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令和7年(2025年)10月4日(土)、陣出遺跡発掘調査説明会が行われた。調査地は神奈川県鎌倉市寺分字上陣出393-11一帯。陣出遺跡(No.351遺跡)は字陣出と字上陣出に広がる遺跡で、かつての鎌倉郡洲崎郷内に位置する。洲崎郷にあった関東十刹大慶寺の所領という意味の「寺分」が現在の住所になっている。鎌倉郡村岡郷は武蔵国府中から山道(鎌倉道)でつながっており、かつて元弘3年(1333年)に新田義貞が鎌倉を攻めた折にも武蔵国からこの鎌倉道を通って村岡に進軍し、村岡合戦(八ツ島など史跡あり)
鎌倉の歴史雑談番組ブシトーーク*ゲスト紹介コーナー2025年8月13日現在の視聴者数ランキング!2025年8月19日現在、46人の方にゲストとしてご出演いただきました!38位穴水大介さん#株式会社神明商事2025年3月4日ゲスト視聴回数20回37位坂本直樹さん#さかつうギャラリー2025年3月18日ゲスト視聴回数22回36位ぴょこさん2024年10月1日ゲスト視聴回数25回35位藤田ミキト(藤田幹人)さん2025年8月12日ゲスト視聴回数2
腰越(こしごえ)今回は江ノ電腰越駅スタート。腰越山(浜上山)、矢沢山、峯山、龍王山、大野山と、腰越から鎌倉へ向かう旧道を歩く。腰越の平山を越えていくと稲村ケ崎と紀行文「海道記」にも書かれているように、腰越・鎌倉間の「鎌倉道」旧道は山のなかにあった。津津は吾妻鏡では積良と記され、津郷は津村郷とも記される。津郷は深沢荘に属していたことがある(鎌倉郡村誌)。腰越「風土記稿」などによれば北方の腰越山(浜上山)が高く、南に肥沃な低地が広がっており、民が山の中腹(腰)を越えて移
鵠沼(くげぬま)その1今回は藤沢本町駅スタート。鵠沼の旧道を歩きます。鵠沼鵠沼は湿地帯を含む砂地や松原で人家もほとんどない場所であり、原藤原柳原東原など原のつく地名が多い。皇大神宮(鵠沼神明社)付近は奈須野原と呼ばれ、那須与一郎が神明社を深く信仰していたことにちなみ、宮ノ前の氏子が皇大神宮(鵠沼神明社)の例大祭で那須与一人形を山車に飾っている。唐土ケ原(もろこしがはら)は平安時代の「更級日記」にも記される地名でかつては片瀬川から相模川花水川一帯にかけての地名であったが
洲崎(すざき)洲崎の古道を歩きます。洲崎(すざき)須崎・瀬崎とも記す。元弘3年(1333年)5月の鎌倉幕府滅亡の際に新田義貞軍と北條軍北條守時とが激突した古戦場として名高い。地名の由来は砂(す)の崎(さき)で砂州(さす)の伸びた岬という。初見は貞和5年(1349年)成立の「梅松論」で北條守時が武蔵路沿いの洲崎千代塚において新田義貞軍と戦い敗れて自害したと記されている。「太平記」でも洲崎合戦の様子を詳述している。「日工集」永和2年(1376年)1月17日條に「瀬崎の宿屋」とあり、
2016年から毎年開催してきた#鎌倉子ども源平合戦10年目を迎える今年は、鎌倉子ども源平合戦2025元慶5年(881年)に京都一條で子どもたちが大規模な合戦を行ったと『日本三代実録』に記されているほか『源平盛衰記』にも記されているように、神仏の意思により行い、神仏に奉納する祭礼行事として5月5日に伝統的に行われていました。尾張国熱田神宮や京都の神社仏閣などの祭礼として行われ、「石合戦」「印地」「印地打ち」「小石打合」「向い礫」「向い飛礫」「飄石」などの呼び名が各地に伝わります。風紀
第76回鎌倉の歴史雑談番組ブシトーークゲストは67人目柿崎俊道さんです。吾妻鏡は1184年2月13日條から2月18日條まで壽永三年二月大十三日壬申平氏首聚于源九郎主六條室町亭所謂通盛卿忠度經正教經敦盛師盛知章經俊業盛盛俊等首也然後皆持向八條河原大夫判官仲頼以下請取之各付于長鎗刀又付赤簡平某之由各注付之向獄門懸樹觀者成市云々壽永三年二月大十四日癸酉晴右衛門權佐定長奉勅定爲推問本三位中將重衡卿向故中御門中納言家成卿八條堀川堂