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玉縄城(たまなわじょう)その2玉縄城支城の城郭群の古道を歩く。玉縄城郭群玉縄城は永正9年(1512年)に伊勢盛時が築城したと伝わるが、それ以前から砦や小城があったともされている。柏尾川は当時は深い入江で舟が入り込んでいたため水軍を統括する重要拠点となっていた。鎌倉の防衛の役割、小田原城の東の守り役割も担っていた。清泉女学院中学校高等学校に隣接する住宅地に早雲台城山城廻関谷植木などの地名があり、龍寶寺から玉縄城大手口へ至る七曲坂、久成寺から大手口へ至るふわん坂陣屋坂なども残る
玉縄城(たまなわじょう)その2番外編玉縄城支城の城郭群の古道を歩く。玉縄城郭群玉縄城は永正9年(1512年)に伊勢盛時が築城したと伝わるが、それ以前から砦や小城があったともされている。柏尾川は当時は深い入江で舟が入り込んでいたため水軍を統括する重要拠点となっていた。鎌倉の防衛の役割、小田原城の東の守り役割も担っていた。清泉女学院中学校高等学校に隣接する住宅地に早雲台城山城廻関谷植木などの地名があり、龍寶寺から玉縄城大手口へ至る七曲坂、久成寺から大手口へ至るふわん坂陣屋坂など
#鎌倉の歴史雑談番組ブシトーーク今年の1月6日(火)から8月11日(火)までの7カ月間第74回から第98回まで吾妻鏡の寿永3年(1184年)2月條から元暦元年(1184年)8月條まで読んできました。壽永三年二月大四日癸亥平家日來相從西海山陰兩道軍士數万騎搆城郭於攝津与播磨之境一谷各群集今日迎相國禪門三廻忌景修佛事云々壽永三年二月大五日甲子酉尅源氏兩將到攝津國以七日卯剋定箭合之期大手大將軍蒲冠者範頼也相從之輩小山四郎朝政武田兵衛尉有義板垣三郎兼信下河
玉縄城(たまなわじょう)玉縄城支城の城郭群の古道を歩く。玉縄城郭群玉縄城は永正9年(1512年)に伊勢盛時が築城したと伝わるが、それ以前から砦や小城があったともされている。柏尾川は当時は深い入江で舟が入り込んでいたため水軍を統括する重要拠点となっていた。鎌倉の防衛の役割、小田原城の東の守り役割も担っていた。清泉女学院中学校高等学校に隣接する住宅地に早雲台城山城廻関谷植木などの地名があり、龍寶寺から玉縄城大手口へ至る七曲坂、久成寺から大手口へ至るふわん坂陣屋坂なども残るがかつて
粟船(あわふね)粟船の古道を歩く。粟船郷粟船の初見である「山内粟船御堂」とあるように当初は山内荘に含まれていた。山内は山内郷を中心とした荘園で、公田や小菅ケ谷が中心地。山内本郷(本当の山内郷)から現在は本郷台駅や栄区本郷台などが遺名として残っており㹨川沿いの集落のことをいう。ただし山ノ内・山之内との表記は「太平記」以降でありそれ以前は山内である(地名由来辞典)。現在の北鎌倉駅一帯の鎌倉市山之内にまで地名が及んだのは和田合戦(1213年)以降に北條義時が山内荘を手中に治め、後に常楽寺建
6月27日(土)は鎌倉アカデミー午前は鎌倉の古道散策会(第18回)午後は歴史サロン(第304回)を開催いたします。まだわずかに空きがありますので、鎌倉智士と鎌倉の歴史に触れてみたい方、ぜひご参加くださいませ(^-^)------------------------------------------------------鎌倉古道の散策会一冊の本に。鎌倉おとな風土記(鎌倉アカデミー)。鎌倉の全ての郷村の古道を歩き、一冊の本にまとめます。過去と現在、実際に一緒に歩いてみましょう。
2025年に相州藤沢白旗神社に赤絲縅胴丸(源義経公元服八艘跳び子ども鎧兜)を奉納2026年に源義経公元服箙(子ども箙)を奉納させていただきました。▼支援募集白旗神社に子ども用鎧兜を奉納プロジェクト2023年12月26日に、白旗神社に子ども用鎧兜を奉納プロジェクトを発足し、およそ半年間は鎧兜の制作費を募り、2024年6月15日(閏4月30日)、源義経公のご命日に制作を開始いたしました。2025年6月より、子ども用箙を奉納プロジェクトを発足し、鏃打ちや矢羽根つけなども含め箙を制作
小坂(こさか)※現在は「おさか」と訓む。小坂の古道を歩く。小坂郷「かまくら子ども風土記」の内海恒雄氏は本来は「こさか」と訓むという。「新編鎌倉志」「社務職次第」には鎌倉郡谷七郷の1つに小坂郷とあり、遠佐可と訓むとある。室町時代から戦国時代にかけては鎌倉郡の広範囲が小坂郡と称され(鎌倉郡ではなく小坂郡と称され)、山内大船台山崎小袋谷岩瀬笠間長沼上倉田下倉田戸塚矢部常盤片瀬扇谷極楽寺坂ノ下長谷材木座乱橋大町小町雪ノ下西御門二階堂浄明寺十
かつて、鎌倉幕府(かまくらばくふ)を滅ぼすための討幕運動(とうばくうんどう)を繰り返していた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)。悉(ことごと)くの失敗によりとうとう隠岐島(おきのしま)に流された。ところが、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子(おうじ)護良親王(もりよししんのう)、河内国(かわち)の楠木正成(くすのきのまさしげ)、播磨国(はりま)の赤松則村(あかまつののりむら)など反幕勢力(はんばくせいりょく)が各地で蜂起(ほうき)。そしてついに後醍醐天皇(ごだいごてんのう)も隠岐島(おきのしま)を
2015年から毎年開催してきた#鎌倉子ども源平合戦12年目を迎える今年は、鎌倉子ども源平合戦2026元慶5年(881年)に京都一條で子どもたちが大規模な合戦を行ったと『日本三代実録』に記されているほか『源平盛衰記』にも記されているように、神仏の意思により行い、神仏に奉納する祭礼行事として5月5日に伝統的に行われていました。尾張国熱田神宮や京都の神社仏閣などの祭礼として行われ、「石合戦」「印地」「印地打ち」「小石打合」「向い礫」「向い飛礫」「飄石」などの呼び名が各地に伝わります。風紀
神代(みよしろ)神代の古道を歩く。神代郷「山崎村往古より鎌倉郡に属し神代ノ郷と称しその後北深沢ノ荘洲崎郷といひその境内今の寺分上町屋梶原常盤などの数村に亘れりその後山内荘山崎ノ郷と改称しまた小田原北條氏のときは東ノ郡玉縄領を冠称しあるいは小坂ノ郷内に属せしことありといふ共に年暦詳ならず」と鎌倉郡村誌に記されており、元標は「山崎村中央字前田なる里道の辻にあり」、掲示板は「山崎村中央より稍北方字前田なる里道の傍にあり東北の方台村境なる村口より1町8間を隔つ」と郡村誌に記される。
泣塔誕生から80年ほど見た目は酷いが、ひとまず、丸裸にしたのは正しいと思う。岩肌に重い木々がへばりついている状態は崩れるリスクが高い。個人的には、泣塔は、近隣の寺院などに移設してしっかり供養してあげてほしい。勝手なことを言えないことは重々承知だが、例えば寺分周辺の開発や伊勢山を崩したときに行き場を失った供養塔や供養碑などの石塔群の類が寄せ集められたとされる等覚寺の他の石塔群と一緒にしてあげて供養してあげてほしい。そして、一部だけ残ってしまった伊勢山はしっかりと供養して崩してあげてほしい。
常盤(ときわ)常盤の古道を歩きます。鎌倉駅で集合し、源氏山を目指す。かつては鎌倉には化粧坂をへて武蔵国と行き来していた。鎌倉駅から徒歩2~3分で刃稲荷社に到着。刃稲荷社は〒248-0011神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-13に所在。「鎌倉郡村誌」には「鍛冶正宗居宅趾東南東ノ方八坂神社より稍南方ノ畠地なり土俗之を正宗屋敷と云ふ今は刃ノ稲荷と云ふ小祠あり正宗が祭りたる神と云ふ正宗は岡崎五郎入道と云ふ藤三郎行光の子なり行光貞応(1222-1224年)のころ鎌倉に来り此地に住す
いつも訪問してくださり、コメやいいねもありがとうございます!昨日の記事の、テマキコンビのうちの子記念日にたくさんのお祝いコメをありがとうございました。小さくて細ったテマキコンビもすくすく育って今ではしっかりデカ猫です。(ジジほどではないですけどね~)お空組みんなが見守ってくれていると思うのでこれからも元気でいてほしいです(=^・^=)昨日は龍口明神社で月次祭でした。↓↓↓今月の御幣はあざやかな菜の花カラー、青空に映えます。境内では・・・アプリコットも
第14回鎌倉の古道散策会は、2月28日(土)ぜひご参加ください!ご予約は📧info@izakamakura.jp鎌倉智士(本名)まで------------------------------------------------------鎌倉古道の散策会一冊の本に。鎌倉おとな風土記(鎌倉アカデミー)。鎌倉の全ての郷村の古道を歩き、一冊の本にまとめます。過去と現在、実際に一緒に歩いてみましょう。---------------------------------------
第77回鎌倉の歴史雑談番組ブシトーークゲストは68人目一休(大沢良啓)さんです。吾妻鏡は1184年2月20日條から2月21日條まで永三年二月大廿日己卯去十五日本三位中將重衡遣前左衛門尉重國於四國告勅定旨於前内府宗盛是舊主并三種寳物可奉皈洛之趣也件返状今日到來于京都備叡覧云々其状云去十五日御札今日廿一日到來委承候畢藏人右衛門佐書状同見給候畢主上國母可有還御之由又以承候畢去年七月行幸西海之時自途中可還御之由院宣到來備中國下津井御
2月7日(土)18時から20時まで鎌倉時代の瓶子づくり北條師時時代の瓶子づくりがあります。主催は体験工房はせ陶問い合わせは、体験工房はせ陶の夏川統二郎さんまでしっかりと釉薬で焼いてくれるので、実際に晩酌に使えます!
第76回鎌倉の歴史雑談番組ブシトーークゲストは67人目柿崎俊道さんです。吾妻鏡は1184年2月13日條から2月18日條まで壽永三年二月大十三日壬申平氏首聚于源九郎主六條室町亭所謂通盛卿忠度經正教經敦盛師盛知章經俊業盛盛俊等首也然後皆持向八條河原大夫判官仲頼以下請取之各付于長鎗刀又付赤簡平某之由各注付之向獄門懸樹觀者成市云々壽永三年二月大十四日癸酉晴右衛門權佐定長奉勅定爲推問本三位中將重衡卿向故中御門中納言家成卿八條堀川堂
親不知山(おやしらずやま)親不知山の古道を歩きます。バス停火の見下に集合し、旧諏訪社の麓・常松下から唄山を登ります。諏訪社と常松下(ときまつした/じょうまつした)諏訪神社跡には敷石の参道や石段が残っている。諏訪神社には「常盤の松」と称された2株の老大樹があったが明治初年に枯死した。唄山の山頂の「常盤松」の下一帯の地域を「常松下」と呼称されるようになる(としよりのはなし)。諏訪社は明治元年(1868年)に常盤の鎮守天王社(明和3年に熊野社になる)と御嶽社と合併して現在の八雲神社
第75回鎌倉の歴史雑談番組ブシトーークゲストは66人目長谷川孝一さんです。吾妻鏡は1184年2月7日條から2月11日條まで壽永三年二月大七日丙寅雪降寅剋源九郎主先引分殊勇士七十餘騎着于一谷後山号鵯越〕爰武藏國住人熊谷次郎直實平山武者所季重等卯剋偸廻于一谷之前路自海道競襲于舘際爲源氏先陣之由高聲名謁之間飛騨三郎左衛門尉景綱越中次郎兵衛盛次上總五郎兵衛尉忠光悪七兵衛尉景淸等引廿三騎開木戸口相戰之熊谷小次郎直家被疵季重郎從夭亡其後蒲冠者
第75回鎌倉の歴史雑談番組ブシトーークゲストは65人目竹内將悟さんです。吾妻鏡は1184年2月4日條から2月5日條まで壽永三年二月大四日癸亥平家日來相從西海山陰兩道軍士數万騎搆城郭於攝津与播磨之境一谷各群集今日迎相國禪門三廻忌景修佛事云々壽永三年二月大五日甲子酉尅源氏兩將到攝津國以七日卯剋定箭合之期大手大將軍蒲冠者範頼也相從之輩小山四郎朝政武田兵衛尉有義板垣三郎兼信下河邊庄司行平長沼五郎宗政千葉介常胤佐貫四郎廣綱畠山次郎重忠
学生時代に「桃太郎」と「猿蟹合戦」の絵本をたまたま目にして衝撃を受けた!それ以来講談社の絵本シリーズが好きでいくつか中古で購入。1.乃木大将2.四十七士3.岩見重太郎4.漫画傑作集5.桃太郎6.曽我兄弟7.大笑漫画集8.牛若丸9.宮本武蔵10.漫画博覧会11.教訓名畫集12.乗物づくし13.金太郎14.漫画と笑話15.楠木正成16.イソップ絵話17.東京見物18.漫画と考へ物19.豊臣秀吉20.浦島太郎21.子供知識22.漫画と絵話23.東
梶原(かじわら)梶原の古道を歩きます。梶原(かじわら)「倭名類聚抄」に鎌倉七郷の1つに梶原郷と記されており、平安期に見える郷名。「日本地名志料」で「加知波良」と訓ずる。梶は船の舵のこと、あるいは穀原(かじわら)のこと。穀は椿のこと(地名由来辞典)。または鍛冶の原を由来とするという説もある。深沢荘洲崎郷(ふかさわのしょうすざきのごう)に属すと鎌倉郡村誌に記される。「鎌倉志」には梶原平三郎景時か旧地なりとこの所に鎌倉権五郎景政か宮あり長谷にある御霊宮の本なりという「鎌倉系図」を
えさし藤原の郷へ出陣いたしました。過去にも現在にも大河ドラマでもよく使われるセットでもあり、今回の出陣も目的は、「前九年合戦絵巻」「後三年合戦絵詞」などの絵巻の世界を再現しようというもの。えさし藤原の郷へ事前に衣装の写真を送って申請し、許可を取って行いました。事前に撮影したいポイントとして、城柵と屋敷の2点で申請を行っていたものの、行ってみたら城柵が工事中…これにはさすがにガックリきましたが、他に移動して撮影。観光客の撮影依頼にも快く応じて楽しく撮影させていただきました。それでは絵
洲崎(すざき)洲崎の古道を歩きます。洲崎(すざき)須崎・瀬崎とも記す。元弘3年(1333年)5月の鎌倉幕府滅亡の際に新田義貞軍と北條軍北條守時とが激突した古戦場として名高い。地名の由来は砂(す)の崎(さき)で砂州(さす)の伸びた岬という。初見は貞和5年(1349年)成立の「梅松論」で北條守時が武蔵路沿いの洲崎千代塚において新田義貞軍と戦い敗れて自害したと記されている。「太平記」でも洲崎合戦の様子を詳述している。「日工集」永和2年(1376年)1月17日條に「瀬崎の宿屋」とあり、
河原(かわら)河原の旧道を歩きます。河原河原部落は、片瀬川から村岡川(現在の境川)流域に南から川名(かわな)・河原(かわら)・大鋸(だいぎり)と川沿いにつづいている現在の神奈川県藤沢市大鋸1丁目から藤沢市弥勒寺1丁目にかけての一帯をいう(かつては相模国鎌倉郡村岡郷河原)。『相模国鎌倉郡村誌』の弥勒寺村の項には「元標は弥勒寺村の西の方小名河原(かはら)なる藤沢鎌倉間の往還と里道との三辻にあり」と記されている。『地理院地図(1894-1945)』に確認できる「河原」の字はその後忽
令和8年(2026年)2月7日(土)鎌倉時代の瓶子づくりワークショップ実際の遺物をもとに鎌倉時代(北條師時の時代)の瓶子をつくりましょう!【主催】体験工房はせ陶体験工房はせ陶の夏川統二郎先生による講習会(ワークショップ)②実技120分つくった瓶子(へいし)は後日発送参加費は7,700円【予約】体験工房はせ陶夏川統二郎までtokobohako@gmail.com0467-40-59722025年は武人埴輪づくり2024年は
令和7年(2025年)10月4日(土)、陣出遺跡発掘調査説明会が行われた。調査地は神奈川県鎌倉市寺分字上陣出393-11一帯。陣出遺跡(No.351遺跡)は字陣出と字上陣出に広がる遺跡で、かつての鎌倉郡洲崎郷内に位置する。洲崎郷にあった関東十刹大慶寺の所領という意味の「寺分」が現在の住所になっている。鎌倉郡村岡郷は武蔵国府中から山道(鎌倉道)でつながっており、かつて元弘3年(1333年)に新田義貞が鎌倉を攻めた折にも武蔵国からこの鎌倉道を通って村岡に進軍し、村岡合戦(八ツ島など史跡あり)
いつも訪問してくださり、コメやいいねもありがとうございます!昨日の記事では、ぷくにゃのいろいろな秋を見てくださってありがとうございます(*´▽`*)「読書の秋」で、栞にじゃれながら寝てしまうぷくにゃがかわいくて好きな写真です。ぷくにゃはいろいろなことに付き合ってくれて人間っぽいところもあった子でした。お空ではのんびり~しているかな~今日から10月~、今月もよろしくお願いしますね!(#^.^#)うにーずカレンダー10月のテーマは・・・↓↓↓【
村岡(むらおか)村岡の旧道を歩きます。その2高谷高谷は下谷戸向谷戸(むこうやと)坂下谷戸に分かれていた。高谷も小塚と同じように両側に台地があり大船方面(裏河内や玉縄河内)へは貝帰坂(貝殻坂)を通って出ていた。山が急すぎて登れず帰ってしまうからあるいは昔は海で貝類の化石が多数出土したことに由来するという。現在は区画整理や宅地造成によって山も坂道もなくなった。「郡村誌」によれば元標は高谷村の西の方字藤右衛門屋敷なる里道の傍らにありと記される。第六天山「郡村誌」