って暗記する。今は、1192年ではないそうです歴史を流れで見ていると、その時代に何が起こったのか
再び戻ってきました、阿津賀志探訪。また、ちょっと書きます~。今度は、バイパス(4号国道)から西側の阿津賀志山の麓へ。4号線を通ったことある方は看板を見かけたことはあると思います。この付近を散策。まず先にここに立ち寄ってみました。駐車スペースはないのですが、裏に停めて参拝。天然記念物「義経の腰掛松」江戸時代の紀行文や作品、絵図に登場する松。平安時代末、藤原秀衡をたよりに義経が金売吉次とともに平泉へ下向する際、松に腰をかけたとの伝説が由来としてあります。
石破茂総理が先の衆議院議員選挙で当選した1回生議員との会食に先立ち秘書に一人10万円の商品券を届けていたという問題が大きな波紋を広げています。報道を知って私は「石破内閣はつんだ。政権が崩壊する」そうフェイスブックで書きました。今回の国会は「政治と金」が1丁目1番地ともいわれる国会です。同じ日に企業団体献金の禁止をめぐって国会の政治改革特別委員会かな?で立憲民主党の江田憲司衆議院議員と小泉進次郎衆議院議員のやり取りなどもあり-YouTubeYouTubeでお
・本郷氏は東大の史料編纂所の教授。よくテレビでお目にかかる。(奥さんの本郷恵子さんも日本中世史の研究者で、今は、史料編纂所の所長さんのはず。)本郷さん、普段は研究一筋だが、ある年(2022)に、教養部の学生に「日本史」を講義した時のノートを基に新書に仕立てたもの。それらの学生に、「暗記もので無い歴史」、「歴史を考える」知的訓練を提供してみようという試みで語られている。結構、面白い。・以下、目次から、おもしろそうな項目を拾って、ならべておこう。・*「あらためて問う、鎌倉幕府の成立は何年
まず、先に記したように藤原定家は当代随一の歌人であると同時に、後鳥羽上皇の側近の一人である。源実朝からの書状に始まる和歌を通じたやりとりだけを捉えれば、傍目には和歌に強い関心を持つ若者が和歌の達人に和歌を習うようになったとしか見えなくなる。しかし、そこに後鳥羽上皇が介在するとしたらどうなるか?後鳥羽上皇は西面武士を組織している。西面武士は鎌倉幕府の御家人でありながら後鳥羽上皇の周囲を固める武士となることもできるという、従来の北面武士より融通の効きやすい軍事組織である。鎌倉幕府に従ってい
井沢元彦「逆説の日本史6/中世神風編」12/後醍醐天皇の野望編~「河内の土豪」楠木正成を結び付けた朱子学思想【再読】鎌倉時代末期の日本は、東国を中心とした「自給自足農業経済圏」と、西国を中心とした「商業経済圏」が対立していたのである。御家人は、所領が細分化される→経営効率が落ちるが幕府への義務は果たさねばならない→借金をするが返せず土地を奪われる→無足人となる、この繰り返しであり、御家人は次々に窮乏化し、幕府は弱体化した。また、元寇の軍役負担もこれに拍車をかけた。幕府は「倒産」する運命にあ
洋の東西の偉人、賢人たちの「名言」をご紹介します。人の一生には悩みがつきものです。私たちはしくじり、恥をかき、苦悩する。心を惑わせ、傷つけるのが人の言葉なら、励ましを与え、明日を生きる理由を与えるのもまた、人の言葉なのである。◎充実した人生を送るためにその1鎌倉幕府打倒に貢献した足りる事を知って及ばぬ事を思うな。楠木正成{くすのきまさしげ}(鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将)◎充実した人生を送るためにその2