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鎌倉幕府が三寅を第四代将軍として鎌倉に迎え入れると打診してきたのは建保から承久への改元のあたりと想定される。北条時房がどのような交渉をしたのかは残念ながら歴史資料に残っていないが、承久元(一二一九)年六月初頭には確定事項となり、六月二五日に北条時房がいったん六波羅へ立ち寄ったのちに京都を出発して鎌倉に向かい、七月一九日に北条時房が鎌倉に到着したことは他の記録から明らかとなっている。また、散逸している吾妻鏡も承久元(一二一九)年七月一九日より記録が復活し、その後の記録を追いかけることが可能と
それが源実朝の死と同時に存在根拠を失った。侍所や政所といった三位以上の位階を持つ貴族であれば誰もが設置できる氏族内機関は、従二位の位階を持つ北条政子に由来させることで存在根拠を維持できたが、守護と地頭については北条政子でもどうにもならない。そこで、左大臣九条道家の子である三寅を鎌倉に招き、母系の血筋を利用して源頼朝が獲得した特権を維持させることとし、行く末は三寅の位階昇叙に合わせて、氏族内機関の存在根拠を北条政子から三寅へと移行させ、鎌倉幕府第四代将軍に基づく組織として鎌倉幕府を建て直
「湯帷子」(ゆかたびら)加藤高穂修禅寺や湯殿血染めの湯帷子小学五・六年生の時だったろうか。母に連れられ、岡本綺堂の戯曲『修禅寺物語』が映画化されたものを観に行った。鎌倉幕府の第二代征夷大将軍・源頼家の非業の死を描いたものだったが、内容に関しては、とんと記憶にない。1204年7月18日、伊豆の修禅寺に幽閉されていた頼家を、武士の一隊が急襲する。入浴中だった彼は、腕の立つ勇猛の士として知られてはいたが、何一つ武具を身につけていない。
積雪が心配やったけど大した事なくて良かった。2025年師走、鳥取県にやって来ました。ご朱印集めで来たのが2017年。その時、ついでに来てたようや。8年ぶり3度目の【砂の美術館】です。1度目:2014年5月の『ロシア』2度目:2017年10月の『アメリカ』そして今回3度目、いよいよ『日本』です。ホンマにココは800円の価値ありやわ。華大さんの朝の番組でやって
裏車掌です。今年の2月から本(ほぼ新書)を紹介する記事を中心にブログの更新を続けています。記事の更新は、主に日曜日と木曜日です。アメブロは朝7時に更新。3月24日からnoteの方も始めました。よろしくお願いします序章:税から見る日本の姿諸富徹著『税の日本史』は、古代から現代までの税制の変遷を通して日本の歴史と社会を読み解く意欲的な一冊です。財政学の第一人者である著者が、政治経済の大きな流れと絡めながら税の歴史を紐解くことで、日本社会の特質と今後の展
後に藤原頼経と名乗ることとなるその男児は、このとき二歳。寅歳寅日寅時に生まれたことから、この頃はまだ三寅(みとら)と呼ばれていた。北条政子を主軸とする鎌倉幕府の首脳陣は、三寅を鎌倉に招いて鎌倉幕府第四代将軍とすると同時に、この男児が成長するまでは北条政子の位階を利用して組織を存続させることとしたのである。一説によると、鎌倉幕府第四代将軍に三寅を強く推挙したのは大納言西園寺公経であるという。三寅にとって西園寺公経は母方の祖父だ。西園寺公経が権大納言から大納言への昇格を後鳥羽上皇に訴え出て拒否
坊門姫の実父は源義朝である。源平合戦後ならばともかく、平治の乱から源平合戦勃発までの間、すなわち平清盛の時代において源義朝は国家反逆者として極悪人の烙印を押されており、その人物の娘なのだから普通であれば宮中に姿を見せるどころか隠遁生活を過ごしていなければおかしいところであるのに、坊門姫は藤原北家中御門流の貴族である一条能保のもとに嫁いでおり、一人の男児と三人の女児をもうけている。その三人の女児のうちの長女が後に九条良経のもとに嫁ぐことになる女児であり、次女が後に西園寺公経のもとに嫁ぐこととなる
皆さん、おはようございます。今日もお忙しい中、ブログにお越しいただきましてありがとうございます。鎌倉三十三観音霊場の第11番・帰命山延命寺です。神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗寺院です。御本尊が阿弥陀如来さま、観音霊場の御本尊は聖観音さまになります。鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の夫人が建立した寺院です。御本尊の阿弥陀如来さまは、円応寺の閻魔さまの像を造った折に余った木材に彫られたことから木余りの像、そして予定よりも早く出来上がった事から日あまりの像とも呼ばれています。また本堂内に一緒にお祀
忘れてはならないこととして、源頼朝が特別であるのは、清和源氏の頭領であると同時に、熱田神宮の宮司の娘である由良御前を母として生まれた身であり、源頼朝は母系で熱田神宮とつながるという点に着目しなければならない。源頼朝は源義朝の三男であり、源頼朝には二人の兄と六人の弟がいたが、この九人兄弟のうち母系で熱田神宮につながると断言できるのは三男の源頼朝と五男の源希義の二人。四男の源義門も熱田神宮につながる血筋であるとする説もあるが、その説を確定できる記録はない。一方、源範頼や源義経、阿野全成といった源頼
源頼朝は鎌倉幕府の創建者。大久保利通は明治新政府の創建者。両者とも日本の歴史の大転換と発展に大きく貢献したのに、イマイチ人気が無い・・・偉大な創建者であっても、策謀が上手な人って、やはり日本史では人気者にはなれないのだろうか?
「野分」加藤高穂野分波元船一夜に呑みしとぞ人ごゑに安堵の気配野分あと丘上に元寇の記念碑が建つ麁原山(現・祖原山)は、悪ガキ時代、チャンバラをしたり、防空壕跡の真っ暗な洞穴に恐る恐る潜りこんだり、段ボールを橇に見立てて斜面を滑り降りたりと、恰好の遊び場だった。思えば1274年の文永の役、1281年の弘安の役と二度に亘る蒙古襲来という国難に直面して、元帝忽必烈の野望に立ち向かったのが、時の執権北条時宗である。弱冠十八歳で鎌倉幕府
先日は、KBS京都ラジオの収録でした✨️清和天皇社(せいわてんのうしゃ)についての内容が中心でした!清和天皇社の御祭神は、・第56代・清和天皇(せいわてんのう)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)です。清和天皇社の敷地内にある摂社の四所神社(ししょじんじゃ)は、清和天皇の母親である藤原明子に関係が深い神社です。四所神社には、奈良の春日大社や、京都の吉田神社と同じ御祭神である、・武甕槌命(たけ
物語や史実を伝える方法において、文字が作られたのですが、読みやすい文字という形は、ずっと後になってからでした。古事記や日本書紀は、紙に書かれた形で後世に残されました。そういう時代に、世界で最初に金属による活字が生まれたのが朝鮮半島でした。活字の誕生活字の起源は11世紀の中国に遡ります。畢昇(ひっしょう)が陶器を使った活字を発明し、これが活版印刷技術の始まりとなりました。長い間埋もれていたのですが、高麗王朝時代の朝鮮半島で、金属による活字が発明されたのでした。正にノーベル賞級
どうやら皇族将軍は難しい。後鳥羽上皇の皇子が鎌倉に将軍としてやってくるというところまでは話をこぎ着けることができたが、建保七(一二一九)年三月時点では、皇族将軍が鎌倉までやってくるのはいつのことになるか話が全く見えてこない。後鳥羽上皇の派遣した藤原忠綱は建保七(一二一九)年三月一一日に京都へ戻るために鎌倉を出発したが、そのとき、北条政子ら鎌倉幕府の首脳から、後鳥羽上皇からの二つの荘園の地頭職放棄について後ほど回答を送ることを伝えられている。翌建保七(一二一九)年三月一二日、北条義時
思い込めば、それでよし!はい、完成!一生気付かない勘違いとか、一生バレないウソとか、それはそれでよし!はい、真実!仁徳天皇陵は、今、仁徳天皇陵じゃないし、足利尊氏の肖像画は、足利尊氏じゃないし、鎌倉幕府だって、イイクニじゃないし。僕だっていつ、僕じゃなくなるか知れない。ただ、それに気付かなければいいって事だよ、あくどきものよ。
後鳥羽上皇はここで一つの駆け引きを持ち込んだ。藤原忠綱を通じて、摂津国の長江荘と倉橋荘の地頭職の解職を求めてきたのである。この二つの荘園は摂津国豊島部の神崎川と猪名川が合流する付近にあった荘園である。この二つの荘園は両方とも、川を下れば大阪湾に出て、さらには瀬戸内海へ向かうことができる一方、川を遡ると、水無瀬、鳥羽、さらには平安京へと至る水運の要衝に存在していた。後鳥羽上皇がこの二つの荘園に対する地頭職の解任を求めてきたのであり、荘園を手放すように求めたわけではない。元からして荘園の所有者は後
「人生」確実さは?(808)★今「吾妻鏡」を読んでいる。教科書に書かれている、鎌倉幕府、源平合戦の出来事はこの本に拠っている。しかしその記述は、虚実に満ちているらしい。そうすると史実で亡い部分があると云うことになる。なんか、疑問が湧いてくる。◆日本後紀○桓武の側近として桓武朝の二大事業を推進してきた65歳の菅野道真を前に民政の見地から忌憚の亡い意見を述べた諸嗣の剛毅は光る○そこで同じく忌避する事のない「日本後紀」の人物評についても諸嗣の個性に帰す考えが通説になってきた。▲ただ諸嗣の
建保七(一二一九)年は閏年である。閏年と言っても現在の太陽暦ように四年に一度、二月二九日が発生する年というわけではなく、この時代の暦のシステムでは、一九年に七回、一年を一三ヶ月とするシステムになっている。建保七(一二一九)年の場合は、二月のあとで一ヶ月を挿入し、閏二月とすることで閏年の対処としている。このこと自体は珍しいことではない。ゆえに、一月末に源実朝の暗殺からおよそ二ヶ月を経たのが建保七(一二一九)年三月であるというのもおかしなことではない。話を元に戻すと、源実朝の暗殺から二
「吾妻鏡」は構成として漢文・編年体・将軍記と3つの外径的形式になっており、「北条貞時による得宗政権が如何に正当なものであったかを歴史的に裏付ける物語」であり、全てが事実の記録とは限らないと言う。歴史はよく勝者の書物と言い、勝者に対し捏造、敗者に対し削除も頷ける。1180年の頼朝挙兵から平家追悼、奥州合戦、比企氏の乱、和田合戦、実朝暗殺、承久の乱、宝治合戦とその後1266年までの鎌倉「北条本」全52巻(欠45巻)軍記物語である。もっとも徳川家康が手本にした本とも言われ、徳川光圀がその後「大日本史」
去る紅葉の美しい季節、私は鳥取県の船上山へ登った。ご案内いただいたのは、淞南学園元教頭で楠公研究会会員の須藤様、そして航空自衛隊元二等空佐で賛助会員の守谷様という、日本の魂を深く理解されている素晴らしいお二方である。久方ぶりの船上山。しかし、記憶にあった以上に道中は非常に険しい山道だった。現代の整備された登山道ですら難儀するこの道こそ、名和長年をはじめとする勤皇の志士たちが、後醍醐天皇を奉じて駆けた「大義の道」なのだと、胸の奥底で深く感じ入った次第である。改めて記すが、船上山は単なる景
鎌倉幕府はどうにかして新たな将軍として皇族を鎌倉に招き入れようとしていたが、後鳥羽上皇からの返答は良好なものではなかった。後鳥羽上皇は自分の皇子である六条宮雅成親王と冷泉宮頼仁親王のどちらかを将軍として鎌倉に送り込むことを了承していたが、それは同時にリスクでもあった。人質とされるのだ。自分の子を将軍として鎌倉に送り込むことで後鳥羽上皇は鎌倉幕府の軍事力を手に入れられる。同時に、鎌倉に送り込むこととなる皇族は後鳥羽上皇の皇子であるために皇位継承権を有していることとなる。つまり
【Kohほぼ日刊】鎌倉殿。エナジーカウンセラーエナジーコーチKoh煌です。本日も皆様からのリクエストにお応えします。本日のエナジーチャート(気流図)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の武将、政治家、鎌倉幕府初代征夷大将軍(鎌倉殿)、
日本で1番多いと言われている八幡信仰の総本社宇佐神宮ですが古代は宇佐氏の磐座信仰の地と言われています。(宇佐氏は中臣氏(藤原氏)の始祖です)その後、比売大神信仰となります。比売大神は卑弥呼ではないかと言われています。571年に八幡信仰に変わります。神仏習合発祥の神社と言われており。東大寺大仏の建立の功績で全国に広まるキッカケとなります。そして応仁天皇に変わったのは8世紀頃と言われています。鎌倉幕府の氏神となり庶民にも広まっていきました。調べてみると、現在の神道の前に古
私は徒手格闘素手とは官兵の影響が大である帯刀主義ではない廃刀令背景に幕府の刀文化新軍は砲で降参しても幕府回顧武士は危険にしかし過度にはあまり廃刀令を起案した過度な再編合理化命令企図人物をサラリーマンの万能薬と信じない方が良いのではないかと一抹にはあり別に廃刀令に抵抗し政府を抜け抵抗には加わらないが新法側になるしかし旧態護身帯刀の様式官兵は日本刀よりサーベル帯1に鎌倉幕府と関わりがあり天
畠山重忠はたけやましげただ🌟時代平安時代末期-鎌倉時代初期🌟生誕長寛2年(1164年)🌟死没元久2年6月22日(1205年7月10日)享年42🌟改名、氏王丸、重忠🌟別名、庄司次郎🌟戒名實山宗眞大居士🌟墓所畠山重忠公史跡公園(埼玉県深谷市畠山)重忠首塚(神奈川県横浜市旭区)🌟幕府、鎌倉幕府🌟主君源頼朝→頼家→実朝🌟氏族桓武平氏良文流畠山氏🌟父母父、畠山重能母、三浦義明の娘または江戸重継の娘🌟兄弟重忠、長野三郎重清渋江六郎重宗蓬莱三
本日は旧暦では10月10日で出雲の神在祭始まりの日ですが、建保六年十月十日、西暦では1218年10月30日は、順徳天皇の第三皇子の懐成親王が誕生した日となります。その翌月には立太子し、満三歳の承久三年(1221年)四月三日には順徳天皇が父の後鳥羽上皇との倒幕に関わって譲位されたため践祚しています。その討幕、承久の変の結果、同年七月九日には鎌倉幕府の沙汰により幼い天皇は廃され、後堀河天皇が即位しました。『承久の変・・・歴史の彼方から日本の不思議な時の流れをみる』本日は旧暦五月十四日です
今日は我が家の菩提寺、鎌倉大町の安養院で「出張鎌倉ミュージアム」という企画(鎌倉市観光協会主催)が開催されたので、行ってきました。行く前に一応、ご先祖様にご挨拶もしました。今回のテーマは「北条政子の生涯鎌倉殿の妻から母、そして尼将軍へ」です。高市総理大臣が誕生し、今や日本では女性が国のリーダーとして活躍していますが、その先駆者として北条政子がいたことを考えると、彼女の凄さを再認識します。講師は鎌倉歴史文化交流館の山本みなみ学芸員。彼女は鎌倉時代、特に鎌倉幕府が開かれる前後の歴史に関する書籍
京都守護の任命と並行して、鎌倉幕府として皇族を将軍として迎え入れることに異論はないという意思を示す必要もあった。皇族の男児を鎌倉に向かわせた後で別の源氏の男児が将軍位を狙うことが無いという意思を示すために、建保七(一二一九)年二月一九日に金窪行親をはじめとする御家人を駿河国へ派遣した。吾妻鏡によると、源実朝の死の知らせを受けて、阿野全成の四男の阿野時元が軍勢を組織して駿河国深山に砦を築きあげたという連絡が二月一五日に届いたとある。阿野時元の言い分としては宣旨を受けて東国の統治を任されること
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「東楊寺」から北へ向かいます。案内板が出ていてわかりやすいです。このあたりは本当にのどかですね~ほどなく、田畑の中にポツンと史跡が現れました。大舘氏館跡1329年~1331年の「元徳年間」頃に「大舘氏」が構えました。「おおたち」の地名は1168年、「新田義重」置文に、「義重」がその子、「らいおう御前(徳川義季)」とその母に、所領を譲り渡すと約束した文書が所見であり、それによ