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◎近畿日本鉄道①地域:大阪府、京都府、奈良県、三重県、愛知県②主な行先:大阪難波~近鉄名古屋・賢島、京都~近鉄奈良ほか③営業距離:582・3㎞近畿日本鉄道(近鉄)は民営鉄道(私鉄)では総営業距離が日本一。複数の鉄道会社が合併して誕生、名古屋、伊勢志摩、京都、奈良、大阪といった大都市や観光地を縦横に結んでいる。私鉄としては長距離輸送にたけている理由の一つに、日本一の有料特急網の充実があげられる。2階建の特急電車(ビスタカー)、都市間輸送のアーバンライナー、観
吉原正喜1919年1月2日~1944年10月10日熊本県熊本市出身右投右打、捕手。本荘尋常高等小学校で4番・捕手を務めた吉原は、熊本工業学校へ進学後も捕手として頭角を現します。1934年(昭和9年):熊本県大会で優勝。南九州大会では準決勝で西郷準擁する鹿児島第二中学校を決勝で大分商業を破り、第20回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)に出場。決勝で呉港中学校(藤村富美男擁する)に敗れ準優勝となったものの、その健闘が称えられ、神戸市長・黒瀬弘志の招待で宝塚歌劇
1961(昭和36)年10月11日、西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)のエース稲尾和久投手が42勝を記録。スタルヒン投手と並ぶシーズン勝利数の日本記録を達成した日です。稲尾和久投手の凄さはライブで見たときないので、見てきたようにしか語れないが彼の凄さや鬼神のような現役時代を知ったのは「Number14」を読んでからでした。「西鉄ライオンズの衝撃」とも言えるような雑誌で野武士野球の凄まじさにも驚いた。稲尾投手の存在は野武士の中に凛とした戦士の香りが文章か
プロ野球やメジャーリーグを見ていて、以前から何となく気になっていたことがあります。「野球って、ボール替えすぎじゃない?」ホームランやファウルボールがスタンドに入ってしまえば分かります。3アウトになったとき、外野手がファンサービスでスタンドに投げ込むこともあります。これはもう戻ってこないので、新しいボールを出すしかありません。でも、そうじゃないときも頻繁に交換しています。キャッチャーが捕り損ねてワンバウンドした。ピッチャーがボールを眺めて、ちょっと気に入らなそうな顔をして審判
野口明1917年8月6日~1996年10月5日愛知県名古屋市出身右投右打、投手、捕手。昭和の野球史の中に輝く「野口四兄弟」。その長兄であり、アマチュア・プロの両方で“延長試合最長記録”のグラウンドに立ち続けたのが野口明です。中京商業(現・中京大中京高)時代、正捕手として夏の甲子園3連覇(1933年)を達成。準決勝の明石中戦における「延長25回」の死闘で、エース吉田正男の336球を最後まで受け切ったエピソードは、高校野球史でも記録と記憶に残っています。明治
戸倉勝城(とくらかつしろ)1914年1月19日~1997年6月6日香川県出身外野手、右投右打豊浦中学、法政大学を卒業後、大連満倶・林兼商店でプレーイングマネージャーを務め、社会人野球大洋漁業で活躍した。1950年、35歳ながら、社会人野球の大洋漁業から毎日オリオンズに引き抜かれ、プロ入りを果たす。同年3月11日のパ・リーグ開幕戦、西鉄戦で4番打者として出場し、初打席で木下勇から本塁打を放った。これはプロ野球史上初の初打席初本塁打であり、パ・リーグ第1号本塁
西園寺昭夫1937年10月31日~2011年10月3日熊本県熊本市出身。右投右打、三塁手、遊撃手、外野手。高校時代は名門・熊工で1954年のセンバツに中堅手として出場し準決勝進出。エースの添島時人(のち巨人)や田中春雄(のち阪神)らとプロの卵たちとプレー。しかし、夏は2年連続で甲子園出場を逃すという、苦杯も味わっている。この敗戦の経験が、彼の粘り強いプレースタイルを形作ったのかもしれない。卒業後は社会人野球の東洋レーヨンを経て、1957年に東映フライヤーズに入団。
ニューヨーク・ヤンキースは1939年にルー・ゲーリッグが引退し、それまで4連覇していた(1936-1939)もののついに1940年にア・リーグ優勝を逃し、1941年のシーズンも、5割丁度の勝敗で、黄金時代は終わったのか?と思わせるような低空飛行だった。ゲーリッグのあと、ヤンキースの大砲として活躍していたジョー・ディマジオは6年目の1941年5月14日、クリーブランド・インディアンズのメル・ハーダー投手に抑えられ、3打数0安打だった。しかし、翌日、1941年5月15日シ