ブログ記事228件
宮武三郎1907年7月23日~1956年12月11日高松商業から「四国の麒麟児」と言われたパワープレーヤーだった宮武は1歳下の水原茂とともに1925年夏の甲子園大会で全国制覇した。卒業後、慶應義塾大学に進み1927年の東京六大学春季リーグ開幕戦で1年生投手として完封勝ち、本塁打も打った。(W・ジョンソンのような)サイドスローから投げる速球に他の五大学はきりきり舞いした。飛距離のある打撃は、当時では規格外の長打力で通算7本塁打は、長嶋茂雄が抜くまでリーグ記録だった。
プロ野球の記録本で必ずと言っていいほど、紹介される記録は数あれど、権藤正利投手の28連敗の記録は、これからもずっと語られる大記録の一つだ。権藤正利投手(1934年5月1日生まれ)権藤という苗字でもう一人の権藤は権藤博投手。同じ佐賀県出身。あまり、野球史に詳しくない方には、「権藤、権藤、雨、権藤」の人ですか?と聞かれたりしたが、権藤博さんは入団2年で65勝を挙げ、指導者としても成功をおさめ、野球殿堂入りした。今回ご紹介する権藤正利投手はどちらかというと、昔のシン
別当薫~球界の紳士といわれた強打者(兵庫県出身1920年8月23日~1999年4月16日)兵庫県の強豪校甲陽中学ではエースで4番で活躍。1938(昭和13)年に甲子園の選抜、夏に出場。その後、慶應義塾大学に入学、野球部でも活躍。1942(昭和17)年の東京六大学野球春季リーグでは史上最高打率の.500で首位打者を獲得し、別当の名前が広がった。1943(昭和18)年10月16日には最後の早慶戦として有名な出陣学徒壮行早慶戦に4番中堅手として出場した。戦後、ノ
野球雲ブログのプロ野球、伝説のシーズン30勝投手列伝も金田正一投手で19人の紹介が終わりました。ここで、もう一度30勝達成リストをUPします。あらためてみると、すごい顔ぶれです。この19人の中で100勝達成していないのは権藤博投手ですが、最初の2年間の濃度がすごすぎます。そして、ご健在なのは杉下茂氏、権藤博氏のお二人です。それでは、19人のバックナンバーを再度並べます。『★伝説のシーズン30勝投手列伝⑲-2金田正一~熟年の30勝。さらば国鉄ス
野球雲創刊号は「史上最弱の球団はどこだ」という特集でした。そこで選んだのは3球団。ワースト①1955(昭和30)年大洋ホーエルズ130試合31勝99敗0分勝率.238で首位巨人と61.5ゲーム差という途方もない負け方ワースト②1961(昭和36)年の近鉄バッファロー140試合36勝103敗1分勝率.261で首位南海と51.5ゲーム差プロ野球史上唯一の100敗球団に!ワースト③1955(昭和30)年トンボユニオンズ141試合42勝98敗.
2019年5月1日、元号が平成から令和に代わり、プロ野球は令和元年のシーズンとしてメモリアルなゲームが展開されることでしょう。そんな中、セ・リーグで3連覇中の広島カープの調子が上がりません。丸の巨人移籍の影響があるかもしれませんが、カープファンならずとも、評論家のなかでも広島カープの4連覇を予想している方々もいます。カープ3連覇!V9グラフ〜優勝号外・衣笠祥雄メモリアルブック付き〜2,980円Amazon振り返って、戦後からのプロ野球の歴史の中で4連覇した
記録から見る、悲願の松竹ロビンス優勝。1936(昭和11)年大東京軍として日本野球連盟に加入して、戦争で中断をはさみながら、セ・パ両リーグに分立後の1950(昭和25)年セントラル・リーグ初代優勝チームとして、結成以来15年目に悲願の優勝をした松竹ロビンス。1950年セントラルリーグ勝敗表(NPBサイト引用)勝率.737は今もセントラル・リーグ一位の記録である。リーグ分立の混乱の中、小鶴誠、大岡虎雄、金山次郎。三村勲の強力メンバーが加入し、前年入団した岩本義