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1978年(昭和53年)10月12日、西武への球団売却と本拠地移転が発表された際、ライオンズファンだけでなく、所属選手の多くは大きな戸惑いを覚えただろう。長年、福岡の平和台球場を本拠地とし、「西鉄、九州のライオンズ」として愛されてきた歴史があり、選手たちも福岡での生活に根付いていた。当時の選手会長だった大田卓司選手(クラウン、西武に在籍)によると、チームメートの9割が所沢への移転に難色を示し、正直なところ「行きたくなかった」というのが本音だったらしい。しかし、球団
1961(昭和36)年10月11日、西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)のエース稲尾和久投手が42勝を記録。スタルヒン投手と並ぶシーズン勝利数の日本記録を達成した日です。稲尾和久投手の凄さはライブで見たときないので、見てきたようにしか語れないが彼の凄さや鬼神のような現役時代を知ったのは「Number14」を読んでからでした。「西鉄ライオンズの衝撃」とも言えるような雑誌で野武士野球の凄まじさにも驚いた。稲尾投手の存在は野武士の中に凛とした戦士の香りが文章か
大豊泰昭1963年11月15日~2015年1月18日台湾南投県出身左投左打、内野手、外野手。◎台湾での日々から来日まで大豊泰昭(たいほうやすあき、本名:大豊泰昭/陳大豊)は、台湾の育英小学校、東峰中学校を経て、名門・華興高校へと進んだ。高校時代には世界大会優勝を経験し、一学年後輩には後に巨人などで活躍する呂明賜がいた。王貞治に憧れ日本球界を志した大豊だったが、当時の台湾の規定により20歳まで出国が叶わず、卒業後の2年間は母校でコーチを務めながら機会を待った。そ
1916年5月1日が誕生日のヴィクトル・スタルヒン投手です。1916年5月1日~1957年1月12日ロシア帝国出身右投右打、投手。30勝以上を2回記録したスタルヒン投手は1939(昭和14)年に42勝15敗防御率1.731940(昭和15)年に39勝12敗防御率0.972年間で81勝!!1939年にはシーズン42勝は稲尾投手と並び日本最高記録だ。通算完封数83も日本記録で、ともに、神の領域といえるような記録だ。大映スターズ時代のスタルヒン(古書
谷沢健一1947年9月22日生まれ千葉県柏市出身左投左打、内野手◎習志野から早稲田へ:怪物と呼ばれた左打者谷沢健一は、千葉県柏市のスポーツ用品店に生まれた。幼少期から多様な競技に行っていた、それが後の柔軟な身体能力の礎となる。習志野高校では外野手兼控え投手として活躍し、2年生の時には東京オリンピックの聖火ランナーも務めた。早稲田大学進学後は、東京六大学リーグを代表する強打者になった。リーグ通算打率.360、6季連続打率3割以上、ベストナイン6回選出という、素晴らしい成績
クリート・ボイヤークリーティス・リロイ・ボイヤー(CletisLeroyBoyer)1937年2月9日~2007年6月4日アメリカ合衆国ミズリー州出身内野手、コーチクレート・ボイヤーは、1955年にカンザスシティ・アスレチックスと契約、マイナーリーグを経ずにメジャーデビュー。1957年にニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、1960年から正三塁手に定着。1960年から1964年にかけてアメリカンリーグ5連覇、1961年・1962年の2年連続ワールドシリーズ優勝に貢
日本のお笑いを語る上で、吉本興業は欠かせない存在です。100年以上にわたり、お笑い産業の先頭を走り続けています。その吉本から1930(昭和5)年に入社した横山エンタツと花菱アチャコは、それまでの漫才の概念を覆し、会話で笑いをとる「しゃべくり漫才」を確立しました。彼らが起こした漫才革命の象徴が、1934年(昭和9年)6月10日にラジオで初披露された「早慶戦」というネタです。プロ野球が誕生する前夜、日本の野球界の最高峰は東京六大学野球でした。なかでも「早慶戦」は国民的な一大
吉原正喜1919年1月2日~1944年10月10日熊本県熊本市出身右投右打、捕手。本荘尋常高等小学校で4番・捕手を務めた吉原は、熊本工業学校へ進学後も捕手として頭角を現します。1934年(昭和9年):熊本県大会で優勝。南九州大会では準決勝で西郷準擁する鹿児島第二中学校を決勝で大分商業を破り、第20回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)に出場。決勝で呉港中学校(藤村富美男擁する)に敗れ準優勝となったものの、その健闘が称えられ、神戸市長・黒瀬弘志の招待で宝塚歌劇
坂本文次郎1926年3月15日~1994年11月25日和歌山県和歌山市出身右投右打、三塁手坂本文次郎は、旧制海草中学を卒業後、社会人野球の日本発送電、海南日東紡を経て、1951年に大映スターズへ入団。大映スターズ、大映ユニオンズ、大毎オリオンズで11年間の現役生活をした。主に三塁手として活躍し、1年目の1951年から規定打席に到達。1953年には全試合出場を果たし、打率.280(リーグ15位)を記録した。自己最高の打率は1955年の.295(リーグ12位)で