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はっきり言って、後鳥羽上皇が藤原秀康を上総国に派遣したことは大失敗であった。いかに各国の国司を歴任し、また、北面武士として鎌倉幕府とは独立した独自の武力を有している人材を派遣したとしても、現地でやっていることは看過できることではないとなると、後鳥羽上皇の失策とするしかない。どうにかして納得できる理由を探すとすれば、観測気球といったところか。鎌倉幕府の勢力が極めて強い地域に独自の武力を持った人物を国司として送り出すことで、鎌倉幕府に対する楔(くさび)を打ち込めるのではないかと観測するのである
今回、正統派のオタ活。聖地巡礼なるものをしてきました。これは初めての経験。とはいっても、そもそも鎌倉も京都も大好きなので(鎌倉は特に)既に何度も行ってるし、なんら違和感もなく、聖地巡礼っぽさもないな、うん。ただね。今回初めてやったのは、推しをいちいち写真に撮ることです。江ノ電の車窓から海を眺めるねんつるちゃん稲村ヶ崎を案内してくれるねんつるちゃん傘と、ねんどろいどと、カメラ&ケータイとで忙しかったこの子は鶴丸国永と言います。多分鎌倉時代の初期から中期の京から鎌倉にきました。今
こんばんはますは、訂正から‥。訂正前回のブログのコメント欄で、ケルヒャー社の高圧洗浄機の重さを10キロと記載いたしましたが、私の間違いで、大型の物でした。家庭用のものは、5.8キロで、私も、普段1人で、物置から出して、庭のあちこちへ運んでおります。訂正させていただくと共にお詫び申し上げます。🙇朝、テレビで、東急リバブルのコマーシャルで、父親役の山口智充さんが、子ども達に、「運動会の紅白は、平家と源氏が由来って知ってた?」って、尋ね
久しぶりに暖かい休日となった昨日鎌倉にある朝夷奈切通し(あさいなきりとうし)を見に行ってきました。(画像お借りしています)品川から京急線で金沢八景まで乗りました。金沢八景駅を出て階段を下りるとバスのロータリーがあるのでそこから「朝比奈バス停」までバスで乗って行きました。鎌倉駅行き(3B)に乗車。10分もせずに朝比奈バス停に着きました。こんな民家のどこに「切通し」が?と思いますがこの民家を横に曲がると「朝夷
こんばんは共立メンテナンスの株主優待で湯めぐりの宿桂川に1年ぶりに宿泊した記事を書きましたがその前に修禅寺にも立ち寄りました。桂川からは徒歩10分以内お天気も良かったので久しぶりに参拝しました。807年に空海(弘法大師)により建立されました。鎌倉幕府2代目将軍源の頼家の菩提寺でもあり、歴史でも重要な役割を担ってきた由緒あるお寺さんです。最初は真言宗でしたがその後色々な変遷があり今は曹洞宗のお寺になっています。詳しくはこちらをご覧くださ
〈教学〉4月度「御書講義」の参考2025年3月30日兄弟抄〈教学〉4月度「御書講義」の参考【仏法の教え】www.seikyoonline.com
神奈川を代表する温泉地の一つ、湯河原。古くから多くの文豪や有名人に愛されてきた名湯です。その発祥には様々な説がありますが、その一つとして有名なのが「タヌキが発見した」説。昔々、傷を負ったタヌキが迷い込み、温泉で身体を癒したという説。その為、温泉地のあちらこちらに、タヌキのキャラクターが出迎えてくれます。しかし、ここを訪れた理由は、このタヌキ達ではなく…湯河原駅前に立っている、こちらの銅像を観に来ました。鎌倉幕府の立役者の一人である
先に述べたように、侍所別当和田義盛は上総介就任を望みながら放置されていた。源実朝が和田義盛の上総介就任について朝廷や後鳥羽院に打診したという記録はない。しかし、もしかしたら朝廷のもとに、和田義盛が上総介就任を望んでいること自体は情報として届いていた可能性ならば存在する。承元四(一二一〇)年六月一七日に、空席となっていた上総介の地位を後鳥羽上皇が埋めたのである。後鳥羽上皇が任命した上総介は藤原秀康、北面武士の一人としてこれまで後鳥羽上皇の周囲に仕えていた武士である。武士であっても前述
日本で1番多いと言われている八幡信仰の総本社宇佐神宮ですが古代は宇佐氏の磐座信仰の地と言われています。(宇佐氏は中臣氏(藤原氏)の始祖です)その後、比売大神信仰となります。比売大神は卑弥呼ではないかと言われています。571年に八幡信仰に変わります。神仏習合発祥の神社と言われており。東大寺大仏の建立の功績で全国に広まるキッカケとなります。そして応仁天皇に変わったのは8世紀頃と言われています。鎌倉幕府の氏神となり庶民にも広まっていきました。調べてみると、現在の神道の前に古
長かった修羅の刻義経編もついに完結します!さて舞台は壇ノ浦の戦い。もちろんこの両雄が対峙します!陸奥鬼一vs平教経!まぁこの修羅の刻源義経編における鬼一の戦闘シーンは少ないからね、教経くらいはビシッと倒してくれなきゃ困ります。つーわけで鬼一の実力を見抜いた教経。教経「さがれ…ぬしらでは歯が立たぬ…こいつは物ノ怪だ。」刀や薙刀や弓で殺し合うという時代において「飛び蹴り」という発想はなかなか生まれないか。蹴るくらいならその前に斬っちゃえよと思っちゃうもんねぇ。さて揺れる舟の上での戦い、
こんにちは!(๑´ヮ`๑)本日もお立ち寄りいただきありがとうございます。昨日、仕事を終えて帰宅するや否や、娘の社会に付き合いました。ウソです。ちゃんとご飯食べてからやりましたー笑WEB講義を視聴直後、テキストを読み込んで線引き&補足説明をしていきます。単元は平安末期〜鎌倉幕府のおこり。源平合戦を経て、壇ノ浦の戦い、平氏の滅亡、守護・地頭の設置、義経討伐、奥州藤原氏の滅亡、鎌倉幕府のおこり、侍所・政所・門注所、承久の乱、いざ鎌倉、執権政治etc...と続きます。懐かしさを感じつつ、そ
南北朝の争いは「南朝が正統」で決着しました。北朝の天皇が「北朝1」「北朝2」みたいな脇扱いされているのは、そのときの「政治決着」が今も生きているからです。北朝のスポンサーである室町幕府、足利義満が、三種の神器を南朝から取り戻すための方便として、名目上だけ妥協した、ということです。どういうことか、以下、説明します。天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂したのは鎌倉時代のことで、これは純粋に天皇家の内輪もめです。後嵯峨上皇という困った人がいて、末っ子が可愛いからといって、兄
現在の天皇家は「北朝」の子孫です。なのになぜ、「南朝が正統」とされているのか?足利義満が「南朝を正統と認めます」という政治的決着で南北朝を合一したから、です。そんな馬鹿な、南北朝は「北朝勝利」で終わったから、南朝の子孫は消えて、北朝の子孫が今の天皇に至るのではないのか?実質的にはそうでも、形式的には、南北朝の分裂は「南朝正統」で決着したんです。「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結し
日曜日に、第57回吉祥寺古典を読む会を開催しました。テーマは、源実朝の『金槐和歌集』。個人の歌集(私家集)は一般に、『和泉式部集』『紫式部集』というように、歌人の名でシンプルに呼ばれることが多いのですが、源実朝の場合、『金槐和歌集』というきれいな名前が付いています。「金」は「鎌」(鎌倉)の偏から、「槐」は大臣を意味する「槐門」から来たと言われています。百人一首でも、彼は「鎌倉右大臣」という名で表されていますが、そういう名前の付け方なのですね。実朝がこの和歌集を編んだのは建暦3年(建
北条氏の当主たる歴代の得宗は短命であることが多く、幼い当主が続くことで鎌倉幕府の滅亡につながったとはよく指摘されるところです。また、その原因については近親での婚姻が続いたこととされています。そこで、下記に歴代得宗の享年及び母を記載してみます。初代北条時政78伴為房の娘2代北条義時62伊東祐親の娘3代北条泰時60阿波局(加地信実娘?)4代北条時氏28矢部禅尼(三浦義村の娘)5代北条経時23松下禅尼(安達景盛の娘)6代北条時頼
ついに武士の時代に突入しました。武士とは元々朝廷の守護者!その武士が少しずつ力を付けて幕府を作っていったんですね。最初に幕府を建てた最初の侍は源頼朝です。写真:左から義経頼朝どちらかと言うと弟の義経の方が有名で、平家を追い込む「壇ノ浦の戦い」は知ってる方も多いはず!くしくもこの義経・・・。頼朝と仲が悪く結局暗殺されています。「弁慶と牛若丸」を知っていますか?牛若丸(義経)の自害する時間を稼ぐ為、弁慶が一人で門を守り、矢を沢山刺されても目を見開き、立ち尽くしたまま絶
。。。。→京都東山ブログ→養源院(血天井)→聖護院門跡(特別公開)→知恩院→知恩院方丈庭園・友禅苑→安井金比羅宮→六波羅蜜寺幽霊飴を買った後、斜め前の六波羅蜜寺へ。今風?ふむふむ☝️入口正面、弁天社。願石。🐸六波羅探題跡鎌倉幕府が、京都(朝廷)の不穏な動きの監視強化のために六波羅に置いた監視機関☝️事の発端は1221年に起きた承久の乱。朝廷の権限を次々と奪っていく幕府に
鎌倉観光(その3)白旗神社にある、源頼朝の墓に行ってきました。ヾ(●⌒∇⌒●)ノ鶴岡八幡宮を後にして、住宅街を白旗神社に向けて歩きます。C=C=C=┌(;・_・)┘トコトコ途中、レトロなコカコーラの自動販売機を発見。学生の頃、お世話になった自販機です。お金を入れて、左のドアを開けて、好きなビンを引き抜きます。なぜか、1本しか抜けない構造です。学生の頃、若気の至りで、二人で2本抜きを試みましたが、手にできたのは1本だけでした。自販機の、写真をよ
時は西暦1333年、武士による日本統治の礎を築いた鎌倉幕府は、信頼していた幕臣・足利高氏の謀反によって滅亡する。全てを失い、絶望の淵へと叩き落とされた幕府の正統後継者・北条時行は、神を名乗る神官・諏訪頼重の手引きで燃え落ちる鎌倉を脱出するのだった…。逃げ落ちてたどり着いた諏訪の地で、信頼できる仲間と出会い、鎌倉奪還の力を蓄えていく時行。時代が移ろう大きなうねりを、「戦って」「死ぬ」武士の生き様とは反対に「逃げて」「生きる」ことで乗り越えていく。英雄ひしめく乱世で繰り広げられる、
【高校日本史】目からうろこの北条氏の覚え方みなさん初めまして、蒼欄(そうらん)です。とつぜんですが、日本史に興味をお持ちではないでしょうか。少しでも興味ある人はぜひ見ていってください。まず北条氏がなぜ力をもつようになったのかということです。一番有名なのが北条政子(ほうじょうまさこ)ですね。鎌倉幕府の初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)の妻であり承久の乱のときには、武士に熱い演説をしました。政子が頼朝に嫁いだのは、実は父の北条時政(ほ
楠木正成を代表とする「悪党」とは何か、彼等はなぜ後醍醐天皇のために最後まで戦ったのか、って話をします。「悪党」とは、鎌倉幕府から認められた御家人ではない、「武士とは認められていない」非正規武士のことです。悪党は幕府体制に入らない者を差していますから、悪の意味は「bad」ではなく「irregular」です。元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まっています。ところが。鎌倉幕府が滅亡したのは、貨幣経済の浸透です。