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源頼朝はもういない。しかし、源頼朝の意思はまだ生きている。大姫の入内にこだわり続けていた源頼朝であるが、その目論見は大姫の死によって潰えた。しかし、誰かを入内させることにはこだわっていた。そして、このときの鎌倉には入内できる女性がいた。源頼家の妹である三幡だ。記事が復活した翌月である建久一〇(一一九九)年の三月にさっそく彼女が登場する。なお、吾妻鏡では彼女のことを「乙姫」と記している。皇室に嫁ぐ前提であるはずの乙姫であるが、吾妻鏡に記されている乙姫の様子は不穏である。高熱にうな
稲村ヶ崎は、新田義貞の鎌倉攻めの際の古戦場。義貞が海に黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が引き、海上の北条軍がはるか遠くに流されたため、稲村ヶ崎を突破できたという伝説が残されています。稲村ヶ崎1333年(元弘3年)5月8日、後醍醐天皇の綸旨を受けて、上野国新田荘の生品神社で討幕の挙兵をした義貞は、5月21日、大潮に乗じて稲村ヶ崎を突破。北条高時ら一族を東勝寺においての自刃に追い込み、鎌倉幕府を滅ぼしました。☆☆☆☆☆
建久一〇(一一九九)年二月一四日、源隆保に対する噂が一つの結末を生み出した。この日、後藤基清、中原政経、小野義成の三名の武士が六波羅在中の鎌倉幕府の雑色に捕らえられ院御所に連行されたのである。これにより源隆保が集めた武力が激減したが、それで源隆保の身に降りかかった不幸が終わるわけではない。二月一七日、西園寺公経、持明院保家、そして源隆保の三名が出仕停止。さらに源頼朝の帰依を受けていた僧侶の文覚も検非違使に身柄を引き渡された。事態が沈静化したのは二月二六日のことである。この日に鎌倉から中
源頼朝の突然死の知らせが京都を混迷に招いたことは既に記した通りである。それは二月になってある程度鎮静化してきたものの平穏が取り戻せたというレベルにはほど遠いものであった。特に後鳥羽院の周辺警護の物々しさは際立っており、土御門通親が自らの身を守るために後鳥羽院に身を寄せたのも、土御門通親への不満を増すことにつながるものの身の安全のためにはやむをえないことと納得されてもいた。そんな中、建久一〇(一一九九)年二月一一日に左馬頭である源隆保が自邸に武士を集めて謀議していた事実が明らかとなった。
鎌倉幕府は源頼朝という上流貴族が鎌倉に滞在し、その上流貴族の周囲に多くの御家人が集まって形作られている組織として誕生している。そのトップにある人間が、権大納言も経験した正二位征夷大将軍から正五位下左近衛中将に交替したのである。これから先、鎌倉幕府はどうすればいいのか、鎌倉幕府の御家人達はどうすればいいのか、明確な回答を示すことのできる者はいなかった。もっとも困惑を少なくする方法は、これまで源頼朝が果たしてきた職務を源頼家が引き受けることである。位階も役職も低いが、何と言っても源頼朝の実
4/27の土曜日に地元の観音寺さんの藤をパパさんと二人で見に行きました~朝刊に掲載されていたのでお買物ついでに・・・・滋賀県守山市の天台真盛(しんせい)宗「観音寺」で、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝(1149~99)にゆかりのあるフジが見ごろを迎えている。フジは山門の前にある老木。平治の乱(1159年)で平家に敗れた頼朝が逃亡中、同寺を訪ねた。フジの木の杖を地面に挿して再起を祈願したところ、フジの芽が出た。幸運の兆しだと勢いづき、後に鎌倉幕府を開く契機になったと伝わる。フジの近くには大
建久一〇(一一九九)年一月の源頼朝の死の知らせは京都を混迷に陥らせたらしく、特に土御門通親への反発は強かったようで土御門通親は二二日に後鳥羽院のもとに避難せざるを得なくなっている。現在と違ってこの時代の庶民に参政権など存在しないが、だからといって政治に無関心だなどということはない。いつの時代でも人は多かれ少なかれ政治的な意思や意見を持っており、その意思や意見に基づいて行動している。庶民が政治と無縁であると考えているのは民主主義での敗者だけだ。自分の暮らしへの危機感を強めれば強めるほど、政治
どういうことか?忘れてはならないのは、前年の後鳥羽天皇から土御門天皇への譲位である。土御門天皇は三種の神器が揃わない状態で即位した。ただし、公式見解としては三種の神器が揃っている状態での即位ということになっている。壇ノ浦の戦いで一度は海中に投じられたものの、引き上げることに成功した八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)はいいが、壇ノ浦の戦いで海中へと失われた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は皇室に現存しない。ただし、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の実物は熱田
「光る君へ」数話前、まひろがしなびたカブを差し出し針を買おうとしましたこのころはまだ物々交換これからまひろは父の異動に伴い、越前にお引越し宋との取引に、父の語学力が本領発揮そのあと・・・藤原家による摂関政治は終焉を迎え院政が行われ平家にあらずは人にあらず平清盛が宋銭から貨幣文化を取り入れます壇ノ浦の合戦で平家滅亡いいくにつくろう鎌倉幕府(今は違うのね)北条家が乗っ取り、執権の台頭足利尊氏が源氏の流れを
源頼朝の後継者は源頼家と決まっている。ただし、それは源頼朝が五三歳という若さでこの世から退場することを前提になどしていない。源頼朝亡き後の鎌倉幕府をどのようにすべきかという点で鎌倉は統一見解を得ることができなかった。鎌倉幕府という仕組みそのものが源頼朝のもとに集った御家人達の組織であり、源頼朝の政治家としての能力に寄って立つところがあまりにも大きすぎたのである。また、源頼朝が正二位の位階を持つ上級貴族であるという点も大きかった。源頼朝という卓越した政治家が、朝廷に連なる権威を鎌倉の地で
・和田裕弘著『柴田勝家』(中公新書)と山田康弘著『足利将軍たちの戦国乱世』(中公新書)を買った書店で注文購入する。・119㌻8行目源義朝のフリガナが「よしもと」になっている。既に指摘している方がいるかもしれないが念の為記す。・大庭景親と藤原親政など平家方についた武士と貴族に興味を持つ。野口実=著長村祥知=校正『源氏と坂東武士』206㌻1700円(税抜)吉川弘文館歴史文化ライブラリー234マルプデザイン=装幀伊藤俊之=編集2007(平成19)年07月01日第
鎌倉幕府が事実、歴史上存在した事は間違いありません。ところが、幕府ゆかりの建造物が残っていないため、鎌倉殿の十三人ゆかりの地を巡るしかありません。頼朝が建造したという鶴岡八幡宮だけは、今でも観光地として多くの人が訪れています。上は鎌倉幕府ゆかりの建造物と地図です🗾頼朝の墓を除いて明確に残っている鶴岡八幡宮が上です!鎌倉幕府の先見性🟰源頼朝の功績武家政権の礎を作ったのは、平清盛でしたがやはり朝廷寄りの政治をしていたと思われます。源勢で最初に京都に登り、途中平家を破った
鎌倉幕府の御家人の一人である稲毛重成は、北条政子の亡き妹を妻としていたことから源頼朝とは義兄弟の関係にあたる。その稲毛重成が、亡き妻を供養するために相模川に橋を架け、その落成記念の供養を開催したのが建久九(一一九八)年一二月二七日のこと。相模川への架橋によって交通の利便性が増すことが期待されるため、落成記念の供養に源頼朝も参列することで源頼朝が直々に来るほどに重要な建設なのだとアピールすることにつながり、供養もイベントとして盛大に執り行われた。問題はその帰路で起こった。馬に乗って鎌倉へ
・再読二回目、通読三回目。・特権的支配層にいたのに鎌倉幕府滅亡後も存続した宇都宮氏と佐々木氏の強かさについて。・後醍醐天皇のずば抜けた行動力について。後白河院と並ぶ逃げ上手の天皇だと思う。・鎌倉幕府後期~末期について書かれた本をもっと読みたい。
征夷大将軍・・・古代、蝦夷を鎮撫するために派遣される遠征軍の指揮官。令外の官であり、征夷将軍とも。鎌倉時代以後、幕府の首長、武家政権の最高権力者。鎌倉幕府を開いた源頼朝以後、室町幕府の足利氏、江戸幕府の徳川氏と引き継がれ、俗に「将軍」と呼ばれた。慶応3年(1867年)の王政復古によって廃止されるまで続いた。(NHK朝ドラ『カムカムエヴリバディ』より、架空の時代劇番組『破天荒将軍Ⅲ』)お代官様や江戸幕府将軍の家斉さんの話を記事にしましたので・・・今回は将軍様につ
源頼朝さん源頼朝(みなもとのよりとも)幼名:鬼武者、鬼武丸1147年5月9日(ユリウス暦、久安3年4月8日、グレゴリオ暦1147年5月16日)生まれ、1199年2月9日(ユリウス暦、建久10年1月13日、グレゴリオ暦1199年2月16日)、満51歳薨去。尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)生まれの武将、政治家。源義朝の三男として、神宮大宮司・藤原季範の別邸(現誓願寺)にて生まれる。鎌倉幕府の初代征夷大将軍(1192年~1199年)父:源義朝母:由良御前(藤原季
鎌倉幕府の圧力が利いて興福寺の強訴が鎮静化した。この事実は朝廷に、そして後鳥羽院政に対する一つの現実を突きつけることとなった。鎌倉幕府の武力はどうあっても無視できなくなっているという現実である。この現実と向かい合うために採るべき選択肢は三つ。一つは鎌倉幕府からの要望に譲歩する。二つ目は鎌倉幕府に対する配慮を示す。三番目は鎌倉幕府に頼らぬ道を探る。この三つは併存できる。ただし、三つのうち一つは検討の段階で止まっていたはずである。一番目の鎌倉幕府からの要望、すなわち
出演女性の中ではさわさんが好きかなあ絶対に一緒にいて楽しい人だと思う役者さんは、野村麻純さんという方そしてなんと調べるとさわさんという方、実在の人物で立派な平氏の血筋でのちの鎌倉幕府執権へとつながっていくのだそうだそれにしてもさわさんの笑顔はよいなああ。矢部太郎さんも。画面に出てくるとほっとする
河内源氏の源義国を祖とする新田氏は、新田義重から始まる源氏の名門。新田義貞は新田氏本宗家の八代目棟梁。☆☆☆☆☆生品神社(太田市)1333年(元弘3年)5月8日、後醍醐天皇の倒幕の綸旨を受けた義貞は、生品神社で挙兵。『太平記』によると・・・義貞は倒幕のための兵を挙げたいが、勅命を得なければどうにもならない。そこで義貞は、正成と呼応して吉野山を本拠として挙兵した護良親王の令旨を得ようと考えた。執事の船田義昌が護良親王の下へ赴き持ち帰ってくるのだが・・・それは、令旨ではな
後鳥羽院政に武力無し。この知らせが広まっただけでも、およそ五〇年間、はじめは平家の武力の前に、その後は鎌倉方の武力の前に沈黙させられていた寺社勢力の武装デモが勢いづくようになった。朝廷内の理論上の武力のトップである左近衛大将は関白近衛基通の息子である二〇歳の権中納言近衛家実であるため、朝廷が武力を発動させることも困難とするしかない。後鳥羽上皇が院宣を発して比叡山延暦寺の問題を解決してからわずか一〇日後には、奈良の興福寺の大衆が和泉国司の流罪を求めて武装蜂起する予定であるとの通達が飛
六波羅探題府址(六波羅蜜寺)六波羅探題は、1221年(承久3年)の承久の乱後に設置された鎌倉幕府の出先機関。1333年(元弘3年)2月、討幕計画が露見して隠岐に流されていた後醍醐天皇が隠岐を脱出して船上山で挙兵。3月下旬、幕府は名越高家と足利高氏(尊氏)を鎮圧に向かわせますが、4月27日、名越高家は赤松則村と戦った久我畷の戦いで討死。両軍の戦いを静観していた足利高氏は、自らの領地だった丹波篠村へと向かい反幕の挙兵をします。そして、5月7日、六波羅探題を攻撃して滅亡させました。『太平
藤島神社(福井市毛矢3丁目8番21号)御祭神新田義貞公難攻不落の鎌倉幕府を攻め落とした英雄で、後醍醐天皇を支え武士道の原点となった武将です。後醍醐天皇の建武政権に反旗をひるがえした足利尊氏を討つため、新田義貞が派遣されますが、箱根・竹ノ下の戦いで敗戦します。その後後醍醐天皇の皇子恒良親王、尊良親王を奉じて北陸へと下り、1338年藤島の戦いで戦死します。野上神社義貞公夫人勾当内侍を祀る摂社藤島神社は小高い丘にあり、先に開通
熊野御幸から戻ってきた後鳥羽上皇は、今なお宗教問題が片付いていないことを知ることとなった。話は同年六月に発生した遠江国の赤土荘の騒動まで遡る。赤土荘はもともと比叡山の千僧供、すなわち、一千名の僧侶に食物や衣服を供給するという形式での年貢を納めている荘園であり、僧供米の減少から延暦寺の西塔や横川の衆徒の使者が追及して責めたてたところ、延暦寺の執当、すなわち、諸職の補任を司る寺官である法眼実誓が東塔の僧と結び、その使者に恥辱を与える事件を起こしたのである。比叡山のトップである天台座主が慈円
後鳥羽上皇は、自らの院政が成功のもとでスタートしたことを周囲にアピールした後に従来の院政の継承をした。藤原定家の日記には後鳥羽上皇が連日連夜、ときには蹴鞠に興じ、ときには相撲に興じていることが記されている。なお、自宅に籠もって蹴鞠や相撲に興じるのではなく、後鳥羽上皇は各所に参詣した上で蹴鞠や相撲を奉納しており、建久九(一一九八)年六月の後鳥羽上皇の足跡を追うと、六月二七日に日吉社、二八日に稲荷社、三〇日に春日社という足跡となる。このように各地へと出歩く後鳥羽上皇であるから、過去三例の院
・再読一回目、通読二回目。・鎌倉幕府後期~末期は執権が病弱だったり政治に無関心でもある程度は機能できる仕組みになっていたが、特権的支配層が大多数の御家人を搾取する仕組みを変える事が出来なかった。・室町幕府は建武政権の良い点や鎌倉幕府の駄目な点をきちんと吟味した上で作りあげた政権だという事を認識する。・本書は中央集権の欠点だけでなく地方分権の欠点もきちんと指摘している(室町幕府と鎌倉府の対立)。・参考文献に黒田俊雄の『日本の歴史八蒙古襲来』(中央公論社)有り。
後醍醐天皇が倒幕の軍を起こした時、鎌倉幕府は「天皇、御謀叛」と言った、といいます。謀叛というのは、下の者が植えに対して逆らうことを言うわけだから。つまり、幕府の執権ほうが、天皇よりも偉かった、ってことなのか?違います。天皇が「御謀反」したのは、執権に対してでも幕府に対してでもありません、「日本国」に対して、です。後醍醐は国家秩序を脅かしたんです。どんな帝王でも、従わなければならない「天の節理」ってものがあります。ときの天皇個人よりも、日本国が長年の間に築き上げてきた国家秩序のほうが、
・野口実氏の『列島を翔ける平安武士』を買った書店で購入。・鎌倉幕府後期~末期の事を勉強したかったので読む。・「特権的支配層」(武士の貴族。平安時代の軍事貴族とは異なる)がいかにして形成されたか詳しく明晰に書かれている。・安達泰盛による弘安の徳政が成功していたら鎌倉幕府はもう少し長く続いたのだろうか。・独裁者にならざるをえなかった北条時宗と時宗のような独裁者になれなかった貞時に思いを馳せる。・鎌倉幕府(中央集権)と室町幕府(地方分権)についてもっと知りたい。鎌倉後期、鎌倉幕府
皆さま、おはようございます・1331年(元弘元年)5月5日、元弘の変が起こる→鎌倉幕府から実権を取り戻そうとした後醍醐天皇は、1324年に兵を挙げようとします(正中の変)。7年後再び兵を挙げようとしますが(元弘の変)、失敗しました•••••cut•••••・フォトギャラリー
上皇となり院政を始めるメリットは多々ある。責任からの回避や政治的自由も無視できないメリットであるが、忘れることのできないメリットとして資産がある。天皇は皇室予算や国家予算が資産であり、自由に行使できる資産は、ゼロではないにしても乏しい。行使できる資産の量は多大であるが、天皇の独断で行使できるものではない。しかし、院政となると違う。院が独自に資産を手にできるだけでなく、手にした資産を院が自由に使うことができる。その成果が如実に示されたのが建久九(一一九八)年四月二一日のことである。二条東
さて、建久九(一一九八)年二月二〇日に土御門天皇の即位の儀のために、父である後鳥羽上皇も、内裏の中に入れないにしても大内裏には行こうとしていたこと、そして、直前になって予定を白紙に戻したことは既に記したとおりである。まだ三歳である土御門天皇はさすがに自分がこれから何をするか深く理解できていなかったであろうが、それでも自分がこれから父の後を継ぐこと、そのための儀式が執り行われること、そしてその儀式が他ならぬ父によって直前に予定が乱れたことは理解できていたであろう。さて、先に、三月三日まで