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えさし藤原の郷へ出陣いたしました。過去にも現在にも大河ドラマでもよく使われるセットでもあり、今回の出陣も目的は、「前九年合戦絵巻」「後三年合戦絵詞」などの絵巻の世界を再現しようというもの。えさし藤原の郷へ事前に衣装の写真を送って申請し、許可を取って行いました。事前に撮影したいポイントとして、城柵と屋敷の2点で申請を行っていたものの、行ってみたら城柵が工事中…これにはさすがにガックリきましたが、他に移動して撮影。観光客の撮影依頼にも快く応じて楽しく撮影させていただきました。それでは絵
洲崎(すざき)洲崎の古道を歩きます。洲崎(すざき)須崎・瀬崎とも記す。元弘3年(1333年)5月の鎌倉幕府滅亡の際に新田義貞軍と北條軍北條守時とが激突した古戦場として名高い。地名の由来は砂(す)の崎(さき)で砂州(さす)の伸びた岬という。初見は貞和5年(1349年)成立の「梅松論」で北條守時が武蔵路沿いの洲崎千代塚において新田義貞軍と戦い敗れて自害したと記されている。「太平記」でも洲崎合戦の様子を詳述している。「日工集」永和2年(1376年)1月17日條に「瀬崎の宿屋」とあり、
河原(かわら)河原の旧道を歩きます。河原河原部落は、片瀬川から村岡川(現在の境川)流域に南から川名(かわな)・河原(かわら)・大鋸(だいぎり)と川沿いにつづいている現在の神奈川県藤沢市大鋸1丁目から藤沢市弥勒寺1丁目にかけての一帯をいう(かつては相模国鎌倉郡村岡郷河原)。『相模国鎌倉郡村誌』の弥勒寺村の項には「元標は弥勒寺村の西の方小名河原(かはら)なる藤沢鎌倉間の往還と里道との三辻にあり」と記されている。『地理院地図(1894-1945)』に確認できる「河原」の字はその後忽
令和8年(2026年)2月7日(土)鎌倉時代の瓶子づくりワークショップ実際の遺物をもとに鎌倉時代(北條師時の時代)の瓶子をつくりましょう!【主催】体験工房はせ陶体験工房はせ陶の夏川統二郎先生による講習会(ワークショップ)②実技120分つくった瓶子(へいし)は後日発送参加費は7,700円【予約】体験工房はせ陶夏川統二郎までtokobohako@gmail.com0467-40-59722025年は武人埴輪づくり2024年は
令和7年(2025年)10月4日(土)、陣出遺跡発掘調査説明会が行われた。調査地は神奈川県鎌倉市寺分字上陣出393-11一帯。陣出遺跡(No.351遺跡)は字陣出と字上陣出に広がる遺跡で、かつての鎌倉郡洲崎郷内に位置する。洲崎郷にあった関東十刹大慶寺の所領という意味の「寺分」が現在の住所になっている。鎌倉郡村岡郷は武蔵国府中から山道(鎌倉道)でつながっており、かつて元弘3年(1333年)に新田義貞が鎌倉を攻めた折にも武蔵国からこの鎌倉道を通って村岡に進軍し、村岡合戦(八ツ島など史跡あり)
いつも訪問してくださり、コメやいいねもありがとうございます!昨日の記事では、ぷくにゃのいろいろな秋を見てくださってありがとうございます(*´▽`*)「読書の秋」で、栞にじゃれながら寝てしまうぷくにゃがかわいくて好きな写真です。ぷくにゃはいろいろなことに付き合ってくれて人間っぽいところもあった子でした。お空ではのんびり~しているかな~今日から10月~、今月もよろしくお願いしますね!(#^.^#)うにーずカレンダー10月のテーマは・・・↓↓↓【
村岡(むらおか)村岡の旧道を歩きます。その2高谷高谷は下谷戸向谷戸(むこうやと)坂下谷戸に分かれていた。高谷も小塚と同じように両側に台地があり大船方面(裏河内や玉縄河内)へは貝帰坂(貝殻坂)を通って出ていた。山が急すぎて登れず帰ってしまうからあるいは昔は海で貝類の化石が多数出土したことに由来するという。現在は区画整理や宅地造成によって山も坂道もなくなった。「郡村誌」によれば元標は高谷村の西の方字藤右衛門屋敷なる里道の傍らにありと記される。第六天山「郡村誌」
村岡(むらおか)村岡の旧道を歩きます。その1村岡村岡は鎌倉郡谷七郷の1つ。相模国鎌倉郡村岡郷にあり平良文が村岡城を築城したことにちなむ。建久2年11月22日源頼朝寄進状写に「相模国村岡郷内」とあるのが初見。元弘3年(1333年)5月に新田義貞の鎌倉攻めで「飽間孫三郎宗長卅五於相州村岡十八日討死」と記された重文の板碑が東村山市徳蔵寺にあり、5月18日に村岡で合戦が行われたことが分かる。原宿(庵野原)深谷汲沢高谷小塚宮前弥勒寺東俣野柄沢城廻関谷植木岡本渡内
鎌倉の歴史雑談番組ブシトーーク*ゲスト紹介コーナー2025年8月26日現在の視聴者数ランキング!2025年8月26日現在、48人の方にゲストとしてご出演いただきました!39位穴水大介さん#株式会社神明商事2025年3月4日ゲスト視聴回数20回38位坂本直樹さん#さかつうギャラリー2025年3月18日ゲスト視聴回数22回37位ぴょこさん2024年10月1日ゲスト視聴回数25回36位藤田ミキト(藤田幹人)さん2025年8月12日ゲスト視聴回数2
鵠沼(くげぬま)鵠沼の旧道を歩きます。その2普門寺を参拝。普門寺普門寺は神奈川県藤沢市本鵠沼5-4-12にある高野山真言宗の寺院。相模国準四国八十八箇所のうち第四十七番札所と第八十八番結願の札所。明治5年(1872年)から大正2年(1913年)まで藤沢市立鵠沼小学校の前身である鵠沼学舎尋常高等鵠沼小学校が置かれていた。密巌山遍照院普門寺と号し高野山真言宗(古義真言宗)に属しているが元は「三島山感應院三十二か寺」の1つであった。過去帳によると享禄元年(1528年)5月感
鵠沼(くげぬま)その1今回は藤沢本町駅スタート。鵠沼の旧道を歩きます。鵠沼鵠沼は湿地帯を含む砂地や松原で人家もほとんどない場所であり、原藤原柳原東原など原のつく地名が多い。皇大神宮(鵠沼神明社)付近は奈須野原と呼ばれ、那須与一郎が神明社を深く信仰していたことにちなみ、宮ノ前の氏子が皇大神宮(鵠沼神明社)の例大祭で那須与一人形を山車に飾っている。唐土ケ原(もろこしがはら)は平安時代の「更級日記」にも記される地名でかつては片瀬川から相模川花水川一帯にかけての地名であったが
春日大社に正装でお詣り※明け方で参拝者のいない時間帯に参詣大鎧展10時から12時半まで、鎌倉智士が徹底解説2.国宝赤韋縅鎧岡山県立博物館所蔵岡山県立博物館所蔵の赤韋縅鎧は備中国赤木氏に伝来の鎧。岡山県立博物館が6億円で購入したとされる。赤木氏は桓武平氏(平良文)流の秩父平氏。白河忠兼の次男赤木親忠を祖とする。赤木氏の家紋は向茶実(むこうちゃのみ)。白河忠兼の時代に信濃国に入り、赤木親忠が信濃国筑摩郡赤木郷を本拠に分流。承久の乱(1221年)に赤木長忠は勲功により備中国穴田
鎌倉の歴史雑談番組ブシトーーク*ゲスト紹介コーナー2025年8月13日現在の視聴者数ランキング!2025年8月19日現在、46人の方にゲストとしてご出演いただきました!38位穴水大介さん#株式会社神明商事2025年3月4日ゲスト視聴回数20回37位坂本直樹さん#さかつうギャラリー2025年3月18日ゲスト視聴回数22回36位ぴょこさん2024年10月1日ゲスト視聴回数25回35位藤田ミキト(藤田幹人)さん2025年8月12日ゲスト視聴回数2
第151回歴史演劇「梶原父子最期の戦い」@ふかさわ夏まつり20252025年8月3日(日)ふかさわ夏まつり第151回鎌倉もののふ隊歴史演劇梶原父子最期の戦い梶原景時菅原隆梶原景季相原崇史梶原景高村主源追手大谷瑞紀追手大石裕一追手武口梓追手夏川統二郎追手永墓正寿追手阿僧祇追手髙山俊弥追手岡田英之追手大垣悦子囃子今井晃囃子石井真千子囃子大神
第150回歴史演劇「北條時行」@御成ぼんぼり祭20252025年8月2日(土)御成ぼんぼり祭鎌倉もののふ隊奉納演劇「北條時行中先代の乱諏訪父子最期の戦い」【出演】北條時行相原宗諏訪時継相原崇史諏訪頼重永墓正寿諏訪盛高鎌倉智士海野幸康武口梓語り笠井千恵北條家臣阿僧祇【協賛】壮オフィス信田壮士体験工房はせ陶夏川統二郎相原崇史チャレンジャーカンパニー株式会社永墓正寿さかつうギャラリー坂本直樹株式会社神明商事穴水大介【脚本
夏休み鎌倉で「子ども武士体験」8月の平日(13-17時)に開催です※月曜日定休夏休みに鎌倉で武士体験してみませんか?【体験内容】〇鎧兜を着て弓矢を射てみよう(500円)〇自分で弓矢を作って射てみよう(1,500円)〇盤双六を体験してみよう※事前要予約※場所は予約時に連絡(湘南モノレール湘南深沢駅近く)info@izakamakura.jp(鎌倉智士宛)
土甘(とがみ)今回は藤沢駅北口スタート。江島大道を歩く。土甘(砥上)奈良時代の「日本書紀」に高座郡が記載されており、古くから土甘郷(とがみごう)や方瀬郷なども文献に登場する。平安時代に源順(みなもとのしたごう)が編纂した「倭名類聚抄」に土甘郷や大庭郷が記される。大庭御厨に属する鵠沼郷も平安時代に郷名として見られる。砥上は土甘郷にあった集落で、砥上ケ原(とがみがはら)は土甘郷にあった広い荒地のこと。水田もあったが現在は全て埋め立てられ住宅地や商業地域になっている。石上通り、江ノ電
埼立(はしだて)今回は江ノ電稲村ケ崎駅スタート。稲村ケ崎、砂子山、迎山(向山)、陣鐘山、大野山・見出山・親不知山の尾根に出て終了の旧道を歩く。埼立「鎌倉志」に長谷村と隣接する橋立村が遺名と記され「はしだて」と訓まれる。鎌倉郡埼立郷は長谷・坂下・極楽寺にわたる地域と推定されている。また片瀬・腰越のほか常盤・寺分・町屋・山崎・台・小袋谷・大船なども含まれると深沢郷と同一視する説もある。「倭名類聚抄」に鎌倉七郷の1つとしてあげられているのが初見ながら「今鎌倉郡中にその遺名とおぼしき
鎌倉でガイドをしている3人の武士たちが、鎌倉の歴史をゆる〜くマッタリと雑談する番組。視聴者参加型を目指しているので、リアルタイムにコメントどしどしお寄せくださいませ。■内田めぐみ「ゆる鎌さんぽ」代表。ゆる〜く、楽しく歴史も学びながら鎌倉を歩いてご案内する、鎌倉歴史案内人です。■岡田英之清和源氏(尾張源氏)の武家の末裔。街歩きガイド、博物館・美術館の展示解説、歴史講座講師。特に「モノ」に対する歴史の事実の物語を、知識の有無を問わず、面白く分かりやすく伝えるのが得意。著書に『東京街
いつも訪問してくださり、コメやいいねもありがとうございます!昨日の記事での、うちの階段はキキにとってはおちりトントンスポットで、テマリは追いかけっこを楽しんで・・・それぞれお気に入りの場所のようですね~お空組の5にゃんがいた頃は階段途中に居座ってとにかくどかないので、しもべは跨ぎながら上り下りしたり・・・それも懐かしいですけどね~よくお参り散歩している近くの白旗神社の御祭神は寒川比古命と源義経公です。毎年6/13に源義経公鎮霊祭が行われます。6/
相州藤沢白旗神社に子ども用鎧兜を奉納させていただくことになりました。▼支援募集白旗神社に子ども用鎧兜を奉納プロジェクトhttps://fb.me/e/3kJFQTLw02023年12月26日に、白旗神社に子ども用鎧兜を奉納プロジェクトを発足し、およそ半年間は鎧兜の制作費を募り、2024年6月15日(閏4月30日)、源義経公のご命日に制作を開始いたしました。趣旨子どもたちが多く集まる白旗神社。白旗神社を参詣する子どもが着用できることを想定しており、10歳前後の子ども用の鎧兜を
腰越(こしごえ)今回は江ノ電腰越駅スタート。腰越山(浜上山)、矢沢山、峯山、龍王山、大野山と、腰越から鎌倉へ向かう旧道を歩く。腰越の平山を越えていくと稲村ケ崎と紀行文「海道記」にも書かれているように、腰越・鎌倉間の「鎌倉道」旧道は山のなかにあった。津津は吾妻鏡では積良と記され、津郷は津村郷とも記される。津郷は深沢荘に属していたことがある(鎌倉郡村誌)。腰越「風土記稿」などによれば北方の腰越山(浜上山)が高く、南に肥沃な低地が広がっており、民が山の中腹(腰)を越えて移
古知屋智彦さんはじめ円蔵の地元の皆さまの地元愛に支えられて、3回目の景能祭。懐島景能公のご遺徳・ご功績を称え、円蔵地元のヒーローを次世代に語り継ぎ、一族郎党への供養として報いることができたのではないかと思います。地元景能役は今回2代目の関口フミ子さん、カンペなしで最後まで演技しきって素晴らしい景能公でした。来年3代目景能役が誰になるのか今から楽しみですね。関係者の皆さま、ご参加いただいた皆さま、ご協力ご尽力いただきました皆さま、観に来ていただきました皆さま、誠にかたじけのうございました!-
2016年から毎年開催してきた#鎌倉子ども源平合戦10年目を迎える今年は、鎌倉子ども源平合戦2025元慶5年(881年)に京都一條で子どもたちが大規模な合戦を行ったと『日本三代実録』に記されているほか『源平盛衰記』にも記されているように、神仏の意思により行い、神仏に奉納する祭礼行事として5月5日に伝統的に行われていました。尾張国熱田神宮や京都の神社仏閣などの祭礼として行われ、「石合戦」「印地」「印地打ち」「小石打合」「向い礫」「向い飛礫」「飄石」などの呼び名が各地に伝わります。風紀
#鎌倉鎧兜づくり教室#鎌倉もののふ隊鎌倉鎧兜づくり教室鎌倉もののふ隊では鎧づくり教室を開催しています延べ155名の方が鎧づくりに挑戦うち制作中が32名(123名が完成)東北(宮城や福島など)から通っていただいている方もいらっしゃいますが、遠方の方はオンラインがオススメです!#鎌倉鎧兜づくりオンライン教室一部紹介NO.008第一章小札(切付板)づくりNO.024第三章縅(5)NO.125第五章緒所(5)NO.201第
笛田(ふえだ)笛田深沢荘(ふかさわのしょう)や津郷に属す時期があったと鎌倉郡村誌に記される。元標は字亀山の笛田橋の傍らにあり、掲示板は字上庭(かみにわ)にあった(鎌倉郡村誌)。戸数は平民61戸、神社1戸、寺1戸、人口は男性197人、女性190人、牡馬9頭と明治9年(1876年)の鎌倉郡村誌に記される。「所領役帳」に「128貫600文東郡笛田」とあるのが初見。鎌倉時代に深沢郷は南北に分かれており笛田は南深沢郷に属していた。16世紀末徳川幕府直轄領になり代官支配地だったが三分して一部は宝永4年(
手広(てびろ)手広深沢荘(ふかさわのしょう)や津郷に属す時期があったと鎌倉郡村誌に記される。手広の由来は手を広げたような地形、田広の転化など(地名由来辞典)。八反目付近に縄文時代から平安時代にかけての出土品が発掘されており、古代から部落があったことが分かる(鎌倉市史)。元標は笛田との境の塚田橋の前にあったとされる。塚田橋は笛田村との境で笛田川に架かる。手広には熊野社、稲荷社、青蓮寺などがある。天正19年(1591年)検地帳に手広郷の名が見える。元禄郷帳には慶長18年(1603年)から旗本大岡
片瀬(かたせ)片瀬は奈良時代の正倉院古裂銘で「方瀬」と記されているのが初見とされる。「固瀬」「堅瀬」「潟瀬」「肩瀬」などとも表記される。片瀬の地名は川の瀬に由来するとされる。片瀬郷は深沢荘や津郷に属したこともあったという(鎌倉郡村誌)。鎌倉の西の出入口として交通の要衝でもあり「吾妻鏡」に固瀬駅という記述がみられる。刑場として知られ、大庭景親や元の使者杜世忠らの処刑が行われた。鎌倉時代に源頼朝が文覚上人に命じて大弁才天を勘定供養したのが江島明神の始まりで、その後歴代将軍の信仰を集め鎌倉幕府の保護
川名(かわな)相模国鎌倉郡村岡郷川名は、深沢荘や鎌倉郡津郷に属していたこともある(皇国地誌)。明治時代には41戸、262人が住んでいた(相模国鎌倉郡村誌)。かつての溜池・新林谷ノ池(やとのいけ)は現在も存在している。川名集落は、通町(とおりちょう)・市場(いちば)・向川名(むこうがわな)の3つの集落で構成される。通町は御霊神社や神光寺に通じる参道沿いで神光寺谷ともいう。市場は後北條氏の時代に商業を盛んにするために無税の市場が設けられたことに由来する。「この部落は鎌倉時代に大仏坂の守護にあたって