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源平合戦(平安時代後期)のころの鎧兜をつくろうという方向けのブログ。なかなかこういったニッチな分野はネットで詳細が出てこないものなので、鎧兜をつくる指導を行っている者として、最低限知っておかなければならないことを後世に向けて少しでも書き残していこうとはじめた「平安時代の〇〇についてシリーズ」も鎧・兜・烏帽子につづいて、今回いよいよ絵韋(えがわ)についてです。絵韋は、画韋とも書きます。鎧兜の革所(かわどころ)に張られた鹿などの皮革(ひかく)のことで、時代によって傾向はありますが獅子や牡丹、不
鎖大師正御影供大祭は4月20日(土)です。平成31年はお稚児さんを募集していました。
地理院地図1894~1915年地理院地図1928~1945年消えた鎌倉の河原片瀬川から村岡川(現在の境川)流域に、南から川名(かわな)、河原(かわら)、大鋸(だいぎり)と川沿いにつづいています。相模国鎌倉郡村岡郷河原、現在の神奈川県藤沢市大鋸1丁目から藤沢市弥勒寺1丁目にかけての一帯です。『相模国鎌倉郡村誌』の弥勒寺村の項には「元標は弥勒寺村の西の方、小名河原(かはら)なる藤沢鎌倉間の往還と里道との三辻にあり」と記されています。『地理院地図』1894~1945年に確認できる「河原
出土した平安時代の大鎧の遺物はわずかしかない940年ころにつくられたとされる大山祇神社所蔵の『延喜の鎧』が現存する最古の大鎧であり、『延喜の鎧』の小札は全て革で、実は大鎧は軽い革鎧にすることを目的としてつくられたと平安時代の鎧についてのあれこれ(1)と平安時代の鎧についてのあれこれ(2)で記してきました。今回はその出土した平安時代の大鎧の遺物を1つ1つ紹介していきたいと思います。国宝および重文(重要文化財)などはざっとあげて20点に満たない数しかありません。リストから漏れているようでし
詐欺撲滅キャンペーン鎌倉警察署のお手伝い警察署員や防犯協会の皆さまと一緒に広報活動を行いました。皆さま、どうぞご注意くださいね!
鎌倉の歴史雑談番組ブシトーーク鎌倉でガイドをしている3人が#吾妻鏡を読みながら雑談視聴者参加型リアルタイムにコメント募集火曜日(隔週)、20時からライブ配信とっても励みになりますので、どしどしコメントください!#鎌倉の歴史雑談番組ブシトーーク#ブシトーーク#内田めぐみ#岡田英之#鎌倉智士#生放送#ライブ配信#youtubeライブ#鎌倉の歴史雑談番組#ブシトーーク▼鎌倉武士チャンネルhttps://www.youtube.com/@Izakamak
兜は矧板を星という鋲で留めてつくられています(古くは革綴)。平安期の兜の矧数は1枚張を除いてだいたい10枚張です。鎌倉後期にかけては矧数が増えていきます。また頂辺孔はしだいに小さくなり、厳星は縮小して、打つ星の数が増えていきます。兜をつくる際には、矧板をいくつにするのか、どのぐらいの大きさの星をいくつ打つのか、頂辺孔をどのぐらいの大きさにするのかをしっかりと考えましょう。【矧板】【星鋲】【頂辺孔径】沢潟縅鎧(大山祇神社所蔵)平安時代初期12頂辺1、一行6、腰巻1
4月13日源頼朝公墓前祭@源頼朝の墓2019年2018年2017年2016年4月13日10:30から源頼朝の墓において源頼朝公墓前祭が行われます。4月13日は源頼朝公墓前祭毎年4月13日は源頼朝公の墓前で遺徳をしのび10:30から執り行わます。現在の源頼朝公墓は江戸時代に薩摩藩主の島津重豪(源頼朝公の落胤島津忠久の子孫)が建立。
実はそれがしも子どものころからずっと座右の銘にしてきたこの最後の一文「一期は夢よただ狂え」は、ビジネスなどでもよく座右の銘にしている方を見かけます。真の意味を知っている人は少ないようです。『閑吟集』は恋愛をうたったものが多く、この節も例外ではなく、真の意味を知ったら、ほとんどの方が座右の銘にはしないかもしれません。あ、逆に真の意味を知って、あえて座右の銘にする方も続出するかも…???『閑吟集』夜中は地櫓裏に巣刳るちろりちろり何と裳男矢綯う何ともなやなう浮き夜は夫婦
もう10年近く、直垂を普段着のようによく着てきて、ずっと疑問に思っていたことがある。古くから狩衣と同じように庶民の服、つまり活動着として用いられてきた直垂。にも関わらず、とにかく動きにくい。どうもおかしい。・狩りをする上で矢を射る・騎射するために乗馬する・戦うために鎧を着用する・農作を行うなど、普段着として着用されてきたはずだが、どうも動きにくいので調べてみた。結論からいうと、巷で販売されている直垂(鎧直垂)の類は、鎌倉時代後期以降の礼服化した後の直垂であって、決して活動
烏帽子のルーツは古代中国の頭巾烏帽子(えぼし)は、冠(かんむり)と同じく頭巾(ときん)という羅(うすもの)でできた薄い布の袋でできていました。羅(うすもの)とは絡み織(からみおり)をした目の粗い絹織物のことで、絹で織った網のような薄い布のことです。羅は元々は「鳥や小動物を捕獲するための網」という意味でした。4世紀前半に中国から渡来し、飛鳥時代には国産品も製作できるようになっていましたが、応仁の乱のころに技法の継承が途絶えたとされています。※古代中国では、冠や烏帽子(烏帽子の起源とされる
烏帽子(えぼし)は、冠(かんむり)と同じく頭巾(ときん)という羅(うすもの)でできた薄い布の袋でできていました。羅(うすもの)とは絡み織(からみおり)をした目の粗い絹織物のことで、絹で織った網のような薄い布のことです。羅は元々は「鳥や小動物を捕獲するための網」という意味でした。4世紀前半に中国から渡来し、飛鳥時代には国産品も製作できるようになっていましたが、応仁の乱のころに技法の継承が途絶えたとされています。公家や侍(仕える下級貴族)たちの日常のかぶり物として徐々に庶民にも広まっていき、
遺物がありませんので全ては『平治物語絵巻』『蒙古襲来絵詞』『後三年合戦絵詞』『軍用記』『武器袖鏡』などに描かれた貫(毛靴)からの推測となります。笹間良彦氏によれば、履物は、古墳時代や奈良時代には身分の高い者が履いており、下級の者は裸足であったそうです。埴輪の履いている沓などから古代の履物が推測できます。かなり後世までは裸足だったようで足の裏は相当丈夫だったようです。平安時代以降、俘囚の文化が入ってきて以降は、鹿や猪などの皮(革)でつくった沓、貫(毛沓)が使用されたとされています。狩猟用で
大鎧講習会10月7日(土)・8日(日)・9日(月祝)各日各会とも4名さままで13時から16時半ころまで座学2時間、休憩、鎧兜着用1時間半ほどを予定大鎧とは源平合戦期に(平安時代から鎌倉時代にかけて)武士たちが戦で着用した騎馬武者の鎧です。平安時代はおよそ400年近く続き、他の時代に比べて非常に長い期間にも関わらず、鎧兜や関連する遺物は残闕を合わせてもわずか20点にも満たない少なさ。大鎧の遺物はわずか8領で、それも平安時代のそのまま残っているものはほぼなく、江戸時代や明治時代に何度
鎧に鉄が使われなくなった時期古墳時代・奈良時代には挂甲・短甲といった主に鉄でつくられた鎧兜が使用されていましたが、平安時代には綴牛皮(てごひ)という革製の鎧兜が出現し、大鎧が誕生します。奈良時代後期の光仁天皇(709~781年)が780年に「甲冑は皆よろしく革を用いるべし」と勅命を出し、平安時代初期の桓武天皇(737~806年)は790年に蝦夷征討にあたり坂東諸国に2,000領の革鎧をつくらせるなど、2度にわたり「鉄の鎧は不便なので革製の鎧兜に切り換えるように」と命令が下され、国家的につくら
鎌倉氏の家紋について、平良文を祖とする桓武平氏鎌倉氏族の鎌倉氏をはじめ大庭氏、豊田氏、俣野氏、梶原氏、香川氏、長尾氏、長江氏などの家紋を記す。平良文の家紋「月星」紋平良文は仁和2年(886年)生まれ。「平将門の乱」においては、甥の平将門に与して戦い、北斗七星の化身である妙見菩薩の加護により危機を脱したことから妙見を守護神として崇めたこと(北斗信仰・北辰信仰)にちなむ。鎌倉氏の家紋「丸に梅鉢」紋「丸に違い矢」紋「丸に抱き茗荷」紋『都道府県別姓氏家紋大事典』によれば
前回同様に、平安時代の鎧兜と鎌倉時代以降の鎧兜の違いについて1つ1つ紹介していきたいと思います。一括りに大鎧をつくるといっても平安時代初期なのか中期なのか後期なのか、あるいは鎌倉時代のものなのかなど時代によって少しずつ異なるので、自分自身がどの年代のものをつくるか、そのためにはどうしたらよいのかの1つの目安になるかもしれません。今回は縅毛の色目についてです。死に装束としての鮮やかさ縅毛の色目は、赤・紺・白・紫・萌黄・浅葱・茶・薄青などの色絲が一般的です。色目には一部の色を変える
2024.4.14鎌倉まつり行列巡行鎌倉もののふ隊は今年で20周年。活動をはじめたころ鎌倉のご重鎮の諸先輩方に「戦国時代の鎧(当世具足)や創作甲冑なぞ着て鎌倉を歩くような恥ずかしいことはするな」と𠮟咤激励をいただいてから、鎌倉に生まれ育ち、子どもたちに歴史を語り継ぐ活動している者としての自覚を胸に、鎌倉らしさや時代考証を追求して今日まで活動してきました。尊敬する先生方から託された言葉を胸に刻み、まだまだこれからさらに精進してまいりたいと思います。20周年を迎えられたこと、これまでこの
津波(河川遡上)津波で鎌倉も大船ものみこまれる。と、思っているのは私だけなのだろうか。最近、鎌倉市内の津波ハザードマップ、洪水ハザードマップ、土砂災害ハザードマップなどを見ていて、プロがつくっているのだから、正しいデータに基づいてつくられているのだろうけど、どうも信じられない。鎌倉市にはなぜ河川遡上を踏まえたハザードマップがないのだろうか。滑川をはじめ鎌倉にはいくつもの河川がある。河口から河川に侵入した津波が、1mの津波でも5kmは遡上するといわれている。河川を遡上する津波は伝播速
前回同様に、平安時代の鎧兜と鎌倉時代以降の鎧兜の違いについて1つ1つ紹介していきたいと思います。一括りに大鎧をつくるといっても平安時代初期なのか中期なのか後期なのか、あるいは鎌倉時代のものなのかなど時代によって少しずつ異なるので、自分自身がどの年代のものをつくるか、そのためにはどうしたらよいのかの1つの目安になるかもしれません。今回は兜の𩊱(しころ)についてです。𩊱(しころ)は兜鉢の腰巻から垂れ下がり後頭部と頸まわりを覆うもので、ほとんどが革札で、一部鉄札を用いることがあります。平安